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ギレリスが自宅から着替えて大屋敷に戻ってみると、執務室でまず国家検察局からグルジア・マフィアの顧問弁護士が「ヴィシネフスキー事件の捜査担当者にお会いしたい」と申し込んだという電話を受け、早朝の不機嫌でリュトヴィッツをヤクーボーヴィカ通りに送り出した。
駐車場で自分のジグリをリュトヴィッツに渡した後、ギレリスが刑事部屋に入ると、ラザレフとクリコフが待っていた。クリコフの口許が誇らしげに緩む。
「電話の聞き込みで手がかりをつかみました」ラザレフが言った。
「どんな手がかりだ?」
クリコフが答える。
「先日、発見された遺体を覚えてますか?トーリャという男の」
「アイロンの火傷の痕があったやつだな」
「イギリスとの合弁企業に勤めてたんです。本名はアナトリー・ロマネンコ。アングロ・ソユートザム運輸という会社に、トラック運転手として働いてました。核廃棄物の運搬をしている会社です」
「ほう」
「あと・・・放射線生物学。この言葉は、原子炉と何か関係があるんでしょうか?」
ギレリスは肩をすくめると、受話器を取り上げた。交換手に、科学技術部へ取り次いでくれるよう頼んだ。しばらくして繋がったので、タルタコヴァに質問をぶつけてみる。
「放射線生物学?それは生物学の一分野で、放射性物質が生体に及ぼす影響について研究するものです。なぜ、お聞きになるの?」
ギレリスはクリコフの方を見た。
「なぜ、知りたいんだ?」
「偶然の一致かもしれないんですが、あのトーリャという男がアングロ・ソユートザム運輸で働いてることが分かって・・・それで、ヴィシネフスキーのメモ帳の住所録にあったデミトヴァ博士という女性のことを思い出したんです。彼女はパブロフ医科大学に勤めてて、電話をかけた時には休暇中でした。それで、何を専攻してる人か聞いてみたら、放射線生物学という答えが返って来まして」
「聞こえましたか?」ギレリスはタルタコヴァに言った。
「ええ、だいたいは。その新米刑事さんに、大事なことを伝えてくださいませんか?犯罪捜査で、事実と事実の繋がりを偶然の一致として退けるような過ちは犯さないように。偶然の一致を見つけるのが、刑事の仕事なのですから」
助言を終えると、タルタコヴァは電話を切った。
「放射線生物学は、放射線の生体への影響を調べる学問だそうだ。それから、偶然の一致を見つけるのが刑事の仕事だと、君に伝えてくれとさ」
クリコフが顔を赤らめる。
「運輸会社の人間が、彼女を知ってるかもしれませんね」ラザレフが言った。
ギレリスはタバコに火を付け、クリコフがタルタコヴァからの情報をメモ帳に書きとめるのを見守った。
「アングロ・ソユートザムというのは、どこにあるんだ?」
「ソスノヴィ原発に向かう湾岸道路を、ここから西へ75キロほど行ったところです」
フィンランド湾に沿った白樺林の中に立つアングロ・ソユートザム運輸は、周りを囲む高い金網のフェンスを除けば、外観のどこにも原子力産業との関わりを感じさせるものはなかった。
本社を形成する小さな建物群は、どれも革命前に造られたものであり、一番大きな棟はこの一帯がロシア領になる前にフィンランドの貴族が所有していた洋館を別荘に改築したものだった。
建物の中の様子も、外観に劣らずギレリスとラザレフの注意を引いた。床の全面に敷かれた厚いウールのカーペット、硬材で作られた高級な家具。戸口の近くに、よく磨かれた胡桃の机が置かれ、その上にコンピュータが鎮座している。モニタを覗きこんでいるのは、20歳前後のはっとする美女で、その後ろに縁なし眼鏡を掛けた、ひげの剃り跡の濃い学者風の男が、上体をかがめて立っていた。2人の刑事の姿を見て、その男が背中を伸ばす。
「何か、ご用でしょうか?」
「ここが、アングロ・ソユートザム運輸・・・?」ギレリスの声は頼りなげだった。予想した雰囲気とまるで違っている。
「そうですよ。私は輸送管理部長のマルティン・ポターニンです」
ギレリスは身分証を出し、じっくりと相手を見た。
「中央内務局刑事部のギレリス大佐です。こちらは、ラザレフ少尉」
ラザレフが軽く会釈する。
「トーリャのことで来ました」ギレリスが説明した。「アナトリー・レオーノヴィチ・ロマネンコ。ここで働いてたと思うんですが」
ポターニンの顔に不快な表情がよぎる。
「はい。たしか、今朝がた、おたくの少尉さんとお話ししましたね。まぁ、私の部屋へお入りになりませんか」
秘書に「電話は取り次がないように」と指示して、ポターニンは刑事たちをつややかな松材でできたドアの方へ導いた。
ギレリスの眼が天井と壁をぐるっと見渡す。
「こういう会社だとは、思っておられなかったでしょう。大佐?」ドアを開けながら、ポターニンが言った。
「ええ。まったく」
「ここは以前、ある政治局員の持ち物でしてね。実を言うと、今でも敷地内の小さな客用の離れに、その人物が住んでるんです。追い出すためには、不法に住んでることを証明しなくちゃいけないんですが、どちらの側にも、証拠となる書類がありません」
「書類があっても、信用できんことが多い」ギレリスが口をはさむ。
「不便を被ってるわけでもないですよ」ポターニンが後ろ手にドアを閉める。「それに、ここの人物は快適に生きるということを心得ていたようで。敷地内には、サウナにビリヤード場、屋内プール、映写室、六面のテニスコートがありました。今は映写室を講堂に使って、テニスコートはとりあえずトラックの駐車場にしております。我が社はここを、200万ドルで政府から買い上げました」
ラザレフが低く口笛を吹いた。ギレリスは広い部屋に敷き詰められたカーペットの上を静かに突っ切り、大きな机の横を回って、窓の前まで行った。きれいに並んだ木立ちの手前にテニスコートがあり、そのうちの一面に、今まで見たことがないようなデザインをしたトラックが留まっている。
「足りないものは何もないという感じですな」ギレリスは言った。「あれが、おたくの営業用トラックですか?」
「はい。たいしたもんでしょう?1台100万ドルで、同じものがあと四台ございます」
ポターニンが机からウィンストンの箱を取り、タバコに火を付けた。
「トーリャも、あの型のトラックを運転していたんですか?」
「はい、そうです。トーリャは、うちで一番腕のいい運転手のひとりでした。10か月前の創業時から働いてもらってます。その前は国営の運輸会社にいて、アフガニスタンやイラン、インドへ行ってたようです。うちの運転手は皆そうですが、折り紙付きで入社してきました。こういう職種の人選が厳しいことになるのは、お分かりでしょう?」
ギレリスはうなづいた。
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「ところが、ひと月前ほどから、トーリャは仕事ぶりが荒れてきました。家族と何かトラブルがあったようです。大酒を飲むようになりましてね。いえ、それが運転に影響するというわけじゃありませんが、仕事にときどき遅れて来るんです。実は、辞めさせようかと考えてたんですよ。ですが、その矢先にぱたっと出勤してこなくなりました。1台が輸送隊から外れて、ここに居残っているのは、そういう事情なんです。もちろん、トーリャの身に不幸が起こったなどとは、夢にも思いませんでしたよ。電話もかけましたし、一度は住まいを訪ねてみました」
ポターニンは肩をすくめる。
「正直に言いますとね、1日じゅう飲み歩いてるんじゃないかと思いましたよ」ため息を吐いて、首を振った。「かわいそうなトーリャ。死因は分かってるんですか?」
「殺されたんですよ」ギレリスは言った。「頭を撃たれてね。しかし、その前にアイロンで拷問を受けてます」
「なんと」ポターニンが息をのむ。「でも、何の為に・・・」
「それを突き止めようとしてるんです。おたくの業務内容について、もう少し話していただけると、助かるんですが」
「うちの仕事とつながりがあるとお考えなんじゃないでしょうね、大佐」そわそわと、タバコを吸う。「そんなわけがありません」
「あらゆる場合を想定しなくてはならんのです。どんなに可能性が薄くとも」
