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オルガ・ペトロヴァ少尉は、ヴィシネフスキーのアパートがあるグリボイェードフ運河沿いの道路で待っていた。ペトロヴァは30代前半の魅力的な女性で、こげ茶の髪を頭の後ろで束髪にまとめていた。
私服を着たペトロヴァの姿に、捜査で頭がいっぱいのギレリスはたいして関心を払わなかったが、リュトヴィッツはその面立ちにどこか見覚えがあった。ヴィシネフスキーのフラットがある階まで5人で登っている途中、しばし見とれていると、ペトロヴァの方から話しかけてきた。
「リュトヴィッツ大尉ですね。弟がいつもお世話になってます」
「君の弟が?」
「60分署にいる新人のセルゲイ・ペトロフは、あたしの弟です」
「民警はもう長いのか、少尉?」
「4年です。その前は、弟と一緒にオリンピックの体操チームにいました」
それで、全身から漂うはつらつとした雰囲気の説明がつく。
「ギレリス大佐。この事件に関して、もうひとつ発見したことがあります」
「うっかり忘れてたことがもうひとつじゃないか?それとも、獲物を小出しにすることで、君の能力を印象づけようというのか?」
「違います」むっとしたような響きはなかった。「実は59分署へ転任してきたばかりで、まだ勝手がわからないのです。そのもうひとつのことを発見したのは、大屋敷へ電話したすぐ後でした」
フラットの外の踊り場までたどり着く。
「で、何を発見したんだ?」
「3か月ほど前、わたしがまだ59分署に着任する前ですが・・・」
「よろしい。報告の遅れが君の責任でないことはよくわかった」
「ありがとうございます。ドミトリ・ヴィシネフスキーが分署に来て、警護を願い出ているんです。マフィアに狙われているという理由で。ところが、わたしの前任者であるチュイコフ中尉はこれを却下しました。却下しろという命令が出ていたからです」
「命令?誰から?」
「保安省の誰かです。なぜなのか、はっきりわかりませんが、国民の誰ひとりとして特権を与えられるべきではないというのが、表向きの理由でした」
「そのチュイコフ中尉に話を聞いてみたいものだ」
「残念ながら、それはできません。中尉は2週間前、肺ガンで亡くなりました。それで、わたしが転任してきたのです。わたしにわかっているのは、その決定をヴィシネフスキー氏に伝える際、中尉が彼にボディガードを雇うよう助言したとのことです」
「で、ヴィシネフスキーは?ボディガードを雇ったのか?」
ペトロヴァが肉感的な唇をすぼめる。「雇ったようすはありませんね」
こくんとうなづいて、ギレリスはけたたましい音を立てる呼び鈴を鳴らした。ドアを細目に開けたカテリーナ・ヴィシネフスカヤは刑事たちを見て、あまりうれしそうな顔をしなかった。
「またおじゃまして申し訳ない」ギレリスが言う。「少しだけ、追加の質問があるのです。たいして時間は取らせません」
「入っていただいた方が、よさそうね」カテリーナは後ろに下がり、狭い廊下を開けた。
5人は玄関ホールに入り、カテリーナがドアにかんぬきを掛けるのをおとなしく待った。
「お茶でもいかが?」カテリーナがそう言うと、共同の台所へ刑事たちを先導していく。
この誘いに、リュトヴィッツはがっかりした。ワードロープを改造したあの書斎へ再び入って、ヴィシネフスキーのピンボードに貼られたあの写真をもう一度拝みたいと、ひそかに願っていたのだ。
台所の設備は、標準的なものだった。冷蔵庫が2台、コンロが2台、流しが2つと壁にかかった浴槽が2つ。天井から大きな木のラックがぶら下がり、洗濯物がこの古い建物の湿っぽい空気にさらされている。かなり使い込まれた木のテーブルに、傷とでこぼこだらけの大きな真鍮の湯沸かしが置かれ、隅には黒猫が寝そべっていた。
カテリーナが人数分のコップを探してきて、お茶を注ぎ、全員に手渡す。
「お砂糖もミルクもなくて、申し訳ありません」
どちらも要らないというしるしに、刑事たちは首を振った。
「亡くなる2日前に、ドミトリ・ミハイロヴィチから盗難届がでているのでずが」ギレリスが切り出す。
「盗難?」カテリーナは首をすくめるようにして、口元に笑みを浮かべた。「盗難なんて、覚えがありません。玄関のドアをご覧になったでしょう?」
ペトロヴァが首を振る。「届け出によると、ヴィシネフスキーさんは、賊は紛失した鍵を使って中に入ったと推理しておられます」
「ええ、確かに。よく鍵を失くす人でしたけど」
「“金の子牛”文学賞のトロフィーと、現金50ルーブルが盗まれたようです」
「そんな話、はじめて聞きました。でも、そう言われてみると、トロフィーのことは気になってたんです。しばらく見かけませんでしたから。けれど、あれを欲しがる人がいるなんて、ちょっと考えられません。本物の金でできてるわけじゃないんですよ」今度は悲しげな笑みが浮かんだ。「あれが本物なら、わたしたちはとっくに売ってたでしょう」
「盗んだ奴は、本物の金だと思ったのかもしれません」ギレリスが言う。「他に何か、なくなったものはないですかな?」
お茶をひと口含んでから、カテリーナは無言で首を振った。
「書類とか、テープとか・・・」
「わたしにどうやってわかります?ドミトリの持ち物はほとんど、あなた方が持って行ったじゃありませんか?」
