〇広がりすぎたドイツ軍
1940年11月から12月にかけて、ドイツ陸軍参謀本部第一部長パウルス中将は兵棋演習を繰り返しながら、「バルバロッサ作戦」の「日程表」を作成した。それによると、ドイツ軍は開戦から20日目(7月11日)で作戦の「第1段階」―ドニエプル河以西でのソ連軍の殲滅を終了し、20日間そこで部隊の休養と再編を行い、40日目(7月31日)に第2段階の作戦を開始する予定になっていた。
しかし、実際には7月11日の段階では、ドイツ軍には作戦の停止や部隊の再編を行う余裕は全く無かった。中央軍集団はスモレンスク周辺、北方軍集団はソリツィで装甲部隊が包囲され、南方軍集団はジトミール攻防戦でソ連軍の反撃に忙殺されていた。
この戦況を受けて、ヒトラーは7月19日付けで「総統指令第33号」を発令した。
「次期作戦の目的は、遮断と撃破である。ロシア内陸深く退却せんとする相当規模の敵部隊を阻止し、徹底的に殲滅する。このため、計画は次の通りとする。
レニングラードへの進撃は、第18軍が第4装甲集団と接触し連絡が取れて、さらに広範な東翼が第16軍によって十分に掩護されてから再開する。
中央軍集団は多く残存する敵の孤立陣地を壊滅し、後方連絡線を確立した上で、歩兵部隊をもってモスクワへ進撃する。さらにモスクワとレニングラード間の交通線を遮断し、北方軍集団によるレニングラード進撃の南翼を掩護する。
南東正面では、集中攻撃により、敵の第6軍および第12軍をドニエプル河の西に布陣する間に撃破する。最も重要な目標はこれである。中央軍集団の南翼と南方軍集団の北翼で協同攻撃を実施し、敵の第五軍を速やかに撃破し、殲滅する」
すなわち、ヒトラーは作戦の「第1段階」を着実に行うことで、次の段階に移行しようという楽観的な見通しに立っていた。7月23日には「第33号追加指令」を発令し、第2段階で中央軍集団から南方軍集団に第2装甲集団、北方軍集団に第3装甲集団を移動させて、成功しつつある両翼での攻撃の支援に当たるように命じた。
しかし、7月中旬に入ると、ソ連軍はスモレンスクの全周で波状反撃を開始し、中央軍集団の諸部隊を大きく痛めつけた。この時になって、ドイツ陸軍参謀本部はようやく自分たちの計画の大きさと情勢の変化に気づき始め、ヒトラーに「バルバロッサ作戦」全体の見直しを検討するよう提案した。
「バルバロッサ」作戦の第2段階を開始する「予定」の前日に当たる7月30日、ヒトラーは「総統指令第34号」を発令して、中央軍集団の進撃停止を命令した。
「ここ数日の状況変化、すなわち中央軍集団の正面および両翼にみられる強力な敵部隊の出現、補給状態、第2および第3装甲集団が必要とする10日間ほどの戦力回復のため、7月19日付指令第33号および7月23日付追加で示した爾後の任務と目的達成は、当面延期する必要がある」
この指令の背景には「バルバロッサ作戦」の見直しよりも、ある致命的な問題が深く関与していた。この時、ドイツ軍は緒戦での大進撃の成功のために、兵站組織がまったく機能しなくなっていたのである。
〇電撃戦の「アキレス腱」
ドイツ軍の全般的な兵站業務は、陸軍参謀本部の兵站総監部が担当していたが、「バルバロッサ作戦」の発動によってその業務が膨大なものになることが予想されたため、北方・中央・南方の各軍集団に付随する形で「現地事務所」という在外機関を開設した。
各軍集団の「現地事務所」は6月22日の開戦から、輸送トラックを用いて前線部隊に補給物資を送り届けようと業務を始めたが、自分たちの見通しの甘さとその任務の困難さに早くも直面することになる。
