〇宿命の都市
スターリンの新しい命令は、彼の名を冠したヴォルガ河に沿って帯状に狭く伸びた一大工業都市スターリングラードにおいて、すぐに適応された。1918年5月、この街がまだツァリーツィンと呼ばれていた頃に起こった市街戦で、スターリンが戦局の流れを一変させ、革命を救ったという神話が引き合いに出された。
この時のスターリングラードの人口は約60万人で、3つの巨大なコンビナートである「赤い十月」製鉄工場、「ジェルジンスキー」トラクター工場、「赤いバリケード」工場の周囲に、白い近代的なアパート群が立ち並んでいた。
この街は5カ年計画の一環で、ソ連の産業モデル都市として選ばれ、重要な工業地帯として整備されていた。戦争の進展に伴い、「赤い十月」工場は各種の銃火器、その北に隣接する「赤いバリケード」工場は火砲、最北端に位置する「ジェルジンスキー」トラクター工場はT34の製造に力を入れていた。
市内には低い丘がたくさんあり、14世紀ごろタタール王のために築かれた墳墓である「ママイの丘」は標高が102メートルもあり、中心街を見下ろしていた。この地域の軍事委員会はあらゆる手段を講じて、この都市を要塞に変えようと務めていた。しかし、すべての補給物資や増援部隊はヴォルガ河を超えなければならないので、この作業は困難を極めた。
市内の全域で住民が動員された。16歳から55歳までの男女およそ20万人が、共産党委員会によって組織された「労働者隊」に編入された。1年前のモスクワ防衛と同じく、女性と年長の子どもには柄の長いシャベルとバケツが渡され、地面を約2メートルも掘って対戦車壕を作るよう命じられた。その間、軍の工兵たちが壕の周りに地雷を敷設した。年少の学生たちは、ヴォルガ河畔に置かれた石油所蔵タンクの周囲に土壁を作る作業に携わった。
対空防衛施設の整備も大急ぎで進められた。砲兵隊は主に「共産主義青年同盟」に所属する若い女性たちで、すでに4月から招集されていた。高射砲に込める砲弾はまだ届いていなかったが、彼女たちは発電施設や工場を守るために、ヴォルガ河の両岸に配置された。工場の武器製造ラインに務める労働者たちも、基礎的な軍事訓練を受けた。
市の防衛委員会は次から次へと命令を発した。集団農場は軍に備蓄していた穀物を差し出すよう命じられ、愛国的義務を果たさない人々を裁くための裁判機関も設置された。
8月4日、南東部正面軍司令官エレメンコ大将はスターリングラード北西のはずれにある小さな飛行場から降り立った。軍事評議員のフルシチョフが車で出迎え、2人は市内のツァリーツァ峡谷に置かれた司令部に向かった。エレメンコは敵方に関する情報を持っていないことが恨めしかった。
一番の危機は、西方からドン河を渡ってくる第6軍と南西から攻めてくる第4装甲軍が同時に攻撃をしかけてくることであった。エレメンコはすぐに、ヴォルガ河の下流全域が危険であることを見抜いた。
ヴォルガ河下流の要衝であるアストラハンはドイツ軍の空襲にあって混乱に陥っていた。カスピ海に面した石油精錬所は1週間に渡って燃え続け、まだ黒煙を吐き出している。港という港は難民が溢れ、埠頭には東方へ疎開せざるを得ない工業機械が山と積まれていた。砂漠地帯は別として、脱出するにはカスピ海を渡るしかなかった。
半ば不毛のカルムイク大草原にいる第4装甲軍に対抗できる軍隊はほとんど手に入らなかった。北部のロシア人はその草原を「世界の果て」と思っていた。兵士が手に入らないため、軍当局は海軍に眼を向けた。ドイツ軍による最初の突進で、モスクワから南部に通じる鉄道が遮断されたため、水兵を含む戦略予備の大集団が南部へ行くには、時間をかけて中央アジアから列車で迂回せざるを得なくなった。
カルムイク大草原に到着した海軍歩兵分遣隊のある指揮官はこのように記している。
「あれはロシアではなくアジアだ。なぜあんな土地で戦うのか理解できなかった。だが、そこを守り抜くか死ぬかどちらかだと、誰もが知っていた」
〇到達
A軍集団のカフカスにおける進撃に悦に入っていたヒトラーは、再び「青」作戦に変更を加えた。その内容は第6軍のスターリングラード市の攻略を第4装甲軍が支援するというもので、「青」作戦が立案された時の方針に戻されただけだった。その上で、市の占領を8月25日までに完了させるよう厳命した。