「ええ、お預かりしました。でも、それ以前は?」
「ありません」
「おいしいお茶ですな」
ギレリスにならってお茶をひと口飲んだリュトヴィッツも思わず、同意のうめきを漏らした。
「先日、サンクトペテルブルク・テレビジョンのユーリ・パルホメンコと話しました」
「あの番組、見ましたよ。ベルマンに、ずいぶんきついことを言われてらっしゃいましたね」
カテリーナは微笑んでいる。ギレリスがいじられるのを楽しんでいるのではないかと疑いたくなるような表情だった。
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「ベルマンはろくでなしです」カテリーナが付け加える。「ドミトリも、すごく嫌ってました。改革派の仮面をかぶってるけど、中身は食わせ者の策士だって。でも、それは仕事を見てるだけでわかりますよね。あの男は、爪の先まで日和見主義者です。他人のことなんて、どうでもいい。ベルマンにとって大事なのは、自分だけ」
「ベルマンはドミトリをどう思ってたんでしょう?」ギレリスが言った。
カテリーナは肩をすくめた。
「通い合うものは何もありませんでした。2、3年前、ある作家の誕生日を祝う会が催されました。会が終わってから、2人は言い争いを始めたそうです。ベルマンはエリツィンを口汚く罵りました。アル中だとか、低能だとか、そんな感じです。ドミトリはベルマンをファシストと呼びました。それからつかみ合いになって、ドミトリは眼の周りにアザを作ったんです。そのあと半年ぐらいして、科学アカデミーで3日間の会議がありました」
そこで、ふふと鼻でせせら笑った。
「“対話の世界における人類”とかなんとか・・・冗談みたいなテーマの集まりでした。そこでまた、ぶつかり合ったんです。リトアニアの独立に関してだったと思います。それとも、エストニアの独立だったかしら?よく覚えてないわ。どちらだろうと、たいした違いはないわね」
お茶をまたひと口含み、肩をすくめる。
「とにかく、殴り合いにはならなかったけど、ドミトリがベルマンの車を蹴って、へこませたそうです。それ以来、交流は全くありません。2人は口もききませんでした。でも、8月クーデターが終わってから、ドミトリはベルマンの番組を放映中止にするよう訴え続けました。ベルマンがKGBから資金提供を受けてたというんです。国営テレビからの誘いをドミトリが受けた理由はただひとつ。自分が話に乗らなければ、その椅子がベルマンに差し出されると知ってたからでした」
ギレリスはしばらく何も言わなかったが、胸の内は読み取れた。ヴィシネフスキーの死を望む十分な理由がベルマンにあったかどうか、考えをめぐらせているのだ。
「ベルマンがそれについて何も言わないのは、ずいぶん妙な話ですな」
「まともな発言なんて、期待できません。あの男は偽善者です」
「パルホメンコの話では、ドミトリは電話がKGBに盗聴されてるのに気付いたということですが」
カテリーナが今度は首をすくめる。
「奥さんもご存じだったんですか?」
「ええ」
「パルホメンコ氏はこうも言ってました。ドミトリは、自分が保安省内の反ユダヤ勢力から標的にされてきたと思い込んでいると」
「それは、その人たちに聞いた方が早いんじゃありません?」
ギレリスはため息をついた。「奥さん、わたしはただ何がご主人の心にひっかかっていたかを突き止めようとしてるだけですよ」
「ドミトリはなんでも気にかけてしまう人でした。普通じゃ考えられないほどです。ジャーナリストになったのが不思議なくらい、信じやすいたちでした。記事を書くために、全てが本当であって欲しかったんだと思います。たとえば、祈祷療法。あの人がそんなものを信じてたのを、ご存知でした?」タバコに火をつけ、苛立たしげに首を振る。「何が心にひっかかってたかなんて、どうでもいいことでしょ。夫は死んだんです。どうして、死人をそっとしといてくれないの?」
「今いちばん大事なのは、ご主人を殺した犯人を捕まえて、処罰することです」
カテリーナは芝居がかったため息をつき、汚れた窓の外に眼をやった。
「ご主人はボディガードを雇う話をしてませんでしたか?」
「ボディガード?」カテリーナの口元がほころぶ。「この部屋を見てください、大佐。わたしたちは裕福ではありません。洗濯機すら買えないのに、ボディガードなんて・・・」
ギレリスはお茶を飲み終え、コップをテーブルに置いた。猫がもぞもぞと動き始める。黒い背中を弓なりにして、そろそろと足を前に進め、尻尾をスヴェトラーノフのズボンに巻きつけた。
「こらこら、ダメよ。ブルガーコフ」カテリーナが言い、廊下へ追い払う。警察も同じくらい簡単に追い払えたらと、願っていることだろう。リュトヴィッツは、ジャーナリストの飼い猫に劇作家の名前がついていることに、内心にんまりとした。
「ご主人は地元の民警に警護を願い出てます」ギレリスはなおも引き下がらなかった。
「だったら、夫がボディガードを雇う必要なんかないじゃありませんか」
「民警は断りました」
カテリーナはかすかに非難のこもった眼をギレリスに向け、やがてそらした。
「袖の下を渡そうという考えが、頭に浮かびもしなかったんでしょうね。ドミトリはときどき子どもみたいに純真になるんです」