ソヴィエト連邦の広大な領土の中で、全天候で使用可能な舗装された道路は全長で約6万4000キロしかなかった。でこぼこした悪路が果てしなく続き、雨が降れば沼地と化して通行不能となる。そのつど、工兵隊が白樺の幹を渡して専用の「丸太道」を作らねばならなくなった。輸送トラックや進撃する自動車や装甲車でさえも速度を上げて走ることが出来ず、事前の計算より1.5倍から2倍の燃料を消費していた。
その結果、ドイツ軍は侵攻開始から1か月と経たない7月中旬には、補給用トラックの3分の1が故障などによって失われた。さらには「電撃戦」の主役である装甲師団の戦車や装甲車は未舗装の道路を走行することを想定しておらず、舞い上がる土埃を連日吸い続けたエンジンは次々と故障し、各師団は次第に「痩せ細く」なっていった。南方軍集団司令官ルントシュテット元帥は手紙で妻にこう書き記している。
「ロシアの茫漠たる広がりに、私たちは呑み込まれている」
一方、これらのトラックによる物資輸送と並行して、国防軍輸送局が鉄道による物資補給路を構築しようとしていたが、この時にある重大な問題が発覚した。それは、ドイツとソ連の鉄道では線路の間隔(ゲージ)が異なるという事実であった。
西欧式の「標準軌」は間隔が1.435メートルだったが、ソ連では1.524メートルの「広軌」が採用されていた。後者の方が約9センチ広いために、当然のことながらドイツ製の機関車や貨車はそのまま走行できない。このため、国防軍輸送局は鉄道工作隊を編成してゲージ変換作業を担当させたが、その作業は遅々として進まなかった。
また、ソ連の路線網はその多くが「接続」せずに「交差」している(直接の乗り入れが不可能で、貨車から貨車へと積荷を載せ替えなくてはならない)という貧弱さを露呈し、物資の積み替え駅では深刻な渋滞が発生していた。7月31日の時点で、3つの軍集団は21万3301人の人的損害を出していたが、鉄道網の不備によって前線に補充されたのは、たったの4万7000人だった。この状況は、燃料や弾薬の補充でも発生していたため、進撃中の装甲師団はしばしば空軍の空中投下に物資補給を頼った。
そして、兵站における最も深刻な問題は、優先順位のあいまいさにあった。ドイツ軍の補給は陸軍参謀本部(トラック)、国防軍輸送局(鉄道)という2つの部署が担当し、その権限は空軍・海軍までは及んでいなかった。そのため「バルバロッサ作戦」開始直後から、陸海空の三軍の中で物資の運行優先権をめぐる衝突が頻発していた。さらには、陸軍内部でも装甲師団と歩兵師団の間で摩擦が発生し、北方軍集団がルガ河前面で停止した理由もここにあった。
このような状況にあって、ヒトラーは達成できる目標を探し始めた。これはドイツ軍が依然として優位にあるという全世界へのプロパガンダとしての意味があった。彼が特に気にしていたのは、ソ連の工業・穀倉地帯の奪取であり、また貴重なルーマニアの油田への爆撃機の航続距離外までソ連軍を追いやることであった。
〇参戦
1940年6月28日、ソ連邦は「独ソ不可侵条約」に付随した「独ソ境界ならびに友好条約」に基づき、ルーマニアからベッサラビア(モルタヴィア)と北部ブコヴィナ地域を「ソ連の勢力範囲に含まれるべき」として割譲し、それぞれオデッサ軍管区とキエフ軍管区に編入させた。この5万平方キロの領土には、370万人のルーマニア市民が居住していた。
国王カロルⅡ世が退位したことにより、親独派の「鉄衛団」を率いるイオン・アントネスク大将が同年9月4日、ルーマニア首相に就任した。11月に「日独伊三国同盟」に加盟すると、アントネスクはハンガリーの場合と異なり、独ソ開戦の暁にはフィンランドと同様に「失地回復のための参戦」を行う固い決意をしていた。