ポターニンはうなづき、それから思いついたように、社の業務内容を語り始めた。
「ご存じかどうか分かりませんが、ソスノヴィ原発には原子炉が四基あって、それぞれの原子炉から廃棄物が出ます。廃棄物の処理に関して、我が国の実績は芳しいものではありません。そして、ロシアやリトアニア、ウクライナで稼働しているRBMK(黒鉛減速沸騰軽水圧力管型原子炉)の多くが、万全とは言えない状態にあります。その一方で、この原子炉は旧ソ連の原子力発電量の半分を占めてます」
「チェルノブイリで事故を起こしたのも、同じ型でしたね」
「それらの施設を近代化するため、諸外国から融資を受けることになるのですが、融資の条件として、我が国は核廃棄物の処理に関し、国際原子力機関(IAEA)へ協力することに同意しました。核廃棄物そのものはドラム缶に密閉されて、我が社の冷蔵車に積み込まれます。ご覧の通り、万一の事故に備えて、トラックの一部は装甲板で保護されてます。この分野では、イギリスが進んでいて、様々な技術を提供してくれます。トラック自体もイギリス製です。積み込まれた荷物は、長期貯蔵施設へ運ばれるわけです」
「つまり・・・」ギレリスは言った。「西側がロシアの原子炉の近代化を助けてくれる見返りに、我々はあちらさんのゴミを一手に引き受けるということですか」
「まぁ、そんなところです。もちろん、処理すべきは核廃棄物ばかりではありません。核弾頭を解体施設まで運んでいくという問題もあります。現に、その問題に対処するための特別輸送トラック部隊を、我が社に配備しようという計画が進められています」
「しかし、なんで、そういうものをトラックで運ぶんです?」ラザレフは言った。「鉄道の方が、うんと安全じゃないですか?」
「お言葉ですが、これが他の国の話なら、ご意見に同意いたすところでしょう。しかし、このロシアでは国民の大多数が車を持たず、遠方の移動には必ずと言っていいほど鉄道が使われます。そのために、列車の運行は遅く不確かになりがちです。放射性物質の輸送に関しては、わずかな遅滞も許されません」
「あなた方が遺漏なく業務を管理なさっていることは、よく分かりました」ギレリスは言った。「しかし、できれば他の運転手たちの話も聞きたいのです。トーリャを知っていた人たち。もしかすると、一緒に酒を飲んだかもしれない人たち・・・きっと何かが浮かび上がってくるでしょう。誰かに何かを言い残した可能性もありますし」
「それは構わないですが、2、3日待っていただかねばなりません。少なくとも、輸送車隊が廃棄場から戻ってくるまで」
「廃棄場というのは、どこにあるんです?」
「申し上げませんでしたか?白ロシアの南、ウクライナとの国境地帯です。プリピャチの近く」
「それだと、チェルノブイリのすぐそばじゃないですか」ラザレフが言った。
「正確に言うと、3キロ離れた場所です」
「あの辺り一帯は、立入禁止にされてると思ってたが」ギレリスが言った。
「その通りですよ、大佐」ポターニンが言った。「廃棄物はどこかへ捨てなくてはなりませんからね。プリピャチの立入禁止区域内には、すでに800か所の埋立地があって、5億立方メートルの放射性廃棄物とチェルノブイリ事故の残骸が埋められています。あの土地はもう、再生不能です。すでに汚染されきったあの一帯ほど、核廃棄物の長期貯蔵に適した場所が他に考えられますか」
「まあ、考えられないでしょうな」ギレリスが同意した。「運転手の人選がたいへん厳しいと言われましたが、そうすると、1人ひとりについての人事考課みたいなものが、個別のファイルに記されているんでしょうか?」
「そういうファイルを作って、別に不都合はないと思いますが」
「もちろん、不都合はありません。私はただ、アナトリー・ロマネンコのファイルを貸していただけないかと思ったのです。捜査の参考にできるかもしれないので」
「ああ、そういうことでしたか。つい弁解がましいことを申し上げてしまって・・・」
ポターニンは書類戸棚の鍵を開け、抽斗を引っ張り出した。ファイルの束を手早くかき分け、ひとつを取り出して、ギレリスに渡す。
「何もかも、それに書いてあります。住所、旅券番号、検診結果、雇用記録・・・若い頃からのトーリャの全てがね」
「ありがとうございました」ギレリスはポターニンに名刺を渡した。「輸送車隊が戻ってきたら、こちらまで電話していただけると助かります」
ラザレフを従えて、ギレリスは戸口まで歩いた。
「もうひとつだけ、ポターニンさん。デミトヴァ博士をご存じですか?」
「いいえ。そういうお名前の人物には、心当たりありませんね」
ギレリスはうなづいた。時間を割いてくれたことへの礼を言い、もう一度会社の設備の素晴らしさを褒めてから、いとまを告げた。
蒸し暑い午後の残り時間を、ギレリスとラザレフとリュトヴィッツは大屋敷で、アナトリー・ロマネンコの人生の細目を調べることに費やし、何の収穫も得ずに終わった。しかし、クレスチ刑務所の所長から電話があって、ヴァシリー・セルギエンコが考えを変えたことが知らされた。ようやく捜査に協力する気になったのだ。
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「十字の館」とも呼ばれるクレスチの再拘置施設IZ45/1は、ネヴァ河をはさんで大屋敷の真向かいにあり、有名な巡洋艦オーロラからも石を投げれば届く距離だった。
エカテリーナⅡ世の頃に建てられた「十字の館」は、円形に造られた刑務所の前面を飾る赤煉瓦のビザンチン風十字架からその名を取っている。かつてはロシアの刑務所の規範とされ、現在は7000人がここに収容されている。
リュトヴィッツとギレリスは正面玄関で番号票を受け取り、砲丸投げのオリンピック選手並みの体格をした女看守の先導で、鍵の掛かった監房の列の前を過ぎ、いくつかの回転ゲートを通って、取調室へたどり着いた。女看守は太い革のベルトに差した鍵束の中から1本の鍵を選び出し、隔離房の重く頑丈な鋼鉄の扉を開けて、中に座っている男に大声で命令を発した。
ヴァシリー・セルギエンコはふらふらと立ち上がり、刑事たちの後について、サウナ風呂よりやや広い取調室へ入って来た。
女看守が去って、リュトヴィッツとギレリスは床にしっかりと固定されたテーブルに、セルギエンコと向かい合わせに座った。ギレリスがタバコの箱をセルギエンコの方へ投げてやり、それから怪訝な表情で鼻をひくつかせる。
「何だ、この臭いは?」
セルギエンコは顔をしかめた。「同じ房にいた奴の1人さ」情けない声を出す。「そいつの飼い猫が、おれに小便をひっかけやがった」
「それで、しゃべる気になったわけか?」リュトヴィッツは笑った。
「ふざけんなよ」噛みつかんばかりに言って、セルギエンコがタバコに火を付ける。「あんたたち、知ってたんだろ?連中がここでおれの命を狙うってこと」
「誰かに狙われたのか?」
「そこまで行かなかった」セルギエンコの声は震えていた。「おれが監房に入った時、プラトーノフって奴がいてよ。仲間からは『葬儀屋』って呼ばれてた。そいつがおれの名前を知ってるんだ。まるで待ってたみたいにさ。それで、ピンと来た。誰かが、おれをこの房に入るよう仕向けて、プラトーノフにおれを殺させようとしてるんだってな。おれは何にも喋らなかったのに、それでも口をふさごうとしてるんだ」
「連中の組織網は、思った以上にしっかりしてるようだな」ギレリスは言った。「さっそく手を打って来たか。あのグルジア人たちは、余程お前を消したがってるんだ。民警の見張りをつけておいたのが、お前には幸いしたな」
セルギエンコがぽかんとした顔をする。「誰がグルジア人だなんて言った?」不安を紛らわすように、深々とタバコを吸った。
「この前の晩のことを、忘れてるんじゃないだろうな」リュトヴィッツは言った。
「グルジア人は関係ないぜ。今度のことにはよ」
「じゃあ、誰なんだ?チェチェン人か?」
セルギエンコは軽蔑に鼻を鳴らした。
「あんたたち、大してものを知らないんだな」哀れむように首を振る。「なぁ、大佐。取り引きしようぜ」
