〇背後の敵
ウクライナの首都キエフを頂点として大きく西へと張り出した「キエフ突出部」を南北翼から挟撃するというルントシュテットの構想はその実、ヒトラーと陸軍上層部の現実的な選択肢の中には含まれていなかった。
8月25日、第2装甲集団司令官グデーリアン上級大将はヒトラーの意向に従って、2個装甲軍団(第24・第47)に対して南方への攻撃を開始した。ヒトラーはグデーリアンに対し、当面の攻撃目標としてコノトプを目指すよう指示していた。
8月26日、第24装甲軍団の先鋒をゆく第3装甲師団はソ連ブリャンスク正面軍と南西部正面軍の境界を切り裂くように進撃して、デスナ河西岸のノヴゴロド・セヴェルスキーに到達した。東翼を進む第47装甲軍団をはじめとする他の装甲師団も一定の前進を果たしたが、投入可能な兵力の不足で、予定以上の進撃は成し遂げられなかった。
作戦が進展しないことに苛立ちを覚えたグデーリアンは同日、陸軍総司令部に電話をかけ、後方予備に回されていた第46装甲軍団と第2軍の東翼にいる歩兵師団を自分の指揮下に編入してほしいと要請した。しかし、陸軍参謀総長ハルダー上級大将はこれを却下し、「出過ぎたマネはするな」と逆にグデーリアンを叱責した。
グデーリアンの脳裏に、8月23日の光景が浮かんだ。ヒトラーが「戦時経済はご存知ではない」と言い切り、グデーリアンは頭に血が上がる思いだったが、ならばヒトラーの希望する「南進」作戦を早々に決着させ、「赤い首都」モスクワへの進撃に備えようと決意を新たにしていた。
会議の終了後、グデーリアンは事の顛末をハルダーに説明すると、ヒトラーを翻意させることを期待していたハルダーはいきなり怒りを爆発させた。この出来事をきっかけにして、ハルダーはグデーリアンに対し深い失望と憤りを抱くようになり、2人の信頼関係は完全に崩壊してしまった。
第2装甲集団の西翼では、第2軍の進撃が思わぬ形でドイツ中央軍集団に有利な方向に傾いていた。8月19日にゴメリをソ連第21軍から奪取した第2軍は、今までキエフ西方で堅固な防護を続けていたソ連第5軍の後方連絡線である、チェルニゴフからコロステニに至る鉄道線を脅かす位置にまで進出していた。
これを受けて、モスクワの「最高司令部」は同日、第5軍の所属部隊に対し、ドニエプル河東岸への撤退を命じた。8月23日にはキエフ周辺の外周陣地を除いて、ソ連南西部正面軍はドニエプル河西岸から一掃され、キエフからドニエプロペトロフスクまでの400キロに及ぶ前線がドニエプル河の河畔に沿って繋がったことになる。
西翼の第2軍と連携して「南進」を迅速に終了させたいと考えていたグデーリアンは繰り返し陸軍総司令部に増援の要請を行ったが、8月30日にようやく送られてきたのは第46装甲軍団に所属する「大ドイツ(グロスドイッチュラント)」自動車化歩兵連隊だけだった。
グデーリアンが「背後の敵」とも言えるハルダーとの押し問答を続けている間にも、第3装甲集団の各部隊は消耗し、秋雨でぬかるんだ地面に苦しめられながらも、デスナ河を押し渡ってソ連軍の防衛線を突破して南方への進撃を続けていた。
9月1日、グデーリアンは増援の要請を今度は、無線で中央軍集団司令官ボック元帥に当てて打電させた。その結果、当日にドイツ軍唯一の騎兵部隊である第1騎兵師団が送られ、翌2日からようやく第46装甲軍団に所属する全ての部隊が彼の指揮下で「南進」に参加することになった。
9月2日、第2航空艦隊司令官ケッセルリンク上級大将が、第2装甲集団司令部を訪れた。ケッセルリンクは南方軍集団がクレメンチュグでドニエプル河の橋頭堡を築いたことに加え、ヒトラーの様子も伝えた。
「総統は貴官の行動を支持しておられる」
