〇終焉
7月13日、ラシュテンブルクの「総統大本営」は陰気で不安な空気がみなぎっていた。これは2日前に行われた連合軍のシチリア侵攻を受けており、この侵攻がイタリアに重大な政治的不安をもたらすことは間違いなかった。ヒトラーはさっそく、この点について述べた。
「イタリア軍は統率がますいから、シチリアは敵の手に落ちたも同然だ。アイゼンハワーは、明日にもイタリア本土かバルカンに上陸してくるかもしれない。そうなれば、ヨーロッパの南部は全て危険になる。これだけは何としても阻止しなければならない。そこで、イタリアとバルカンに送り込む戦力が必要になってくる。フランスからは第1装甲師団をペロポネソスに派遣できるが、それ以上に戦力をさける地域はない。このため、クルスクから戦力をさかねばならない」
クルーゲは作戦を中止しなければならないという意見に賛成だった。彼がこのような意見を持ったのは、イタリア戦線の崩壊が原因ではなく、クルスク北方でソ連軍がオリョール奪回を目指した「クトゥーゾフ」作戦を開始したからであった。
一方、マンシュタインは「城塞」作戦の継続を主張した。突出部の南部戦域における第四装甲軍の成功に気をよくし、ソ連軍の損害は甚大であると考えていた。したがって、再び突破口を切り開くことができれば、もはやソ連軍には反撃に差し向ける予備兵力を持っていないだろうと判断していた。
マンシュタインの意見は認められ、ヒトラーは南方軍集団だけで「城塞」作戦を継続する許可を与えた。だが、北部戦域の攻勢が終わっている状況であり、イタリアでの戦線の崩壊もあわせて考えれば、「城塞」作戦の意義はすでに失われていた。
7月15日、第3装甲軍団はステップ正面軍の戦線を切り裂いて第2SS装甲軍団と並列する位置にまで進出したが、ヒトラーは第2SS装甲軍団をクルスクから撤退させ、イタリアに派遣するよう命じた。
7月19日、南方軍集団の戦闘日誌にはこのように書かれている。
「敵の強力な攻勢から見て『城塞』作戦をこれ以上、継続するのはもはや不可能である。戦線を縮小して、予備兵力をつくるために、我が軍の攻撃は中止せざるを得なくなった」
この「敵の強力な攻勢」とは、南西部正面軍と南部正面軍、それにケルチ海峡を越えた東方にいる北カフカス正面軍が7月16日に始めた攻勢を指していたのである。
クルスクでの防御戦を終えた「最高司令部」は7月17日、南西部正面軍(マリノフスキー上級大将)と南部正面軍(トルブーヒン上級大将)に対し、ドネツ河とミウス河への牽制攻撃を命じた。
南西部正面軍はドネツ河を越えた第1親衛軍(クズネツォーフ大将)が、バルヴェンコヴォ南方のドイツ第1装甲軍(マッケンゼン上級大将)の陣地に攻撃を開始した。その南方では、南部正面軍が第5打撃軍(ツヴェターエフ中将)に対し、ミウス河の防衛線に立てこもるドイツ第6軍(ホリト上級大将)に攻撃を命じた。
ミウス河に対するソ連軍の進撃によって、南方軍集団が「城塞」作戦を継続する見込みは全く無くなってしまった。マンシュタインはヒトラーに対し、ドニエプル河沿いの狭い戦線への撤退を進言したが、ヒトラーは逆にソ連軍の橋頭堡を奪取せよと命じた。
橋頭堡の奪取には、装甲部隊を集中させる必要があったが、第4装甲軍から装甲兵力を引き抜けそうになかった。だがこの時、イタリアへの出発準備のためにクルスクを離れた第2SS装甲軍団が、まだ南方軍集団の後方にいた。
そこでマンシュタインはこの作戦に限定して第2SS装甲軍団の運用を求め、ヒトラーはマンシュタインの提案を承認した。
7月30日、北方から転用された第2SS装甲軍団と第4装甲軍の第3装甲師団がミウス河の橋頭堡に対して攻撃を開始し、橋頭堡の掃討と1万8000人の捕虜を得た。だが、ドネツ河沿いの南西部正面軍に対する攻撃は失敗に終わってしまった。
南西部正面軍と南部正面軍によるドネツ河とミウス河への牽制攻撃は失敗に終わってしまったが、ハリコフ周辺からドイツ軍の兵力を引き離すという目的は達成し、南部正面軍司令部で作戦指導を行っていた参謀総長ヴァシレフスキー元帥は「これで勝利の目途が半分たった」と口にした。
