○枢軸国の動向
陸軍の指揮官たちがもっぱら軍事的観点から1943年度の夏季戦を検討していたのに対し、ヒトラーの思考は第2次世界大戦勃発以来、一貫して軍事よりも政治・経済的な問題に重きを置いていた。
本来ならば半年で終わるはずだった対ソ戦がついに3年目に突入したことで、ルーマニア、ハンガリーなどの枢軸国の間ではスターリングラードで大敗を喫して以来、ドイツに対する不安は増すばかりだった。
1942年3月からハンガリー首相カーロイ・ミクローシュは、ソ連軍の冬季反攻の成功で戦線が大きく西へ押し戻された戦況を観て、今後の情勢次第ではドイツの敗北も有りうると考え、早くも中立国経由で西側連合国との講和を探り始めた。
ルーマニアの国家元首イオン・アントネスク元帥もハンガリーと同様、ドイツが敗北した場合に備えて、中立国で西側連合国と接触して和平の見通しを打診していた。
こうした同盟国の動きはすぐにドイツの諜報員に探知され、ヒトラーは即座に対応策を講じることを迫られた。
4月12日、ヒトラーはベルヒデスガーデンの山荘にアントネスクを出迎えた。客人として丁重に扱われることを期待していたアントネスクは、ドイツの諜報員が入手した電話記録や調査報告書をヒトラーから突きつけられて、激しく動揺した。そこには、ルーマニアの閣僚が西側連合国と秘密裏に交渉を行っている事実が示されていた。
アントネスクは、実際には自身が秘密裏に許可したものであることを隠して、それらの情報を初めて眼にしたかのように驚き、憤ってみせた。だが、ルーマニアの水面下での動きがドイツに知れ渡った以上、ルーマニアが引き続き西側連合国との和平工作を続けることが不可能になってしまった。
ヒトラーはまた、ハンガリーの国家元首ホルティ・ミクローシュに対しても、数日後にハンガリーが水面下で和平工作を進めている証拠を突きつけた。しかし、ホルティはドイツの提示した証拠の信憑性を真っ向から否定し、カーロイ首相を擁護する態度を貫いた。
この開き直りとも言えるホルティの態度に、ヒトラーは激怒したが、ハンガリーの石油や鉱物資源に対するドイツ経済の依存度は大きく、和平交渉の中止を要求する以上の行動は取ることが出来なかった。
イタリアの場合、ヒトラーの盟友であるベニト・ムッソリーニが連合国との和平を秘密裏に模索する動きは、まだ存在しなかった。だが、ヒトラーは別の面からムッソリーニの境遇と独伊の同盟関係を憂慮していた。
イタリア国内におけるムッソリーニの政治的威信は、1943年春までには著しく低下しており、場合によってはムッソリーニの失脚とファシスト政権の崩壊という可能性も考えられた。
ムッソリーニの政権基盤を弱体化させた理由として、イタリア軍の主戦線である北アフリカでの相次ぐ敗北と、重要な植民地であるリビアの喪失、政治的腐敗に対する国民の不満などが原因だった。
ソ連軍による「天王星」作戦と同時期の1942年11月、エジプトでイギリス軍が開始した「スーパーチャージ」作戦により、ドイツ・イタリア装甲軍(ロンメル元帥)は全面的な退却を強いられた。1943年1月には、リビア全土がイギリス軍に奪回された。
5月13日、北アフリカのチュニジアで戦いを続けていたアフリカ軍集団が連合軍に降伏し、地中海における戦争の流れはより一層、ドイツにとって不利な戦況に陥った。北アフリカ全域を確保した連合軍は近い将来、イタリア南部のシチリア島またはギリシャに侵攻すると見られたため、ドイツ国防軍総司令部はこれらの戦区に展開する守備隊を増強する必要に迫られた。
北アフリカでの敗北により、イタリア国内で政治的動揺が発生し、ムッソリーニに率いられた親独体制が崩壊する可能性を感じたヒトラーは、「城塞」作戦の開始を6月25日まで再び延期するという決定を下した。
