〇変遷
7月3日、ハルダー参謀総長は日誌にこう記している。
「・・・全体としてビアトリスク屈折部の敵軍は取るに足らない兵力を残して撃滅されたと見ることが出来る。北方軍集団前面で12ないし15個師団が壊滅したものと考えても良かろう。南方軍集団前面でも敵軍は友軍の攻撃によって寸断され、大部分は壊滅した。すなわち全体としてみると、ドヴィナ・ドニエプル河前面のソ連軍殲滅の使命は達成されたといえるのである。ロシア戦役は2週間で勝利したと言っても過言ではない」
陸軍の大半の指揮官はハルダーと同じように、対ソ戦の先行きを楽観視していた。しかし、前線の実情を詳細に知る中央軍集団司令官ボック元帥はソ連軍の潜在能力に対して深い懸念を抱いており、それほど楽観的ではなかった。各方面から寄せられた報告を総合すると、敵が西ドヴィナ河からドニエプル河にかけて新たな防衛線を形成しつつあることを確認したからでもあった。
中央軍集団の目前に出現した西ドヴィナ河=ドニエプル河の防衛線には、1941年5月から戦略予備の4個軍(第19軍・第20軍・第21軍・第22軍)が段階的に配備されていた。これらの部隊はただちに、西部正面軍の指揮下に編入されていた。
すでにドイツ軍は6月28日、ミンスクとドニエプル河の中間を流れるベレジナ河畔のスヴィスロチに到達していた。前線の状況を調査して回ったエレメンコは、もし約80キロ上流のボリソフも占領される事態になれば、西部正面軍の残滓である第4軍と第13軍がベレジナ河西岸の狭い領域に再び包囲される恐れがあると感じ取った。
7月2日、「暫定司令官」エレメンコ中将はこうした現状を踏まえて、7月1日付けで「指令第14号」を発令した。
「西部正面軍の各軍に所属する部隊は、敵軍がドニエプル河に到達することを阻止し、またベレジナ河沿いの防衛線を7月7日まで保持せねばならない。第4軍と第13軍は7月2日から3日にかけての夜に、ベレジナ河東岸の防衛線まで撤退せよ。
第17機械化軍団は7月4日に、ボブルイスク奪回作戦を実行できるよう準備せよ」
また、エレメンコは手持ちの航空部隊を撤退の支援に割り振ろうとした。しかし、この時点で西部正面軍に残っていた機体はわずかに150機ほどに過ぎず、戦闘機はその3分の1程度という有様だった。
7月4日、国防相ティモシェンコ元帥が西部正面軍司令部に姿を現し、自ら7月2日付けで西部正面軍司令官に就任した。「暫定司令官」エレメンコは副司令官に格下げされた。
ティモシェンコはエレメンコが企図したボブルイスク奪回作戦を撤回し、ドイツ軍がドニエプル河に到達する前に反撃に出るよう麾下の部隊に命じた。しかし、どの部隊も戦車、通信機材、対戦車兵器、高射砲が不足していた。指揮官たちは毎日のように、陣地を交代させられた。どの部隊も戦闘準備のために割く時間がなく、バラバラの行動を取るようになった。そのため、ソ連軍の反撃は稚拙だった。
この内情が示す通り、赤軍の内部は未だ開戦直後の混乱から立ち直れずにいた。
〇前哨戦
中央軍集団は7月1日の時点で、ミンスクとドニエプル河の中間を流れるベレジナ河の西岸に、3か所の橋頭堡を築いていた。ボブルイスクとスヴィスロチ、モスクワ街道上のボリゾフである。これら3か所の橋頭堡はすべて第2装甲集団が占領していた。
第2装甲集団司令官グデーリアン上級大将は第47装甲軍団をボリゾフに派遣して、3か所の橋頭堡を拡大しようと考えた。だが、第4軍司令官クルーゲ元帥がグデーリアンの出鼻を挫くように、ボリソフへの前進を禁止する命令を下した。装甲集団は開戦時から同一軍集団に所属する「軍」に補給を依存していたためである。
グデーリアンはしぶしぶ命令を受け入れたが、第17装甲師団(ウェーバー少将)の一部が停止命令を受領せず、ボリソフへの進撃を継続してしまった。クルーゲはグデーリアンが意図的に命令を無視したと思い込み、グデーリアンを第4軍司令部に呼び出し、厳しい口調で叱責した。
両者の対立は溝が埋まらないまま、ヒトラーは7月3日付けで第2装甲集団と第3装甲集団をクルーゲの直轄指揮下に置くよう命じた。第4軍司令部は「第4装甲軍」としてホトとグデーリアンの両者を統轄する上級司令部となり、第4軍の所属部隊は戦略予備の第2軍(ヴァイクス元帥)に移管された。
この頃になると、ミンスク包囲網で掃討を終えた歩兵部隊と物資を積んだトラックが、先行していた装甲師団に追いつくようになっていた。ヒトラーの決定をグデーリアンは当然ながら苦々しく思っていたが、装甲部隊がドニエプル河への東進が再開できる状態に戻りつつあり、その怒りも次第に収まっていた。しかし、第2装甲集団の正面にはボックの懸念が的中するかのように、ソ連軍の新手の機械化部隊が待ち受けていたのである。