グデーリアンは訝った。南方軍集団との協同作戦については保留とされている現状で、ヒトラーがもともと「モスクワへの進撃」の布石を打つために行ったグデーリアンの「南進」を支持するとは皮肉めいたものを感じさせた。しかし、このヒトラーの「支持」の影には、ある巨大な包囲戦の意図が存在していた。それはポエニ戦役のカンネーの戦いを並び称される、「史上空前の大包囲戦」―キエフ包囲戦である。
〇転換点
ヒトラーが8月12日付けで示した「第34号追加指令」では、南方軍集団には当面の目標として「ドニエプル河西岸になお残存する敵部隊を可能な限り殲滅し、すみやかにドニエプル河東岸に複数の橋頭堡を確保する」が挙げられていたものの、ドニエプル河東岸に橋頭堡を確保した後の作戦については何も記されていなかった。
8月27日、南方軍集団司令官ルントシュテット元帥は今後とるべき作戦の方針について、キエフ突出部の包囲を示唆する内容の意見書を陸軍総司令部に提出した。
「第17軍は、第6軍および第2軍と連携すべく、クレメンチュグ橋頭堡から北西の方角へと進ませる。そして、第1装甲集団は同橋頭堡から北方へと進撃させて、第2装甲集団と合流させる」
陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥と陸軍参謀総長ハルダー上級大将は依然として「モスクワへの進撃」という方針に固執していたので、ルントシュテットの意見書に何の反応も示さなかったが、ヒトラーは意見書に込められた重大な意味を感じ取り、ルントシュテットの方針に賛同する構えを見せた。
キエフ突出部のソ連南西部正面軍を包囲・殲滅するというルントシュテットの方針は「バルバロッサ作戦」の基本方針である「短期決戦による敵軍事力の殲滅」に適うものであったし、ヒトラーはもしこの包囲戦が完遂できればソ連は「半身不随」になるはずであるという結論に達したのである。
9月6日、ヒトラーは「総統指令第35号」を下達した。それはついに、最高司令官であるヒトラーが陸軍総司令部の提案し続けていた「赤い首都」モスクワへの進撃に具体的な承認を下した内容だった。
「レニングラードでの包囲陣形成の進捗と相まって、中央・南方軍集団の側面に挟まれた地域における勝利が、中央軍集団を攻撃中のティモシェンコ軍集団に対して決定的な打撃を与える条件を醸成した。この敵軍集団を限られた時間内、すなわち冬将軍の到来前に撃破・殲滅しなくてはならない。
クレメンチュグとキエフ、コノトプを結ぶ三角地帯の敵部隊は、中央軍集団の南翼(第2装甲集団)による攻撃で協力しつつ、ドニエプル河を越えて北上する南方軍集団の部隊(第1装甲集団)で殲滅する。目的を達した後、状況が許せば任務終了で解放される第2装甲集団などの部隊を、新たな作戦(モスクワ攻勢)に備えて再編する。
ティモシェンコ軍集団に対する作戦(モスクワ攻勢)は、可能なかぎり早い時期、すなわち9月末ごろに開始できるよう計画する。その概要は、ヴィアジマ方面の敵を挟撃する形をとり、両翼に強力な装甲兵力を配備して進み、スモレンスク東方に展開する敵部隊を撃破する。
時間を節約し、予定を早めれば、作戦自体とその準備に好都合である」
一方、キエフ周辺の外周陣地を除いて、ドニエプル河西岸から一掃されたソ連南西部正面軍司令部は防御態勢の再構築を進めていた。特にキエフとそれより南のドニエプル河東岸に面する400キロに及ぶ前線を、1個軍(第26軍)だけで守ることは不可能だった。
8月8日、第4機械化軍団司令部を拡張させる形で第37軍が創設され、同軍団長のヴラソフ少将が司令官に就任した。同軍はキエフ外周陣地を管轄し、第5軍と第26軍の中間部に位置するキエフ市の防衛を担うことになっていた。
