〇遭遇
プリピャチ沼沢地帯の北方では、ドイツ軍の突破が最初の緒戦から急速な成功を収めていた。北方軍集団は第4装甲集団を先鋒にして、東プロイセンからニーメン河を渡って早くもリトアニア・ラトヴィアに侵攻した。
北方軍集団と対峙する北西部正面軍(バルト特別軍管区より改組)司令官クズネツォーフ大将は西部正面軍のパヴロフとは異なり、ドイツとの戦争は間近に迫ってきているとの認識を持っていた。すでに6月18日には第11軍(モロゾフ中将)の狙撃師団に対し、国境付近に布陣するよう命令していた。
だが、ドイツ軍の侵攻が開始されると、戦況は南翼の西部正面軍とさして変わらなかった。通信網は各地で寸断され、指揮系統を完全に乱された各軍司令部(北から第8軍・第27軍・第11軍)は、無線や電話で断片的に伝えられる情報を基に前線の状況を把握しなければならなくなった。
6月22日夕刻、第56装甲軍団(マンシュタイン大将)はアリョーガラ付近で、第8軍(ソベンニコフ少将)の防御陣地を突破し、最初の障壁であるドゥビサ河を渡った。その後は小規模な反撃に遭遇しながらも、1日に約70キロという驚異的な速さで進撃した。マンシュタイン自身が、この「猛烈な進撃は装甲部隊指揮官としての夢の実現だった」と記すほどであった。
時を同じくして、クレムリンが発令した「指令第3号」が北西部正面軍司令部に伝達された。クズネツォーフは第11軍の第3機械化軍団(クルキン少将)と第8軍の第12機械化軍団(シェストパロフ少将)に反撃を命じたが、これらの部隊は国境から50キロ離れた陣地に散開した状態にあり、兵力を分散させて攻撃せざるを得なかった。
6月23日、第12機械化軍団の第28戦車師団(チェルニャホフスキー大佐)がシャウリャイ街道上のケルメで、第18軍の2個歩兵師団に襲いかかった。しかし、ドイツ軍の対戦車砲によって装甲の薄い旧式戦車を次々と撃破され、大半の戦車を失って第28戦車師団は北へと敗走した。
6月24日、第41装甲軍団(ラインハルト大将)はロッシェニエ付近で、第3機械化軍団の第2戦車師団(ソリャンキン少将)と第48狙撃師団(ボグダーノフ少将)の残存兵による大規模な反撃に遭遇した。
このとき、第2戦車師団に所属するKV1、KV2やT34が少数ながら初めてドイツ軍の前に登場した。T34やKV1はドイツ軍の主力戦車の装備砲や歩兵部隊に配備されている対戦車砲の砲弾をことごとく跳ね返して、ドイツ軍を一時的にパニックに陥れた。
第41装甲軍団の装甲部隊は機動力を生かした接近戦を行い、稚拙な協同運用しかできないソ連軍の戦車部隊は燃料や弾薬の欠乏も重なり、26日の早朝には壊滅してしまった。そして、この時には第56装甲軍団が作戦の第1目標であるドヴィンスクに到達していたのである。
レニングラードの占領を最終目標とする北方軍集団にとって、最大の障壁となるのが国境から約250キロの周辺を流れる西ドヴィナ河であった。大規模な軍隊の補給路として使用できる橋梁がリガとドヴィンスクの2か所にあり、特にドヴィンスクはレニングラードを最短距離で狙える位置にあった。そのため、ドヴィンスクでの橋頭堡の奪取は至上命令とされていた。
6月26日、「ブランデンブルク」特殊連隊の中から、第8中隊長代理クナーク中尉を長とする工作隊が編成された。ソ連軍の軍服を着た25人の隊員たちは、鹵獲した4両のソ連製トラックに分乗して、ドヴィンスクの西ドヴィナ河を渡る道路橋に迫った。
友軍だと思って油断したソ連兵を、ドイツ軍は機銃掃討で奇襲し、橋に仕掛けられた爆薬を取り外した。その後、第56装甲軍団の第8装甲師団が砲撃を加えながら橋を渡って対岸に進出し、最初の橋頭堡を築くことに成功した。