一方、ドイツにとってルーマニアは、当時のヨーロッパの中では最も重要な同盟国とみなしていた。なぜなら、ドイツは戦役で消費する石油量の約7割を、ルーマニア領内のプロエシュチ油田に依存しており、国防軍の戦争遂行には不可欠な資源だったのである。ドイツ軍はこの油田を防衛するという名目で、1940年11月からルーマニア政府の承認を得て段階的に部隊を進駐させていた。
1941年6月の時点では、ドイツ第11軍に所属する7個師団が国境となるプルート河西岸とプロエシュチ油田の周辺に配置されていた。「バルバロッサ作戦」において、ルーマニア軍は「補助任務に就く」とされていたが、実際にヒトラーから公式なドイツ軍のソ連侵攻を告知されたのは、開戦10日前の6月11日のことだった。アントネスクは外交上、非礼な扱いを受けたわけだが、ソ連侵攻に参戦するという決意を変えることは無かった。
「むろん私は最初から作戦に加わる。スラヴ人相手に戦う話なら、ルーマニアはいつでも期待に応える」
開戦から11日目の7月2日、ルーマニア領内に進駐するドイツ第11軍とルーマニア第3軍(ドゥミトレスク中将)、第4軍(チュペルカ中将)の合同部隊がソ連侵攻―「ミュンヘン作戦」を開始した。第11軍はベッサラビア北部、ルーマニア第3軍はカルパチア山脈の北部ブコヴィナ、ルーマニア第4軍はベッサラビア中部を突進してドニエストル河下流を第1目標とされた。
一方、ルーマニアと国境を接するプルート河東岸―ソ連軍では、6月22日の開戦に伴って、オデッサ軍管区が南部正面軍に改組された。南部正面軍司令官にはモスクワ軍管区からテュレーネフ上級大将が転任することが決定され、オデッサ軍管区を率いていたチェレヴィチェンコ大将は麾下の第9軍司令官に任命された。
6月24日、モスクワからテュレーネフがヴィンニッツァに置かれた南部正面軍司令部に到着すると、その頃には第18軍が編成され、第16機械化軍団(ソコロフ少将)をはじめとする予備兵力が集結していた。
6月30日、ドイツ第54軍団(ハンゼン大将)の第170歩兵師団(ヴィットケ少将)が国境のプルート河にかかる橋を奇襲攻撃で占領し、対岸に橋頭堡を築いた。ソ連軍は2日に渡ってこの橋頭堡を潰そうと反撃したが、ドイツ軍は多くの損害を被りながらも、どうにか橋頭堡を確保することに成功した。
7月2日、第54軍団の後に続いてプルート河の上流からルーマニア第3軍が突撃艇に分乗して東岸へと進出し、その3日後には山岳兵軍団の2個山岳兵旅団(第1・第4)がブコヴィナの中心都市チェルノフツィを奪回し、早くも「ミュンヘン作戦」の第1目標を達成した。
この後、ルーマニア第3軍は7月10日までに第11軍の指揮下に入り、国境からソ連領内を約150~200キロ進出していた。7月17日には、ドニエストル河上流への渡河作戦を開始した。
〇ウマーニ包囲戦
プルート河南方に構えていたルーマニア第四軍も攻勢に転じて、ベッサラビア南部へと突進した。7月16日にはベッサラビアの中心都市キシニョフを奪回し、黒海に面した重要な港湾都市であるオデッサを占領しようとしていた。
この事態を受けて、テュレーネフは第9軍に対し、第2機械化軍団(ノヴォセリスキー中将)と第48狙撃軍団(マリノフスキー少将)を中核とした機動集団を編成して、キシニョフを奪回せよと命じた。しかし、「最高司令部」から支援のための予備兵力をジトミールで奮戦する南西部正面軍に譲渡するよう命じられ、テュレーネフは反撃を中止せざるを得なくなった。