「袖の下の問題ではありません」ペトロヴァが言った。
「あら、そう?何の問題なの?」
ペトロヴァは肩をすくめ、自分の職場がKGBの飼い犬だと思われないような説明を、なんとかひねり出そうと知恵を絞っていた。
「それはたぶん・・・」リュトヴィッツは助け舟を出した。「単純な人手の問題ですよ。現状でもすでに、限界に近いところまで来てる。警官が不足してるために、パトロールを出せない分署もあるという有様で・・・」
「それで、あなた方はいつも4、5人で固まって行動するのね。ガソリンを節約するためでしょ。それに、言い訳を考えるのがずっと楽になるから」
「貴重なお時間をありがとうございました」ギレリスが幕を下ろすように言った。「お茶もどうもごちそう様でした」
通りに出ると、ギレリスは車の屋根をばしんと叩いた。
「なんなんだ、あの女は!亭主を殺した犯人が捕まろうと捕まるまいと、自分にゃ関係ないっていうのか」
「気が動転しているのでしょう」ラザレフが言う。「もしかすると、警察にも責任があると考えているのかもしれません。警護の要請を断ったことで」
「いや、単に警官嫌いというだけかもしれないな」スヴェトラーノフが答える。「うちのカミさんがそうですよ」
「お前と一緒に暮らしてれば、誰だってそうなるさ」ギレリスがからかった。「ペトロヴァ少尉。とにかく、君の方は“金の子牛”の行方を追ってみてくれ。モーゼに見つかる前に」
「はい?」
ギレリスは旧約聖書の一部をスラスラと言ってみせた。
「そして、モーゼは彼らが造った若い雄牛の像を取って火に焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に持たせた」
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ネヴァ河デルタ中央の小さな島に造られたペトロパブロフスカ要塞は300年の歴史を持ち、サンクトペテルブルク発展の核となってきた。木造のイワン橋を渡っている途中、大砲の音が12時を告げ、4人とも反射的に腕時計をたしかめた。
レストランを営むには、いかにも変わった場所だと思えた。要塞自体が観光客にとても人気があるのは事実だが、この花崗岩の壁の中でどれだけの人数の人々が無念の最期を迎えたかを考えると、食欲も失せるというものだ。
ピョートル大帝がスウェーデンを打ち負かした戦闘から名を取ったレストラン・ポルタヴァは、かつての将校クラブの中にある。刑事たちは店の前に車を停め、厚い木の扉を叩いた。開けてくれたのはでっぷりと太った男で、昼食の席を取りたければチップをはずめと言わんばかりに、戸口に立ちふさがった。
「本日はあいにく満席となっております」
ギレリスが身分証をちらつかせる。「その台詞は、空腹で死にそうな客のためにとっておけ」そう言うと、男を押しのけるように中へ入っていく。
店内は、軍隊風というより田舎風だった。ピョートル大帝の結婚披露宴の絵をはじめとする古い版画が真っ白なセメントの壁を飾り、梁のどっしりとした天井からは鋳鉄製のシャンデリアが懸かっている。そして、どこからかペストリーを焼く、食欲を誘うようなにおいが漂ってきた。
「支配人と話がしたいんだが」ギレリスが言った。
「わたくしが支配人でございます」扉を開けた男が答える。
ギレリスは男にヴィシネフスキーの写真を見せた。
「この店で見たことがあるか?ドミトリ・ヴィシネフスキーという男だ」
支配人はぽってりとした両手でその写真を受け取り、数秒間じっと見つめてから、首を横に振った。
「うちの常連のお客様にしては、お痩せになりすぎてるように見受けます」
「3日前の晩に、ここへ来たはずなんだ」
「まぁ、そうおっしゃるのなら」
「誰かと待ち合わせてた。だが、その相手は現れなかったらしい」
「お相手は女性ですか?カップルにも、多くご利用いただいてますが」
「それを含めて調べてるところだ。予約の控えを当たってもらえんだろうか?」
支配人は小さなアルコーブへ刑事たちを案内した。古い型の電話機の横に置かれた背の高い樫のテーブルに、革綴じの大きな帳簿が載っている。それを開いて、何ページか戻ってから、同じ指をページの上から下へすべらせた。
「ございました。ええ、思い出しましたよ。八時にお2人様でしたね。しかし、予約はベリヤ様となっておりますが」
「ベリヤ?」ギレリスが思わず大声を出す。「冗談はよせ」
支配人は帳面をギレリスの方へ向けた。「ご自分の眼でお確かめください」
「なるほど。そう書いてある。いや、ベリヤというのは、スターリン時代の秘密警察の長官だったからな」
「本当ですか」支配人が肩をすくめる。「しかし、わたくしの歳では、記憶が定かではございません。いろいろなお客様がいらっしゃいますので」
ちょうどそのとき、派手なスーツに身を包み、口ひげを生やした浅黒い肌の南部人らしき男がダイニングルームから出てきて、洗面所に向かった。エナメルの靴を晴らして進むその一歩一歩が、おれはマフィアだと自己主張しているようだった。ラザレフが「典型的なチュルキですね」とギレリスに耳打ちすると、苦々しい表情を浮かべ、ギレリスがその後ろ姿を眼で追う。