6月28日、モスクワの「総司令部」は戦略予備から第21機械化軍団(レリュウシェンコ少将)を前線に投入し、ドヴィンスクのドイツ軍橋頭堡を排除するよう命じた。この反撃に対し、ドイツ軍は必死に応戦してソ連戦車の波状攻勢を何度も押し返した。燃料と弾薬を使い果たしたソ連軍は、大きな損害を被って退却に転じた。
こうして、北方軍集団はわずか4日にして、レニングラードまでの約750キロの道のりのうち約3分の1を踏破することに成功した。装甲部隊はドヴィンスクの橋頭堡からさらなる東進を続けようとしたが、後続の補給部隊が装甲部隊の目覚しい速さに付いて行けず、先鋒部隊は7月2日まで攻撃の停止を余儀なくされた。この間にもソ連空軍は果敢な反撃を繰り返したが、ドヴィンスクの橋頭堡は無傷のまま残された。
〇集結
プリピャチ沼沢地帯南方では、ドイツ軍は北部・中央部ほどの戦果を上げられなかった。なぜなら、急きょ4月に行われたバルカン半島侵攻作戦のために、南方軍集団の多くの装甲部隊がポーランド南部の出撃地点に集結できていなかった。このため、最初の一撃を第6軍と第17軍の歩兵部隊だけで与えざるを得なくなった。
6月22日、第17軍の3個歩兵師団(第24・第71・第295)はラヴァ=ルースカヤの設堡地帯で、第6軍(ムズィチェンコ中将)の第41狙撃師団(ミクシェフ中将)とNKVDの第91国境警備隊(マルイー少佐)の激しい抵抗に遭い、5日間に渡って攻撃を阻止されてしまった。
国境に流れるブグ河では、第6軍の第17軍団(キーニッツ大将)と第3装甲軍団(マッケンゼン大将)の2個歩兵師団(第44・第298)が橋頭堡の確保に成功し、第14装甲師団(キューン少将)がルーツクへ向かう突破口を抉じ開けた。
この日の夜、南西部正面軍(キエフ特別軍管区より改組)司令官キルポノス大将は「指令第3号」を受け取った。さらに、スターリンの命令でモスクワから参謀総長ジューコフ上級大将がテルノポリの南西部正面軍司令部に派遣され、戦略予備の機械化軍団を用いた大規模な反撃計画の立案に取り掛かった。
赤軍参謀本部は戦前から、ドイツ軍の侵攻はいずれにせよウクライナに集中すると想定していた。ウクライナの豊富な地下資源を真っ先に奪取することが考えられた。そのため、南西部正面軍にはドイツ軍に比べ、より多くの機械化部隊が配属されていた。全ての部隊が完全装備もしくは訓練を完了していたわけではないが、北翼の西部正面軍に比べるとはるかに良好な状態にあった。
しかし、南西部正面軍の所属部隊(北から第5軍・第6軍・第26軍・第12軍)はまだ400キロ後方の兵舎から集合中で、ドイツ空軍の攻撃を受けながら前進しなければならなかった。そのためキルポノスとジューコフは、侵攻してきたドイツ軍の側面を叩くため、行軍中の部隊から兵力を分散させて早急に攻撃に向かわせざるを得なくなった。
6月23日、第6軍の第15機械化軍団(カルペゾ少将)に所属する2個戦車師団(第10・第37)が、ミリアチン付近で包囲された第124狙撃師団を救出しようとして、ドイツ軍の南翼に向かって攻撃を行なった。しかし、湿地帯とドイツ空軍の空襲によって、この反撃は失敗に終わってしまった。
反撃を乗り切った第1装甲集団は第48装甲軍団(ケンプ大将)の第11装甲師団(クリューヴェル少将)が夕方、東方への進撃を再開した。そして、国境から約80キロ付近を流れるストィリ河の渡河に成功した。
6月24日、第5軍(ポタポフ中将)はルーツク西方に進撃してきた第3装甲軍団の北翼に対して、第22機械化軍団(コンドルーセフ少将)を投入した。しかし、第3装甲軍団の先鋒を務める第14装甲師団は新型のⅣ号戦車を駆使して、旧式戦車しかないソ連軍はかなりの損害を被って北東に敗走した。
6月25日、第14装甲師団がルーツクを占領した頃、楔形に進撃を続ける第1装甲集団の先鋒を務める第11装甲師団は、国境から約110キロの地点に位置する交通の要衝ドゥブノの占領に成功していた。
