28
真壁が池袋南署に戻った頃には、午後10時を回っていた。1階のロビーに入ると、ベンチに座っていた津田が立ち上がった。顔が少し紅潮している。
「どうだった?」真壁が言った。
「岩城と奥寺が一緒に写っているのはありました。約2か月前、銀座のクラブ前です。沢村が写っているモノはありませんでした」
津田から手渡された数枚の写真は、望遠レンズで撮影したために不鮮明ではあったが、クラブの前の路上で車に乗り込もうとする奥寺と、車の後部座席に座っている岩城の顔がかろうじて判別できる。
「三谷は?」
「落合さんに調書を見せてもらいました。三谷は元鉄筋工で、納谷興業に勤めていたそうです」
「よし。沢村を取調べる」
「ええ?」
津田が素っ頓狂な声を上げたのも無理はなかった。こんな時刻からの取調が規則違反であるのは真壁も十分に理解していたし、沢村の口から諸井殺害の自白を取って、誠龍会幹部を任意で引っ張ろうというのも強引過ぎたが、勝負に出るには今しかなかった。
すでに就寝中だった沢村を起こし、留置場から取調室の前まで連行すると、打ち上げが行われていた会議室からぞろぞろと捜査員たちが出て来て、その中から開渡係長の眼が沢村と連れ立った真壁の姿を捉えた。
「おい、真壁。そこで何やってる!」
真壁はさっと沢村を部屋に押し込み、すでにノートPCを用意して待っていた津田に「ドアの鍵を閉めろ」と低い声で命じた。津田が鍵を掛けたと同時に、ガンとドアの扉を叩く音が響いて「おい、ここを開けろ!」と怒号が続いた。
津田が当惑した顔を向けると、真壁は「気にするな」と応えた。ジャケットの胸ポケットに入れた携帯電話から振動音がするが、真壁はそれを無視してパイプ椅子に腰掛ける。
机に向かい合った沢村が「出なくていいのかよ」と言った。真壁は改めて正面から、沢村壮也という男を見た。骨格の太い大柄な体は薬物の常用で筋肉が落ち、その代わりに余分な脂肪がついてむくんでいるような感じだった。
真壁はゆっくりと身を乗り出す。
「俺はお前と事件の話がしたいんだ・・・」
時間は容赦なく過ぎていったが、沢村は落ち着いた口調で、頑として昼間の供述をくり返すだけだった。事件の顛末をもっともらしく器用に作文したと同時に、ある種の自己暗示でそれが事実であると信じ込んでいるようにも見えた。
「なんで諸井を殴った?クスリをやって気分が悪かっただけだったら、吐けば済む話だろうが」
「面倒臭かったんですよ・・・」
「面倒臭かったとは何だ?言ってみろ」
「何がって・・・」沢村の視線が泳いだ。「吐きそうだったから。クスリをやってるときはいつも吐きそうになるんだ」
「地面に吐き出せばいい」
「アイツがよっかかってたんだ」
「アイツって誰だ?」
「真希だよ!」
「『気分でついて来た』女か。真希はどっち側にいた?」
「そんなこと・・・」
「いいから、答えろ!」
「左!」
「だったら、右に顔を向けて路上に吐けばいい」
「そんなことしたら、アイツが悲鳴を上げて余計に・・・」
真壁は声を張り上げた。
「そこまでしっかり頭が働いて、面倒臭かったということはないだろうが!」机をバンと叩く。「いいか、お前はガイシャの顔面が真っ赤になるまで殴りつけたんだ!吐きそうな状態だったら、出来ることじゃないぞ!面倒臭かったとは何だ?理由を言ってみろ!」
「理由なんか・・・」ほとんど聞き取れない声で、沢村はぶつぶつ呻いた。
「吐きそうだったと言ったな、え?吐き気を辛抱して、面倒臭いのにわざわざ顔面が真っ赤になるまで殴りつけた理由を言ってみろ!」
29
真壁はジャケットを脱いで、椅子の背もたれに掛けた。取調室の中は強く暖房が入っており、津田も背中に汗が伝い始めるのを感じた。
時刻は午前0時半。沢村が欠伸をし、気の緩んだ顔になる。椅子に浅く腰掛け、自分の体重で崩れ落ちそうになるのを、床に突っ張った両足でかろうじて支えている。