「無担保の人間に金を貸すバカはいない」ギレリスの態度に苛立ちが見え始めた。握り締めた拳に力がこもって、指から血の気が引き、口が怒りの形にすぼまる。
「突っ張るなよ、大佐。おれにゃ、それだけの値打ちがあるぜ」
「死んでしまったら、お前など塀のつっかえ棒にもならん」
セルギエンコはため息をつき、新しいタバコに火を付けた。
「おれはタレ込み屋じゃない。けど、チクッたことがバレたら、どんな目にあうか」
リュトヴィッツはすばやく、セルギエンコの襟首を掴んだ。それをぎゅっと捻ったかと思うと、相手の頭を鋼鉄製のテーブルに二回、ガツンと叩きつけた。
「どんなに強がったって、お前はただのチンピラなんだ。母親の性生活について作文を書けと言われたら、お前は大人しく書けばいい。小賢しく立ち回ろうとしたら、すぐさま監房に戻してやるぞ。分かったか?」
「分かったよ、分かったよ」セルギエンコはシャツの襟からリュトヴィッツの手をもぎ離し、しょげた様子で額をさすった。「乱暴は止めてくれ、な?」
「捜査に役立つことがあったら」ギレリスは言った。「取り引きできるかもしれん。まぁ、私の言葉を信じてもらうしかないな。私が約束を守る人間だということは、ここにいる囚人の大半が保証してくれるだろう。いいか?」
セルギエンコはふくれっ面でうなづき、床に落ちたタバコを拾い上げた。
「まず、盗みの件だ。誰に話を持ちかけられた?」
「ウクライナ人だよ」
ギレリスとリュトヴィッツは顔を見合わせた。
「名前は知らない。けど、ムショに何年か入ってたようなことを言ってた。写真を見せてもらえば、分かるかもしれない・・・」
「それはまだいい。アルバム鑑賞の前に、もう少し話を聞いておく必要がある」
「レニングラードスカヤ・ホテルのバーで飲んでたら、2人の男がそばに来て、話し始めた。ウォッカをおごってくれて、ちょっとした仕事をやってもらいたいって言うのさ。おれの役目はある男のポケットから鍵を掏って、それから連中が家捜しをする間、見張りに立つだけ。それで、前金で500。仕事が終わったら、500くれるって言うんだ。次の日、グリボイェードフのあのアパートの前に行って、連中の車の中で待った」
「車の種類は?」
「古いシーガルだよ。ほら、ビュイックをまねたやつ」
ギレリスはうなづいた。推理の穴がひとつずつ埋まっていくのを愉しんでいる。
「続けろ」
「最初、同じ階に住んでる年寄りの夫婦の姿が見えて、すぐにお目当ての若い方の夫婦が出て来た。2人でしばらく喋って、それから別々の方向に歩き出した。おれは男の方を少し歩かせといて、後ろからぶつかった。偶然を装ってな。で、男に手を貸して立たせてやりながら、ポケットに手を入れた。ちょろいもんさ」
セルギエンコは口元をかすかに緩ませた。
「向こうは鍵が無くなったことにも気づかなかった」
「それから、どうなった?」
「その男の住んでる階まで上って、連中は予定通り家捜しを始めたよ。けど、部屋を荒らしたりはしなかった。捜す物がはっきり分かってたみたいだった。書類だって言ってた。どうも大事な書類らしくてさ。ドアからひょいと頭を突っ込んでみたら、あの2人、冷蔵庫の中まで調べてた」肩をすくめる。「冷蔵庫に入れとくなんて、どんな書類だ?きっと、人に見られちゃ困るようなもんだよな」
「どのくらいの時間、連中は捜してたんだ?」
「20分くらいかな。目当ての物は、ちゃんと見つかったみたいだった。その後、おれたちは別れた」
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ギレリスはニコチンで黄ばんだ自分の親指の爪をじっと見つめ、やがてそれを噛んだ。その指先をセルギエンコに向ける。
「オレグ・サカシュヴィリは、この話のどこに絡んでくるんだ?」
「あれには、おれだって関わりたくなかったんだよ。そのことは、最初から言っとくぜ。奴らに脅されてたんだ。力を貸さなかったら、脚の骨を2本とも折ってやるって」
「いつのことだ?」
「あのアパートに押し入ってから、2日後ぐらいだ。連中は、オレグが金の腕時計に眼がないって話を聞いてきて、それでおれが日本の観光客から失敬した腕時計を持ってることを知ってた。あのロレックスさ。連中はおれに、オレグに電話してその時計をエサに呼び出せと言った。おれはそうしたよ。電話して、旧海軍省の前で待ち合わせた。あの2人のコサックの言う通り、オレグは車ですっ飛んできた。腕時計を見せると、奴さん、新年とクリスマスがいっぺんに来たみたいな顔をした」
「それで?」
「うっとり見惚れてたもんだから、コサックの1人が反対側から忍び寄ってきたのにも気付かなかった。コサックは助手席に乗り込んで、奴さんの脇腹に銃を押しつけた。本当にしまったって顔をしてたな。とにかく、そのコサックがどこかへ車を走らせるように命じて、もう1人が自分の車で後を追いかけてった。連中を見たのは、それが最後。オレグを見たのもな」
「しかし、連中がなぜオレグを死なせたがったのか、まだよく分からんな」
何を言うべきか迷うように、セルギエンコはしばし黙り込んだ。再び開いたその口から飛び出した供述は、刑事たちの想像を超えるものだった。
「連中が一番殺したかったのは、ドミトリ・ヴィシネフスキーだよな。書類は盗み出したけど、連中の悪事について、ヴィシネフスキーは知りすぎてたわけだからさ。どんな悪事か、おれは知らないけど・・・でも、オレグと一緒に殺せば、それも口に鉛玉を飲ませるような殺し方をすれば、アンタたちはグルジア人がタレ込み屋を処刑したと見るだろ?おまけに、グルジア人は当然、宿敵のチェチェン人が殺ったと考えるじゃないか。それで、組織同士の抗争がおっぱじまったら・・・」
「ウクライナ人は高みの見物としゃれ込めるというわけか。なるほど、やっと分かってきたぞ。2つの組織が死力を尽くして戦った後に、コサックが悠々と乗り込んでいって、両方の縄張りを労せずして手に入れる。賢い策だ」
「信じてくれていいぜ、大佐。誓うよ」
「法廷で証言できるか?」
悟ったような表情で、セルギエンコは肩をすくめた。
「おふくろがよく言ってたよ。首を切り落とされてしまってから、髪の毛のことを悩んでもしょうがないってさ。他にどうしようもないだろ?」
「ああ、その通りだ。さっき、写真のことを言ってたが・・・」
「ムショの卒業アルバムを見せてもらえりゃいい」
「連中のむさ苦しい顔がちゃんと載ってることを祈るんだな。お前がもし、その2人のコサックを見つけられなかったら、言い訳を考える暇なく、あの野獣どもの檻に戻されて、人肉ステーキにされてしまうことになるぞ」
セルギエンコはリュトヴィッツの方に顔を向けて、苦笑を漏らす。
「分かってんだよ。この大佐が頼りになるってことは。情け深い顔だからな」
その後、リュトヴィッツがタイプライターで打った供述調書を、ギレリスが淡々と読み上げて聞かせて、セルギエンコの聴取は1時間足らずで終わった。セルギエンコの警護を強化するよう、ギレリスが刑務所長に掛け合っている間、リュトヴィッツは聴取の際に感じ取った疑問をセルギエンコにぶつけた。
「なぜ、ウクライナの連中はオレグを狙ったんだ?」
「さっき話したじゃないか。ウクライナ人が高みの見物・・・」
リュトヴィッツはさえぎるように言った。
「今のグルジア・マフィアのボスは、パルサダニヤンなんだぞ。オレグは組織の若頭でしかない。最初からパルサダニヤンを殺れば、グルジア・マフィアはお終い。ペテルのチェチェンの組織なんて、ウクライナの連中からすれば屁みたいなもんだ。殺す相手が間違ってるんじゃないか」
「そう言えば・・・レニングラードスカヤ・ホテルのバーで、連中の1人が言ってた。パルサダニヤンは『話の分かる奴』なんだと」
「話の分かる奴?じゃあ、パルサダニヤンはウクライナとつながってるのか?」
「ビジネスという点で、ということじゃないか」
クレスチの拘置施設を出ると、空はまだ昼間のように明るい。6月のサンクトペテルブルクは、暗くなる時間は1時間も満たない。
リュトヴィッツが、セルギエンコがパルサダニヤンとウクライナ・マフィアとのつながりを匂わせたことを告げると、ギレリスが眼に光を宿らせて独白のように話し始めた。