第6軍がようやくカラチの近郊にたどり着いたのは、8月6日のことだった。第6軍司令官パウルス大将は、古典的な包囲戦でカラチを攻めた。すなわち、第14装甲軍団が北翼から、第24装甲軍団が南翼から大きく挟み込むようにしたのである。
8月8日、ドイツ第6軍の装甲部隊はカラチの大鉄橋で合流を果たした。包囲の危機に瀕した第62軍の退却を援護するため、2個戦車軍団(第13・第22)がドイツ軍に対して反撃を仕掛けた。しかし、ドイツ軍の進撃を食い止めることは出来ず、16日までにドン河西岸全域を占領された。
8月13日、天然の要害であるドン河防衛線を破られたゴルドフはスターリングラード正面軍司令官から解任され、それに伴って同正面軍は南東部正面軍に統合された。
8月19日、B軍集団司令部は第6軍に対し、スターリングラードへの総攻撃を命じた。
作戦計画では、第14装甲軍団がヴェルチャチーのドン河橋頭堡から突破して、ヴォルガ河とドン河の間に回廊を作り上げる。装甲部隊が同市の北部地区(スパルタノフカ、ルイノク)に到達したならば、南に向かって市への侵入の準備をする。この間、後続部隊が回廊を固め、拡大する。
続いて第4装甲軍が南から市に突入して、市の北端に達して第14装甲軍団と合流する。両軍で市の東部を封鎖すると同時に、第51軍団がカラチから東に向かって進撃し、ソ連第62軍・第64軍を分断して壊滅させる。
南方では、ツィムリンスカヤからスターリングラードへ向かう新たな攻勢を開始した第4装甲軍の第48装甲軍団がソ連軍の防衛線を市から南南西に70キロ離れたアブガネロヴォ付近で突破し、8月20日にはトゥントドヴォ高地に迫っていた。
この事態に対し、南東部正面軍司令官エレメンコ大将は第1戦車軍・第4戦車軍の残存部隊を差し向け、クラスノアイメイスクからヴォルガ河屈折部までの15キロに渡る応急防衛線に配置させた。第48装甲軍団は幾度となくこの防御拠点に攻撃を仕掛けたが、時がたつにつれてひどい損害を被るようになり、第4装甲軍司令官ホト上級大将は攻撃の中止と、作戦の再検討を命じた。
8月21日、第6軍の歩兵部隊がルチンスキー付近でドン河に橋頭堡を築き、翌22日には第14装甲軍団がドン河を渡った。ドン河とヴォルガ河に挟まれた大草原は、夏の干ばつで石のように固くなっていて、進撃は容易だった。午後に入って、戦車隊員らが上空を見上げると、何波ものユンカース89、ハインケル111爆撃機の編隊がスターリングラードに向けて出撃していった。
8月23日、ドイツ第4航空艦隊(リヒトホーフェン上級大将)の爆撃機は幾度となく飛来し、市内の全てが目標であるかのように容赦ない絨毯爆撃を繰り広げた。南西の外れにある木造住宅街は焼夷弾で焼き尽くされ、燻る灰の中にひょろ長い煙突がまるで墓標のように虚立していた。白い高層アパート群は外郭だけが残され、内部はメチャクチャに破壊され、多くの建物が倒壊・焼失した。
ヴォルガ河畔の巨大な石油貯蔵施設も爆撃された。立ち上る炎が火の玉となって上空450メートルにまで達し、何日も黒煙が320キロの彼方からも見えた。燃え上がる石油はヴォルガ河を赤く染め、電話交換所も給水所も灰燼に帰した。
この日、第4航空艦隊が投下した爆弾は1000トンに達した。NKVDが船舶のほとんどを徴発していたため、避難できなかった約4万人の市民が命を落とした。市街地が東部戦線で最も集中的に行われた爆撃を受けている間にも、ドイツ軍はじわじわと迫っていた。
ドイツ第14装甲軍団の先鋒を務める第16装甲師団はこの日の午後4時過ぎ、ついにスターリングラードの北に位置するルイノクに到達した。ドイツ軍の将兵たちには信じられなかった。ある中隊長はこのように書いている。
「ドン河を朝早く出発して、ヴォルガ河まで来たのだ」
スターリングラードのソ連軍は窮地に立たされた。エレメンコは兵力のほとんどを南西から急進している第4装甲軍に差し向けており、何より第6軍がこれほど早く北翼を突破するとは考えていなかった。