この時までに、キルポノスは十分な機械化兵力を集結させることが出来たが、掩護のための狙撃部隊を伴わずに攻撃を開始させることになった。採択された反撃計画としては、ルーツク=ドゥブノの突出部を南北からの挟撃で押し返すこととされた。
〇反撃
ルーツク=ドゥブノ地区に集結した南西部正面軍の4個機械化軍団(第8・第9・第15・第19)はそれぞれ他の軍団がどのタイミングで反撃を実行しているか互いに把握しておらず、全く統制が取れていない状態でバラバラに突撃した。
6月26日、第26軍(コステンコ中将)の第8機械化軍団(リャブイシェフ中将)はブロドイの南から、KV1とT34を先頭に第57歩兵師団(ブリュンム中将)に襲いかかった。有効な対戦車砲を持たないドイツ軍の歩兵部隊はパニックに陥り、陣地を放棄して西方に敗走した。
勢いづいた第8機械化軍団は北上して第34戦車師団(ヴァシリーエフ大佐)に対し、ドゥブノを奪回するよう命じた。しかしドイツ軍の主力部隊の中に突っ込んでしまい、ひどい打撃を被ってしまった。ボロボロになった第8機械化軍団の残存部隊は7月1日、東方のジトミールへの脱出に転じた。しかし、航空攻撃と湿地帯に悩まされて、多くの部隊が大きな損害を被ってしまった。
第6軍の第15機械化軍団もまたKV1とT34を保有していたが、ドイツ空軍の第71高射砲大隊が持つ8・8センチ高射砲の反撃を受けて大損害を被った。
ドゥブノの北翼でも、第19機械化軍団(フェクレンコ少将)は少数のKV1とT34を先頭に、第1装甲集団の2個装甲師団(第11・第13)と第29軍団(オブストフェルダー大将)に反撃した。一進一退の攻防が繰り広げられたが、ドイツ軍の装甲部隊が態勢を立て直すと、第15機械化軍団の反撃は食い止められてしまった。
反撃に参加するはずだった第5軍の第9機械化軍団(ロコソフスキー少将)は部隊の集結が間に合わず、26日の昼ごろは限定的な反撃を行うに留めた。第9機械化軍団長ロコソフスキー少将は戦場のごく一部しか見ていなかったが、反撃が非現実的なものだと感じていた。
6月27日、第9機械化軍団は反撃に転じたが、第19機械化軍団との連携がとれず、多くの旧式戦車を失って撤退せざるを得なくなった。
6月28日、攻撃再開の命令が来た時、ロコソフスキーはロブノへ進撃していた第13装甲師団(ロートキルヒ少将)を待ち伏せした。この作戦は成功して、ドイツ軍はソ連軍の集中砲火の中に突っ込んで大損害を被ることになった。しかし、第1装甲集団の東進を食い止めることは出来ず、ロブノを占領されてしまった。
両翼から執拗な反撃を受けた第1装甲集団は、空軍のJu88(シュトゥーカ)による航空支援と部隊の立て直しによって、前線に空けられた突破口を次々と塞いでいった。
6月29日、これ以上の反撃は自軍の損害を増やすだけだと悟ったキルポノスは反撃の一時中止を決断し、各部隊の再編と退却を命じた。
6月30日、モスクワの「総司令部」は南西部正面軍に対し、前線を東方の旧国境地帯「スターリン線」まで撤退させるよう命じた。
南西部正面軍による激しい反撃は失敗したにせよ、南方軍集団の進撃を多少なりとも遅らせることには成功したのである。
〇独裁者
1941年6月のドイツ軍ほど、有利な立場を享受した攻撃側はない。前線の状況についての詳細な情報の欠如が、ソ連軍に一層の困難を経験させることになった。緒戦の数日間、ソ連の各戦線は大混乱、無秩序状態に陥っていた。各司令部は次々と新しい指令や命令を出したが、刻々と変化する情勢に立ち遅れたものばかりだった。