攻勢延期が重なるほど、状況は悪化していくと考えていた陸軍の指揮官たちは、この決定を聞いて暗澹たる心境になった。周囲に対して、ヒトラーは「イタリアでの事態の推移を見守る必要がある」という意見を示したが、その心中にはイタリアだけではく、ある中立国の存在が気にかかっていた。
東部戦線と地中海の間に位置する、トルコである。
〇ソ連軍の配置状況
ヒトラーによる攻勢開始日の度重なる延期は、敵の襲来を待ち続けるソ連軍にも、予期せぬ効果をもたらしていた。
モスクワの「最高司令部」は5月だけで5回に渡り、敵の大攻勢に備えて最高警戒態勢を取るよう前線部隊に命令を下していたが、5回の警報が全て空振りに終わったことで、前線に展開する将兵の間では失望と、士気の低下が起こり始めていた。
5月下旬、ヴォロネジ正面軍司令官ヴァトゥーティン上級大将は、攻勢計画の情報がソ連軍に漏れていることを察知したドイツ軍がクルスク攻勢を放棄したのではないかと疑心暗鬼に陥り、正面軍に配備された戦車軍団を用いてビエルゴロド周辺へ先に攻撃をかけてはどうかと、スターリンに提案した。
この報告を読んだスターリンは当初、ヴァトゥーティンの意向に同意する素振りを見せたが、ジューコフとヴァシレフスキー、参謀次長アントーノフ中将の3人に説得されて翻意し、従来通り「敵に先手を打たせて消耗させてから反撃攻勢に転じる」という戦略を保持することが確認された。
クルスクの北部戦域に布陣していたのは、中央正面軍(ロコソフスキー大将)だった。第13軍(プホフ中将)と第70軍(ガラーニン中将)を前面に、第2戦車軍(ローディン中将)を後方に配置していた。
南部戦域では、ヴォロネジ正面軍(ヴァトゥーティン上級大将)が布陣していた。その前面には第38軍(チヴィソフ中将)、第40軍(モスカレンコ中将)、第6親衛軍(チスチャコフ中将)、第7親衛軍(シュミロフ中将)を配置し、後方には第1戦車軍(カトゥコフ中将)と第69軍(クリュウチェンキン中将)を置いていた。
この両正面軍の後方には、戦略予備のステップ軍管区(コーネフ大将)が6個軍(第27軍・第47軍・第53軍・第4親衛軍・第5親衛軍・第5親衛戦車軍)を統轄しており、どちらかの戦線が突破された場合には、直ちにステップ正面軍に格上げすることが定められていた。
クルスク突出部の航空支援として、中央正面軍には第11航空軍(ルデンコ中将)、ヴォロネジ正面軍には第2航空軍(クラソフスキー中将)が割り当てられた。その総兵力は兵員111万5700人(後方支援部員を含む)、火砲1万4300門、航空機1915機、戦車・自走砲3028両であった。
戦車部隊を構成する装備車両には、主力のT34中戦車とKV1重戦車の他に、T60やT70などの軽戦車、連合国から供給された「チャーチル」歩兵戦車、「ヴァレンタイン」歩兵戦車、M3中戦車「リー」などが配属されていた。
ドイツ軍が「パンター」や「ティーガー」などの新型兵器を製造している一方、ソ連軍もそれに対抗する兵器を作り出していた。ドイツ軍は「ティーガー」をクルスク戦以前から東部戦線に投入しており、投入されたものの一部は不十分な訓練と湿地帯によって、戦場に放棄されてしまっていた。ソ連軍は放棄された「ティーガー」を鹵獲して、その性能を徹底的に研究していた。そして、その研究から製造されたのがT34/85とKV85、SU152重自走砲であった。
T34/85とKV85は「ティーガー」の八八ミリ砲に対抗するため、従来のT34とKVの砲塔(76ミリ砲)を85ミリ砲に置き換えたものだったが、開発に遅れが出てクルスクの前線部隊には間に合わなかった。その間に合わせとして、SU152重自走砲が開発された。これはKV重戦車の車体に、152ミリの火砲を搭載しただけの単純な構造をした自走砲であった。SU152重自走砲は北部の3個連隊、南部の2個連隊に投入された。
