〇最後の鉄槌
1941年9月6日、ヒトラーはようやく決意を固めて、「総統指令第35号」において「赤い首都」モスクワへの進撃に同意した。この作戦はソ連という「腐りきった」体制に「最後の鉄槌」を下す決定的な意味合いを持つ攻勢に他ならなかった。モスクワは中央軍集団の停止地点から約320キロあまりだが、地面が泥濘に変わる秋が目前に迫っていた。そして、厳しい冬が来る。
モスクワ攻勢を担う中央軍集団には、開戦当初の2個軍(第4軍・第9軍)および2個装甲集団(第2・第3)に加えて、戦略予備の第2軍と北方軍集団から転用された第4装甲集団が配属され、9月下旬の時点で総兵力は180万に達していた。
9月24日、スモレンスクに置かれた中央軍集団司令部において、モスクワ攻勢に関する主要指揮官の戦略会議が開かれた。参謀総長ハルダー上級大将が、陸軍総司令部が立案したモスクワ攻勢計画、すなわち「台風(タイフーン)作戦」の概要を説明した。
この会議の中で、モスクワ攻勢の開始日は10月2日とされていたが、第2装甲集団だけは第2装甲集団司令官グデーリアン上級大将の要望に基づき、その2日前の9月30日に攻勢を開始することが認められた。
グデーリアンが友軍に先立って攻勢を開始する方策を選択した背景には、第2装甲集団が最終目標であるモスクワから最も遠い位置からスタートするという「ハンデ」の解消と、最初の2日間は第2航空艦隊の支援を「独り占め」に近い形で受けられるという戦略的な利点などがあった。
9月26日、中央軍集団司令官ボック元帥は麾下の指揮官たちに対して、「台風作戦」に基づいた「攻撃命令」を下達した。その内容は第9軍・第4軍・第2軍にそれぞれ第3装甲集団・第4装甲集団・第2装甲集団を組み合わせて、北方・中央・南方の3つの攻勢軸を形成して行うとするものだった。
「軍集団の攻撃命令
1、長きに渡った空白の後、軍集団は攻勢に転じる。
2、第4装甲集団を配属された第4軍はロスラヴリからモスクワに通じる街道とその両脇に重点を置く。前線の突破が成功したならば、第4軍は北に旋回して南翼の東側面を防護しつつ、ヴィアジマ付近でスモレンスクとモスクワを結ぶ高速道路を南から攻撃する。
3、第3装甲集団を配属された第9軍はスモレンスク=モスクワ街道とその北に位置するベールィの間で前線を突破し、ヴィアジマとルジェフを結ぶ道路に進出する。
4、他の作戦に対する影響がない限り、スモレンスク=モスクワ街道からエリニャに至る第4軍・第9軍の戦区において、陽動作戦を実施する。個々の攻撃は戦力を集中して行い、目標となる敵部隊は出来るだけ絞り込む。
5、第2軍は第4軍の南翼を防護する。それに加えて、北翼に重点を置いてデスナ河流域で突破を試み、スヒニチの方角に前進する。もし、ブリャンスクの市街地とその周辺の工業地帯(特に道路と渡河点)を奇襲によって占領できれば、第2装甲集団の境界に関わらず、スヒニチへの進撃を続行する。
6、第2装甲集団はオリョールとブリャンスクを結ぶ線を早期に越えるため、第2軍より2日前に攻勢を開始する。南翼はスヴァバ河で守り、北翼は第2軍と協力してデスナ河南東への湾曲部に展開する敵部隊を撃滅する。もし第一撃で占領できるなら、装甲部隊にブリャンスクを直接攻撃させるが、そうでなければ迂回して進撃させ、第35兵団の歩兵と航空支援で同市の攻略を図る。」
この命令では、「台風作戦」の第1段階についてのみ規定されていたが、当然ながら中央軍集団司令官ボック元帥は第2段階としての「モスクワ入城」を視野に入れていた。攻勢の直前になって、ボックは麾下の指揮官たちにロシア革命記念日である11月7日をモスクワ包囲の最終期限として定めたのである。
〇ドイツ軍の参加兵力