「そうらしいな」低い声で言ってから、予約控えの帳簿へ注意を戻した。「私が言いたいのは、ベリヤというのが明らかに偽名だということだ」
「わたくしには、明らかではございません」支配人が言う。
「この予約は、どういう形で入ったんだ?」
「電話です。直接おいでなる方は、いらっしゃいません。常連のお客様は別ですが。島にございますので、何かのついでにお立ち寄りになるのが難しいのです」
ギレリスは、ベリヤ氏の予約を記した青いボールペンのキリル文字を指差した。
「これは、あんたの筆跡か?」
「さようでございます」
「電話をしてきた人物について、何か覚えてることはないか?」
「男の方だったことは確かです」しばらく考えた後、支配人は肩をすくめた。「それ以外には、何も・・・」
「訛りはなかったか?グルジアとか、チェチェンとか」
「申し訳ありませんが、はっきりした記憶はございません。先ほど申しましたように、いろいろなお客様がいらっしゃいますので」
「ヴィシネフスキー氏、つまりこの写真の人物だが、彼が店を出るとき、待ち合わせの相手が来なかった理由について、何か説明しなかったのか?」
「勘定をお支払いになって、それからコートをお取りになりましたので、わたくしが着せてさしあげました。またお越し下さいと申し上げると、そうしたいとおっしゃりました。出口までお見送りしましたが、歩いてお帰りになったようです。つまり、車の発進する音が聞こえませんでしたので」
「手間を取らせてすまなかった」
「せっかくおいで下さったのですから、昼食を召し上がっていらっしゃいませんか?店のおごりにさせていただきます。本日は、特製のペテル・スープがございますが」
「ペテル・スープ」喉を鳴らして、スヴェトラーノフが言う。「どうりで、いいにおいがすると思った」
マフィア風の男が洗面所から戻ってくる。
「ありがたいが、遠慮するよ」男を見ながら、ギレリスが言う。「昼食の時間ぐらいは、お得意様と離れていたいからな」
スヴェトラーノフはがっかりした表情を浮かべたが、ギレリスたちと一緒に店を後にした。外に出ると、ギレリスはおもむろにスヴェトラーノフに顔を向けた。接待の申し出を断った件について、何か言いたいことがあれば聞こうというように。
「どうした?胃袋が文句を言ってるんじゃないか?」
スヴェトラーノフはタバコに火をつけ、近くに建つ教会の金色に輝く尖塔を見上げた。
「いいえ、大佐のおっしゃるとおりです。料理のにおいに比べて、客の質はかなり落ちてるようですからね」
「でも、ぶっちゃけた話」ラザレフが苦笑いを浮かべる。「これは、本当に腹の減る仕事ですよ」
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大屋敷に戻ってほどなく、リュトヴィッツに懲役施設管理委員会にいる古い友人から電話が入った。先日、ヴィシネフスキーの記事のせいで刑に服することになったチェチェン人のドゥダロフについて調べてくれるよう、電話で頼んでおいたからだった。
マナガロフという名の友人は、ドゥダロフが西シベリアのカザフ国境に近いベレゴイ16/2に収容されていたことを突き止めてくれた。ところが、4週間前に釈放されたのだという。服役態度良好という理由だった。
「しかし、まだ刑期の半分も務めてないじゃないか」リュトヴィッツは言った。
「ぼくにも、よくのみ込めないんだ」マナガロフは言った。「その収容所の刑務主任に電話で聞いたら、確かにうちの委員会から正規の釈放命令が届いたということだった。これについては、とことん調べてみるつもりだよ」
「ドゥダロフがどこに行ったか、収容所の方では掴んでいるのか?」
「何日間かを所内の診療所で過ごしていったらしい。塀の外での医療費の高騰ぶりを考えると、病気になるときは囚人の方が得だということだな。その後、75ルーブルの給付とオムスクからサンクトペテルブルクまでの鉄道乗車証を与えられている」
「何か分かったら、すぐに知らせてくれ」
そう言って電話を切ると、リュトヴィッツはギレリスに報告した。ギレリスは顔をしかめ、忌々しげに呟いた。
「服役態度良好だと?ヤツを容疑者として逮捕したときに、話のタネにできそうだな」
「居所を捜し出すべきでしょうか?」ラザレフが言った。
「刑事の本分を忘れてなければ、そうするところだな。まぁ、今日の屍肉が奴さんのものじゃなかっただけ、幸運と思っとけ」
そこへ、スヴェトラーノフがトイレから戻ってきた。リュトヴィッツは「相談がある」と言ってスヴェトラーノフを廊下へ押し出た後、ギレリスにことわって大屋敷を出た。その後、2人はスヴェトラーノフのジグリでサドーヴァヤ通りのレストラン・チェーホフに向かった。表の通りは狭苦しく、車を停めただけで人がまっすぐ歩けなくなる。
「いつものやつをくれ、ボルホフ師」
リュトヴィッツは路地から店に入り、オーナーのボルホフに言った。相変わらず店内は大型CDラジカセが大音量でベートーヴェンを流している。
「いま出せるのは、固ゆでの卵」ボルホフは脅しつけるような口調で言った。「あとはサワラのウハーしかないよ」
「そいつでいい」リュトヴィッツが言った。