中央正面軍とヴォロネジ正面軍の最前線から25キロ以内に住む全ての住民は、4月21日付の「最高司令部」の命令に従い、東方の安全な地域へ疎開させられた。これは、ソ連軍の防備状況が住民を通じてドイツ軍へ漏洩することを防止するための防諜的な措置だった。
〇ドイツ軍の配置状況
ヒトラーは戦車の質によって台数の劣勢を克服しようとしたが、その新兵器にはまだ大きな問題が残されていた。特にⅤ号中戦車「パンター」はソ連のT34から影響を受けて製造された新兵器だったが、これらを操縦する戦車兵たちのほとんどがまだ戦場を知らない新兵ばかりだった。さらに、設計上の初期不良が完全に改良されておらず、トラブルを起こしては訓練を中断させていた。
新兵器に関する問題をグデーリアンから聞かされたヒトラーは6月21日、「城塞」作戦の開始日を同月25日から7月3日まで変更する旨の命令を下した。「新兵器の完成を待って攻勢を行う」と明言した以上、自身の方針を変えるわけにはいかなかった。
6月26日、トルコ陸軍参謀総長トイデミル大将を団長とする視察団が、クルスク突出部の南部戦域における攻撃発起点におけるビエルゴロド近郊でドイツ軍の戦術演習を見学した。
もし、トルコが連合国側につけば、ドイツにとって最も重要なルーマニアのプロエシュチ油田やバルカン半島での危機が一気に増大してしまうことが考えられた。そこで、ヒトラーはトルコが伝統的にロシアの南下政策に対して神経質になっていることにつけこみ、ソ連を阻止できるのは連合国ではなく、ドイツだけだと深く印象づける必要があった。
7月1日の時点で、ドイツ軍はクルスクの南北に3個軍を合わせて、68万5000人(後方支援部員を含む)の兵員と約9000門、約2800両の戦車と突撃砲を展開させていた。また、航空支援として、南北合わせて1850両の戦闘機と爆撃機が戦線の背後に待機していた。
北部戦域を担当する第9軍(モーデル上級大将)には、2個軍団(第20・第23)と3個装甲軍団(第41・第46・第47)が含まれていた。配備された21個師団と11個大隊には、戦車・突撃砲1014両が所属していた。
南部戦域は西から南東にかけて、第4装甲軍(ホト上級大将)と「ケンプ軍支隊」(ケンプ大将)が配置されていた。この2つの上級司令部に、3個軍団(第11・第42・第52)と3個装甲軍団(第2SS・第3・第48)が所属していた。師団数は19個師団だが、戦車・突撃砲は北部戦域よりも多く、合計で1514両であった。
ドイツ軍が「城塞」作戦で投入した戦車のうち、最も数が多かったのはⅣ号中戦車(702両)で、次いでⅢ号中戦車(684両)だった。「城塞」作戦に先立ち、Ⅲ号とⅣ号はソ連軍の対戦車ライフルの威力を低減させるため、砲塔の側面に薄い補助装甲板(シュルツェン)を装着していた。
新型のⅤ号中戦車「パンター」は第4装甲軍の第10戦車旅団(第51・第52戦車大隊)のみ200両が配置された。Ⅵ号重戦車「ティーガー」は北部の第505重戦車大隊(31両)と南部の第503重戦車大隊(45両)、第4装甲軍の各装甲師団にそれぞれ1個中隊(13~15両)に配備され、南北合わせて143両が投入されていた。
これらの戦車部隊による攻勢を空から支援するため、ドイツ空軍は30ミリないし37ミリ機関砲1門と20ミリ機関砲2門を搭載した対戦車攻撃機ヘンシェルHs129を64機投入し、さらに対戦車能力を向上させた急降下爆撃機(シュトゥーカ)Ju87を、少数ながら実戦部隊に配備していた。
同盟国でもないトルコの陸軍高官に戦術演習の視察を設けたことは、機密保持の観点からすれば、ほとんど暴挙に等しかった。なぜなら、すでにトルコは43年1月からイギリスの政府首脳と秘密会談を行い、イギリスは水面下でトルコを連合国側に立たせて参戦させる工作を行っていたからである。
7月1日、ヒトラーは東プロイセンの総統大本営に「城塞」作戦を指揮する全ての軍司令官および軍集団司令官を招集した。長い沈黙の後、ヒトラーはようやく口を開き、最終的な攻撃開始日を指揮官たちに告げた。