「3年くらい前に、拳銃の密輸でウクライナ・マフィアを追ってた時に下っ端はグレブノイ運河の倉庫で捕まえたんだが、ホテルに宿泊してたボスは病院に入って面会謝絶で手出しできなかった。病院前で張り込んでいるとき、足しげく病院に訪ねた若い男がいて・・・今思えば、その若い男がパルサダニヤンだった。取調の時にどこかで見た顔だと、ずっと考えてたんだが」
「ビジネス上の共闘ということでしょうか」
「もちろんそれだけが本質じゃないはずだ。殺されたオレグ・サカシュヴィリはケチなチンピラだが、先代の息子というだけで組の若頭だ。三下からのし上がってきたパルサダニヤンにとっては面白くなかっただろう」
マフィアに対して非人間的な印象を懐いていたリュトヴィッツにとって、ギレリスの独白は新鮮だった。
「そうだ、君にひとつ忠告しておこう」ギレリスが低い声で言った。「もしカテリーナと付き合うことを考えてるんだったら・・・」
停止線をうっかり踏み越えてしまったというように、後の言葉を呑み込む。
「君の行動に歯止めをかけることは出来ん。あれはきれいな女だし、君が何をしようと、それは君の勝手だ。だが、君と私は仕事仲間であると同時に、友人同士でもあるべきだろう。君の友人である人間として、私にできる最良の助言は、カテリーナに近づかないようにしろということだ」
「彼女には何か、嫌疑がかかってるんですか?」
「いや、法に反することは何もしていない」
「じゃあ、何です?」
「君に言うわけにいかん。微妙な問題が含まれている。私から彼女に話さなくてはならんことがあるのだ。先に君に話してしまうと、公正を欠く。だが、とにかくあの女とは距離を置いた方がいい」
「ええ、分かりました。しばらく近づかないようにします。ただし、条件がひとつ」
「何だ?」
「話せる時が来たら、その微妙な問題というのを話して下さい」
「いいだろう。この事件が片づいてからだな。その時に、聞いてくれ」
「面白いですね。カーチャもまったく同じことを言ってました」
2人は北へ向かって歩き、ネヴァ河を渡った。赤味を帯びた太陽が、石墨のように黒光りする川面に触れ、まるで誰かが人間の血のついた斧を河の水で洗ったように見えた。
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一般に、ロシア人は熱波に弱いということになっている。ほこりに覆われた窓を通してさえ、日差しは炭火のように感じられる。スヴェトラーノフが自分の車のラジエーターが耐えられるか心配していた。
その日の朝一番に、リュトヴィッツの机の電話が鳴った。相手はグルジア・マフィアお抱えの弁護士を務めるルージンからだった。
「起訴がなされないのなら、依頼人たちは今日の午後に釈放されるはずですが」
リュトヴィッツはもう少し待つように言って電話を切ったが、書類をざっと眺めただけでも、ささやかな外貨取扱法違反の他に、グルジア人たちを起訴に持ち込めるような材料は無かった。
困り果てた体で国家検察局のフェデュニンスキーに電話をかけ、リュトヴィッツは証拠集めのための時間がもっと欲しいと訴えた。
「放火未遂に関しては、証人がいます。出廷にはやや消極的なんですが」現実には、“やや消極的”というレベルをはるかに下回っている。「レストランの経営者です。証言するのを怖がってまして」
「分かった。24時間の拘留延長を、カリーニン地方裁判所に申請しよう。その間に、しっかりとした証拠を集めるんだ」
「ありがとう、伯父さん」
いつものウーステッドの黒い背広を着て、ギレリスが大屋敷の刑事部屋に現れた。まるでたった今、サウナから出て来たばかりのように見えた。
「くそ暑いな」喘ぎ声で言いながら、胸に汗で貼りついたシャツを引っ張り、汗まみれの顔に飛んできた蚊を追い払う。「まさにチュルキの夏だ、これは」
リュトヴィッツは、グルジア人たちへの措置と検察局とのやり取りについて説明した。
「たぶん、何か出てくるだろう」ギレリスの答えは楽観的だった。「出てくることを神に祈ろう。あのゴロツキどもをお咎めなしで釈放しましたなどと、刑事部長に報告するのは嫌だからな。ベルマンにテレビで何と言われるか、分かったもんじゃない」
スヴェトラーノフとクリコフが話を聞いてもらいたそうに、そばをうろついていた。ギレリスはスヴェトラーノフに顔を向けた。
「セルギエンコは、どうだった?」
「顔をひとつ、拾い上げました」スヴェトラーノフが写真を2枚差し出す。「アラム・ウルマーノフ。通称、《レスラー》です。もう1人は、多分こいつだろうということで・・・マカル・ナズドラチェンコ。通称、《小人(ドワーフ)》」
「そいつらの行方は、追ってるんだろうな?」
「ラザレフが、タレ込み屋に話を聞きに行きました。何かネタを掴んでくると思います」
「クリコフ、お前は?」
「デミトヴァ博士のことです。滞在している別荘の場所が分かりました。ラマノーソフの近くです」住所を書き留めた紙を、ギレリスに渡した。
「サーシャ、田舎へちょっとドライブとしゃれ込まんか?」
「絶好の日和ですね。有難くて涙が出ます」
リュトヴィッツは椅子の背から上着を取って、ギレリスと廊下を歩き出したが、五歩も行かないうちに立ち止まる。
「誰か、ガソリンが手に入る場所は知らんか?」
リュトヴィッツがジグリのハンドルを握ると、ギレリスからラマノーソフの別荘地に向かう前に、グリボイェードフのアパートに向かうよう言った。ヴィシネフスキー夫妻とフラットを共にするコズロフ夫人に話を聞くためだった。
刑事たちはコズロフ夫人がネフスキー大通りのパン屋に行こうとするところをつかまえた。アデリナは部屋に上がってもらいたがったが、ギレリスは歩きながら質問に答えてくれればいいと説き伏せた。
「お役に立つようなことがお話しできるとは思いませんよ」アデリナはしおらしい口調で言う。「主人が申し上げた通り、あたしたちは物事に敏感じゃありません。先日もね、テレビのニュースで、誰かがそこの角に赤ちゃんを捨てたって報道されてましたけど、あたしはきっと現場を何度も通りかかってるんですよ。赤ちゃんを捨てるなんて恐ろしいこと、想像できます?この国は一体どうなるんでしょう?それに、あたしはその赤ちゃんに気付かなかったわけですから」
「母親が赤ん坊を捨てるというのは、ロシアでは、あなたや私が生まれる前からよくあったことです。そこに、キリスト教の信仰が入ってきたわけでしょう」
「ええ。それが今や、どうなってしまったのか」
3人は角を曲がってネフスキー大通りに出ると、パン屋の行列に加わった。いつもながら辛抱強く順番を待つ主婦たちの話題は、食べ物の値段の高騰ぶりについてだった。酒を買う以外に行列にめったに並んだことのないリュトヴィッツは、ひと塊のパンが5ルーブルもするのを知って驚いた。
「ドミトリ・ヴィシネフスキーが殺されたとお知らせした時のことを覚えてますか?」ギレリスは言った。「ヴィシネフスキー氏がおたくの冷蔵庫から食べ物を盗んだというようなことをおっしゃってましたな」
アデリナが困ったような顔をする。
「お願いですから、忘れて下さいな」青いサテンのスカーフの下で、頬を少し赤らめながら言った。「あたし、どうかしてたんですよ。ヴィシネフスキーさんは、全然悪い人じゃありませんでした。バカなことを言ってしまって」
「いえ、バカなことだとは思いませんよ。何が盗まれたか、覚えてますか?」
「覚えてるかって?」勢い込んでうなづく。「頭から離れたことはありません。牛肉です。ほんの小さな塊ですけど。100ルーブル以上もしたんですから」
「牛肉?」リュトヴィッツが言った。
「あたしらがそんなものを買えるなんて、驚くでしょ?コツコツお金を貯めて、ようやくあの小さな塊を手に入れたんですよ。40回目の結婚記念日をお祝いするために」
ギレリスは困惑して、首を振った。
「いや、もっと違うものを予想してたんですがね。何か、もっと大事なものを・・・」
「あの牛肉よりも大事なものがあるんですか?」
「そういう意味ではなくて」ギレリスは苦笑いを浮かべる。「箱とかケースとかに入ってるもののことを思い浮かべてたんです。つまり、別の品物の容器に使えるような・・・他に盗られたものはありませんでしたか?」