2人は店の最奥にある丸テーブルを陣取った。トイレの扉がすぐそばにあり、そこから食欲をいっぺんに失くすような異臭が漂っていた。テーブルの上に、ピクルスが詰まった瓶が置かれていた。リュトヴィッツがカウンターに眼を向けると、ボルホフが「臭い消しだよ」と言って、笑った。
スヴェトラーノフが胡瓜のピクルスをひとつ摘み、突起のある緑の膚から胡椒と丁子を振り落した。胡瓜をポリポリと噛みながら、眉をひそめた幸せそうな顔をする。
「美味いピクルスだ」それから、からかうように軽く訊いた。「どうだ、1杯飲みたくないか」
「くそ、誘惑するなよ」リュトヴィッツは椅子から腰を上げる。「ちょっと小便だ」
トイレに入ると、男が倒れていた。床に落ちている財布は濡れて革が膨張しているが、中身は空のようだ。リュトヴィッツは喉に手を当ててみた。脈は安定している。個室の空気はアルコールの蒸気に満ちて、今にも発火しそうだ。衣服を手で軽く叩いて身体検査をすると、上着の左ポケットにウォッカの一パイント瓶が入っていた。現金は盗んだが、酒は取らなかったわけだ。
蓋をはずして、ぐいぐいとラッパ飲みをする。ウォッカはシンナーとクレンザーの混合液のように喉を焼く。口を離したとき、瓶には中身が何センチか残ったが、リュトヴィッツには焼けつくような後悔しか残らなかった。一瞬ながら、はげしく葛藤した後で、ウォッカはゴミ箱に入れないことに決めた。棄ててしまうと誰の役にも立たなくなる。瓶を自分のポケットに移すと、男を便器から引きはがした。それから本来の目的である自分自身の放尿に取りかかった。尿と便器と水が奏でる音楽に誘われて、男が眼を覚ました。
「おれは大丈夫」と、床から挨拶がある。
「それで大丈夫とは恐れ入る」リュトヴィッツは言った。
「うちのやつには電話しないでくれ」
「しないよ」とリュトヴィッツは約束したが、すでに相手は再び意識を失っていた。
テーブルに戻ると、すでに2人分のウハーが出されていた。リュトヴィッツが椅子に腰かけると、サワラの切り身にかぶりついていたスヴェトラーノフが言った。
「なぁ、現場でギレリスにこう言ってたよな。『もう1人いました。そいつがババジャニヤンの首を切ったんです。たぶん、ナイフかなんかで。そして、おれの銃を拾って、おれを殺そうとしたんです』もう1人ってなんだ?」
「ボリスだ」リュトヴィッツは言った。
「ボリス?」
「2か月前、先代のグルジア・マフィアのボス、ヴィクトル・サカシュヴィリがホテル・プリバルチスカヤの前で乗っていた黒塗りのヴォルガに仕掛けられた爆弾によって、殺害されただろ?あのとき、爆発が起こる数時間前、サカシュヴィリのヴォルガの足回りで不審な行動を取っている男が目撃されていた。その男がボリスだ」
「で、今回・・・」スヴェトラーノフが言った。「そのボリスが、ババジャニヤンとチャンジバッゼを殺したと。ボリスってのは、雇われの殺し屋だな」
「ババジャニヤンとチャンジバッゼは、ニコライを捜してた」
「鬼刑事のギレリスが言うには、ババジャニヤンとチャンジバッゼはチェチェン・マフィアの一員だってな。筋がややこしすぎるぜ・・・ニコライはいったい何者なんだ?」
「おまえ昔、63分署にいたな」リュトヴィッツが言った。
「成りたての頃な」
「セミョーノフとかいう救世主のポン引きを知ってるか?スモリヌイ聖堂の近くに住んでるらしい」
「救世主のポン引き?」スヴェトラーノフは眉をしかめた。「いや、俺の知ってるセミョーノフは地質学の先生だ」
「ニコライをユスポフに連れて来たのは、そいつだって話がある」
「それが、おれへの相談ってやつか」スヴェトラーノフがニヤりと笑った。
「セミョーノフの大先生が、ニコライについて何を知ってるか見物だな」
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セミョーノフは早耳の老人で、2人組の刑事が青いジグリでこちらへやって来ると聞くと、すぐに準備を整えた。作業所はトタン屋根と大きな車輪付きの引き戸を持つ石造りの建物で、スモリヌイ聖堂の北に広がる森の中に建っていた。
「また太ったな」セミョーノフは近づいてきたスヴェトラーノフに向かって挨拶がわりに言った。「ソファーなみの大きさだ」
「セミョーノフ教授」スヴェトラーノフは言った。「あんたは掃除機のゴミ袋からもそっと落ちてくるものみたいに見えるよ」
セミョーノフは小柄で虚弱そうな撫で肩の老人で、背が150センチもない。75歳と言われているが、骨ばった顔は目尻を別にすれば若々しくつるりとしていた。落ちくぼんだ青い眼、黄色みを帯びた青白い肌。まばらな白髪を長く伸ばし、白いあごひげともみあげは、密生しているのにしょぼしょぼして見えた。襟付きのファスナーカーディガンを着て、白い靴下の上に濃紺のビニールサンダルを履いているが、靴下の左足の親指の部分には穴が開いている。お手上げの状態が百年続いても、こんな風貌の老人に助けや情報を求める気にはならないと、リュトヴィッツは思った。
「この5年ほど、わしを煩わせに来なかったが」
「ちょっと休ませてやろうと思ってね」
「そりゃ、ご親切なことで」それから、作業所のアーチ形の入口の前に立つ若者に声をかけた。「お茶、グラス、ジャム」
