〇復帰
突然の開戦から6週間が経過していたが、実際にはスモレンスクがドイツ軍に奪われるまで、ソ連軍には政府による強力な統制は存在しなかった。スターリンは戦況の報告を受けながら、クレムリンで通常の業務を続けていた。スターリンは戦況の報告を受けながら、クレムリンで通常の業務を続けていたが、6月28日に白ロシアを奪われたことにショックを受けて、公の場から姿を消してしまった。
スターリンが気を取り戻して、本格的にクレムリンで戦争指導に参入したのは、7月1日のことだった。その前日、モスクワ郊外クンツェヴォの別荘にモロトフ外相、ヴォズネセンスキー副首相、ベリヤ内相をはじめとする共産党政治局の幹部が訪れた。
スターリンは幹部たちが緒戦の敗戦の責任を取らせようと、自分を逮捕するのではないかと疑い、ソファに深く腰掛けたまま身構えた。
「君らは何しに来たのかね?」
「権力を集中して戦争遂行にあたる、新しい機構が必要になります」モロトフが言った。
「誰がそのトップになるべきか?」
「もちろん、あなたがなるべきです」
モロトフの答えにスターリンは内心おどろいたが、次第に気を落ち着いてくると、その要請を快諾した。
7月1日、クレムリンに戦時最高指導部として「国家防衛委員会(GKO)」が設立された。「総司令部」と赤軍参謀本部を傘下に置く国家の最高執行機関であり、その委員は共産党中央委員会政治局のメンバーがそのまま兼任した。
7月3日、スターリンは国民に向かって初めてラジオ演説を行った。演説の冒頭で「同志諸君、市民のみなさん、兄弟姉妹よ、わが陸海軍の戦士たちよ、私は諸君に訴える、我が友よ」との思いがけない呼び掛けに、ラジオを聴いていた国民は何か異常なものを感じ取った。独裁者はこれまで一度もこのような親密な言葉を発したことが無かった。
さらにスターリンはこの戦争を1812年の戦役にならって「大祖国戦争」と名付け、総力戦への団結を訴えた。
「我が国に迫った危険を一掃するには何が必要か?まず、国民が危機の深さを理解して平和な気分を捨て去らねばならない。我々はいっさいの活動を戦時の体勢に改編しなくてはならない。我々は赤軍に対する全面的な援助を組織し、赤軍が必要とするものすべてを供給し、傷病兵に対する救護組織をつくらねばならない。
また、我々は銃後の秩序攪乱者、脱走者、デマを流す者を容赦なく軍法会議にかけなくてはならない。赤軍がやむを得ず退却する場合は、1台の機関車も、1台のトラックも、1キロの穀物も、1リットルの燃料も1頭の家畜も敵の手に渡してはならない。敵に占領された地域では、破壊活動を行うパルチザンを結成しなくてはならない。
我々の総力を上げて、わが英雄的な赤軍、栄光ある赤色海軍を支援せよ!」
7月10日、今まで戦争指導部として機能していた「総司令部」を拡大して「最高司令部(スタフカVK)」が設立された。議長には西部正面軍司令官となったティモシェンコに代わって、スターリンが就任した。その参謀業務は病身のシャポーシニコフがジューコフの代わりに健康の許す限り代行し、スターリンから信任された軍の将官たちは司令官もしくは調整官として、政府から危険な地域へのてこ入れを実施するために各地に派遣された。
このとき複数の正面軍を統轄する上級司令部として、3つの新しい戦域司令部を設立された。北洋艦隊とバルチック艦隊を含む北西戦域司令部はヴォロシーロフ、西部戦域司令部はティモシェンコ、黒海艦隊を含む南西戦域司令部はブジョンヌイを司令官とした。
これらの戦域司令部には指揮官や参謀長と同格の政治将校(コミッサール)が配属され、ジダーノフ、ブルガーニン、フルシチョフがそれぞれ任じられた。これはスターリンが赤軍に対して全幅の信頼を置いていなかった表れであり、将軍たちは赤軍政治局長にメフリスが就任したことからもそのことを感じ取った。メフリスは4年前の粛清で大きな役割を果たしていた。
7月19日、スターリンはスモレンスク陥落の責任からティモシェンコを国防人民委員長(国防相)の職務から更迭し、自ら兼任すると決定した。ついにスターリンは、ソ連軍の全軍を掌握する最高司令官として戦線の陣頭に立つことになったのである。
〇新兵力の生成
ドイツ陸軍参謀本部は6月21日の時点で、東方外国軍課の情報に基づいてソ連軍の兵力の算定を行っていた。その算定によると、狙撃師団171個(実際の約75%)と騎兵師団25個半(約196%)、機械化旅団37個(約30%)と推測されていた。
この数字が物語る通り、ドイツ軍の情報分析官たちはソ連軍の機械化状況を著しく過小評価しており、その戦車部隊が「軍団」や「師団」ではなく「旅団」単位で運用・編成されていると考えていた。