7月3日、第18装甲師団司令部に航空偵察の報告が入った。その内容を読んだ第18装甲師団長ネーリング少将は、衝撃を受けた。
「強力な敵戦車部隊。少なくとも100両の重戦車が、ボリソフ=オルシャ=スモレンスク街道の両側を前進中。現在、オルシャ。これまで見かけなかった重戦車あり」
ボリソフに出現した「これまで見かけなかった重戦車」とは、すでに北部と南部で姿を現していたT34であった。少数のT34を含む100両以上の戦車を抱える第1モスクワ自動車化狙撃師団(クレイゼル大佐)と第13軍の残存兵から成る機動集団が、ボリソフの橋頭堡を潰そうと反撃に乗り出したのである。しかし、この反撃も戦局を変えるには至らず、2日後には撤退を余儀なくされた。
7月4日、第2装甲集団の南翼を進む第3装甲師団(モーデル中将)はドニエプル河に接するロガチェフに進出し、ドニエプル河への一番乗りを果たした。この知らせを受けたクルーゲは事前に何の相談も無く、部隊を動かす「部下」のグデーリアンへの怒りをさらに募らせる結果となった。
クルーゲとグデーリアンの間に生じた確執は、その後も作戦方針を巡って再燃した。両者の確執は次第に、中央軍集団全体の動きに影響を与えることになる。
〇防衛線の突破
西部正面軍は、今度はモスクワの「総司令部」からベレジナ河上流のレペリからボリソフを経てボブルイスクに至る線で反撃に出るよう命じられた。反撃の主点は、ドイツ軍のドニエプル河進出を防ぐことであった。
7月6日、第20軍(クロチュキン中将)はレペリ近郊で反撃を仕掛けた。第5機械化軍団(アクレセーエンコ少将)と第7機械化軍団(ヴィノグラードフ少将)を先頭に、約2000両の旧式の戦車が投入された。ドイツ軍は航空支援を受けながら、ソ連軍の反攻を撃破していった。5日間にわたる激戦の末、第20軍は約830両の戦車を喪失して東方に撤退した。
7月8日、東プロイセンの総統大本営で中央軍集団の作戦会議が開かれた。この時の検討では、中央軍集団の正面に展開する敵兵力を11個師団と見積もっていた。しかし、西部正面軍が西ドヴィナ河とドニエプル河に沿って構築した防衛線には、6個軍(北から第22軍・第19軍・第20軍・第13軍・第21軍、後方に第16軍)の下に39個師団が配備されており、その6割に当たる24個師団が前線に展開していた。
西部正面軍には新たに、第16軍(ルーキン中将)と第19軍(コーネフ中将)が配属されていた。この2個軍は戦略予備から一旦は南西部正面軍に回されていたが、スモレンスク周辺の危機に対応するために移動してきた部隊だった。しかし、各軍の所属師団は兵員数も練度も兵器もバラバラで、連携の取れた防衛作戦の実施は不可能に近かった。
7月10日、第3装甲集団は第39装甲軍団の第20装甲師団(シュトゥンプ中将)が西ドヴィナ河を渡り、交通の要衝ヴィデブスクを占領した。
第3装甲集団はこの時点で、西ドヴィナ河の両岸に分離されていた。未だ西岸にいる第57装甲軍団はポロツクから北方軍集団と対峙する第22軍(エルシャコフ中将)と第27軍(ベルザーリン少将)の背後を衝くべく、はるか北方のヴェリキエ・ルーキを占領するよう、中央軍集団司令部から命じられていた。
そのため、第3装甲集団は1個装甲軍団のみでドニエプル河を進撃せざるを得なくなり、第3装甲集団司令官ホト上級大将は第39装甲軍団に対し、スモレンスクの背後まで突進するよう命じた。ドニエプル河の南から進撃してくるはずの第2装甲集団とスモレンスク東方で連結し、ミンスクと同様に包囲網を完成させるという趣旨だった。
このホトの構想は、「バルバロッサ」作戦の第1目標である「白ロシアとドニエプル河以西でのソ連軍の殲滅」に基づいたものであった。
7月10日、第2装甲集団の先鋒部隊は敵の部隊が少ないスタールイ・ブイホフ、シュクロフ、コプイシの3か所からドニエプル河を渡り、モスクワ街道上の2番目の都市であるスモレンスクへ突進した。
グデーリアンは手持ちの3個装甲軍団(第47・第46・第24)をすべてドニエプル河の東岸に進出させた上で、スモレンスクからはるか東方のエリニャとドロゴブジを占領するよう命じた。この2つの街はドニエプル河の重要な渡河点であり、「赤い首都」モスクワの占領には当然の布石であった。
〇市街戦
西部正面軍が新たな反撃を実施するため態勢を整えようとしたが、西ドヴィナ河とドニエプル河に沿って構築した防衛線は各所で、ドイツ軍の装甲部隊により突破口が穿たれていったのである。