若い学士がドアを開き、セミョーノフと2人の刑事は後から作業所に入った。中は音がよく響く広い部屋で、仕切はないが、車庫と事務室に分かれていた。事務所には地図保管用のスチールキャビネット、額入りの免状類、何巻もの黒い背表紙に地形学、地理学、測地学などの文字が並んでいる。車輪付きの大きな引き戸は、バンが出入りするためのものだ。滑らかなセメント床についた油染みの数からすると、バンは3台あるようだ。
「これは相棒のリュトヴィッツ大尉だ、教授」とスヴェトラーノフが紹介した。「何か困ったことがあったら、相談するといい」
「お前さんと同じ厄介者にかね」
「おい、俺を怒らすなよ」
リュトヴィッツとセミョーノフは握手をした。セミョーノフはリュトヴィッツに近づいてよく見ながら、言った。
「この男のことはよく知ってるぞ。巡査の頃からな」
「俺もだ。雨まじりの強い風が吹いてた夜に、ホテル・プーシキンの前で。あのときは喜捨箱と、でかいスーツケースを抱えていたな。救世主の物語が書いてあるとても長い本が入ってるって。あんたは預言者だって言われてた」
「おまえさんは、わしがそういう連中の1人だと思うかね?」
実際には、セミョーノフが“教授”であることさえもいくらか疑っていた。だが、電気ポットを相手に悪戦苦闘している若い学士の頭より少し高いところには、額入りの免状がいくつもかけてある。モスクワ大。ワルシャワ大。クラクフのヤギェヴォ大。そのほか各種推薦状、感謝状、宣誓供述書も、地味な黒い額におさめられていた。
「どうやら違うようだね」リュトヴィッツが言った。
セミョーノフは2人に手招きをし、オーク材の重厚な地図台の脇を通り過ぎて、大きな蓋つきデスクのそばに置いた二脚の椅子のそばへ足を運んだ。椅子は背もたれがハシゴ状で、壊れていた。学士がきびきび動かないので、セミョーノフはその耳をつかんだ。
「何をやっとる!」今度は若者の手をつかむ。「お前の指の爪はなんだ!まったく!」
セミョーノフは電気ポットに水を注ぎ、お茶の葉をひと摘み入れた。葉は糸屑のようにも思えた。
「殺人事件の捜査をしてるんだが」リュトヴィッツは言った。「被害者はセンナヤ広場のホテル・プーシキンに、カスパロフの名前で泊まってた」
「カスパロフ?あの世界チャンプと同じ名前かね?」セミョーノフの羊皮紙のような黄色い額にしわが寄り、眼の奥深くで炎がきらめいた。「わしも昔はチェスをやった。もうだいぶ昔の話だが」
セミョーノフは湯気の立つグラスをよこした。持っていられないほど熱く、リュトヴィッツは指を火傷しそうだった。草の匂いがするお茶だった。
「おれもだ」リュトヴィッツが言った。「殺された男も、最後の最後までやってた。遺体の隣に対戦中のチェス盤があった。それから、ユスポフ・チェスクラブに出入りしてた。クラブではニコライという名前で知られてたが」
「ニコライをクラブに連れてきたのは、アンタだっていう話があるんだが」
スヴェトラーノフはそう言うと背広の内ポケットに手を入れ、ポポフが撮った写真の1枚を出して、テーブルの向こうのセミョーノフに手渡した。セミョーノフは両腕を伸ばして写真を見つめた。しばらくすると、死体の写真だとわかってきたようだった。深呼吸をひとつし、唇をきつく結んで、手にした証拠品に知識人らしいしっかりした判断を加えるための心の準備をした。ただはっきり言って、死体の写真などは日常からひどくかけ離れたものであるだろう。
セミョーノフはあらためて写真に視線をあてた。リュトヴィッツは、老人が表情を抑える前に一瞬、腹にすばやい殴打を受けたような顔をするのを見た。肺から空気が抜け、顔から血の気が引いた。その眼から知性の光が消えた。つかの間、リュトヴィッツは老人自身の死に顔の写真を見た気がした。それから、光が老人の顔に復活した。
リュトヴィッツとスヴェトラーノフは、少し待った。リュトヴィッツにはわかった。老人は心の抑制を保とうと必死に戦いながら、「いや、刑事さんたち。こんな男は一度も見たことがないね」と告げて、それをいかにも真実の言葉らしく響かせられる可能性にしがみつこうとしていた。
「それは誰なんだ、教授」ようやくスヴェトラーノフが問いを口にした。
31
セミョーノフは写真をテーブルに置き、さらに見つめ続けた。自分の眼と唇が何をしているかは、意に介していなかった。
「ああ、あの子だ・・・優しい、優しい、あの子だ・・・」
カーディガンのポケットからハンカチを取り出して、頬の涙を拭い、吠えるような声をひとつ発した。怖ろしい声だった。リュトヴィッツは老人が飲んでいたお茶を自分のコップに空け、上着のポケットから、その日の昼にレストラン・チェーホフのトイレで押収したウォッカの瓶を出した。ウォッカを指2本分、グラスに注ぎ、老人に差し出す。
セミョーノフが無言でそれを受け取り、ひと息に飲み干した。それからハンカチをポケットに戻して、リュトヴィッツに写真を返した。
「わしがその子にチェスを教えたんだ」セミョーノフが言う。「その男がまだ子どもだったときに。大きくなる前に。いや、すまん、これじゃ話がわからんな」またタバコを1本取ろうとしたが、全部吸ってしまっていた。曲げた人差し指をタバコの箱に突っ込み、もそもそと動かす。リュトヴィッツがタバコをやると、礼を言った。「ありがとう、リュトヴィッツ。ありがとう」
