科学者は罪を知った。 ロバート・オッペンハイマー
8月5日。
最後の訓練を終えて着陸した機長は、自分の愛機の胴体に「82」としか書かれていなかったのを見て、ふと考えた。世紀の大事件として後世にその名が残るであろうこの一機に、呼び名をつけておくべきだと思ったのだ。
機長の頭に浮かんだのは、母親の名前だった。医師を志して大学に入ったが、途中でパイロットになろうと決心を変えたとき、家族がこぞって反対した中で母親だけが許してくれたのだった。
母親の名前は、《エノラ・ゲイ》といった。
機長は部下と相談し、さっそくペンキ工に言いつけて、母親の名前を操縦席に書かせた。胴体に積み込まれた約5トンの新型爆弾にも名前が与えられた。
爆弾の名前は《リトルボーイ》といった。
8月6日。
1時45分、《エノラ・ゲイ》はテニアン島を離陸し、第1目標に向かった。
2時15分、起爆装置の取り付けに成功。
5時05分、硫黄島上空から日本へ向かう。
6時20分、赤プラグを挿入。
6時41分、上昇開始。気象状況受信:第1目標良好、第2目標不良、第3目標不良。
その日は、夏だというのに良く冷える朝だった。歌劇場にぞくそくとオーケストラの団員と合唱団が集結した。
曲目はベルリオーズの「死者のための大ミサ曲」。指揮者とプロデューサーは最後の打ち合わせを行い、最初に第2曲の《怒りの日》から録音を始めることにした。チューニングを終えたオーケストラへ挨拶もそこそこに、指揮者は総譜をめくりながら、次々と指示を与える。
7時37分、高度約9970メートルで水平飛行に移る。
7時47分、電子信管テスト、結果良好。
8時04分、針路西へ取る。
この日の朝。街は雲ひとつなく、セミが鳴き、うだるような暑い日になりそうだった。
8時頃。一度発令された空襲警報が解除され、市民が朝の生活に戻ったとき、2機の敵機が上空に姿を現した。
8時09分・・・目標視界に入る。
指揮者は片手を上げ、プロデューサーに合図を送る。録音用のテープを収めたオープンリールが回り始める。オーケストラへ向き直った指揮者が構えると、低音絃が配置された右側へ向けて、ゆっくりと振り始める。
チェロとコントラバスによって静かに、また重々しく素朴なグレゴリオ聖歌に似た旋律が出される。この旋律は、この曲で常にバス合唱の声部に現れてくる《怒りの日》のテーマである。
続いて、ソプラノ合唱と木管がメランコリックな旋律にのせて、かすかに歌い始める。
Dies iræ, dies illa,solvet sæclum in…
(怒りの日、あの恐ろしき日、世界を灰に帰せむべし・・・)
バス合唱が《怒りの日》のテーマをテノール合唱の対旋律を伴って歌い始める。そして、ソプラノ合唱が加わる。《怒りの日》の予感を強めていく。
Quantus tremor est futurus, quando judex est venturus…
(裁きするものはやがて来たりたまい、容赦なく裁き給う・・・)
この予感に応じて、絃楽器の不気味なトレモロが恐怖を煽り立てるように奏でられ、変ロ短調に転調する。この部分でも《怒りの日》の予感はバス合唱を中心に高められ、再び絃楽器による不気味なトレモロが現れる。
ニ短調に変わり、テノール合唱が慟哭し、《怒りの日》のテーマはさらにフーガ風に力強く謳われる。3度目の不気味なトレモロは半音上の変ホ音にまで上昇し、ついに最後の審判の到来を告げる。
20本のトランペットによる力強い雄叫び。「妙なる喇叭」の轟音が響き渡る。
8時15分30秒・・・投下。
数秒前、爆撃手は高まる興奮を抑えつつ、爆薬庫のタラップを操作するレバーを握った。ファインダーには、T字型の橋が照準器の十字線にかかってきた。祈りを込め、レバーを前に倒す。
タラップは即座に開かれ、《リトルボーイ》は橋に向かって落ちていった。