8月19日、第21軍の東方に配置された第2空挺軍団をはじめとする残存部隊を第40軍司令部に統括させ、同軍司令官にはポドラス少将が就任した。この部隊はグデーリアンの第二装甲集団の行く手を遮るようにコノトプ周辺に展開するよう命じられた。
第26軍の下流に位置するチェルカッスィの北では、第8機械化軍団司令部を拡張させる形で第38軍が創設され、同軍団長のリャブイシェフ中将が司令官に就任した。編兵当初は2個狙撃師団(第116・第212)しか配属されていなかったが、後に増援部隊で増強する予定になっていた。
しかし、ドイツ第17軍が8月31日、南翼のクレメンチュグ東方で最後の天然障害であるドニエプル河に橋頭堡を築き、弱体な第38軍の防衛線を突破したという報告は、南西部正面軍司令官キルポノス大将に自身の防衛計画を根本から揺るがすほどの衝撃を与えた。キルポノスは即座に手持ちの予備兵力をかき集めて第38軍に送り込み、9月8日に敵の橋頭堡を粉砕するよう全力で反撃せよと同軍司令官フェクレンコ少将に下命した。
9月7日、キルポノスはキエフ北方の沼沢地で防御を続ける第5軍を再びデスナ河の南東に撤退させる許可をスターリンに求め、2日後に撤退を承認された。これにより、バルト海から黒海までの約1800キロにわたるドイツ軍の戦線が開戦以来、はじめて途切れなくつながったのである。
〇誤算
キルポノスとその上官である南西戦域司令官ブジョンヌイ元帥は、予備兵力をほとんど使い果たした現状ではキエフ突出部を長期に渡って維持できる見込みは少ないと考え、南北翼に出現した敵部隊による包囲を避けるためにも拠点防御から撤退に移るべきであるという認識を、繰り返し「最高司令部」に訴えていた。
スターリンはブジョンヌイの見解に対し、ブリャンスク正面軍によるドイツ第2装甲集団の反撃が成功すれば、キエフ突出部の保持は可能であるとの認識を抱いていた。そのため、悲観的な報告ばかりを送ってくるブジョンヌイに気分を害したスターリンはジューコフと相談した上で彼の更迭を決意し、西部正面軍司令官ティモシェンコ元帥がブジョンヌイの後任に任命された。
8月25日、「最高司令部」は3個正面軍(西部・ブリャンスク・予備)に対し、スモレンスクの奪回とその周辺でドイツ中央軍集団への反撃計画の実施を命じていた。この反撃に先立って、同日付けでドニエプル河中流を防衛していた中央正面軍を解消し、同正面軍に所属していた第3軍と第21軍をブリャンスク正面軍に編入させていた。
この計画では西部正面軍がスモレンスクの北東に構える第9軍に向かって攻撃を続けている間に、予備正面軍はエリニャ突出部を挟撃し、ブリャンスク正面軍は南翼から第2装甲集団に対して反撃を加えるという内容だった。
9月2日、ブリャンスク正面軍は予定通り、第2装甲集団に対する反攻を開始した。だが攻撃の直前になって、「最高司令部」がブリャンスク正面軍司令官エレメンコ中将に対して、全く別々の方向への攻撃を命じたために兵力を集中できず、途端にこの反撃は失敗に終わってしまった。
一方、ブリャンスク正面軍の反撃をしのいだ第2装甲集団の第24装甲軍団は9月10日、キエフ突出部の背後に位置する交通の要衝ロムヌィを占領した。これによりソ連第40軍の前線は引き裂かれ、残る兵力は第10戦車師団(セミョンチェンコ少将)に所属する戦車20両だけとなってしまった。同軍司令官ポドラス少将は「予備兵力を使い果たしたので、グデーリアンを止める術はありません」と、悲痛な報告をモスクワに送った。