だが、それきり黙ってしまった。じっと座って、タバコが灰になっていくのを眺めていた。スヴェトラーノフを窺い、次いでリュトヴィッツを盗み見る。ショックからは立ち直ってきたようだ。頭の中で状況を整理し、越えられない線はどれか、くぐれば魂が危険にさらされるドアはどれかを、見きわめようとしていた。
「さて、気分が落ち着いたら、もう一度話をやり直してくれ」リュトヴィッツは椅子の上で脚を組み、2人分のタバコに火をつける。「時間はたっぷりとあるから」
「ほら、教授」スヴェトラーノフも促す。「アンタは子どもの頃のカスパロフを知ってたんだな。今その頃の思い出が頭の中をぐるぐる回ってるんだろう。辛いだろうが、話しちまったほうが楽になるぜ」
「そうじゃない」セミョーノフは言った。「そういうことじゃない」リュトヴィッツから火のついたタバコを受け取り、今度もほとんど一本吸ってしまうまで話を始めなかった。知的な人間なので、まず考えまとめたいのだろうとリュトヴィッツは思った。
「名前はヴァレリー」セミョーノフは口を切った。「ヴァレリー・ヴィクトロヴィチ。歳は28で、あんたより2つ下だ、スヴェトラーノフ刑事。いや、2つ下だったと言うべきかな。でも、誕生日は同じなんだ。8月15日。そうだろう、え?」毛のない頭頂部をぴたぴたと叩いた。
「ヴァレリーはIQが170あった」セミョーノフは続けた。「8歳か9歳のときには、ヘブライ語と、スペイン語と、ラテン語と、ギリシャ語が読めた。難解な文章までもね。その頃には、わしの期待などはるかに越えたチェスの指し手になってたよ。並外れた記憶力で、過去の棋譜を覚えこんでね。一度読めば、一手も間違えずに盤上で再現できたんだ。もう少し大きくなって、あまりチェスをやらせてもらえなくなると、頭の中で有名な対戦を繰り返した。たぶん3、400の対戦を暗記してたと思うね」
「エミール・リヒテルにも、そんな話があったな」リュトヴィッツは言った。「きっと同じような顔をしてたんだろう」
「エミール・リヒテルか。あれは異常者だ。あいつの指し方は、非人間的だった。精神構造が害虫と同じだった。相手をむしゃむしゃ食うことしか考えなかった。不作法で、不潔で、意地が悪かった。ヴァレリーは全然違ってたよ」
セミョーノフの茶色い唇の両端が吊り上った。
「信じないかもしれんが、あるときわしはリヒテルとあの子の対戦をお膳立てしたこともある。そういうこともできたんだ。リヒテルはいつも金がなくて、借金ばかり抱えてた。それなりの謝礼さえもらえれば、ほろ酔い気分の熊とでも対戦したはずだ。リヒテルがペテルで世界チャンプになる前の年だったよ。この家で、3回戦の試合をやった。ヴァレリーは第1戦と第3戦に勝った。第2戦は黒を持って引き分けた。リヒテルは試合を秘密にしておく約束だったことをひどく喜んだよ」
「どうしてだ」リュトヴィッツが聞いた。「どうして秘密にする約束なんかしたんだ?」
「それには理由があった」セミョーノフは答えた。「あの子が死んだセンナヤ広場のホテルというのは、上等なホテルじゃなかったんだろうな」
「ボロい安ホテルさ。アンタも見てるから分かるはずだ」
「腕にヘロインを注射した跡があったって?」
リュトヴィッツはうなづいた。刹那、辛そうな間をおいて、セミョーノフも首をこくりとさせた。
「ああ、そうだろうな。わしがどの対戦も秘密にしたのは、あの子が外部の人間とチェスをするのを禁じられてたからだ。どういう訳か知らんが、あの子の父親がリヒテルとの対戦を聞きつけた。これはわしには重大な問題だった。わしの家内が、この父親と親類だったのだ」
「その父親って、まさか・・・ヴィクトル・サカシュヴィリじゃないだろうな」スヴェトラーノフが言った。「さっきの写真の死体が、先代のグルジア・マフィアのボスの息子だと言ってるじゃないだろうな」
「そうなんだ」ようやくセミョーノフが答える。「ヴァレリー・サカシュヴィリ、ヴィクトルの息子」
リュトヴィッツはセミョーノフに聞いた。
「何だ?あんたはサカシュヴィリと親戚になるのか?」
「セミョーノフの奥さんと、ヴィクトルの奥さんがたしか姉妹だったな」
代わりにスヴェトラーノフが言うと、セミョーノフはうなづいた。
「わしの妻はもう、何年も前に亡くなってるがな。向こう・・・すなわち、ヴァレリーの母親はまだ健在じゃよ」
「ちょっと待て」スヴェトラーノフは言いかけて、眼を細めた。「すると、ヴァレリーとオレグは兄弟になるのか」
「なんともはや」リュトヴィッツが思わず呟いた。
「今のロシアじゃ、何が起きたっておかしくないよ」
セミョーノフが薄ら笑いを浮かべた。
32
この日の夜、大屋敷の当直勤務が回ってきたリュトヴィッツはもう1人の当直を、ビールとピーナッツのおまけ付きで早々に当直室に押しやると、明かりを落とした刑事部屋で1人になった。
時計の針が午後11時を過ぎたとき、予定していた通り、リュトヴィッツは大屋敷の5階へ上がった。今では保安省と名を変えたKGBのオフィスだった。
廊下を歩きながら、リュトヴィッツは共産党が消滅した今でも、KGBは階下の自分たちと比べて、恵まれた労働環境を保持していると感じた。洗面所には、真新しいタオルに石鹸、トイレットペーパーがある。床は汚れた茶色のリノリウムではなく、厚い赤のカーペットに覆われており、どの部屋にもパソコン、ファックス、コピー機が備えられている。