「『城塞』作戦の開始日を7月5日とする。この日をもって、ドイツの命運はここに集められた将官の手に委ねられる」
〇先制攻撃
7月2日、モスクワの「最高司令部」は各軍司令部に対し、ドイツ軍が7月3日から6日の間に攻撃を開始するだろうと警告した。この警告はこれまでの面倒な戦略的指令と代わって、スターリンは作戦遂行上の調整と監督のために「最高司令部」代理の制度を活用した。ジューコフやヴァシレフスキーなどの高級将校を起用して、赤軍参謀本部と各正面軍司令部との間を取り持たせたのである。
クルスク周辺の全部隊に警戒命令が発令され、土木作業に従事していた10万人以上の民間人はただちに東方へ避難させられた。
7月4日、南方軍集団の第4装甲軍は「城塞」作戦の出撃拠点として使用する高地帯を占領するため、限定的な攻撃を実施した。第48装甲軍団(クノーベルスドルフ大将)と第2SS装甲軍団(ハウサー大将)が、ヤホントフからゲルツォフカに至る約40キロの正面で突撃を開始した。
攻撃の矢面に立たされた第6親衛軍の前線では、部隊が警戒体制に入っていたが、ドイツ軍との境界線に近い場所で展開していたのは前哨の小部隊だった。
第2SS装甲軍団は奥行き4キロから8キロの帯状地帯を夕方までに占領することに成功したが、第48装甲軍団はソ連軍の激しい抵抗に遭い、夜になってようやくゲルツォフカ周辺の高地帯を占領した。
しかし、高地帯に進出したドイツ軍部隊は夜間に降り出した豪雨によってそれ以上の前進を阻まれ、視界が悪くなったことで友軍との連絡もところどころで途絶してしまう。
ソ連軍は激しい雨によるドイツ軍の混乱を利用して、小規模な工兵部隊をドイツ軍の後方地域へと浸透させ、新たな地雷の敷設作業を行わせた。
この日の夜、中央正面軍の第13軍に所属する第15狙撃師団が前線の地雷原を撤去しようとしていたドイツ軍の工兵大隊と交戦し、1人を捕虜にした。この捕虜は第6歩兵師団(グロスマン中将)の工兵大隊に所属しており、翌5日午前3時にドイツ軍の攻撃が開始されるという情報を漏らした。
7月5日午前2時、中央正面軍司令部の電話が鳴った。第13軍司令官プホフ中将の報告を受けた中央正面軍司令官ロコソフスキー大将は、モスクワとの調整役として司令部に来ていた最高司令官代理ジューコフ元帥にたずねた。
「どうしましょうか?『最高司令部』に報告しますか?それとも、砲撃を命じますか?」
「ただちに砲撃の準備をしたまえ。最高司令官には、私がすぐ電話で報告する」
同じ情報はただちにヴォロネジ正面軍にいるヴァシレフスキーも伝えられ、中央正面軍司令部にいたジューコフはモスクワの「最高司令部」の承認を得て、大規模な「攻撃準備破砕砲撃」を実行する準備を命じた。
ヴォロネジ正面軍では午前1時10分、中央正面軍では午前2時20分に、砲兵部隊による砲撃が開始された。前線に近い火砲は偽装を保持する必要性から砲撃には参加せず、後方地域に展開する重砲のみで実施された。
急きょ実施された「攻撃準備破砕砲撃」だったが、「最高司令部」が期待したほど大きな制圧効果は得られなかった。
第一撃に投入される部隊は、まだ攻撃発起点に展開しておらず、また着弾点が広範囲に分散していたため、ドイツ軍への打撃はきわめて限定的なものに留まってしまった。中央正面軍の前線では、時間を置いて2度目の砲撃が実施されたが、敵部隊への制圧効果はさほど大きくなかった。
また、ヴォロネジ正面軍は第2航空軍に対し、ハリコフとその周辺に展開するドイツ空軍の航空基地への先制爆撃を命じた。ドイツ空軍はレーダー装置でソ連空軍機の来襲を探知し、戦闘機と高射砲で目標到達前にほとんどの敵機を迎撃することに成功した。
中央正面軍の「攻撃準備破砕砲撃」が午前4時に終わると、半時間後にドイツ第九軍による攻撃準備の支援砲撃が開始された。
独ソ両軍による夏季戦、クルスク攻防戦の始まりだった。