苛立っていた真壁だが、沢村の面を張ってやりたい気持ちをぐっとこらえる。隣の小部屋で開渡係長がこの様子をスピーカーで聞き、マジックミラー越しに見ているのは間違いなかった。昨日の乙女座の運勢は最悪だったなと思いながら、改めて頭の中で人物の顔を並べかえ、並べ直して事件の姿を浮かべてみる。
ガイシャの諸井は『手抜き工事』をネタに、城之内建設を強請っていた。諸井の脅迫に手をこまねいた城之内建設専務の奥寺は誠龍会幹部の岩城に相談する。岩城は奥寺に「どうにかする」と言い、諸井への実力行使に沢村を使った・・・。沢村は岩城との関係を否定している。
何度目かに、沢村の供述調書に眼を通した時だった。真壁はハッとして、自分の手帳をめくる。まさか。
真壁がゆっくりとワイシャツの袖をまくった。ひと言も発しないままだが、津田はほとんど無意識に、部屋の温度がさらに上がったように感じた。
「なあ・・・三谷はもうバラしてんだよ」
すると、沢村は思いがけない反応をした。こめかみがぴくぴく震え、眼球が動き、机の下で組んだ手をもぞもぞさせ、「何の話だよ・・・」と呟いた。
「三谷は去年の12月23日、警官2人にナイフを突きつけようとして捕まってる。そのとき、三谷は事件のあった12月17日の夜、《ニューワールド企画》でアンタと岩城が一緒にいるのを見たと言ってるんだ・・・」
「・・・」
「三谷が12月26日に藤枝組のチンピラに殺されたのは知ってるだろ?岩城が命じたんだよ。藤枝は誠龍会系だからな」
「・・・」
「真希を殺したのも、岩城じゃないのか?事件の関係者は全員、殺すだろうな」
「・・・」
「ところで、諸井の頭には3か所に傷があった。1つは後頭部。これは倒れた時にぶつけた傷だ。2つ目は頭頂部にあった蹴られた痕。3つ目は、右の耳の上。ここは腫れ上がっていて、明らかに人の拳で殴られた跡だ」
「・・・殴ったのも、蹴ったのも俺ですよ」
「あんた、右利きだろう」
津田はハッとして、思わず背筋を正した。諸井の打撲痕は右の側頭部。沢村が向き合っていたとしたら、左手で殴ったことになる。
「左手で殴ったんだよ」
「ボクサーなら、それもあるのかもしれないな」真壁はうなづく。「諸井を殴った時、真希はあんたによりかかってた。そうだな?」
「そうだよ・・・」
「真希はあんたの左側にいたんだよな」
沢村の答えは一瞬、遅れた。
「それは、真希を払いのけて・・・」
「そんなことしたら、真希が悲鳴を上げたかも知れない。クスリを打った時はいつも吐きそうになるんだろ?面倒なことは避けたいよな?だから、地面に吐かなかった。真希が悲鳴を上げるから。あんたはそう言ったよな?だが、吐きそうになってたあんたがわざわざガイシャの顔面を真っ赤になるまで殴りつけるという面倒なことをしてるのは、どういうことだ?」
真壁は両手を組み合わせて身を乗り出し、低い声を出す。
「死にたくないだろう?」
「どういうことだよ?」沢村の声は震えている。
真壁はすっと身を引き、椅子に背中を押しつける。沢村に考えさせる時間を与えたようだった。狭い部屋の中に、はりつめた緊張感が漂い始める。
無言のまま5分ほどが過ぎ、津田は真壁の背中が筋肉でかすかにうごめくのを感じた。またテーブルを叩くのか、沢村に掴みかかるのか。どちらしろ、今度は止めようと心に決めていた。沢村はほとんど息も出来ないようで、顔面が蒼白になっていた。
「あんた、このままだと死ぬぞ」
「さっきから、何だよ・・・」
「岩城は間違いなく、あんたを殺す・・・」
沢村は突然、両腕で頭を抱えて「いやだ、いやだ!」と狂ったように叫び始めた。「岩城だ!岩城が諸井を殴って殺したんだ!俺は死にたくない!いやだ、いやだ!」
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真壁が取調室から出ると、廊下に十係の面々が集まっていた。みな打ち上げの酔いが醒め、一様に掴みかかろうとする険悪な表情だ。磯野がぐいと首を突き出してきた。
「若いの、岩城が諸井を殴った動機は何だ・・・」
「城之内建設専務の奥寺から依頼された」真壁は言った。