1941年10月初頭の「台風作戦」開始時における、ドイツ中央軍集団の参加兵力は192万9406人で、その中には親独派のフランス人義勇兵から構成された部隊が編入されていた。東部戦線における国防軍の総兵力の内、兵員の42%、戦車の75%、火砲の33%がモスクワ前面に投入された。
攻勢の中核を担う装甲師団の1個当たりの前線は約3キロで、その保有戦車台数は1217両だった。3個装甲集団の内、北方軍集団から転用された第4装甲集団は開戦時の戦車台数をほぼ維持していたが、第3装甲集団は開戦時の4分の3程度に減少し、キエフ包囲戦を終えたばかりの第2装甲集団は開戦時の約半分にまで減少していた。
また、装甲集団は開戦時から同一軍集団に所属する「軍」に補給を依存していたが、より独立した形での機動作戦を効果的に行わせるために組織変更が行われた。固有の補給組織を編入された装甲集団は「装甲軍」へと格上げされ、第1装甲集団・第2装甲集団・第4装甲集団は10月5日に、司令官の交代が重なった第3装甲集団は10月8日にそれぞれ「装甲軍」と改称された。
中央軍集団が保有する火砲の合計は約4000門で、そのうち約2300門は105ミリ榴弾砲、約1000門は150ミリ榴弾砲、184門は210ミリ榴弾砲、270門は多連装ロケット発射機「ネーベルヴェルファー」だった。
地上軍を空から支援する第2航空艦隊の戦力は稼動機数が約550機で、そのうち190機が戦闘機、230機が水平爆撃機、120機が急降下爆撃機と地上攻撃機だった。
中央軍集団に所属する部隊の内、キエフ包囲戦に参加した第2装甲集団と第2軍、および北方軍集団の支援に回された第3装甲集団の一部を除いた約半数は、スモレンスク攻防戦が終結した8月初頭から9月末までの約2か月間、比較的「平穏な」前線でソ連軍と対峙していた。
そのため中央軍集団司令部は、燃料や弾薬の消費が減少したこの期間を利用して、モスクワ攻勢に備えた物資の集積に全力を注いだ。ネヴェリ、スモレンスク、ロスラヴリ、ゴメリの4都市で補給物資の集積が行われていたが、輸送トラックと荷馬車の不足やソ連軍の残存兵にパルチザンの妨害などが原因となって、前線に集結する部隊に補給物資を送り届けることが出来ていなかった。
中央軍集団司令部は所属する70個師団への補給物資として1日当たり1万3000トンを必要としていたが、「台風作戦」開始直前になってもこの3分の2程度の輸送力しか用意できず、前線が補給集積所から遠ざかるにつれて、この数字は3分の1程度にまで減少していた。
開戦からほとんど休みなく戦い続けた中央軍集団の将兵たちは9月末、ようやく新たな大攻勢を目前に短い休息を取っていた。開戦してから3か月あまりが過ぎていたが、ソ連軍は一向に倒れる気配を見せず、彼らは得体の知れない怪物を相手にしているような「恐れ」を抱いていた。
「台風作戦」に参加する第4軍司令官クルーゲ元帥はまた、違った意味の「恐れ」を抱いていた。それはロシアの冬に対する「恐れ」であり、いずれにせよ天候の悪化で攻勢作戦は停止を余儀なくされるから、モスクワへ向けた大攻勢の実施に異議を唱えていた。
これに対してヒトラーは10月3日、ベルリンのスポーツ宮殿で演説し、歓呼に応える支持者たちに呼びかけた。東方制圧はついに最終段階を迎え、モスクワへの総攻撃は「世界史上最も大規模な戦闘」になるであろうと述べた。ソ連という竜が退治されたならば、それは「二度と立ち上がることはないであろう」と予言した。
中央軍集団司令官ボック元帥はヒトラーの演説に後押しされ、「モスクワを占領すれば、年内に対ソ戦は終結する」という考えをクルーゲに示し、ハルダー参謀総長もこの意見に賛同を示した。
中央軍集団の将兵たちは「年内までには戦争は終わる」というボックの言葉に期待を抱いて、「赤い首都」モスクワ攻略に向けた準備を着々と進めていたのである。