9月7日、クレメンチュグで橋頭堡を確保したドイツ南方軍集団では、陸軍参謀総長ハルダー上級大将が同軍集団司令部の置かれたウマーニを訪れ、キエフ突出部の包囲作戦を正式に命じる「訓令第8号」を南方軍集団司令官ルントシュテット元帥に示した。
「今なおドニエプル河中流およびデスナ河下流に布陣する敵兵力を、クレメンチュグ、ネジンおよびコノトプの各周辺地域より行う両翼包囲によって包囲・殲滅せよ」
この訓令に従い、第1装甲集団司令官クライスト上級大将は9月10日に第48装甲軍団に対し、ドニエプル河東岸のクレメンチュグ橋頭堡に向かうよう命じた。
9月10日の夜、ソ連第38軍によるクレメンチュグ橋頭堡への反撃が、2日遅れで開始された。第34騎兵師団(グレチコ大佐)がドイツ軍の陣地を果敢に突破し、前線を多少なりとも押し返すことには成功したが、橋頭堡を粉砕することは達成できなかった。
クレメンチュグから約300キロ北方に位置するロムヌィでは同日の夜、第3装甲師団長モーデル中将が麾下の将兵たちに対して、南方から進撃してくる第1装甲集団の先鋒と手を結んでブジョンヌイ指揮下のソ連軍を包囲する計画案の説明を行った。これを聞かされた兵士たちの士気は新たな作戦目標を得て高揚した。
9月12日、第48装甲軍団の先鋒を担う第16装甲師団は晩夏の豪雨が止んだ頃、工兵が架橋した16トン耐重橋を渡ってクレメンチュグからさらに北へ向けて攻撃を開始し、12時間に渡り70キロもの悪路を前進した。ドニエプロペトロフスクからドニエプル河を渡った第14装甲軍団の第9装甲師団もこれに続いた。
9月13日、第2装甲集団の第3装甲師団がロフヴィツァを占領し、第1装甲集団の第16装甲師団は激しい市街戦の末にルブヌィを奪取した。しかし、両者の間にはまだ50キロの間隙が開いていた。
9月14日、第24装甲軍団司令部は第3装甲師団に対し、南への威力偵察を行うよう命じた。夕闇が迫る中、第3装甲師団の先遣隊は第16装甲師団に所属する工兵部隊とルブヌィでと合流することに成功した。キエフから東方200キロの地点だった。第3装甲師団司令部の無線が鳴った。
「1941年9月14日18時20分。第1・第2装甲集団、会合す」
これにより中央軍集団の2個装甲集団によるキエフの大包囲環は、陸軍総司令部が「訓令第8号」を発令してからわずか1週間で完成したが、包囲環の東壁にはまだ数多くの「綻び」が存在していた。しかし、ソ連南西部正面軍の諸部隊はデスナ河からドニエプル河に至るキエフ北西の正面で第2軍と第6軍によって拘束され続けており、包囲環を脱出する時間の猶予はほとんど残されていなかった。
〇破局
9月11日、スターリンは南西戦域司令官ブジョンヌイ元帥を罷免し、後任に西部戦域司令官を務めたティモシェンコ元帥を命じた。そして、南西部正面軍司令官キルポノス大将に対しては次のような命令を下し、キエフ放棄の準備を指示した。
「デスナ河東方のプショール河に新たな防衛線を前もって形成することと、ブリャンスク正面軍と連携してコノトプ方面の敵(第2装甲集団)に打撃を加えること。この2点が満たされない限り、南西正面軍の東への退却開始は敵の包囲という罠に陥る可能性がある。撤退の際にはドニエプル河に架かる全ての橋を爆破し、小舟に至るまで全ての渡河手段を敵の手に残さないように注意せよ」
これに対し、キルポノスはこのように答えた。
「撤退予定線や退却計画についてはまだ何も研究しておりません」
この答えに気分を害したスターリンは「そもそも南西部正面軍の撤退を言い出したのは君やブジョンヌイではないか」と激昂し、キエフ放棄の許可を取り消した上に「キエフ死守命令」を下した。
