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4月20日から、ぽつぽつと事件につながる情報が挙がってきた。梁瀬の身辺を探り続けていた真壁と磯野の班がつかんできたのは、例の高野豆腐の話だった。
事件の10日ほど前、某出版社の女子社員が、仕事の打合せで来社していた梁瀬と短い世間話をした。そのとき、梁瀬は顔色が悪く、腹を下したと言っていた。女子社員が訳を聞くと、冷蔵庫に入れてあった高野豆腐を食べたのだという。しばらく食べる機会がなくて忘れていたものだが、腐っているとは思わなかったし、そのせいであたったのではないだろうと梁瀬は言った。女子社員が「そんなもの、捨てなさいよ」と言うと、梁瀬は「捨てるのは簡単だけどね」と謎めいた返事を返した。
このとき梁瀬が何を言おうとしたのかは想像に任せるしかないが、少なくとも鑑識が大学の研究室に鑑定を依頼した検査結果では、冷蔵庫から回収した高野豆腐は、カビの生え始めから少なくとも10日以上は経っているということだった。逆算すれば、梁瀬がそれを食べた時はすでに腐っていた可能性が高い。臭いや味ですぐに分かるだろうに、それを口にして「腐っているとは思わなかった」と他人に言った梁瀬は、よもや単純にそう思って食べたのではない。女の炊いた煮物を前に、なにか思うところがあったのだろう。
「カワイイよな」というのが、その話を聞いた磯野のオチだ。
その他、事件当夜の午後8時10分ごろ、とちの木通り沿いを歩いていた塾帰りの中学生2人が子安町4丁目方向の路地へ曲っていく、被害者によく似た服装の男を見たという証言も出てきた。これは、午後8時に被害者を見たという八王子駅の駅員の証言と、時間的に符合している。
また、事件発生直後の聞き込みで、男の大声を聞いたと証言した住人の1人が、新たに思い出したことが1つ。2階の枕元で大声を聞いた直後、入り交じった靴音が2つに分かれて、それぞれ反対方向に離れていったようだということだった。
その住人の住まいは、犯行があったと思われる四つ角の北西の角にある。2つに分かれた靴音の1つは北方向へ、もう1つは南方向へ走ったということだ。北へ走ったのは被害者だから、ホシは南へ走ったことになるが、ここで疑問がひとつ出てきた。
被害者梁瀬陽彦は間違いなく北へ52メートル走っているが、重傷を負って走ったのだから十数秒はかかったはずで、その間さらに大声を上げるやも知れず、近隣の住人に目撃されるやも知れない。その危険性を思えば、ホシはなぜ、ガイシャが走ったのと同じ道路を南へ走ったのか。なぜ、四つ角を曲がって東西へ逃げなかったのか。
これは、ホシが凶器を準備して被害者を待ち伏せていたという前提に立てば不自然な逃げ方だった。証言した住人の思い違いかも知れないということで、保留になった。
この他に、地どりもカン捜査もめんめんと続いていた。梁瀬の身辺を洗っているカンの四組は、梁瀬が残した手帳やカレンダーと、仕事先の受注日と実際に入稿した日、各社との打合せ、各社担当者が仕事の電話を谷村に入れた日時、そのとき梁瀬が自分で受けたか、留守番電話になっていたか、また友人・知人と飲んでいた時間。それらを判明した限りで組み立てていくと、梁瀬が事務所でワープロを叩いていた時間、プライベートの用事で自宅を空けていた時間が、かなりの精度で浮かんでくるのだった。
そうして作ったタイムテーブルによれば、事件のあった4月11日は午後6時過ぎから梁瀬が自宅を空けていたこと、締切が近い仕事に追われずに自宅を空けられるような状態だったこともあらためて確認できた。
そういう日は、判明した限りではあまり多くないが、4月4日夜も同じようなパターンだったことが分かっている。その日も、梁瀬は午後6時過ぎから自宅を空け、翌日の午前0時過ぎに戻ってきて、留守番電話を聞き、午前1時前に友人の1人に電話したのだが、それ以前の6時間、どこへ行っていたのかは不明だ。
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4月23日のことだった。小さな異変の一報が真壁の耳に届いた。その報せは、かねてから事件との関連性なしということで内偵の対象から外されていた世帯の話だった。しかも当該地区の地取り担当の正式の報告ではなく、その連れ合いから耳打ちの形で洩れてきた話だった。
