1942年の下半期は、第2次世界大戦のあらゆる局面において連合国の「転換点」となった時期に当たる。西部戦線では、イギリス第8軍が第2次エル・アラメイン攻防戦でドイツ・アフリカ装甲軍を粉砕した。太平洋戦域では、日本軍がガダルカナル島からの撤退を余儀なくされた。
こうした戦局の遷移に、ドイツ国民も無関係ではいられなくなった。
ドイツ政府は第6軍が包囲されたことを1943年1月16日まで認めず、「四方八方から攻撃してくる敵を相手に、我が軍は数週間に渡り勇敢に戦ってきた」と発表しながら、今回は180度回転して一兵も生き残ってはいないと公表することにした。
宣伝相ゲッベルスはラジオ局と新聞社を動員し、全国民が一体となり勇気を持って悲しみを分かち合おうと仕向けた。3日間、国を挙げて服喪せよと命令が下され、娯楽施設は全て休業、どのラジオ局も荘厳な音楽ばかりを流した。
2月18日、ゲッベルスはベルリンのスポーツ宮殿で「総力戦―最短戦争!」という題目で大集会を組織した。「諸君は総力戦を望むか?」ゲッベルスが演壇から叫ぶ。
「総統に従い、いかなる代償を支払おうとも勝利に向けて闘う決意が、諸君らにはあるか?」
ゲッベルスは生半可な政策を止めて、大衆動員を行うよう強く要求した。いっそう重要視されたのが、象徴性である。ブランデンブルク門を覆っていた銅は軍需用としてはぎ取られた。スポーツ行事は禁止。宝飾店は閉店、ファッション雑誌は発刊禁止とされた。高級ナイトクラブやレストランは店を閉めた。
新たな宣伝用語に、「屈するな」が頻繁に使われるようになる。将来への不安、中でも宿怨を晴らそうとするロシアの決意を恐れる気持ちが蔓延した。
スターリングラードの壊滅の後、政府への不満を公然と示したのはミュンヘンの学生グループだった。それは「白バラ」運動と呼ばれ、ゾフィー・ショルと兄のハンスが中心となり、フランス侵攻や東部戦線からの帰還兵たちが賛同した。
ゲッベルスが声高に「総力戦」を叫んだ2月18日、ドイツ国家社会主義転覆を呼びかけえる運動が展開される。ミュンヘンのルードウィヒ・マクシミリアン大学でビラを配った後、ショル兄妹は逮捕された。後に民族裁判所の特別裁判で死刑判決を受け、ショル兄妹は斬首された。2人のグループに属する多くのメンバーが同じ運命をたどった。
スターリングラードにおける壊滅的な敗北の後、ヒトラーはテーブルについてもかつてのように長広舌をふるわなくなり、独りで食事を摂るようになった。グデーリアンが「飛び出した眼に以前のような輝きはない」と書いたように、ヒトラーはひどく変わったようだ。しかし、スターリングラードで膨大な尊い人命を失ったことを全く悔いていないようでもあった。ヒトラーはグデーリアンに対し、こう語った。
「今年中に戦争を終わらせよう。そのために私は全ドイツ国民の総動員を決意した」