杉田が「そのネタ、どこで掴んできた?」と言い、真壁が「奥寺を締め上げた」と応えると、杉田はしてやられたという顔をして鼻を鳴らした。隣で高瀬が舌打ちし、渡辺もぎりりと口許を歪ませる。開渡係長は青い顔だ。
「にしても、岩城自身がなぁ・・・」吉村が呟く。「令状出して門が開いても、大人しく取調を受けるタマか、あれ」
「ま、どっちにしろ岩城の顔を拝ませてもらおうか」馬場がうそぶく。
「おい、真壁。岩城自身が殴ったことは間違いないんだろうな」開渡が弱気な声を出す。
「本人に聞いてみなければ分かりません」
馬場が「係長、ここはひとつ覚悟を決めましょうや」と締めくくり、磯野が低く唸って真壁の肩に拳をひとつ繰り出した。
翌朝の午前8時には医師の許可を得て、入院中の奥寺康一を池尻大橋の病院から池袋南署へ移し、任意の取調が始まった。同じころ、誠龍会幹部の岩城竜生の自宅にも数人の刑事が赴いたが、何の悶着も起きず岩城は任意同行の求めに応じたという。
奥寺と岩城の供述により、事件の概要はいっぺんに明らかになった。
今年4月、出張でやって来た諸井は奥寺と銀座のクラブで会い、こんな話をした。
2月初めに荻窪のマンション建設現場で、城之内建設の下請けをしていた納谷興業が鉄筋作業を行っていた。その工程において、作業員の三谷透が現場監督に文句を言い、もめたことがあった。配筋の仕方が甘く、柱の耐震強度が足りないと三谷は訴えたが、そのときは相手にされなかった。その後、三谷は3月の人員整理で納谷興業からクビを言い渡されたという。
諸井が三谷と接触した経緯は両人が死んでいるため不明だが、諸井は荻窪の現場で起きた『手抜き工事』をネタに城之内建設に対して賄賂を強要した。賄賂の要求額は次第にエスカレートし、諸井は窓口になっていた専務の奥寺に対し、額面を増やさなければ新規発注をやめると脅し始め、困った奥寺は誠龍会幹部岩城竜生に相談した。
岩城は会長から内々に誠龍会傘下の土建業の経営不振についての相談を受けていたところだったので、諸井邦雄の殺害を計画した見返りに、誠龍会傘下に対する総額50億円の発注を城之内建設から取りつけた。
普通、暴力団が事件を起こす時は若い鉄砲玉が率先して行い、後で警察に出頭するものだが、幹部である岩城自身が凶行に及んだことは、沢村が着けていた指輪から採取された指紋で明らかとなった。犯行時、岩城は指輪をはめた手で諸井を撲殺し、事件から数日した後、沢村にあげたという。これには、「やってくれたな」と真壁にすごんでいた落合も言葉がなかった。
また、岩城は諸井が東京芸術劇場の横で女を待ち合わせていたことを、諸井と約束を交わした新山香里から掴んでいた。聞けば5年前、香里と一緒に東京に出た男というのは、岩城自身だった。職業柄、2人の関係は途切れることなく続き、諸井殺害を企てた時、香里の昔付き合っていた男が諸井と分かると、岩城は諸井との約束を取り付けるよう香里に頼んだのだった。
さらに、捜査本部の面々の言葉を失わせたのは、京都府警の捜査二課から届けられたある報告だった。諸井は営業一課課長という立場を利用して会社の金を横領していたらしく、横領した金でFXや株の運用をしていたが、昨今の不景気による株価の低下や円高の影響で多額の借金を抱えていたという。城之内建設へ賄賂を強要した理由が明らかになったとは言え、心臓に悪い話を聞いたなと、真壁は思った。
この日の正午過ぎ、岩城竜生、奥寺康一、沢村壮也の3人に対する殺人容疑の逮捕状が出揃った。捜査本部の各員はそれぞれ、裏付け捜査に走っていた。そのころ真壁と津田は聞き込みの途中で、池袋3丁目の教会に入った。
31
日曜日の昼下がり、ミサが終わった後の教会の中はがらんとしていた。扉を開ける音で出て来た神父に、真壁が「祝福を」と言った。真壁が膝を付くと、神父が十字を切った。
真壁は「少し休憩しよう」と言って、近くの椅子に腰を下ろす。「なぁ、お前はどうして警官になったんだ?」
最近では使命感があるわけでもなく、就職難の中、単なる安定した職業として警官を選ぶ者もいる。真壁には、黙々と自分の捜査についてきた津田には特別な何かを抱えている気がしていた。