敵機が市の中心部で上空まで侵入したとき、その中の1機から小型の落下傘が投下され、ゆらゆらと落ちてきた。その43秒後、眼もくらむようなもの凄い閃光が周囲を包み込み、一瞬天地を引き裂くような爆発が巻き起こった。
フォルテのトゥッティから、まずオーケストラの西側に位置するトランペットとトロンボーンがユニゾンで咆哮し、2小節遅れて北側のコルネットとトロンボーンが高音で模倣する。さらに、東側のトランペットとトロンボーン、最後に南側のトランペット・トロンボーン・テューバが一斉に叫びを上げ、壮大で圧倒的なファンファーレを構築する。
30数本に及ぶ金管群は、次から次へと吹奏を始め、次第に吹奏の間隔を詰める。その間隔が消え去ったとき、地獄へ叩き落とすような轟音が響き渡る。
異常な高揚感に支配された壮大な音響の坩堝は、さらに8対のティンパニと大太鼓の暗く鈍い響きを爆発させ、ここに最後の時の審判を告げるのである。
その閃光は直径100メートル、表面温度1万度の火球となって、ありとあらゆるものをなぎ倒し、街を一瞬の内に飲み込んだのである。
《エノラ・ゲイ》は高度約9600メートルで投下するや、機長の操縦桿によって直ちに150度の急旋回を行い、目標上空からの離脱運動に入った。旋回中、投下後50秒で閃光が起こり、その後に2回、機体は強烈な衝撃波によってグラリと傾いた。
大地を引き裂くばかりの地響きに、テンポは緩められ、バス合唱がフォルティシモで力強く歌い始める。
Tuba mirum spargens sonum per sepulchra regionum…
(妙なる喇叭の響きは、全土の墓にまで聴こえ・・・)
バス合唱は怒濤のごとく《怒りの日》の様相を謳い上げ、その合間に大太鼓が轟き、金管群が叫びを上げる。
ティンパニの強打でこの大音響が静まった後、木管の物悲しい旋律にのせて、バスを先立たせた合唱は重々しく歌い始める。
Mors stupebit et natura, cum resurget creatura, judicanti responsura
(死と自然とは、創造物が裁く者に答うるため、甦るとき驚くべし)
この句に、ソプラノとテノールがフーガのように続くが、突如、金管と打楽器による威圧的なファンファーレにさえぎられる。
再びバス合唱に木管の寂れた旋律が静かに奏でられると、曲想はソプラノとテノールによって緩やかに呼び起こされ、男声合唱の堂々たるユニゾンが屹立する。
ここで一転して速度を上げ、絃楽器が不気味なトレモロを奏でる。再び、「妙なる喇叭」の轟音が響き渡る。男声合唱が力強く宣言する。
Liber scriptus proferetur, in quo totum continetur…
(記されたる書は差し出され・・・)
歌劇場の四隅に配置された別働隊が再びファンファーレを作り上げる。バス合唱が《怒りの日》の恐怖を謳う。
8対のティンパニと大太鼓のトレモロに、ここまで保留されていた10対のシンバルと4対のタムタムがフォルティシモでかき鳴らされ、バス合唱が歌い始める。
Judex ergo cum sedebit, quidquid latet, apparebit…
(かくて裁くもの座したまうとき・・・)
別働隊の飛び交う咆哮に、女声合唱と男声合唱は呼応しあい、審判者の着座を告げる。いよいよ、ここに《最後の審判》が始められるのだ。
楽想は壮大に盛り上がり、呼応しあっていた合唱は渾然一体となって力強く歌い上げ、別働隊による威圧的なフィナーレの後に、突然、途切れるのだ。
合唱は木管にあわせ、声をひそめて歌う。
Quid sum miser tunc dicturus?
(報いをうけてのこることなからん)
《怒りの日》は静かに閉じる。そこには、人間の驚きと不安が深く潜んでいるのである。