〇指揮系統の再編
モスクワの「最高司令部」はドイツ中央軍集団が8月中旬にスモレンスク前面で進撃をいったん停止して以来、ドイツ軍のモスクワ攻勢を予期していた。そのため8月から9月中旬にかけて、「最高司令部」はモスクワおよびその外周に防御陣地を建設する決定を下すとともに、モスクワ街道とその南北に布陣する部隊の指揮系統を整理する作業を行っていた。
西部戦域軍兼西部正面軍司令官としてスモレンスクでの波状反撃を指揮したティモシェンコが9月11日付けで南西戦域軍司令官に転任したのに伴い、西部戦域軍司令部は9月29日で解消された。後任の西部正面軍司令官には、スモレンスク攻防戦で名を上げた第19軍司令官コーネフ中将が就任し、階級も大将に昇格した。
また、9月12日に予備正面軍司令官ジューコフ上級大将がレニングラード正面軍司令官に転任すると、南西戦域軍司令官を罷免されたブジョンヌイ元帥がスターリンの「温情人事」により、後任の予備正面軍司令官に任命された。
ドイツ軍の「台風作戦」を受けて立つソ連軍の総兵力はドイツ中央軍集団の7割にも満たない125万人で、西部正面軍(55万8000人)・ブリャンスク正面軍(24万4000人)・予備正面軍(44万8000人)に統轄される計15個軍と1個機動集団(規模は半個軍)に所属する部隊だった。
配備された戦車台数は990両(約81%)だったが、火砲の総数は約7600門(約2倍)と大きく上回り、航空機は677機とわずかに優勢だった。
ドイツ軍の装甲部隊に配備されている戦車に対して有効な戦闘力を持つ新型のT34とKV1は、西部正面軍にはそれぞれ51両と19両、ブリャンスク正面軍には83両と23両が配備されていた。
西部正面軍(コーネフ大将)は北から順に第22軍・第29軍・第30軍・第19軍・第16軍・第20軍の計6個軍を、ヴァルダイ高地のオスタシュコフからスモレンスク東方までの340キロに渡る前線に配備していた。1個狙撃師団当たりの前線は、約10.6キロであった。
予備正面軍(ブジョンヌイ元帥)は西部正面軍とブリャンスク正面軍の間、すなわちエリニャからロスラヴリ東方までの約100キロの前線に第24軍・第43軍を配置し、残りの第31軍・第49軍・第32軍・第33軍の計4個軍はルジェフ西方からスパス・デメンスクに至る陣地線に沿って、第2防衛線を形成していた。
ブリャンスク正面軍(エレメンコ大将)は第50軍・第3軍・第13軍とエルマコフ少将が指揮する機動集団(3個狙撃師団、2個騎兵師団、2個戦車旅団)を、ロスラヴリ東方からグルホフに至る約290キロの前線に密集させる形で展開させていた。
モスクワ西方約100キロに位置するモジャイスクとその南北の地域では、7月のスモレンスク陥落から防御施設の建設が急ピッチで進められていた。作業はモスクワ市民を中心に、その多くは婦人たちの手によって進められていたが、たびたびドイツ軍の空襲によって遅延させられていた。
さらに工事に必要な資材の不足が重なり、10月はじめの時点でその四重の陣地帯では、各軍の防御縦深が15~20キロを越えず、予備正面軍の陣地を含めても35~50キロ程度だった。計画の半分にも満たない砲座と対戦車壕しかなく、陣地前面にあるはずの対戦車斜面と鉄条網は全く整備されていなかったのである。
〇強権
モスクワの「最高司令部」はキエフ包囲戦が繰り広げられていた9月18日、赤軍将兵の士気を鼓舞する目的で「指令第308号」を発令した。この日、4個狙撃師団(第100・第127・第153・第161)がそれぞれ第1~第4の各「親衛狙撃師団」に改称されたのである。