執務室のひとつへ入っていくと、しゃれた青いスーツを着て、大きな黒縁の眼鏡をかけたサラエフが棚から本を下ろし、段ボール箱に詰めているところだった。
「何だ?」リュトヴィッツは言った。「もっといい部屋に引っ越すのか?」
サラエフが眼鏡の奥で笑う。
「実はそうなんだ、サーシャ。ここを離れることにしたんだ」
「離れる?省のほうが手放してくれないだろう」
リュトヴィッツの大学時代からの友人であるサラエフは、KGBの少佐を務めていた。
「アメリカの合弁企業に声をかけられたんだ」はずんだ口調で言う。「ロシア全土に、ハンバーガー・レストランのチェーン店を展開しようとしてる。ぼくは採用の責任者」
「検死官のコルサコフが『なんでどいつもこいつもアメリカに住みたがるんだ?』って言ったな。『この国にいればうまくいかなかったとき、いつでも誰かのせいにできるじゃないか』って」
サラエフが豪快な笑いを飛ばした。「違いない」
リュトヴィッツはタバコに火をつけた。
「君はどうなんだ?」サラエフが言った。
「何が?」
「うちの会社の警備を引き受ける気はないか?君みたいな人がいると、心強い。肉の値段がここまで高騰すると、警備が最重要課題になってくるんだ」
「ああ、それはよく分かる。だが、君は本気で言ってるんだろ?」
「当たり前だろ。給料のことを考えてみろよ。ここに定年までいて、いくら貰えるようになる?月750ルーブルさ。合弁企業で、ぼくがいくら稼ぐと思う?」
「できれば、聞きたくないな」
「月3万ルーブル。40倍だ」
リュトヴィッツは力なく微笑んだ。「炭鉱夫と同じか」つい最近、炭鉱労働者の賃上げストライキが決着し、月に3万ルーブル稼ぐ者が出てきた報道されたのだ。
「君ぐらいの業績があれば、3万なんて楽に稼げる」
「それだけの金を、何に使えばいいんだ?」
リュトヴィッツは吸殻をゴミ箱に投げ捨てた。サラエフは心なしか声を低くした。
「そうだよなぁ・・・エレーナが死んだ今となってはね」少し鼻をすする。「たしか、殺されたヴィシネフスキーの奥さんはカテリーナだろ?4人でチェスを打ってたころが懐かしいなぁ」
いまリュトヴィッツの脳裏に浮かんだのは、大学の敷地内に立つ大きなニレの木の下にレジャーシートをしいて、その上で仲間とチェス興じる自分の姿だった。だいたいカテリーナとリュトヴィッツが対戦し、その様子をエレーナとサラエフが見ていた。
部屋を覆った沈黙を破るように、リュトヴィッツは言った。
「ところで、ドミトリ・ヴィシネフスキーに関する情報は?」
サラエフが床から別の段ボール箱を持ち上げ、机の上に載せる。
「テープ、速記録、個人ファイル・・・ご希望のもの全部、この中に入ってる」
リュトヴィッツが箱の中をのぞき込んだ。
「なんで、彼の電話を盗聴しなくちゃならなかったんだ?今になって、わざわざ」
サラエフが肩をすくめる。
「今になってというより、ずっと盗聴していて、誰も解除してこなかったと言う方が正しいだろう」
「今でも省内には、反ユダヤ主義者は多いのか?」
「情報機関だからといって、偏見や差別が多いとか少ないということはないよ。世間並みの割合で、そういう連中もいるんだろ」
「じゃあ、聞き方を変えよう。ヴィシネフスキーに対して、何か遺恨を抱えてる人間はいないのか?」
「殺すほどのか?いや、それはないと思うが」
「脅迫や嫌がらせの動機なら、どうだ?」
しばらく、じっと考え込む。
「少なくとも、君の前で話すようなことじゃない」
リュトヴィッツは首を振った。「じゃあ、ここだけの話にしよう」
「実は・・・二課のある将校がヴィシネフスキーに、イギリス人ジャーナリストふたりをスパイにさせようとしたことがあったらしい。たぶん、少しは脅しもかけただろう。それが、ここでのやり方だからな。でも、君が想定してるほど酷いものじゃなかったと思う。いずれにしろ、彼らはすでに戦列を離れてる。将校も、2人のジャーナリストも」
サラエフは新品のしゃれた豚革のブリーフケースを取り、中から「アガニョーク」誌を出した。表紙に、ヴィシネフスキーの写真が載っている。
「この省にも、ヴィシネフスキーをあがめている人間はたくさんいる。ぼくを含めて」
「だが、お前はいなくなる」
「KGBの半分が、新しい職を求めているんだ」自己弁護するような口調だった。「今のこの国を動かしてるのは、政治力学じゃなくて、国際通貨基金なんだから」
「そっちについては、お前のほうがよく知ってる」リュトヴィッツはヴィシネフスキーの情報が詰まった箱を持ち上げ、戸口へ向かった。「あ、そうだ・・・我らが鬼刑事ギレリスから連絡はなかったか?」
「グルジア・マフィアのことかい?七課に話を通して、監視体制を取ってもらってる。だから、どっしり構えてもらって大丈夫」
「懲役施設管理委員会からは?」
「ああ、マナガロフって人から連絡があった。ハッキリとしたことは言えんが、どうやらうちの省の誰かが委員会に手を回したようだ」
「その誰かさんの名は?」
サラエフが首を横に振ると、リュトヴィッツはうなづいた。
「恩に着るよ。そして、ハンバーガーの健闘を祈る」
「君もな」
サラエフは淡い笑みを口元にたたえた。