「牛肉だけですよ」アデリナはため息をついた。ギレリスのがっかりした表情を見て、付け加える「すみませんね。お役に立てなくて」
「とんでもない、助かりましたよ」
丁重に頭を下げて、ギレリスとリュトヴィッツは行列から抜け出そうとした。
「どうしたのさ?」すぐ後ろに並んでいた老婦人ががなり声を上げる。「まだ気持ちが決まらないのかい?」
「違うよ」別の婦人が嘲笑交じりに言った。「よくいるだろ、こんな手合い。気まぐれで並んでみたけど、バカバカしくなって、やっぱり奥さんを呼びに行こうかってのさ」
「その奥さんは、運がいいよ」3人目の婦人が言った。「聞こえなかった?パンは売り切れだって」
刑事たちはそそくさとその場を立ち去った。
54
ラマノーソフは、サンクトペテルブルクの西40キロほどの所にある小さな町だった。隣接するペトロドヴォレツと同じく、帝政時代に夏の宮殿が置かれた地でもある。
刑事たちは目的地を捜し当てるのに、だいぶ手間取ってしまった。別荘地には所番地のようなものがなく、区画番号があるだけだったからである。
目当ての建物は大半の別荘と同様、木造の小屋に毛が生えた程度の造りで、だだっ広い区画整理地に、似たような安普請の家々と並んで建っていた。青く塗られた2階建てで、なまこ板の高い屋根に小さな杭垣が周囲を囲んでいた。入口の外に、旧型の白いジグリが停めてあった。
玄関のドアをノックしてから、リュトヴィッツは不快そうに鼻をひくつかせる。
「汚水処理タンクが臭ってますね」
「この暑さのせいだろう」ギレリスが言ったとき、ドアが開いた。
年齢は40歳前後。痩せ型できつい感じの女性だった。眼は淡い青。アルコールとは無縁ではない顔つきに、リュトヴィッツは親近感を覚える。
「レナータ・デミトヴァ博士?」
「そうですが」
ギレリスが身分証を見せた。
「いくつか質問に答えてもらえませんでしょうか?」
「何のことで?」
「ドミトリ・ヴィシネフスキーのことです。お時間は取らせません」
デミトヴァは肩をすくめ、ドアの脇へ退いた。
木の床に大きな鋳鉄製のストーブが置かれ、家具はあまり無かった。壁は本に覆われ、ウォッカの瓶の横にある灰皿でタバコが1本、紫煙をたなびかせていた。その傍に口の開いたブリーフケースが置いてある。ドアを閉めながら、デミトヴァが言った。
「申し上げる程のことがあるとは思えませんけど」
「実に多くの証人が、はじめにそういう台詞を吐いて、結局は捜査に役立つ情報を提供してくれるのです」ギレリスが言った。
デミトヴァは吸いかけのタバコを取り、再び吹かし始めた。
「たいへん快適な別荘ですな。休暇中ですか?」
「仕事を抱えての休暇です。たまっていた書き物を片づけてるところで」
ギレリスはウォッカの瓶に、それからブリーフケースに眼をやった。
「なるほど。うってつけの週を選んだものですな」シャツの襟を緩める。「市内は、まるで溶鉱炉ですよ。水を1杯いただけませんか?長いドライブだったもので」
「いいですよ」気乗りしない声。「よろしければ、レモネードがありますけど」リュトヴィッツに向かって、片方の眉をつり上げる。
「たいへんありがたいですね」リュトヴィッツは答えた。
デミトヴァがレモネードを取りに、小さな台所へ行く。ギレリスは本棚から1冊取り出して、パラパラとページをめくり始めた。
「市長と何か関係がおありですか?」台所に向かって聞く。
「いいえ」2個のグラスを持って戻ってきたデミトヴァは、2人の刑事がおいしそうにレモネードを飲み干すのを見守った。
「ドミトリ・ヴィシネフスキーのことだとおっしゃいましたけど」
「ええ、そうです。彼が殺された事件を捜査してるんです。彼の住所録に、あなたの名前が載っていました」
ギレリスはグラスを返して、また本の渉猟を始めた。
「まぁ、載ってるでしょうね。あの方が記事をお書きになるのに、いくつかの論文やデータを提供したことがありますから」
「いつの話です?」
デミトヴァは肩をすくめる。
「2年ほど前」
「それはつまり・・・」ギレリスは手にした本をかざしてみせた。「放射線生物学上の論文とデータということですね」
「ええ、その通りです」
「ヴィシネフスキーを知っていた全ての方に、詳しく話を聞かなくてはならないという事情をどうか汲んでいただきたいのですが、その記事のテーマというのは何についてのものだったか、覚えておいでですか?」
「チェルノブイリに関連したものだったと思います」
「単なる偶然かもしれませんが、ヴィシネフスキーの住所録にもうひとつ、原子力産業に関わる人間の名前がありました。アナトリー・ロマネンコ。お心当たりはないですか、デミトヴァ博士?」
「いいえ、聞いた覚えはありません」
「その男も、殺されたのです」ギレリスの口調は、投げ捨てるように素気なかった。
デミトヴァの青い眼が心もち大きく見開かれる。デミトヴァは深く息を吸った。
「なんということでしょう。ですが、わたしを原子力産業に関わる人間に含めるのは、無理があるかもしれませんよ。厳密に言えば、わたしは生物学者です。第一医科大学のね。わたしの仕事は、放射性トレーサーを使って代謝のプロセスを調べることなのです」
「ヴィシネフスキーと最後にお話ししたのは、いつのことですか?」
「2年前。先ほど、そう申し上げたはずですけれど」
「そうでした、そうでした」ギレリスは本を棚に戻した。「すると、あなたは彼が原子力産業をテーマに新しく記事を書いたり、ドキュメンタリーを作ったりする計画を持っていたかどうか、ご存じないわけですね?実は、サンクトペテルブルク周辺の大気中に存在する可能性のあるベータ放出体、つまりプルトニウムやポロニウム、アメリシウムなどに関するメモが彼の自宅から発見されまして」
「いいえ」デミトヴァの声が苛立ちの響きを増してくる。「何度も申し上げますけれど、あの方が何をしてらしたのか、わたしは全く存じません」
ギレリスは窓辺に歩いて行き、パッチワークのように並ぶ色とりどりの別荘を眺め渡した。大きく息を吸い込み、得心したようにうなづく。
「本当に快適な住まいだ。あなたの持ち物ですか?」
「いいえ、友人から借りているんです」そう言って、しばらく黙り込んだ。「もうご質問がないようでしたら、来客の予定があるものですから・・・」
「ああ、これは申し訳ない。おいとまいたします」
2人の刑事は、車を停めた場所まで道を戻った。
「収穫なしでしたね」リュトヴィッツが言った。
「まだ分からんぞ」
55
ギレリスは車を少し走らせて、木立の陰に来たところで停めるよう命じた。いま出て来た別荘とデミトヴァの車が辛うじて見える位置だ。助手席のウィンドーを下ろし、グラブコンパートメントを開けて、中のカセットをかき回し始める。
「別荘から眼を離すな」カセットを次々と肩越しに後部座席に放り投げながら、ギレリスは言った。
「あの先生が嘘をついてたってことですか?」
「私がベータ放出体の話をしたのを聞いてただろ?本当はアルファ放出体だ」
リュトヴィッツは感心したような顔をした。
「どこからそんな知識、仕入れたんです?」
「あそこでめくってた本からだ。つまり、レナータ・デミトヴァ博士は我々を帰らせたくてたまらなかった。そうでなけりゃ、私の間違いを訂正したはずだろう?」
探していたテープが見つかり、それをプレーヤーに差し込む。
「これを聴けば、もっとはっきりする」
KGBがドミトリ・ヴィシネフスキーの通話を録音したテープだった。何度も聴き返したのか、ギレリスは内容をほとんど暗記してしまっている。ほんの少し聴いて、すぐに早送りのボタンを押し、目当ての箇所に行き着いた。
《あなたにちょっと、頼みたいことがあってね。興味があればの話だけど》
《どういったテーマかしら?》
間違いなく、デミトヴァ博士の声だった。ギレリスは満足げに口元を緩める。
「聞き覚えのある声だと思ってたんだ」そう言って、テープを少し巻き戻し、その短いやり取りをもう一度再生した。
「ドミトリ・ヴィシネフスキーは殺される3日前に、デミトヴァ博士と話してた」
「別荘に戻って、この証拠を突きつけてやったらどうでしょう?」
ギレリスは首を振る。