いずれの部隊もスモレンスク周辺の防御戦における功績が認められ、親衛部隊の将兵には軍服に佩用する記章が付与され、装備や補給物資は優先的に送られた上に、給料も一般部隊より高く設定されていた。
スターリンは2年前の「冬戦争」における惨敗を受けて、赤軍の将兵に対して「懐柔策」を取るようになっていた。ドイツ軍の「台風作戦」が発動されていから2日後の10月4日、スターリンは「指令第391号」を発令して、部下を統制するために「権限乱用、体罰および強権(銃殺)を使用する」指揮官を手厳しく批判した。しかし、スターリンがこのような態度を取ることは極めて例外的で、彼は一貫して共産主義の政治的イデオロギーによる締め付けを行い、赤軍を全く信用していないことを言外に表していた。
8月16日に口述した「指令第270号」において、スターリンは敵に包囲されて脱出に成功した将軍(第3軍司令官クズネツォーフ中将)と、失敗して捕虜になった将軍(第28軍司令官カチャロフ中将、第12軍司令官ポネデーリン少将)を比較して、後者を「臆病者、戦線離脱者」と糾弾した上で、次のような指令を下した。
「戦闘中に自ら階級章を剥がして敵に投降した者は悪質な戦線離脱者とみなし、その家族は祖国に対する反逆者の一族として逮捕せよ。戦線を離脱した者はその場で銃殺刑に処すること。また、敵に包囲された者は力の及ぶ限り戦い、自ら包囲突破の活路を切り開くこと。そして、勇猛果敢な者はより積極的に上級指揮官として登用すること。本命令は、各中隊・大隊単位で将校と兵士に読み聞かせよ」
スターリンはこの命令文書に自ら署名した後、赤軍の最高幹部であるヴォロシーロフとブジョンヌイ、シャポーシニコフ、ティモシェンコ、ジューコフらにも連署を命じ、赤軍の全将校に下達させた。
この指令が実際に適用された事例の全容を把握することは困難だが、レニングラード正面軍司令官に着任したジューコフが防衛態勢の見直しを図るために、戦意を喪失した数名の指揮官を即座に更迭した「強権」の背景には、このスターリンの強圧的な方針が関係していたことは言うまでもない。
さらにスターリンは極端な「実力主義」を行使することで赤軍将兵たちの戦意を引き出し、その心理に「敵への恐怖」を上回る「味方からの脅威」を植えつけることで、前線からの脱走や後退を阻止しようと考えたのである。
9月12日、スターリンはすべての指揮官に「後退阻止部隊創設の権限を与える」との命令文書に署名し、赤軍の各部隊に配布させた。後退阻止部隊は、味方部隊の背後に機関銃などを配備して、退却命令が出されていないにも関わらず退却や敗走を開始した将兵が出た場合、背後から銃撃して強制的に前線に復帰させることを命じられていた。
後退阻止部隊はNKVDの「特務部」が管轄し、開戦から10月10日までに約70万人の将兵の後退を阻止し、その大半を前線に復帰させた。戦列復帰に従わなかった将兵の2万6000人は逮捕され、1万人以上が射殺されたが、そのうち3000人は戦友たちの眼の前で処刑された。
そして、赤軍の将兵には開戦から繰り返し演じられてきた包囲殲滅戦の嵐が再び吹き荒れようとしていた。西部正面軍司令官コーネフ大将は、ドイツ軍の攻勢はスモレンスクからモスクワへと向かう重要な街道―スモレンスク=モスクワ街道に沿って実施されると予想し、この道路周辺に展開する第16軍・第19軍の戦区に手持ちの戦車と火砲を集中させる形で配備していた。
しかし、西部正面軍と対峙するドイツ中央軍集団の第3装甲集団・第4装甲集団はその攻撃軸をスモレンスク=モスクワ街道の南北に設定していたため、コーネフの前線増強策は完全な空振りに終わってしまう。
ヒトラーの「黒い十字軍」は、ついに2年もの戦役で磨き上げられた「電撃戦」の剣先を、「赤い首都」モスクワの胸元に突き刺そうとしていたのである。