〇反攻
8月24日、南東部正面軍司令官エレメンコ大将は、ドン河の北に展開する3個軍(第1親衛軍・第21軍・第63軍)に反攻を命じた。その狙いはドイツ第14装甲軍団のルイノク回廊を排除することだった。
第21軍と第63軍はセラフィモヴィッチ付近でドン河を渡り、イタリア第8軍を追い払うことに成功した。同時に第1親衛軍は、クレメンスカヤ付近でドン河に橋頭堡を確保した。この後、3個軍はルイノク回廊の壊滅には失敗するものの、28日までにハンガリー第2軍、イタリア第8軍の陣地に橋頭堡をドン河北岸に確保することに成功する。
8月25日、ドイツ第4航空艦隊による空襲が再び、市街地を襲った。ようやく、市内の婦女子に対して避難命令が下されたが、2~3隻の蒸気船が与えられただけだった。大部分の船舶が負傷兵の撤退と物資の運搬に割かれていたからであった。東岸への避難は3日間に渡って続けられたが、ドイツ軍の空襲と地上部隊の砲撃は容赦なく、多くの船舶がヴォルガ河の底に沈められた。河は死人から流れ出した血で赤く染まり、黒炭のようになった死体が水面に漂っていた。
8月29日、第48装甲軍団がアブガネロヴォから再び攻勢に出た。前日まで、第4装甲軍司令官ホト上級大将は夜間に装甲部隊をトゥンドトヴォの前線から外し、アブガネロヴォ付近に集結させていた。彼の狙いは堅固な防御陣地を西から迂回し、高地全体を包囲するとともに第64軍を壊滅させることだった。空軍の支援を受けた第48装甲軍団はガブリロフカ付近で防衛線を突破し、第62軍・第64軍の背後に侵入した。
8月31日、第48装甲軍団の斥候部隊がスターリングラード=モロゾフスク鉄道に到達し、市内へ撤退中の第62軍・第64軍の退路を遮断する絶好の機会が訪れた。
B軍集団司令部は包囲を完了させるために、部隊をルイノクから南へ進撃させるよう第6軍に求めた。しかし、部隊の消耗と北に集結しつつある敵軍を考慮して、第6軍司令官パウルス大将は攻撃に異を唱えた。
その間、エレメンコは南東部正面軍に退却命令を下し、3個軍(第57軍・第62軍・第64軍)を、市内を中心に深さ30キロの弧状地帯に押し留めることに成功した。
スターリンは南東部正面軍の反撃を監督させるために29日、最高司令官代理ジューコフ上級大将を派遣させた。しかし、合流した多くの部隊が満足に武装しておらず、何もかも不足していた。ジューコフは電話で攻撃を1週間遅らせるよう、スターリンを説得せざるを得なくなった。その間に、南東部正面軍に最大の危機が訪れる。
9月3日、第6軍の第51軍団と第48装甲軍団がついに合流し、一気にスターリングラード市の西端に迫ろうとしていた。
スターリンはヴァシレフスキーに電話を入れ、敵の現在地を知らせるよう命じた。ヴァシレフスキーは敵の戦車部隊が市の郊外に到達していると報告すると、スターリンは怒りを爆発させた。
「一体、彼らは何をしておる?スターリングラードを明け渡せば、我が国の南半分は中央で分断されて守れなくなるじゃないか。それがわからないのか?スターリングラードの災難だけではすまないんだ。そのうち、水路も石油も失うぞ!」
ヴァシレフスキーは出来る限り冷静に答えた。
「我々は脅威にさらされている場所に投入できるものはすべて投入しております。スターリングラードを失わずにすむ方法はまだあります」
スターリンは今度、ジューコフに怒りをぶつけた。部隊が揃っていようがなかろうが直ちに攻撃を開始せよという命令だった。長々と電話で議論した結果、ジューコフはどうにかスターリンを説得して2日間の猶予をもらうことになった。
9月5日、ジューコフの指揮の下、ドン正面軍として編成された第1親衛軍(モスカレンコ少将)と第24軍(コブロフ少将)による反攻が開始された。第6軍は増強させた第14装甲軍団を差し向け、ドイツ空軍は容赦ない空爆を浴びせた。その結果、第1親衛軍は辛うじて進撃できたが、第24軍は攻撃開始線まで押し返された。
この反攻は失敗に終わったとはいえ、ぼろぼろになった第62軍(ロパティン中将)と第64軍(シュミロフ中将)が市内に退却する間だけでも、ドイツ軍を遠ざけることが出来たが、ジューコフはモスクワに帰る機内で、並々ならぬ決意を胸中に抱いていた。