さらに装備する戦車については、スペイン内戦時に遭遇したT26軽戦車やBT5およびBT7快速戦車、そして演習時に使用されるT28やT35については確認していたものの、新型のT34やKV1やKV2の存在をまったく把握していなかった。そのため、緒戦時にドイツ軍がこれらの部隊に遭遇した時には大きな動揺が走った。
しかし、ドイツ軍が犯した最大の誤りはソ連軍が粉砕された部隊を再編成して、無から新たに兵力を生成する能力を見落としていた点にあった。7月初旬に「独ソ戦」はもう勝利したと考えていた陸軍参謀総長ハルダー上級大将は、8月11日付けの日記に自分の見解の誤りを認めている。
「すべての状況が、我々が巨人ロシアを過小評価してきたことをますます明らかにしてきている。ソ連の師団は我が方の基準に適った装備を持っていないし、その戦術指揮はかなりお粗末なものである。だが彼らはそこにあり、たとえその1ダースが粉砕されたとしても、彼らは直ちに別の1ダースを配備する」
国防人民委員会(国防省)は開戦と同時に、新たな野戦軍を段階的に創設する作業を開始した。赤軍参謀本部は当面の作戦に対処するだけで精一杯になり、7月23日に新兵力の生成は人民委員会と各軍管区に委託された。戦場になっていない軍管区では、基幹部隊に予備兵役を充当し、かつ現存の現役兵部隊を拡充するための組織を設立した。
こうして6月中に530万人の予備兵役が招集され、これによってその後の動員が成功した。7月には新編の13個、8月には14個、9月には1個、10月には4個軍が形成された。この動員組織が抱えていた兵力は11月から12月にかけてモスクワを防衛するためにさらに8個軍を提供できるようになっており、これに東部の軍管区から移動してきた現役兵部隊と合流した。
また、モスクワやレニングラードをはじめとする大都市では、その都市の共産党委員会が積極的に「民兵師団」を作り上げた。多くの市民が七月三日のスターリンの演説を聞いて志願し、1941年12月まで10個師団が形成されたが、当然のごとく兵士としてのスタミナと訓練に欠けていた。だが、後には工兵隊、通信隊、衛生隊が組み込まれ、正規の狙撃師団として改編されていった。
ソ連軍は1941年12月までにドイツ軍が算定した数の2倍の師団を新たに編成することに成功したが、当然のことながら戦前からあった師団と新たに動員された師団とでは比較にならなかった。
緒戦の数週間で、訓練と装備の良好な師団の多くが失われ、後詰めの師団は政治将校と小銃の他は何も持っていなかった。さらに、これらの師団はあまりに早急に編成されたために、部隊としての訓練をする時間がほとんどなく、未熟な指揮官と兵員たちは戦闘での自分たちの役割をまったく把握していなかった。
1941年の秋から冬にかけて、ソ連軍がいつもお粗末な行動しか取れなかった事実にはこのような原因があった。お粗末なソ連軍との戦闘を通じて、ドイツ軍は「敵は自分がすでに敗北していることを認識していない」との印象をますます強めさせることになった。
〇疎開
ソ連の重工業がドイツ軍に押収されることを防ぐために集団で移転したことによって、1941年の弾薬と武器の欠乏はさらにひどくなった。ドイツ軍侵攻以前は、ソ連の工業生産の製造工程のほとんどが国土の西側にあり、特にレニングラードとウクライナ東部の主要工業地帯に偏在していた。
「国家防衛委員会」は早くも6月24日には、これらの工場設備を東方に疎開させるための「避難評議会」を設置した。この大規模な疎開の調整業務は、「国家工業計画委員会(ゴスプラン)」議長兼副首相ヴォズネセンスキーに任された。そして、疎開の指揮を議長代理のコスイギンが執ることになった。
中央指令型のソ連経済では、工場と現有の設備、原料供給の3点をうまく組み合わせるには注意深い移送計画が不可欠だった。労働者には住宅をあてがい、遠い疎開先で食料を配給し、工場の規模によって労働条件を柔軟に変更する必要があった。
特に電気系統は設備の取り外しのために、最後まで稼動させておき、疎開先で再び組み立てなおさなくてはならなかった。こうした全ての工程が戦時の需要に応じる生産体制に切り替えられつつある状況で、しかも熟練した整備工を定期的に軍隊に徴集されていく中で実行されなければならなかった。
1941年七月から11月までに、合計で1523工場うち軍備に関する1360場がウラル工業地帯、ヴォルガ河流域、シベリア、中央アジアへと移転した。この間に貨車150万両分の工場設備がバルト諸国、白ロシア、ウクライナから搬出された。また、首都モスクワでは10月から11月にかけて、500社を超える企業と21万人の労働者が疎開した。