事が起こったのは、例の6階建てマンションの3階302号室。世帯主の氏名は三橋英理。1人暮らし。その部屋の新聞受けに、新聞が溜まっているという。
夜の捜査会議が退けた後、渡辺の連れ合いの石塚という機捜の巡査が、たまたま署の裏口でタバコを吸っていた真壁に、そう伝えた。
真壁は石塚から話を聞いた時、とっさにピンと来なかった。とりあえず「いつから」と尋ねると、「15日から」だという。
脳裏で乏しい記憶をたぐり寄せて、302号室は内偵に入っていない世帯だと思い出し、真壁は「旅行とか出張と、違うんですか」と尋ねた。
「そうかも知れませんが」石塚は厳しい表情を浮かべて、タバコに火を付けた。「私は一昨日の時点で、これは報告すべき事柄だと思ったのですが、お宅の渡辺さんが『独り者だから放っとけばいい』と言いました。しかし、新聞がたまり続けてるのは気になりますので、再三報告すべきだと進言したところ、渡辺さんは『放っとけ』です」
「それで」
「私は302号室の世帯が別に怪しいと言ってるわけではありませんが、報告すべき事態を『放っとけ』というのは、怠慢というか職務不履行に当たると思いますので、善処願いたいと思い、報告した次第です」 正直なところ、不快さのあまり、真壁は奥歯でタバコの葉を噛み潰していた。口の中にひろがる苦さを数秒こらえて、「で、何が言いたいんですか」と穏やかに尋ねた。 「だから、渡辺巡査部長の怠慢は・・・」
「302のその女性、何者です」
「OLです」
「怪しいんですか」
「いえ、そうは言ってません」
思わず「喧嘩売ってるのか」と怒鳴りつけたくなったが、真壁は喉元で怒号をどうにか引っ込めると、代わりに「報告ありがとうございます」と応えた。
石塚が喫煙所を出ていった後、真壁はあらためて数秒考えた。本庁の刑事である渡辺が事件現場近くで、新聞受けを溢れさせた家を目の当たりにしながら「放っとけ」と連れに言ったのなら、それは本心ではあり得なかった。
反射的に、今日まで梁瀬陽彦のタイムテーブルを作るためにいじくり回してきた数百の関係者氏名を思い浮かべ、三橋英理の名前を探したが、こんなときに限って記憶がごちゃごちゃになった。
思い出すのを諦めたと同時に、真壁は署の中をうろうろして渡辺を探した。しかし、渡辺はすでに帰った後だった。今つきあっている資産家の令嬢とのデートに余念のない渡辺は夜の捜査会議が退けたら、いつもあっという間にいなくなる。
真壁は結局、署を出てタクシーをつかまえると、当のマンションの302号室の様子を自分の眼で確かめに向かったのだった。
入り組んだ住宅街の路地に建つマンションは、午後九時前だというのに、まだ半分以上の部屋に明かりがなかった。
真壁は6階建てマンション《レジデンス子安町》の下に立って、まず3階のベランダを眺めた。302号室のベランダに洗濯物はなく、カーテンはきちんと閉まっていた。
マンションの玄関を入る時、ちらりと振り向くと、10メートルのところに犯行現場の四つ角があった。被害者が五十数メートル走って倒れた現場も路地の先に見えた。真壁は即座に、近いという印象を受けた。
エレベーターの昇降ランプが5階で止まったまま動かないのを確認してから、真壁は階段を3階まで上がった。3階の廊下を進み、玄関ドアの新聞受けから新聞を溢れさせた302号室の前に立つ。電気・ガス・水道のメーターは動いていなかった。冷蔵庫の電気も切っているのか。ドアの隙間に鼻を近づけたが、異臭はない。物音もない。
新聞はたまり過ぎて新聞受けに入らないために、古いものからドア口に放り出してあった。一番古い日付は15日の朝刊。住人は15日未明までに出ていったということだ。郵便は、デパートと美容室のダイレクトメールが2通。国民年金の自動振替通知のハガキが1通。ハガキに印刷された「三橋英理」という名前を見ながら、被害者の関係者の中にはそういう名前がなかったことをあらためて思い出し、真壁は少しほっとした。
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真壁はマンションを出て、とりあえず野猿道路まで出るために北へ足を急がせた。その時、背後から声をかけられて振り向いた。
赤ら顔の中年男が立っていた。警備会社の制服を着ている。警察学校の生徒と見間違うような初々しい敬礼を真壁に向けた。