「まだその段階じゃない。まずは、我々をけむたがる理由があったのかどうか、確かめよう」日差しをまともに顔に受け、眼をつぶった。「それに、張り込みにはおあつらえ向きの天気じゃないか」
15分が過ぎ、ギレリスは穏やかなため息をついた。もう少し粘ってみても害はない。これはチェスにも似た忍耐のゲームなのだ。そう思っていたとき、エンジン音が聞こえ、ギレリスがリュトヴィッツの肩を叩いた。
「来客の予定は、どうなったのやら」
白いジグリが苦しげな走りで近づいて来て、木立の向こうを通り過ぎるのを、2人は姿勢を低くして見送った。
充分な間を置いてから、リュトヴィッツも車を発進させ、後を追った。砂利道の出口でジグリはいったん止まり、幹線道路に出ると、市内に向かって東へ走った。
デミトヴァはさほど急いでいるようでも無かったので、車間を空けても大丈夫だと思われた。ところが、白のジグリはほどなく幹線道路を降り、ペトロドヴォレツの町に入っていったあたりから、形勢があやしくなった。
「脇道に入って、尾行されてないか確かめる気かもしれんぞ」
白のジグリはクラスヌイ大通りを走り、鉄道駅のそばで停まって、デミトヴァが降りた。ギレリスは一瞬、博士が汽車で市内に向かうのではないかと思ったが、すぐに道路を渡って、公園に入って行くのが見えた。
2人の刑事も車を降り、観光客の群れに紛れるため、上着を脱ぎ捨てて、シャツの袖をまくり上げた。ギレリスは興奮に眼を輝かせている。目立たないように木々の間をすり抜けながら、後を追う。
「何をする気でしょう?」リュトヴィッツは言った。「大佐がおっしゃったように、尾行をまくつもりかもしれませんね」
「放射線生物学では、そんなことまで教えるのか?こっそりと、放射性トレーサーでも仕掛けておくんだったな」
ピョートル大帝の大宮殿の正面に回り、公園を南北に分ける海水路に沿って、フィンランド湾の方へ歩き始めた頃、2人はゆっくりしていたデミトヴァの歩調がかなり速くなっていることに気づいた。
「見られたはずはない」小走りのペースに移行しながら、ギレリスは言った。
そのとき、前方に水中翼船が見えてきた。
デミトヴァが舷門から乗り込むと、次の瞬間、白い船はするすると岸壁を離れた。ギレリスが大声で毒づく。
「そりゃそうだ。ここから市内まで、たったの30分だからな。考えに入れとくべきだった。2ルーブルで行き来できるのに、ガソリンを無駄遣いする奴がいるか?」
2人は湾に背を向け、駅の方へ走り始めた。車にたどり着くまで、数分かかった。ジグリのエンジンを始動させるリュトヴィッツのそばで、ギレリスが腕時計に眼をやる。
「追いつけますか?」
「ぎりぎりだな。だが、もし追いつけなくても、どうやら行き先の見当はついた」
相手に悟られない距離から、2人は水中翼船がエルミタージュ美術館の桟橋に着くのを見守った。降りてくる乗客はほとんど外国人観光客で、比較的粗末な身なりをしたデミトヴァの姿はすぐ眼についた。
水中翼船を降りたデミトヴァはレーニン博物館に向かって、宮殿川岸通りを北へ歩いていった。遠ざかっていく後ろ姿を見ながら、リュトヴィッツは言った。
「どうします?」
「市電に乗って、橋を渡ると思うな。それも、たぶん2番の電車だ」
ギレリスはスヴォーロフ広場で車を停めるよう言い、タバコに火を付けた。
「答えを教えて下さいよ」
「パブロフ第一医科大学だ」
ギレリスの推理通り、デミトヴァはペトログラードスキー方面行きの2番の市電に乗った。キーロフ橋は南北に四車線が走る市内最大の橋で、市電の軌道が橋の中央を占有している。橋を渡ると、市電はクビセーヴァ通りに入った。
市電の終点はカパイェーヴァ通りの近代的な赤煉瓦の建物だった。パブロフ第一医科大学の附属病院の真正面だった。市電を降りたデミトヴァは前庭の芝生を横切って、玄関を入って行った。
2人の刑事も車を降り、病院まで歩いて行く。ギレリスが玄関にいた守衛に身分証を提示した。
「いま入って来た女性、デミトヴァ博士のことだが」
守衛がうなづく。
「どこへ行った?」
「研究室ですよ。2階の、階段を上って右へ行った236号室」
「ありがとう」
「電話をしておきましょうか?」
ギレリスはにっこりして、微笑んだ。
「いや、挨拶は自分たちでするよ」
2階へ上り、廊下を右に行くと、デミトヴァ博士の研究室のドアが開いていた。2人が無言で見つめていると、デミトヴァは冷蔵庫からカチカチに凍ってビニール袋で何重にも覆われたものを取り出しているところだった。
研究室に踏み込みながら、ギレリスは言った。
「お預かりしましょうか、デミトヴァ博士?」
56
デミトヴァは悲鳴を上げ、包みを手から落とした。リノリウムの床に石をぶつけたような音がする。平静を取り戻すと、デミトヴァは敵意に満ちた眼で刑事たちを睨んだ。
「人をつけ回したりして、どういうおつもりですか?」
「事態をこれ以上、悪化させるのはやめましょう」
ギレリスはそう言って、冷たい包みを拾い上げる。
デミトヴァはため息をつき、備え付きのスツールにどっかり腰を下ろした。タバコに火を付けて、気持ちを静めようとする。
「それは何です?」たまりかねたように、リュトヴィッツは聞いた。
ギレリスは包みの臭いをかぐと、それを作業台の上に置いた。
「肉だよ」そう言って、流し台へ行き、丁寧に手を洗い始める。「ドミトリ・ヴィシネフスキーがデミトヴァ博士に分析してもらいたかったサンプルさ」
リュトヴィッツは作業台の方に進み出て、包みを手に取り、顔を近づけた。
「よせ、触るんじゃない」ギレリスが言った。手を振って水を切り、流し台の横に掛けてあったタオルで拭いた。
「放射能はどれぐらいですか、博士?」
デミトヴァは紫煙を天井に向かって吹き上げ、それからハンカチを捜した。眼の周りを拭いながら言う。「通常のサンプルに比べ、この組織は約1000倍の放射能を持つプルトニウムで汚染されてます」
ギレリスはタバコに火を付け、マッチを冷凍肉の方へ振ってみせる。
「じゃあ、私がこの肉を食べたとすると・・・」
「あなたがもし、この肉を毎日50グラムずつ1か月摂取できたとすると・・・想像して下さい、今のロシアで1か月、毎日肉が食べられるなんて・・・」仮定そのものが滑稽千万だというように、デミトヴァは笑った。
「計算上の数値をうかがっているのです。学者として、お答えください」
「年間最大許容量の倍に当たる放射能をひと月で吸収することになります。通常の自然放射線の摂取量をこれに加えると、かなり深刻な問題になることは確かね」
「ヴィシネフスキーは、どこでこれを手に入れたんでしょう?」
「それは分かりません。彼は言いませんでしたし、わたしも尋ねませんでした。分析が完了したときは、彼は亡くなってました」
「なぜ、警察に訴え出てこなかったんですか?それに、なぜ今になって嘘をつくのです?」
デミトヴァは口をとがらせ、悲しげに首を振った。
「巻き込まれたくなかったんでしょうね。テレビでは盛んに、ヴィシネフスキーの死は恐らくマフィアが絡んでいると言ってました。敵対するような行動を取ったから、殺されたんだと。わたし、怖かったんです。それで、しばらく身を隠すことにしました。そこにあなた方が現れて、他に死者が出たとおっしゃったので、わたしは多分パニックに陥ったんです。この肉を処分した方がいいと考えました。持っていることを誰かに知られないうちに。自分まで殺されてしまわないうちに」
「これを、どうするつもりだったんです?」
「病院の焼却炉に入れようと思ってました。人体の標本と一緒に」タバコを一服、ゆっくりと燻らし、肩をすくめる。「ごめんなさい。浅はかな考えでした。どうして、そういう方向に気持ちが動いてしまったのか・・・わたし、刑務所に入れられるんでしょうか?」
「それは全て、捜査に協力して下さるかどうかにかかってます。まず、この肉がどうして放射能を帯びるに至ったか、説明してもらえますか?」
「それは、わたしもずっと疑問に思ってました。わたしなりの結論は、ソスノヴィ原発の原子炉に何か事故が起こったのではないかということです」
「前例もありますしね。つい二週間前、放射性のヨード・ガスが漏れたばかりですから」
デミトヴァは首を横に振った。