6月23日、クレムリンに最初の戦争指導部として「総司令部(スタフカGK)」が設立された。「総司令部」の議長には国防相ティモシェンコ元帥が就任した。スターリンは突然の開戦を受けても、クレムリンで通常の公務を続けた。やがて赤軍の反撃が始まり、戦線を西へと押し返すであろうと考えていた。
西部正面軍の現状を明らかにすべく、スターリンは国防人民委員部の副委員であるシャポーシニコフとクリークを派遣したが、2人とも状況を把握できず、西部正面軍司令官パヴロフ上級大将の所在も不明だった。西部正面軍参謀長クリモフスキフ少将は「司令官は前線で奮戦中」と、何度も同じ答えを繰り返した。
6月28日、スターリンの下に衝撃的な報告がなされた。西部正面軍が壊滅し、白ロシアの首都ミンスクがドイツ軍によって占領されたという。激高したスターリンは「わしは指導部から手を引く」と言い残して、モスクワ郊外の別荘に引きこもった。
6月29日、スターリンは突然、モロトフをはじめとする共産党幹部を引き連れて国防人民委員部に姿を現した。そして、まっすぐティモシェンコ国防相の執務室に押し入り、そこにいたティモシェンコの他、ジューコフをはじめとする大勢の参謀将校に向かって怒鳴った。
「前線の状況はどうなっておる?」
ティモシェンコが答えた。
「現在、前線からの報告を分析中ですが、確認する点がいくつかありますので、今すぐには報告できる状態にはありません」
スターリンは怒りを爆発させた。
「おまえは単に、本当の事をわしに報告することが怖いだけだろうが!おまえらは白ロシアを失った!そしてまた失敗をしでかして、わしを驚かそうというのか!ウクライナはどうなっている?バルト方面は?いったいおまえらは前線を指揮しているのか、それとも単に自軍の損害を数えて記録しているだけなのか?」
ジューコフが口を挟んだ。
「どうか私たちに仕事を続けさせてください、同志スターリン。私たちの任務は、まず前線の指揮官を助けることであって、それから状況の報告を・・・」
「何が参謀本部だ!何が参謀総長だ!初日から慌てふためきやがって!何も把握できておらんじゃないか!ここは誰が指揮しているんだ!この負け犬どもめが!」
執務室は絶望的な空気で満たされた。理不尽な叱責を浴びせられたジューコフは執務室を出ると、別室に引きこもった。スターリンは別荘に戻る車中で、こう呟いた。
「我々はレーニンが残した偉大な遺産を、すべて台無しにしてしまった・・・」
この期に及んで、「虚脱状態」に陥ってしまったスターリンであったが、非情な指導者が抗戦を喚起して、戦況を変えてくれるのではないかという望みは捨ててはいなかった。そこで、スターリンはいつもながらの残忍な「強権」を発動した。
6月28日、ミンスク陥落と時を同じくして、極東第1軍司令官エレメンコ中将がモスクワの国防人民委員部に出頭した。エレメンコはひと通り戦況の説明を受けた後、ティモシェンコが発した言葉に内心おどろいた。
「パヴロフ将軍と参謀長は即刻、解任された。政府の決議で、貴官が西部正面軍の暫定司令官に任命されたのです」
6月29日の早朝、エレメンコはモギリョフ近郊の西部正面軍司令部を訪れた。司令部にいたパヴロフは驚き、厳しい表情を浮かべたエレメンコは黙って青い封筒を手渡した。封筒の中身を読んだパヴロフの顔が青ざめた。
7月1日、西部正面軍司令官を解任されたパヴロフはクリモスキフ参謀長、第10軍司令官ゴルベフ少将ら6名の将官とともにモスクワに召喚された後、反逆罪で逮捕された。軍籍と全ての勲章を剥奪された上で、開戦から1か月後の7月22日、銃殺刑に処されたのである。
しかしスターリンはこのとき、ある事実を見逃していた。緒戦におけるソ連軍の混乱の原因は、まさしくスターリン自身にあったのである。独裁者が持つ偏執と妄想癖、かつて自身が軽視されたことに対する復讐心が、1930年代にロシアを覆った悪夢の日々の引き金となったのである。