〇オリョールの奪回
クルスク突出部の北では、オリョールを中心として東へと戦線が大きく湾曲していた。ドイツ中央軍集団はこの突出部に、第2装甲軍と第9軍を配置させていた。
ヒトラーはオリョールへの脅威を鑑み、7月13日の会議で、第2装甲軍を第9軍司令官モーデル上級大将の指揮下に入れることを決定した。モーデルは精力的に動き回って、オリョール突出部を防衛する組織作りに取りかかった。
だが、第2装甲軍には歩兵を中心とした3個軍団(第35、第53、第55)のみで、ソ連軍が空けた突破口を塞ぐ機動力を有した部隊は第5装甲師団(フェーケンシュテット少将)と第25装甲擲弾兵師団(グラッサー中将)しか持ち合わせていなかった。
7月12日、西部正面軍(ソコロフスキー大将)が反撃を開始し、ホトイネッツを目指して突出部の切断に取りかかった。ブリャンスク正面軍(ポポフ大将)もノヴォリシからオリョールに向けて攻勢に出た。オリョール突出部に対する攻勢―「クトゥーゾフ」作戦が始められたのである。
西部正面軍の第11親衛軍(バグラミヤン大将)は約6000門の火砲とカチューシャ・ロケット砲の支援を受けて翌13日の夕刻までに、ドイツ軍の陣地を突破して約27キロの地点にまで進出した。また、ブリャンスク正面軍の第3軍(ゴルバトフ中将)と第63軍(コルパクチ中将)は突出部の正面で16キロの突破を果たした。
この戦況に対してモーデルは第9軍から第12装甲師団と第36歩兵師団、大量の砲兵部隊をオリョールの正面に回した。13日の戦闘日誌はこのように記した。
「本日すでに、第2装甲軍に対する敵の攻勢の規模からして、敵の狙いはオリョール突出部の占領にあると結論できる。過去48時間に根本的な変化が起こった。全ての作戦の重心は第2装甲軍に移った。戦局の危機は、いまだかつてない速度で、増大しつつある」
7月15日、クルスクの北部を守りきった中央正面軍が攻勢に転じた。2日間の戦闘で、侵入したドイツ軍を攻撃開始線まで押し返し、オリョールへ向かって突進した。これで突出部での兵力差は決定的となった。
だが、モーデルの防御戦術にあって、ソ連軍は攻撃の勢いを削らされた。モーデルはあらかじめ突出部からの段階的な撤退を想定して、オリョール突出部の内側に4本の陣地線を構築させていたのである。
陣地線の突破に手間取った西部正面軍とブリャンスク正面軍は、第3親衛戦車軍(ルイバルコ大将)と第4戦車軍(バダノフ大将)を前線に送り込んで攻撃のテンポを速めようとしたが、オリョールの前面に到達したのは8月の上旬に入ってからで、第2装甲軍と第9軍の包囲に失敗したことは明らかだった。
8月3日の夜、ブリャンスク正面軍はようやくオリョールの郊外に達したが、市街地はまるで昼間のように明るかった。街を放火されたことを知った正面軍司令部はただちに、大規模な攻撃を実施した。だが、ドイツ軍守備隊の抵抗が予想以上に頑強で、この攻撃は食い止められてしまった。
8月5日、第3親衛戦車軍は2年ぶりにオリョールを奪回した。しかし、オリョールの市街地はすでに廃墟と化していた。あらゆる工場や鉄道施設が破壊され、住宅もわずかしか残されていなかった。
8月17日から18日にかけての夜半、第2装甲軍と第9軍はキーロフからセフスクに至る「ハーゲン」防衛線への撤退を完了させた。戦線は短縮され、モーデルは約47万以上の兵員を防衛線に収容することに成功し、中央軍集団が受けた損害は軽微だった。
〇第四次ハリコフ攻防戦
モスクワの「最高司令部」は「クトゥーゾフ」作戦が順調に進んでいることを確認した上で、今度はクルスク突出部の南でハリコフに対する攻勢作戦の立案に取りかかった。最高司令官代理ジューコフ元帥が南部の前線を視察して参謀本部と協議した結果、攻勢の停止を決定した。