「警備保障二等警士、中村伸也、報告いたします。自分は現在、子安町ビルにて日勤および夜勤の警備業務に就いておりますが・・・八王子東署の方ですよね?」
「そうですが、何です?」
「はっ、自分は9日前の14日夜に近くの路上で交通事故を目撃しまして、申告した次第であります」
「交通事故?」
「はっ、事故当夜の午後7時13分ごろ、自分は夜勤をしていたのでありますが、そこの十字路で」警備員は左手にある交差路を指した。「大きな音がしましたので、何事かと駆け寄りますと、黒い乗用車とバイクが接触したのが見えまして」
「わかりました。署の方には私から言っておきます。ごくろうさま」
真壁が礼を言うと、警備員はすぐ近くのビルへと戻って行った。ちょっとした脱線のおかげで、真壁は混乱して立ち止まった。そこへ今度は、自転車に乗った巡回中の警官に「やあ、捕まりましたな」と長閑な声をかけられた。
その警官の話によると、あの警備員はこの近所では有名人らしかった。叔父が刑事畑の警察官。その叔父にあこがれて、高校卒業と同時に警察官採用試験に臨んだがペーパーで落ちた。以来、採用対象年齢の上限まで毎年試験を受け続けたという。
そういえばと、真壁は思い出した。いつだったか、地どり担当の馬場が聞き込みで、捜査員に声をかえては捜査の話を聞き出そうとする変な警備員に会ったとぼやいていた。
「交通事故の件、把握しているんですか?」真壁は言った。
中年の警官は首をひねった。
「それが分からんのですよ。あの警備員は黒い車とバイクが当たったみたいなことを言っとるんですが、署や交番に通報は無かったんです。まあ軽い接触でケガが無かったら、届けないのもざらですし」
事件の少ない所轄とはもはや隅々まで波長が違うなと感じながら、真壁は機敏に頭を働かせた。14日夜の交通事故。15日未明の失踪。十数メートルしか離れていない現場。これで何も感じなかったら、刑事失格というところだった。
その場で警官と別れ、真壁は野猿道路でタクシーを拾った。署に戻ったのは午後10時過ぎだった。捜査本部が置かれた会議室に入ると、電話機の並んだ机に肘をついて、当直が雑誌をめくっていた。《何しに戻ってきたんだ》という目線に片手を振って応えて、真壁は電話機1台を手に、刑事に背を向けた。
まず多摩ニュータウンにある開渡係長の自宅に電話を入れた。本人はまだ帰っていないので、奥さんに用件を伝えた。次いで、渡辺の携帯電話にかけたが返事は無く、留守番電話にメッセージを入れた。光が丘の馬場宅にも電話を入れたら、こちらも珍しく留守番電話だった。メッセージに同じ用件を伝えた。
続いて本庁の交換台を呼び出し、6階の捜査一課へつないでもらった。切り替わった電話に当直が出た。
「八王子東署から。十係の真壁だ。今夜、女の死体がどこからか挙がってないか」
「コロシの、ですか?」
「いや。身元不明死体とか・・・」
「今のところ、ないです」
「女の変死体が挙がったら、何でもいいから知らせてくれ」
続いて、同じく本庁の鑑識の当直と話した。
「一課十係の真壁ですが。女性の身元不明死体の照会、どこからか来てませんか」
「いつごろの話だ」
「失踪は15日未明」
2分ほど待たされて、「今のところない」という返事があった。「念のため、住所氏名年齢を聞いておこう」
真壁は三橋英理という失踪人の氏名と住所を伝えた。年齢は不詳だが、明日の朝には調べがつくと言っておいた。
受話器を置くと、ほとんど入れ替わりに別の電話のベルが鳴った。当直より先に、「自分が取ります」と言って、真壁は受話器をひっつかんだ。
「開渡だが」という声が聞こえた。
「真壁です。現場近くで1軒、女性が失踪した家が見つかりました」
「それで・・・」
「事件との関連はともかく、失踪は事実なので、明朝一番に緊急手配と家宅捜索します。午前6時に始めますから、その時間までに本部に出て下さい」
「緊急・・・という根拠は何だ」
「理屈なんか、後でくっつけたらいいでしょうが」思わず受話器に怒鳴った。「とにかく捜索令状を取ります。以上です」
時刻は午後10時15分。時計を見ながら、令状請求書を書いて自分の判子をつくと、真壁は「判事の判子をもらってきて下さい」と、請求書を当直に渡した。
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午後10時半を回って、渡辺からやっと電話が入った。
「渡辺さん、レジデンス子安町の302号室の話なんですが」