スターリングラードの郊外では、夜の冷え込みが急に激しくなった。朝になると、大草原に霜が降りて、水を張っていたバケツに1晩で薄い氷の膜が出来ていた。戦争2年目の厳しい冬が、「宿命の都市」をゆっくりと覆い始めていた。
〇ドイツ軍最後の目標
スターリングラードが政府の公式発表で初めて軍事目標としてドイツ国民に発表されたのは、8月20日のことだった。それから2週間後、ヒトラーは何としてもスターリングラードを占領しようと決意する。この決意には、A軍集団(リスト元帥)によるカフカス侵攻の失敗が大きく関わっていた。
それまで順調に進撃していたA軍集団の先鋒を担う第1装甲軍は8月25日、ロストフとバクーを結ぶ鉄道が通るモズドクを占領し、グロズヌイの油田地帯まで75キロの地点にまで迫った。
だが、カフカス山脈を水源に、オルジョニキーゼからモズドクを経てカスピ海に流れ込むテレク河の手前で、第9軍(パルホメンコ少将)と第37軍(コズロフ少将)がドイツ軍の進撃を食い止めるべく、反撃に乗り出してきた。
ソ連軍の反撃は当初こそ規模が小さく、ドイツ軍が被った被害は軽微だったが、8月28日に第58軍(ホメンコ少将)がテレク河の防衛線に投入され、局地的な反撃に転じたことで、ドイツA軍集団の進撃は一時停止を余儀なくされた。
ドイツ軍は9月4日以降、テレク河の渡河攻撃を繰り返し実施し、9月12日にはテレク河の南岸に奥行き45キロほどの橋頭保を確保したが、ソ連北カフカス正面軍の抵抗も日に日に強まり、戦況は一進一退の様相を呈し始めていた。モズドクから最終目的地のバクーまでは、まだ580キロの距離があったが、冬の到来までにA軍集団がカフカス山脈を越えられる見通しは事実上、皆無だった。
カフカス侵攻の失敗に対するヒトラーの怒りは頂点に達した。第17軍の第49山岳軍団がエリブルス山の登頂に成功したという報せを受けたヒトラーは作戦会議の席上で、罵声を吐きちらした。
「私はカフカスを越えて黒海岸のスフーミに出ろと命令した。バカげた山登りの趣味を満足させろと命令した覚えはない・・・!」
9月7日、ヒトラーはA軍集団司令官リスト元帥に「総統指令を遵守」させるため、国防軍総司令部統帥局長ヨードル大将をA軍集団司令部に派遣した。リストから事情を聞いたヨードルは報告書に「リストは総統指令に違反したことは一度もなく、元帥の進言は妥当」とする見解を記した。
この日の夕食の席で、A軍集団司令部から帰ってきたヨードルが「リストはあくまでも総統の命令に従ったまでです」と述べると、ヒトラーは荒々しく席を立ち上がり、「嘘を付くな!」と一喝して部屋を出て行った。
ポーランド、スカンジナヴィア、フランスで相次いで勝利を収めた後、ヒトラーはしばしば燃料や人的資源などの日常的な必須条件を軽蔑するようになっていた。まるで戦争に欠かせない物資などに束縛されないかのようだ。今回の激怒のせいで、ヒトラーはある種の心理的極限に至ったかに見えた。
9月9日、ヒトラーは国防軍総司令部総長カイテル元帥に「リストは辞職させねばならない。ハルダーも辞めてもらおう。ヨードルも貴官も他の者に交代してもらう」と告げた。
ヒトラーの腹案としては、国防軍総司令部総長に第2航空艦隊司令官ケッセルリンク元帥、参謀総長には西部軍集団参謀長ツァイツラー中将、統帥部長には「スターリングラード市攻略後」に第6軍司令官パウルス大将をあてることにしていた。
この日の夜、A軍集団司令官リスト元帥が辞表を提出した。カイテルは後任として第11軍司令官マンシュタイン元帥を推薦したが、ヒトラーは首を横に振って「当分は私が兼任する」として自らA軍集団司令官に就任した。
この時点で、最終目的地であるカフカス油田地帯の制圧は不可能と分かった上でも、ヒトラーは敗北を受け入れることが出来なかった。2個軍集団の他に同盟国の兵力をも投じた「青」作戦が失敗に終わったことを印象づけないためには、スターリンの名を冠した工業都市を是が非でも占領することが不可欠だった。