「食物連鎖のあの段階まで達するには、放射能漏れはもっと以前でなくてはなりません。少なくとも、半年前」
「ありえますか?」リュトヴィッツは言った。「そんな事故があったなんて、誰も知らされてないのに」
「ソスノヴィ原発では七〇年代半ばに、大事故が二回発生してます。それが一般に知らされたのは、ずっと後のことでした」
「何らかの隠蔽が行われたということですか?」ギレリスが聞いた。「チェルノブイリの時みたいに?」ゆっくりと首を振る。「それは無いでしょう。共産党が消滅して、世の中は変わってしまったんですから。おまけに、我が国は原子炉の管理を厳しくしようとしています。ここでまた隠蔽工作が発覚したら、西側のエネルギー機関からの援助が打ち切られてしまうじゃないですか」
「こういう問題については、わたしより良くご存じのようですね」
「その上、マフィアが絡んでる可能性となると、どの程度のものでしょう?」
ギレリスの言葉に、デミトヴァは肩をすくめただけだった。
「肉ですよ・・・」リュトヴィッツは思い出したように言った。「マフィアが原発に絡んでくるとすれば、肉の売買・・・辻褄が合います」
「何の辻褄が?」
「グルジア・マフィアが、フォンタンカ運河沿いのレストラン・トルストイに火炎瓶を投げつけた事件は話しましたよね?」
ギレリスはうなづいた。
「この前、オーナーのモロゾフを再聴取した際、このご時世にも関わらず、調理場の冷凍庫に肉のカートンが山ほど積まれていたのを見つけたんです。怪しいと思い、入手元を問い詰めましたが、シラを切りまして。どこかのマフィアが放射能に汚染された肉を安く売り捌いてる可能性があります」
ギレリスは驚きの表情を浮かべると、デミトヴァに向き直った。
「博士、ここにガイガー・カウンターはありますか?」
「ラジオメーターがあります」戸棚の鍵を開け、カメラマンの露出計に似た器具を取り出した。「ガイガー・カウンターより感度が高いですよ」
冷凍肉の上にその器具を持っていき、ダイヤルにギレリスの注意が引き寄せる。
「最高領域のセッティングでは、針はほとんど動きません」セッティングのつまみを一八〇度回した。「しかし、最低領域だと、このサンプルがかなりの量の放射線を発していることが分かります。毎時約五百ミリレントゲンですね」
ギレリスはラジオメーターを受け取り、自分でも測定してみた。それから、器具の下の方に眼をやり、製造業者の名前を読み上げた。
「アストロンか。ちょっとした驚きだな。ソ連製なのに、まともに動いてる」
57
刑事たちはフォンタンカ運河沿いのレストラン・トルストイの前に立ち、呼び鈴を鳴らしていた。火炎瓶が投げ込まれた時に割れた窓に、新しいガラスがはめられていた。
刑事たちの姿を見て、モロゾフはげんなりした顔をした。
「今度はなんです?」泣きそうな声を出す。「この一週間ずっと、あなた方の質問に答え続けてきたんですよ。そろそろ解放してくれませんか?」
応援で大屋敷から駆けつけたスヴェトラーノフが大きな手でモロゾフの胸を押し、道を空けさせる。
「営業妨害ですよ。あんまりだ。市議会にこのことを訴えます」
「そうしてくれ、同志」
ギレリスはそう言って、店内を突っ切り、調理場へ入っていった。ちょろちょろとゴキブリが一匹、行く手を横切る。
料理長はリュトヴィッツと変わらない程の大男で、コサック風の口髭を生やし、血の染みがついた汚いエプロンをしていた。肉切り包丁でせっせと胡瓜を切っていたが、刑事たちの姿を見ると、その手を止め、威嚇するように睨みつける。
「おい、どこへ行こうってんだ?」大きな包丁をギレリスの胸に向けて言った。
「民警だ、トポルコフ」モロゾフが言った。「いいから、包丁を降ろせ。揉め事は困る」
「そう、言われた通りにした方がいいぞ」スヴェトラーノフが言った。
「俺の調理場に、俺の許可なしに入れる奴はいねぇ」喧嘩腰のがなり声だった。「民警だろうが、何だろうとな」
リュトヴィッツは胡瓜のボウルの傍に、蓋の開いたウォッカの瓶が立っているのに気づいた。トポルコフぐらいの体格の男が相当量の酒を飲んでいる時には、扱いに気をつけなくてはならない。こちらも、度胸付けのアルコールが欲しいところだった。
「この前来た時には、アンタの姿を見かけなかったような気がするな」
「おれがいなくて、幸いだったぜ。もしいたら、お前の両耳をちょんぎって、煮込んでたとこだろうからな」ウォッカの瓶を取り、ぐいっと喉に流し込む。
リュトヴィッツはすばやくトポルコフの肘を掴むなり、包丁を持った手を捻って肩に押しつけた。激烈な痛みに、トポルコフは大きな悲鳴を上げて、包丁と瓶の両方を床に落とした。すかさずスヴェトラーノフが前に躍り出て、手錠をかける。
「そこに座って、大人しくしてろ」ギレリスが言った。
トポルコフはロシア産シャンパンのケースに座り、がっくりとうなだれた。モロゾフが宥めるように、料理長の広い肩に手を置く。
「大丈夫だ。気にするな」
リュトヴィッツが冷凍室の扉を開け、まるで好きな絵画を鑑賞するように、中の様子をじっくりと観察した。
「申し上げたでしょう」モロゾフが言った。「うちの肉はみんな、ちゃんとしたところから仕入れてるんです」
ギレリスが中に入り、ラジオメーターのスイッチを入れた。器具を肉のカートンに向けると、針が端までいっぱいに振れる。
「何のマネです?お願いですから、出て来ていただけませんか。たいへん不衛生ですし」
「まさしくそうだ。この肉が放射能を帯びてるのを、知ってたか?」
「放射能?」モロゾフは笑った。「分かりましたよ。そうやって、火炎瓶を持ち込んだ犯人たちについての証言を、引っ張り出そうというんですね。警察も犯人も、タチの悪さじゃどっこいどっこいだ。その手には乗りませんよ」
「ご明察と言いたいところだが、これを見ろ」ギレリスはラジオメーターのダイヤルの震えている針を指差した。「ラジオメーターだ。ガイガー・カウンターと似たような物だが、こっちの方が感度は良い。この機械によると、ここにある肉だけで、小さな町ひとつ分ぐらいの電気が起こせるぞ、モロゾフ。ということは、この店は当分、閉鎖だな」
「そんなこと、出来るはずがない」
「ああ、私にはその権限が無い。だが、保健局と放射線管理委員会のお役人が来たら、即刻閉鎖を命じるだろう。そのあと営業再開できるかどうかは、肉の仕入れ先に関する君の証言しだいだ」
モロゾフが首を振る。
「わたしが藁の舟で川を下ってきたとお考えのようですね」せせら笑うように言った。
ギレリスは肩をすくめ、腕時計を見た。オレンジ色の錠剤が入った瓶を取り出し、リュトヴィッツとスヴェトラーノフに一錠ずつ与える。
「ほら、ヨード・カリを飲む時間だぞ」そう言って、自分も一錠飲んだ。
「何の薬です?」モロゾフが怪訝な顔で聞く。
「ヨード・カリか?放射性ヨード131が甲状腺に蓄積するのを防ぐのさ。甲状腺は、人間の器官の中でも放射線にいちばん敏感だからな。この肉のそばに立ってるだけでも、かなりの影響を受けてる」
モロゾフは顔を曇らせ、手で喉のあたりを触った。
「これを食べたりしたら、どんな害があるか、分かったもんじゃありませんね」スヴェトラーノフが追討ちをかける。
モロゾフの手が鳩尾まで下りた。腹を擦って、おくびを漏らす。
「なんだか気分が悪くなってきた」積まれた肉のカートンに疑いの眼を向けながら言う。「そろそろここを出なくては・・・」
その行く手に、リュトヴィッツが立ちはだかった。
「まだ早すぎるぞ」
ギレリスがニヤッとして、ラジオメーターを思わせぶりにモロゾフの喉に向ける。ダイヤルを見て、険しい表情で首を振った。
「どうしたんです?」モロゾフが言った。「なんと出てるんです?ねぇ、わたしにもその薬を下さいよ」
ギレリスはオレンジ色の錠剤の瓶をモロゾフの眼の前にかざした。
「これか?これはとても高いんだ。そもそも、君の分まであるかどうか・・・」
薬の瓶を掴み取ろうとしたモロゾフの手を、スヴェトラーノフががっちりと抑える。
「分けてやってもいいが」ギレリスは言った。「その前に、この肉の仕入れ先を聞かせてもらわんとな」