スターリンは「クトゥーゾフ」作戦と連動して即座に攻撃に移ることを望んだが、しぶしぶ攻撃延期を承諾した。南部戦域では依然としてドイツ軍が優位に立っており、ドイツ軍に決定的な打撃を与えるためには、周到な準備と物資の補給が必要であるとヴァシレフスキーから説得された為であった。
ハリコフへの攻勢を主眼とする「ルミャンツォフ」作戦は、クルスク突出部の南の肩からヴォロネジ正面軍が第5親衛軍(クラブチェンコ中将)と第6親衛軍(チスチャコフ中将)による集中攻撃でドイツ軍の前線に穴を開け、第1戦車軍(カトゥコフ中将)と第5親衛戦車軍(ロトミストロフ中将)を西からハリコフに突進させる。ステップ正面軍が東から発進して、ヴォロネジ正面軍の南翼を掩護する。
8月3日、「ルミャンツォフ」作戦が開始された。このとき北方では、西部正面軍の先遣部隊がオリョールの街に近づきつつあった。3時間も経たないうちに、第5親衛軍と第6親衛軍は北西からドイツ軍の陣地帯を突破した。
8月5日、ステップ正面軍の第69軍(クリュウチェンキン中将)がビエルゴロドを解放した。この日の夕方、モスクワでは勝利の祝砲が轟いた。この後、大規模な都市が奪回される度に、勝利の祝砲が打ち上げられるようになった。
南方軍集団の状況は今や、極度に危険なものになりつつあった。ハリコフ西方のグライヴォロンでは、第27軍(トロフィメンコ中将)によって3個歩兵師団(第57・第255・第332)が包囲されてしまった。
防御態勢を立て直そうとするマンシュタインだったが、ハリコフの死守に固執していたヒトラーに自身を飛び越えてハリコフの西に布陣していた第11軍団に対し、市内のラウス支隊(第167歩兵師団・第6装甲師団)に合流するよう命じられてしまう。
8月8日、マンシュタインはハリコフに縛りつけられた第11軍団(ラウス大将)を自由に動かしたいと考え、南方軍集団司令部を訪れた陸軍参謀総長ツァイツラー大将に対し、率直に危機的な状況を説明した。ツァイツラーから報告を聞いたヒトラーはハリコフの防衛に限り、南部のミウス河から第2SS装甲軍団の2個装甲師団(「帝国」と「髑髏」)をケンプ支隊に編入させた。
8月11日、第1戦車軍がハリコフ=ポルタヴァ間の重要な鉄道線上にあるヴァルキの手前まで進出すると、ボゴドゥコフで第2SS装甲軍団と衝突した。ドイツ軍の装甲部隊は第1戦車軍の先鋒を壊滅させたが、翌12日に第5親衛戦車軍が増援に駆けつけると、撤退を余儀なくされた。
独ソ両軍の戦車部隊はハリコフ周辺で一進一退の攻防戦を繰り広げていたが、マンシュタインはハリコフの防衛を巡り、政治的影響の波及を恐れて同市の死守を命じるヒトラーと議論する羽目になった。
「ハリコフの陥落は重大な政治的敗北になりかねない。トルコの態度はそれにかかっている。ブルガリアもだ。ハリコフを失えば、我々は面目を潰すことになるのだ!」
8月14日、「ケンプ軍支隊」司令部から「これ以上、戦線を維持できません」という報告を受けたヒトラーは支隊司令官ケンプ大将を解任した。ハリコフ周辺の部隊は第8軍として再編し、北方軍集団から第1軍団長ヴェーラー大将が司令官に転任した。
ヒトラーとの会談を終えた後、マンシュタインは南方軍集団参謀長ブッセ少将に「はっきりしない政治的思惑の為に、部隊を犠牲にするつもりはない」と言った。
8月22日、マンシュタインはヒトラーの許可を求めず、第11軍団に対してハリコフから撤退するよう命じた。ハリコフが翌23日に奪回される。
9月8日、総統大本営でヒトラーと会談したクルーゲとマンシュタインはそれぞれの軍集団戦区の危険な突出部を撤収させる許可を得ることに成功したが、ソ連軍の勢いはとどまることを知らずにドニエプル河への突進を続けていた。
今や戦略的主導権を完全にその手中に収めたソ連軍はドイツ軍と対峙する全戦線で、次々と攻勢作戦を開始していったのである。
〇ドニエプル河への突進
8月初め、モスクワの「最高司令部」はオリョールとハリコフでの成功をもとに、3度目の総攻撃を命じた。目標は前年の冬季戦と同じく、スモレンスクから黒海までのドニエプル河とされた。