津田が真壁の隣に腰を下ろす。
「それは・・・警官の仕事が社会に不可欠だと」
「だからといって、お前が警官になる必要はないだろう。他の奴がなってくれるなら、それでいいじゃないか」
「母を殺されたんです」
津田の告白に、真壁は思わず相手の顔を見る。津田はわずかに顔を赤らめ、続けた。
「強盗でした。僕はまだ、小学生でした。学校から帰ってみると家が荒らされ、母が血まみれになって倒れてました。気がつくと、病院にいて・・・その場で卒倒したんです。その後は、父が1人で育ててくれました。楽をさせてあげたいという一心で・・・帝都大に入って官僚になろうと思ってたんですが、気が付いたら警官になってました」
「いつかは母親を殺した強盗犯を逮捕したい、か」
「ええ・・・でも、初めて死体を眼の前にしたとき、吐き出してしまって・・・情けなくなりました。警官になったのに、こんなことでいいのかって」
「誰だって最初は吐く」
「この1か月間、やってみて分かったんですが、この仕事は地味なんですね・・・もちろん、テレビとか本の世界とは違うとは思ってましたけど」
「今でも思い出せるか?母親を殺された日のことを?」
津田はうなづく。
「なら、大丈夫だ。この仕事で一番つらいのは、人の心の闇と修羅を覗き込むことだ。来る日も来る日も・・・まともな神経だったら、やっていけないだろうな」
「でも、誰かがしなくちゃいけない」
「・・・こんな商売してる奴はイカレてるとは思うが」
「それじゃ、真壁さんはよっぽどイカレてるんですね・・・」
返事の代わりに、真壁は笑ってみせた。この1か月間、相手のしかめっ面ばかりを見てきた津田が初めて見たその笑顔は、何の屈託のなく、小さな子どものように純真だった。
ようやく片付いた帳場が立った時分には、吹き荒んでいた北風がいつの間にか止んでいた。空の色も日が長くなり、季節は春へ向かえつつあるようだ。
季節の移り変わりにちっとも実感のわかない真壁はもったいないような天気の下、何日ぶりかの家路をひとり辿っている。
陽光に溢れた戸外からマンションのエントランスに立つと、眼が眩んで視界が暗くなる。夜行性の動物ようだなと呆れていると、掃き掃除をしていた管理人が真壁の顔を見るなり、ニッと笑った。いつものようにエレベーターを使わずに、階段を昇る。
最上階の廊下。行き止まり手前のドアノブに手をかけて、思わず緊張する。ドアが開いている。玄関に入ると、三和土に見覚えのない靴が揃えてある。
真壁は革靴を脱ぎながら、奥へ低く声を放つ。
「誰かいるのか?」
とっさに傘立ての隣にたてかけてあった防犯用の金属バットを手に取る。リビングに踏み込むが、人の気配はない。部屋の黴っぽさが消え、消臭用の芳香剤がかすかに漂う。テーブルの上の灰皿は吸殻がなくなり、汚れた食器で埋もれていた流し台もきれいに片づいている。
隣の和室に入ると、畳に積まれた布団の山に出くわした。ベランダに面したガラス戸からいっぱいに差し込む日差しが照り返し、壁から天井まで金色一色だ。
山積みの布団の向こうから、奈緒子の脛が覗いているのを見つけた。すうすうと吐息を零し、胸が緩やかに上下している。その寝顔を見た途端、肩の力が抜け、真壁は持っていたバットを壁にたてかけた。
奈緒子は、自ら取り込んだ布団に埋まって、ぐっすりと眠り込んでいた。
《布団、干しといてくれたのか・・・》
傍らに屈んで、しげしげと幼馴染を眺める。さらりと肩に流れる短い髪が、日に透けると意外に栗色がかって見えた。安らかな深い寝息に呆れつつ、風邪をひかないよう着ていた黒のコートを脱いでかけてやる。
真壁は心の内で元警察官の管理人に舌打ちをし、食器棚からバランタインとショットグラスを取り出した。手っ取り早く寝るには、酔ってしまうのが一番だった。畳にあぐらを組み、グラスに琥百色の液体を注ぎ、一気にあおった。
真壁は心の内で、津田に乾杯した。
《その前途に幸多からんことを》