「分かりました、分かりましたよ」モロゾフは疲れ果てたようにため息をつく。「レオニード・スヴォリノフという男です。週に一度やって来て、欲しいだけの量の肉を売ってくれるんです。羊や豚もありますが、牛肉が主ですね。一キロ百ルーブル。どれも、品質は最高級・・・いえ、今までは、少なくともそう思ってました」ギレリスに向かって、眼を剥いてみせた。「もう薬をいただけるでしょうか?」
「そのレオニード・スヴォリノフは、どこから肉を仕入れてくるんだ?」
「白ロシアの南部から、月に二回、荷が入ると言ってました。スヴォリノフはウクライナ・マフィアの人間なんですよ。三か月ほど前に、キエフでECからの援助食糧を丸ごと強奪したらしくて、それをペテルとモスクワで売り捌いてるんです」
ギレリスは思わずリュトヴィッツと眼を合わせた。
「連中がどうやって肉をペテルに運んでくるか、ぞっとするような絵が浮かんできたぞ」
「その錠剤を下さいよ」モロゾフがうめくような声を出す。「お願いです」
「大屋敷でちゃんと供述をすませてからだ」ギレリスは薬の瓶をリュトヴィッツに渡した。「ついでに、グルジア人たちの放火未遂も供述しろ」スヴェトラーノフが言った。「これでようやく、カタがつく」
リュトヴィッツは瓶を見て、ポケットに入れた後、ギレリスの方へ上体を傾けた。「何の薬です?」と、耳元でささやく。
「健胃剤さ」ギレリスはにんまりと笑い、スヴェトラーノフに言った。「モロゾフをよろしく頼むぞ」
「大佐はどちらへ?」スヴェトラーノフが聞いた。
「サーシャともう一度、アングロ・ソユートザム運輸に行ってみる」
58
リュトヴィッツは、ラマノーソフに近いデミトヴァ博士の別荘に行くとき通った道を、また走らされていた。消耗する一日だ。しかし、少なくとも何かに近づきつつあることはギレリスの表情からうかがえた。
ギレリスの姿を見て、ポターニンはむっとしたような顔をした。
「輸送車隊が戻ったら、お電話を差し上げると申したでしょう。忘れてはおりませんよ」
「トーリャのトラックを、もっとよく見せていただきたいと思いましてね」
ポターニンが先立って、巨大な車両が停まっている元テニスコートへ出た。
「どうぞ、ご覧ください」誇らしげな口調で言う。「元々はイギリス陸軍用に造られたもので、八トンの車台に廃棄物をコンテナに積み込むためのクレーンが搭載されております。コンテナ内は準冷蔵で、積み荷の温度が低く保たれます。風防ガラスに鎧板が張ってあるのは、テロリストの襲撃に遭った際、運転手の被弾を防ぐためのものです」
ギレリスは運転台に乗り込み、ハンドルの前に座った。計器類をひと通り見て、感心したようにうなづいた。
「そこにあるのが、非常消火システムです」ポターニンが説明した。「それから、このつまみで、コンテナ内の温度を調節します」
「トラック同士の通信はどうなってるんです?」ギレリスは聞いた。「無線らしきものは見当たりませんが」
「あ、いや・・・それはつまり、短波の周波数帯はほとんど国の公安機関に押さえられておりまして・・・我が社もだいぶ前から、周波数を得るべく努力しておるのですが」肩をすくめる。「とりあえずは、無線なしで走らざるを得ません」
「廃棄物を目的地で降ろした後、トラックはどうなるんですか?」
ポターニンはダッシュボードにある別のスイッチを指差した。
「これで、特別除染プロセスが作動します。このトラックは、自動的に内部を洗浄するようになっているのです。それから、トラックが立入禁止区域の境界まで来た時、運転手が備え付けのホースを使って、除染剤で外面を洗うことになっております」
「それで、どの程度の放射能が取り除けるんですか?」
「放射線レベルは、許容範囲内まで落ちると思います。ただ、その点は私の専門分野ではございませんので、精確な数値がお知りになりたければ、科学管理部にお尋ね下さい」
ギレリスは口元をほころばせ、ラジオメーターを相手に見せた。
「自分で測定しても、構いませんかな?」
ポターニンは顔をしかめる。
「それはもう」及び腰の声で言った。「構いませんですとも。我が社には何も、隠すようなことはございません。ですが、せめて理由をお聞かせ願えましたら・・・」
ギレリスはダッシュボードのスイッチを入れると、運転台を降りて、トラックの後部に回った。大きな扉が開き、リュトヴィッツがラジオメーターを持って荷台に乗り込んだ。ラジオメーターのスイッチを入れると、コンテナの端から端まで往復した。すでに除染剤で洗浄してあるはずなのに、ダイヤルの針は八百ミリレントゲンを示した。器具のスイッチを切って、リュトヴィッツはポターニンの横に跳び下りた。
「除染した後は、コンテナを空にしたまま戻ってくるんですか?」
ポターニンが見るからに不満そうな顔をする。
「それはそうですよ。他に何を、このコンテナに積もうとおっしゃるんですか?」
ギレリスはタバコに火を付け、穏やかな嫌悪の眼差しをトラックに向けた。
「闇運送については、ご存じですか?」
ポターニンが鼻をひくつかせる。
「存じておりますとも。もう何十年も、運送管理の仕事をしてきましたからね。しかし、我が社のトラックに不法に荷を積もうなどと考える人間がいるとは思えません。このような環境で三、四日も運ばれたら、どんな荷物だってある程度、放射能に汚染されてしまいます。たとえ洗浄した後であってもね」
「それは、大した問題にはなりませんな。少なくとも、マフィアにとってはね。連中は、放射能汚染などに神経をとがらせたりはしない。大きな儲けが眼の前にぶら下がってるんだから」
「そろそろ、我が社に何が起こってるかのを、聞かせていただいてもいいころではありませんか?」
「マフィアのある組織が、おたくのトラックで冷凍肉を運び込んで、ペテルのコーペラチヴのレストランに売り捌いてるんです。キエフの人々の口に入るはずだったECからの援助食糧をね」
ポターニンの口が、空気の抜けたタイヤのようにだらんと下がる。
「ご冗談でしょう」
「いや、大真面目です。不法な食糧の供給に眼を光らせてる税関や民警の裏をかくのに、これ以上の方法があるでしょうか。誰もわざわざ、放射能に近づくようなマネはしませんからね。チェルノブイリがあった後では」
「しかし、もしおっしゃる通りだとしたら、これは大変な事ですよ。それに、うちの運転手がそういうことに関わりを持つことなど、とても信じられません」
「マフィアは人を思い通りに動かすために、どんなことでもします」
ギレリスは肩をすくめる。
「ただ、念のために全員の人事ファイルを後で見せて下さい。保安措置がどんなに万全でも、綻びやすい個所がどこかにあるかもしれません」
ポターニンはまだ、事実を受け止めかねているようだった。ぎこちない手つきで、タバコに火をつける。
「しかし、その肉は取り返しのつかないくらい汚染されることになりはしませんか」
「ええ、その通りですよ。しかし、さっきも言った通り、マフィアは気にもしないでしょう。放射能汚染は、眼に見えるものじゃありませんからね。ただ、トーリャはそれを気にしてたと思います。ベジタリアンになったのも、多分そのせいでしょう。どちらにせよ、彼はヴィシネフスキーにその情報を伝えることにした」
ポターニンの福々しい顔から血の気が引いていく。
「しかし、なぜ肉をここまで運んでくるんです?キエフで売ればいいじゃないですか?」
「ペテルのコーペラチヴのレストランに入ったことはありますか?同じ料理でも、キエフで食べる場合の数倍の値段が付いてます。観光客のおかげでね。それに、ウクライナがどれほど深刻な品不足に陥っているとしても、ペテルに比べれば、食糧事情はうんと恵まれてるはずです。なにしろ、かつてはロシアの穀倉地帯を呼ばれた土地ですから」
ポターニンはトラックに背中をもたせかけた。顔色が蒼くなっている。
「輸送車隊は今、どの辺を走ってるんです?」
「中に入っていただいた方がよろしいですね」
二人の刑事はポターニンのオフィスに入り、地図でトラックの現在地を確認した。
「今夜の目的地はここ、プスコフです。そして、道中何ごとも無ければ、明日の夜にはペテルへ戻ってくるでしょう」
「ありがたい。それなら、歓迎の準備を整える時間があります。うまくいけば、現行犯で捕まえられる」