だが、実際の移送作業は混乱を極め、移動した熟練工もわずかだった。疎開先に連射が到着した頃には厳しい冬の気候と永久凍土のために、どんな型の建造物でも建設には時間が掛かった。やっとのことで機械類の荷下ろしがなされ、応急で造られた暖房もない木造の倉庫の中で組み立てが始められた。作業はほとんど深夜まで行なわれ、梁に電灯をつるし、焚き火で暖と明るさを補った。
大多数の工場は目的地に到着してから6~8週間後には生産を開始し、ソ連の軍需生産力はほぼ1年をかけてその全力を発揮できるようになった。しかし1941年の戦闘は、ほとんど手持ちの兵器・弾薬で戦わねばならず、補充された戦車や大砲は塗料の上塗りなしで戦闘に投入された。
疎開はあらゆる方面で進められたが、共産党政治局は6月末に大きな政治的な意義を持つ決定を下した。ソヴィエトの「国体」である永久保存されたレーニンの遺体を、赤の広場に隣接する「レーニン廟」から安全な場所に移動させるという決定である。
7月3日の夜、特別な防腐処理を施されたレーニンの遺体はモスクワを出発し、その4日後にはモスクワから1600キロ離れたウラル山脈東方のチュメニに到着した。モスクワの「レーニン廟」は金属の足場で囲まれ、偽装用の防水シートで覆われた。
ソヴィエトの国民には何も知らされなかった。国民はレーニンの遺体が抗戦と勝利へのシンボルとして未だ「レーニン廟」に安置されていると思っていた。
〇焦土作戦
「避難評議会」は疎開に対してあらゆる最善の努力を費やしていたが、当然のことながら全ての資源を疎開させることは不可能であった。たとえば、ソ連邦全体の石炭供給の約6割を生産するドンバス炭田はその典型だった。
そこで、スターリンはドイツが我が物として利用することを防ぐために、構造上の理由で疎開できないあらゆる経済的施設を破壊することを命じたのである。
この「破壊命令」の対象の多くが、輸送機関と電力に関する施設に向けられた。機関車は部隊の輸送と物資の補給で必要とされる数だけが残され、余剰した機関車は徹底的に破壊され、多くの修理工場は爆破された。ドニエプル河の水力発電所は水門が開放され、残った労働者たちが水力タービンや発電機を破壊した。
ロシア本土でも同じような破壊活動が行われたが、その程度は地域によってかなりの差が生じた。特に白ロシアやウクライナ西部では、そもそも破壊を準備する時間さえ残されていなかった。
この「焦土作戦」はある程度まで成功し、ドイツの経済企画担当者は開戦前の推定を大きく変更せざるを得なくなった。クロム、ニッケル、石油などのソ連邦の原料資源はドイツの軍需生産の継続にとって不可欠であり、押収したソ連の工場はドイツでの労働力不足を容易に解決してくれるはずだった。
さらに広大なロシアの領土を侵略するドイツ軍の兵站支援に、機関車2500両と貨車20万両が拘束され、原料資源や奪取した工場設備の運搬は必然的に後回しにされた。この事態を受けて、ヒトラーは国防軍に対して1941年度の目標を「追加的経済資源奪取のため」と設定し、国防軍総司令部はヒトラーが下す「総統指令」をこの目標を念頭に置いて作成しなくてはならなくなった。
しかし、スターリンの「破壊命令」はここまでに留まらなかった。赤軍の将兵に対してはモスクワ、レニングラード、キエフといった大都市の死守を厳命する一方、その都市が陥落した際にはドイツ軍の進駐部隊に最大限の損害を与えるべく、共産党の地区委員会とNKVDの特殊工作班に都市の爆破を準備させていたのである。
11月17日、スターリンはモスクワ防衛戦の最中、「指令第428号」を発布した。それはまさに国土を「焦土」へと変えるものであった。
「最高司令部は、以下の通りに命令する。
1、最前線から奥行き40~60キロの距離、また道路から左右20~30キロの距離に含まれるドイツ軍後方地域にあるすべての居住地を破壊し、これを焼き払うこと。居住地は爆破し焼き払うため、ただちに右の行動範囲内へ航空兵力を投入し、大砲、迫撃砲、偵察隊、スキー部隊、火炎瓶などを装備したパルチザンを広い範囲で使用すること
2、居住地を爆破し焼き払うため、前線部隊の各連隊に20~30人からなる破壊工作の志願者による小隊を編成する。居住地の破壊に当たり勇敢に行動した者を、政府の表彰に申請せよ」
この命令に示された「居住地」には、まだ多くのソヴィエトの国民が生活していたが、スターリンはドイツ軍に国土とその資源を明け渡さないことを至上目標に掲げていた。モスクワ防衛戦のさなか、スターリンはヒトラーの演説に対してこのように応酬した。
「彼が絶滅戦争をしたければするがいい。絶滅するのは彼らのほうなのだ!」
最終的な勝利に伴う犠牲を容赦なく自国民に要求したこの命令は、独裁者の戦争遂行に対する決意を如実に表していた。