7月18日、ルーマニア第4軍はオデッサを包囲することに成功した。ベッサラビアから東に退却していた第9軍から3個狙撃師団(第25・第51・第150)と若干の支援部隊が切り離され、これらの部隊は「最高司令部」の命令で、「独立沿海軍」(ソフロノフ中将)として再編され、オデッサの防衛を命じられた。
さらに、ルーマニア軍の進撃が一定の成功を収めたことで、ソ連南西部正面軍はリヴォフで突出していた戦線を縮小せざるを得なくなった。南翼の第6軍と第12軍はヴィンニッツァ、南部正面軍の第18軍もウマーニの南方まで後退した。
ドイツ南方軍集団は7月19日付の「総統指令第33号」に基づき、攻勢の主軸をキエフ正面からドニエプル河下流へと差し向けた。ベルディチェフ周辺から第1装甲集団の第48装甲軍団が南進を開始し、リヴォフから東方に向かっていた第17軍とともに、ソ連第6軍と第12軍の退路を切断しようとしていた。
7月16日、第17軍はヴィンニッツァ付近で退却中の第6軍と第12軍を包囲しようとしたが、歩兵部隊だけではソ連軍を捕捉することが出来ず、失敗に終わった。度重なる交戦に疲弊しながら、ソ連軍の残存部隊はヴィンニッツァ南東のウマーニへと脱出した。
7月23日、ベラヤ・ツェルコフィを占領した第14装甲軍団(ヴィッテルスハイム大将)はウマーニの東方を流れるシニュハ河の東岸に北から進出し、徒歩で退却中のソ連軍の前方を遮断することに成功した。第6軍と第12軍は南方へと脱出しようとしたが、ドイツ軍の装甲部隊が持つスピードに追いつかれ、ウマーニ南東で包囲されてしまった。
7月30日、第6軍の第44軍団(コッホ大将)がウマーニの市街地を占領し、その3日後には第14装甲師団の第9装甲師団(フービッキ中将)と第17軍の第1山岳師団が、シニュハ河のトロヤンカで合流を果たした。南方軍集団による最初の包囲網が形成されたのである。
退却中の第6軍と第12軍がウマーニ周辺で包囲されたことを知った南西部正面軍司令官キルポノス上級大将は8月7日から8日にかけて、ドニエプル河のカーネフ南西で第26軍の残存部隊による反撃を実施した。この反撃に対して、ドイツ南方軍集団は第17軍の第4軍団(シュヴェドラー大将)をドニエプル河西岸に派遣し、ソ連軍の反撃を頓挫させることに成功した。
ウマーニ包囲網はぞくぞくと到着する第17軍の歩兵部隊によって強化され、空からは第4航空艦隊の第5航空軍団に所属する爆撃機が幾度も空襲を行い、混乱したソ連第6軍と第12軍の残存部隊を殲滅していった。また、同じ時期にベッサラビア北部から退却していたソ連南部正面軍所属の第18軍もドイツ第11軍・第17軍の挟撃を受けて壊滅してしまった。
ウマーニ包囲戦は8月8日までにほぼ終了し、その5日後には最後の抵抗拠点に潜むソ連軍が投降した。ソ連軍は第6軍司令官ムズィチェンコ中将と第12軍司令官ポネデーリン少将を含む10万3000人の兵員が捕虜となり、戦車317両、火砲1100門が鹵獲・破壊された。南部正面軍は第9軍をオデッサで拘束され、第18軍をウマーニで壊滅させられ、組織的な防衛を行う術を失ってしまった。
ヒトラーはこの結果を受けて、キエフ以南のドニエプル河西岸におけるソ連軍の防衛線に大穴を開けたことに満足し、「南部に攻勢の重点を置く」という自らの戦略に過剰な自信を抱くことになった。一方、同時期にスモレンスク攻防戦を終了させた中央軍集団と陸軍総司令部はヒトラーとは異なる思惑を抱いていた。そして、これから約1か月に渡って、この両者の思惑が大きな波紋を陸軍内部に広げていくことになる。