「何だ・・・」と鈍い声が応えた。
「機捜の巡査がタレ込んできました。新聞が溜まってるのに『放っとけ』って言ったんですか」
「言ったよ。それで」
「なんでそんなことを言ったんですか」
「事件発生の11日夜、三橋は独りでマンションに居た。ガイシャとは面識がないと言ったんだ。だから、内偵対象外だと・・・」
「11日の夜、マンションに独りで居た、と言ったのは本人ですか」
「・・・言いたいことがあるんなら、はっきり言え」
「梁瀬と三橋はできてたのかも知れない。明朝六時からガサかけるから、出て下さい」
続けて、十係の他の面々―杉田、磯野、高瀬、吉村にも一応、電話連絡を入れた。事件との関連はあるともないとも言えない失踪だったから、この4名にはそういう事実があるということだけとりあえず伝えておいた。
真壁はパイプ椅子に腰を据えて、手帳を開き、4月13日の事件発生以来書き続けてきたページを繰りはじめた。大井町のマンションに帰らなかったのは、馬場か渡辺がそのうち本部に駆けつけてくるだろうと思ったからだった。
梁瀬の知人・友人・仕事関係の人間あわせて二百数十名と面会してきた中で、梁瀬が「いい男だった」と皆が口を揃えるのは、裏返せば、誰ともそれほど深い付き合いはなかったということだろう。その一方で、手帳や携帯電話に名前や番号も記さず、メールも残さず、誰にも話さない「女との情交」。真壁は脳裏で、梁瀬の顔が滲んでくるのを感じた。
そこへ、判事の判子をもらって帰ってきた当直が「武蔵野東署からファックスです。お宅の馬場主任宛てです」と言って、書類を差し出した。
タイトルは告訴状。3年前のものだった。書面を見ている内に、真壁は一瞬自分の眼を疑い、「うわ・・・」と無様な一声を上げていた。
告訴人の欄に新條博巳、被告訴人は梁瀬陽彦。告訴事実は梁瀬が数回、池田宅周辺をうろつき、近隣各戸に対して聞き込みを行い、個人生活を著しく不当に侵害した、云々。
新たなショックを受けながら、真壁は告訴状をテーブルの上に置いた。次いで手帳のメモをめくり、梁瀬が書いてきた記事の見出しを確認していった。フリーのジャーナリストらしく梁瀬はどんな内容の仕事もこなしていた。グルメ、健康、地方の観光地ルポと雑多な文章を書いており、自らラグビーの選手だった経験を活かしてか、スポーツ関連の記事が多かった。
人権派の弁護士とつながりそうな見出しを探していると、見つかった。告訴状が出された3年前に起きた板橋区の殺人事件。梁瀬は初公判に関する記事を書いていた。
告訴状にあった池田とは事件の加害者と同じ名前だったと思い出し、真壁は携帯電話を取り出していた。
「今どこにいる?」
「『七社会』。今日は宿直」富樫が欠伸交じりの声で言った。
「3年前、板橋であった殺人事件を覚えてるか?加害者の名前は池田」
「たしか、犬のぬいぐるみ帽を被って人を刺したっていう事件だったな。それがどうした?」
「当時の裁判資料を当たって欲しい。知りたいのは、弁護人の名前」
「八王子の件と何か関係があるのか?おい・・・」
真壁は富樫の言葉に答えず、電話を切った。確認すべきことはたくさんあった。捜査本部を飛び出し、1階の受付に向かった。人影は疎らだ。奥のフロアで、まだ起きている署員に宿直日誌を見せてくれるよう頼んだ。
4月14日の日誌に眼を通す。午後6時23分、人身交通事故、3名が出動。8時40分帰署。7時10分、喧嘩の通報、2名が出動するも誤報と判明。8時39分、物件交通事故、2名、10時5分帰署―。
警備員の話では、事故があったのは午後7時13分。たしかに受理された形跡はない。それだけを確認したとき、真壁は携帯電話が震え出すのに気づいた。富樫からかと思いつつ、電話に出ると、相手は馬場だった。
「何かあったのか」
「三橋英理を知ってますか」
「それがどうした」
「レジデンス子安町の302に住んでます。三橋英理です。知ってますか」
「・・・お前、今どこにいる?」
「署ですが」
「今日の当直は署の奴だったな?そいつを部屋から追い出して、帳場で待ってろ」
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真壁は明かりを落とした捜査本部にひとり佇んでいた。八王子東署員である当直は、近くのコンビニで買ってきた缶ビールとピーナッツのオマケ付きで、仮眠部屋になっている道場へ追いやった。