一方、ヒトラーも南方軍集団の戦線を回復させるため、ドニエプル河までの撤退の必要性を感じていた。ドイツ南方軍集団司令部は9月15日、全部隊をドニエプル河沿いの防衛線へと撤退させる命令を下した。
「南方軍集団は、ドニエプル河沿いの陣地線『東方防壁』および、サポロジェ=メリトポリ陣地線『パンテル=ヴォータン線』へと撤退する」
ドイツ軍にとって幸いなことに、ドニエプル河は東岸よりも西岸が高く隆起しており、東方からの攻撃に備える防御陣地としては格好の場所だった。それ故にドイツ軍は今まで要塞化せず、陣地の構築命令が出されたのは8月12日になってからだった。
南部のドイツ軍陣地が手薄であった一方、北方軍集団・中央軍集団の陣地は18か月に渡って固められていた。このため、ソ連軍の巧妙な攻勢も堅固な陣地にぶつかって、その勢いを何度も削がれることになった。
中央部におけるソ連軍の攻勢は8月7日、カリーニン正面軍(エレメンコ大将)と西部正面軍(ソコロフスキー大将)による「スヴォーロフ」作戦で幕を開けた。この作戦はドイツ中央軍集団からスモレンスクを奪回することを目的としたものであったが、堅固な陣地の攻略に手間取り、結果として協同作戦の失敗も招いた。
スモレンスクの迅速な奪回に失敗したソ連軍は9月7日に再び攻勢を行って、ようやく同市を占領した。大きな代償を支払うことにはなったが、ハリコフ周辺にいた予備兵力を引き付けることには成功した。
スモレンスクとブリャンスクの南方では、中央正面軍(ロコソフスキー上級大将)とブリャンスク正面軍(ポポフ上級大将)が同じような困難を味わっていた。
中央正面軍は8月26日に攻撃を開始したが、ドイツ軍の諜報に目標を見抜かれてしまい、4日間で25キロしか進撃できなかった。麾下の3個軍(第13・第60・第61)がキエフの北方でドニエプル河に達したのは、9月22日のことだった。
中央正面軍が苦闘している間に、ブリャンスク正面軍は9月1日にブリャンスク市への攻撃を開始した。第50軍(ボルディン大将)がブリャンスクを17日に奪回すると、中央正面軍と協同してドニエプル河に急行した。10月3日、ブリャンスク正面軍はゴミョル北方でドニエプル河の堤防に達した。
南部では9月を通じて、独ソ両軍がドニエプル河への道を争った。南西部正面軍(マリノフスキー上級大将)と南部正面軍(トルブーヒン上級大将)はドンバス地方へ進出したが、ドイツ南方軍集団の第1装甲軍と第6軍は装甲部隊の予備を持ち合わせていなかったにも関わらず包囲を免れて、サポロジェから黒海に至るドニエプル河沿いの「パンテル=ヴォータン」防衛線への退却を続けた。
9月9日、モスクワの「最高司令部」は大々的な褒章授与の発表を行い、兵士たちのさらなる戦意高揚を狙った。
「スモレンスクより下流のデスナ河、および強行渡河の難易度においてデスナ河と同等と見なされた河川の渡河に成功した場合、軍司令官に対してはスヴォーロフ第一級勲章、軍団長、師団長、旅団長には同第二級勲章、連隊長、工兵大隊長には同第三級勲章を授与される。また、スモレンスクより下流のドニエプル河、および強行渡河の難易度においてドニエプル河と同等と見なされた河川の渡河に成功した場合、レーニン勲章と共にソ連邦英雄の称号を授与される」
9月19日から23日にかけて、ヴォロネジ正面軍の先遣部隊はキエフの南北でドニエプル河に到達した。ヴァトゥーティンは「奴らはパンを焼くが、我々は攻撃せねばならぬ」と東岸に到達したソ連軍の狙撃部隊に発破をかけた。
9月21日、キエフ北方のリュテシに到着した第13軍(プホフ中将)は渡河資材の到着を待たずに、河の周辺に転がった丸太や板切れ、民家の扉などで作った筏や付近の住民から提供された小型漁船などで渡河の準備を整え、翌22日に西岸に最初の橋頭堡を築くことに成功した。