9月14日、参謀総長シャポーシニコフ元帥は南西部正面軍に対し、「9月11日付けの同志スターリンの命令を遵守せよ」と現地の死守を改めて命じたが、キエフ東方の戦況はスターリンの想定を上回る速度で大きく動いていた。
9月16日、第3装甲師団と第16装甲師団の後続部隊がロフヴィツァ付近で連結したことにより、南西部正面軍の背後は完全に封鎖された。これを受けて、南西戦域司令官ティモシェンコ元帥は同日、参謀長バグラミヤン少将を通じてキルポノスに対し、キエフ突出部を放棄して東方への退却を許可する「指示」を出していた。
だがキルポノスはモスクワへの確認なしに東方へ退却することに躊躇し、翌17日の午前5時、包囲環を突破する許可をスターリンに求めた。丸一日が空しく経過した後、シャポーシニコフ参謀総長から新たな命令が届いたのは、同日の午後11時40分になってのことだった。
「同志スターリンは、キエフからの撤退を許可された」
南西戦域司令官ティモシェンコ元帥と現地に留まっていた前任者のブジョンヌイ、評議員のフルシチョフは飛行機で東に脱出することが出来たが、キルポノスと麾下の各軍司令官は部下の将兵とともに行動を共にするよう命じられた。
この時点で南西部正面軍に所属する各部隊は東西180キロ、南北140キロのいびつな三角形の中に閉じ込められていた。ドイツ第2軍・第6軍の圧迫を受け続けた第5軍・第37軍・第21軍の一部が拠点を捨てて東への敗走を始めると、南西部正面軍の組織的抵抗は事実上、崩壊してしまった。
キルポノスは参謀長トゥピコフ少将をはじめとする南西部正面軍司令部の参謀将校や第289狙撃師団の残兵など1000人ほどの集団に加わって敵陣突破を試みていた。ところが、9月20日にドイツ軍の砲撃によって、キルポノスはトゥピコフらと共にシュメイコヴォ付近で戦死してしまった。東方への脱出に成功できた南西部正面軍の将兵は、たったの約1万5000人だった。
9月16日、ドニエプル河の西岸で第6軍の第29軍団によるキエフ市街地への総攻撃が開始され、3日後には最初のドイツ軍部隊が市内へと突入し、24日までに全市が第六軍によって占領された。
9月26日、キエフ包囲戦は終結した。国防軍総司令部広報は、第5軍司令官ポタポフ少将を含む66万5000人の捕虜を得たとしている。キエフを巡る一連の包囲戦で被った南西部正面軍の破滅的な損失は兵員45万2720人、戦車・自走砲411両、火砲2万8416門、航空機343機にのぼった。この戦果を受けたヒトラーは大いに興奮し、ソ連攻略に対する自らの判断にさらなる自信を得たが、キエフ市ではスターリンの「焦土命令」による惨事が発生していた。
第6軍が全市を占領した9月24日、NKVDの特殊工作班がひそかに市内の主要な建物に設置した大量の爆薬を次々と爆破させた。この爆破で発生した大火は5日に渡って燃え続け、ドイツ軍と市内に留まった市民の双方が犠牲者となった。そして、これがキエフ市民に降りかかるさらなる悲劇の引き金となった。ドイツ軍のある従軍記者は次のように書いた。
「間近に死体を眺める。死んだタタール兵、死んだロシア兵。それらは出来立てほやほやの死体である。五カ年計画という大工場から出荷されたばかりの死体だ。どれもこれも似通っている。大量生産。彼らは新人種、強靭な人種の代表である。労働災害で殺された労働者の死体」
東部戦線のドイツ軍にとって最大の脅威であった「キエフ突出部」が完全に除去されたことにより、中央軍集団はいよいよ「赤い首都」モスクワに対する最終攻勢の準備に取り掛かった。しかし、ドイツ軍にはソ連軍だけではなく、ロシアの大地が泥濘へと変貌する秋が目前に迫っていた。そして、厳しい冬が訪れようとしていた。