何本かタバコを立て続けに吸っていると、富樫から電話があった。3年前、板橋区の殺人事件で弁護人を務めたのは、新條博巳。「急な話で悪かったな」と詫びると、富樫は「柄にでもないこと言って」と笑い、電話は切れた。
予想通りの回答が出たとはいえ、思わぬところで発覚した梁瀬と新條のつながりがこの事件とどう絡んでいるのか考えようとしたが、真壁にはまだピースが足りないように思われた。
馬場が会議室に姿を現したのは、午前0時過ぎだった。どこかで飲んでいたのか、ウィスキーが匂う息を吐いた。
「あのマンションの住居者名簿を取り寄せようとしたら、副署長がガヤガヤ言ってきたことがあってな」
「どうしてです?」
「ストーカーだ」馬場はあっさり言ってのけた。「去年の10月ぐらいから、被害に遭ってるらしい。三橋英理は盗聴されてるようなことを署に数回、相談に来てた」
「相手は?」
「三橋本人も分からないと言った。それで、署も対応がうやむやになった」
この期に及んでのストーカーの登場。馬場にしろ副署長にしろ、今頃になってまたひとつ大事な話を聞かされた苛立ちに、真壁は思わず顔をしかめた。真壁の思いをよそに、馬場はテーブルの上の武蔵野東署から送られてきたファックスに眼を通していた。
「その告発状の件、どこでつかんできたんですか?」
「ただ所轄のケツを引っぱたいただけよ。物書きだから、軽犯罪法か微罪でどこかの所轄にひっかかってないかと思ってたら、弁護士から告発を受けてたとはな」
真壁の方も「こんな話があるんですが」と、14日の夜、マンション近くで発生した事故について話した。馬場は「匂うな」という感想をもらした。
「ストーカーが梁瀬を殴り、三橋をどうにかしたのか?」
「梁瀬がストーカーだった可能性もあります」
馬場は「なるほど、お前の頭が不健全な理由が分かったぜ」と笑い、「それより三橋の件だが、お前、どこでつかんだ?」と切り返してきた。
「渡辺さんと組んでる奴からのタレ込み」
「失踪の話じゃない、三橋の話だ」
「昨夜、初めてOLだと聞いた。それだけです。何か知ってるんですか」
「渡辺が探ってたということは知ってる」
「梁瀬が襲われた事件との関連で、三橋英理を探ってた・・・?」
「と思うがな。俺も三橋についてはちょっと調べてみたが、事務職だというだけで、ガイシャとの仕事上の接点はないんだ。ガイシャと三橋が面識を持っていたという話も、今のところ聞いてない」
「三橋英理っていくつですか」
「25」
「三橋英理がいなくなったことは知ってたんですか」
「バカ野郎。知ってたらすぐに動いてる。今夜初めて聞いたんだ、お前から」
午前3時過ぎ、今度は渡辺がぶらりと姿を見せた。二枚目らしい整った顔はいつもの血色のよさも失せ、そろそろ濃くなり始めた髭に縁取られて陰鬱な形相になっていた。
「『放っとけ』と言ったのがいかんという非難なら甘んじて受けますがね」
「だから・・・」
「三橋英理の失踪は、私は関知してません」
「当たり前だ。関知してたら、そのクビかっ切ってやる!」馬場が渡辺の首元を掴む。
それを押さえて、真壁は「捜索はやります」と言った。「三橋とガイシャをつなげる何かがないか、探さないと」
「出てこないよ」渡辺が言った。「302号室の新聞受けに新聞が溜まり始めた十五日の夜から、あちこち当たったんです。三橋英理と梁瀬陽彦の接点はありません」
「ないなら、ないにこしたことはない」馬場はきつい口調で言った。「三橋英理はもう何かの事件に巻き込まれてる可能性が高い。俺たち全員、戒告処分だ」
「それより、渡辺さん。三橋の家族・親戚は?」
「横浜の実家に母1人。兄弟はいない」
「連絡しないといかんな」馬場が言った。
4月24日早朝、不動産管理会社の社員を立会人にして、午前6時から三橋英理宅の捜索が行われた。高瀬と吉村はストーカーの出現に《まさか》という思いが払拭できず、鈍い顔つきだった。一方、マンションを一目見るなり「オートロックはないわ、防犯カメラもなし。これじゃ、ストーカーもヘチマもない」というのが杉田なりの答えで、磯野は捜索に張り切っていた。
十係の面々は時間かけて念入りに部屋の中をひっくり返した。押収したのは、三橋英理の近影と思われる写真数点、手紙、三橋英理の仕事先関係を含む住所録や手帳数冊。
押収品を署に持ち帰った後、住所録をもとに法律事務所や人材派遣会社数件、知人・関係者十数人、三橋英理が過去に勤めていた会社と同僚数人などの許へ、手分けして走った。