9月23日、第13軍の南翼で第60軍(チェルニャホフスキー中将)がドニエプル河の強行渡河を行い、第3親衛戦車軍(ルイバルコ中将)と交替して第40軍(モスカレンコ中将)の狙撃師団がブクリン湾曲部に橋頭堡を確保した。
〇キエフの奪回
9月末、ソ連軍がドニエプル河に構築した橋頭堡の数は大小合わせて23個に達していた。特にキエフ周辺では、ヴェリキィ・ブクリンの橋頭堡が有望そうに思えた。この橋頭堡は第40軍によって確保されていたが、攻撃を続けるためには増援が必要だった。
「最高司令部」はヴェリキィ・ブクリン橋頭堡の拡大に、空挺部隊を投入することを決定した。すでに9月初めに、いくつもの空挺部隊に改めて落下傘訓練を受けるよう指令を出していた。3個空挺旅団(第1・第3・第5)が即席の空挺軍団として再編され、ヴォロネジ正面軍に加えられた。
9月24日の夕刻、ヴェリキィ・ブクリンに近いドニエプル河畔のカーネフの上空に、大編成の輸送機からパラシュートを装備した空挺兵が次々と放たれた。この作戦はほとんど賭けに等しいものだったが、その結果は惨憺たるものに終わった。
ドニエプル河を目指す無理な進撃がたたって、GPUにはドイツ軍の防御配置に関する情報をヴァトゥーティンに渡す時間がなかった。この時、空挺部隊の降下地点にはドイツ第8軍の第24装甲軍団(ネーリング大将)が味方の後退を支援するために集結中だった。この真上に降下してしまった兵の約6割が、着地する前に機銃掃討を受けて命を落とした。
残り4割の兵士は風に流されてソ連軍の陣地やドニエプル河の川面に着地し、敵陣の背後で生き残った者はパルチザンに助けられて、チェルカッシィの西に広がる深い森へと逃れた。この作戦の失敗がもとになって、スターリンはこののち大規模な空挺作戦の実施をためらうようになった。
9月末から11月半ばまで、独ソ両軍はドニエプル河に沿った地域で膠着状態に陥ってしまった。ソ連軍はヴェリキィ・ブクリンとクレメンチュグ南方にそれぞれ橋頭堡を確保していたが、ドイツ軍はこの2つの橋頭堡を封じ込めてしまい、逆にニコポリ東岸に橋頭堡を保持していた。
「最高司令部」は当初、ヴェリキィ・ブクリンの橋頭堡を拡張してキエフの奪回を目指そうとしていたが、空挺作戦の実施が刺激となって、ドイツ軍はこの地に予備兵力を集結させていた。ヴェリキィ・ブクリンからの攻撃が不可能と判断した「最高司令部」は、新たな候補地としてキエフ北方のリュテシを選択した。
ヴァトゥーティンは秘密裏に、リュテシの橋頭堡に第5親衛戦車軍団(クラブチェンコ中将)を派遣した。しかし、橋頭保の周辺には沼沢地が広がっており、通行がほとんど出来ない困難な地形だった。そのため、伸びきったドイツ軍も大きな兵力を配置することを阻んでいた。
第5親衛戦車軍団長クラブチェンコ中将は何本もの小川に部隊を渡らせるため、危険を承知で、できるだけ多くのT34を密封して、全速力で渡河を命じた。その結果、かなりの数の戦車や兵士がぬかるんだ流れの中に溺れた。
10月末、第1ウクライナ正面軍(10月20日、ヴォロネジ正面軍から改称)司令部は第3親衛戦車軍に対し、リュテシへの移動を命じた。11月1日までに、2000門の火砲と500門のカチューシャ・ロケット、大量の戦車が派遣された。
11月3日、キエフ市街地から25キロしか離れていないリュテシから、凄まじい火砲の砲撃が始められた。氷雨が降る悪天候の中、第3親衛戦車軍と第38軍が突撃を敢行した。不意を突かれたドイツ軍は混乱をきたし、第88歩兵師団(ロト中将)が攻撃の矢面に立たされた。
11月6日、ドイツ軍の4日間の防衛も虚しく、第1ウクライナ正面軍は2年ぶりにウクライナの首都キエフを奪回した。第3親衛戦車軍は第38軍の援護を受けながら、ドイツ軍の背後を回ってファストフからカザチンに向かって進撃を続けた。
ヒトラーはキエフ陥落の責任を第4装甲軍司令官ホト上級大将に押しつけ、11月30日付けで罷免した。だが、面子のみを重んじたこの人事異動は、東部戦線における戦況の改善には何ひとつ寄与しなかった。