7月11日、第39装甲軍団の第7装甲師団(フンク少将)は第19軍の第25狙撃軍団(チェストフヴァロフ少将)がヴィデブスク正面に構築した薄い防衛線を突破すると、スモレンスク北方を東へと突進した。
7月13日、第46装甲軍団はドニエプル河畔のモギリョフ北方、第24装甲軍団はスタールイ・ブイホフからドニエプル河を渡った。
モギリョフで包囲された第13軍(ゲラシメンコ中将)の第61狙撃軍団(バクーニン少将)と第20機械化軍団(ニキティン少将)は防御陣地を構築して2週間にわたって抵抗を続けたが、最後は全滅してしまった。ドイツ第15歩兵師団が廃墟同然になったモギリョフに入ったのは、同月27日未明のことだった。
7月13日の夕刻には、第47装甲軍団の第29自動車化歩兵師団(ボルテンシュテルン中将)はスモレンスクまであと約18キロの地点に到達した。グデーリアンは第29自動車化歩兵師団に第18装甲師団を支援させて、スモレンスクに向かうよう命じた。
スモレンスクの防衛は、第16軍が担当していた。市の防衛司令官は西部正面軍司令部から「徹底抗戦」の命令を受けていた。街路にはバリケードやトーチカが築かれ、労働者は武装し、警察や民兵と一緒に市街戦グループに編入された。
7月15日、スモレンスクで市街戦が始まった。NKVDや民兵は銃・手榴弾・火炎瓶などで抵抗した。第29自動車化歩兵師団は重砲や火炎放射器で、建物を1軒1軒奪っていくしかなかった。壮絶な市街戦の後、翌16日の夜に市のほぼ全域を占領された。
時を同じくして、第39装甲軍団の先鋒がスモレンスク北方のヤルツェヴォを占領し、スモレンスク=モスクワ間の自動車道路と鉄道を切断した。
西部正面軍は第39装甲軍団の進撃に完全に虚を衝かれ、地上部隊ではなく空挺部隊が降下してきたものと誤認したほどだった。スモレンスクとその西方で防御戦を続けていた3個軍(第16軍・第19軍・第20軍)は新たなる包囲網に閉じ込められる危機に直面した。
中央軍集団はビアリストクとミンスクに続いて、スモレンスクでも敵の大軍を包囲する戦果を挙げつつあった。しかし、中央軍集団の「両腕」であるグデーリアンとホトの「バルバロッサ」作戦に対する見解の相違によって、その戦果を半減させられてしまった。
スモレンスクにおける包囲を目論んだホトに対し、グデーリアンは「赤い首都」モスクワへの迅速な進撃を最優先としていた。そのためグデーリアンは第46装甲軍団に対し、東方のエリニャとドゴロブジへ進撃するよう命じた。
このとき、グデーリアンとホトの上級司令部である「第4装甲軍」が2つの装甲集団に生じた作戦の齟齬を調整するはずだったが、「第4装甲軍」司令官クルーゲ元帥は体調を崩して前線を離れていた。当面の実務は「第4装甲軍」参謀長ブルーメントリット大佐が代行していたが、一介の大佐が2人の上級大将を統御できるはずも無かった。
〇波状反撃
第2装甲集団が東方のエリニャとドゴロブジに装甲部隊を送ったことにより、スモレンスクとヤルツェヴォの間には幅50キロの「回廊」が開いていた。
7月17日、ティモシェンコはこの「回廊」を使って包囲されつつある3個軍を救出しようと考えた。西部正面軍の後方に展開する6個軍(第24軍・第28軍・第29軍・第30軍・第31軍・第32軍)の司令官たちは混乱した戦況の中、数個師団で応急編成した機動集団を任され、スモレンスク周辺で突出部を形成していた中央軍集団の前線のほぼ全周で反撃を行った。
この時、南西部正面軍から西部正面軍へ転属したロコソフスキーは「回廊」を保持するために、ヤルツェヴォ付近の第3装甲集団を攻撃するよう命じられた。ロコソフスキーは与えられた第38狙撃師団(キリロフ大佐)と第101戦車師団(ミハイロフ大佐)の支援に、敗れた各部隊の残兵をかき集めて即席の機動集団を編成した。
7月20日、ドイツ空軍からの間断ない空爆を受けながら、ロコソフスキー機動集団はヤルツェヴォの奪還を開始した。24日まで第7装甲師団の攻撃を食い止めると、25日に反撃に転じた。思わぬ反撃に遭遇した第39装甲軍団はヤルツェヴォを放棄して、北方へ撤退せざるを得なくなった。
7月24日、ゴロドヴィコフ機動集団は第2装甲集団に対し、ロガチェフの南方からボブルイスクに向けて反撃を行った。この反撃はある程度まで成功し、第2装甲集団と第2軍の重要な後方連絡線を脅かす位置まで進出した。
大急ぎで行われた西部正面軍の反撃は、広がりすぎた中央軍集団の装甲部隊に絶え間なく圧迫を与えたことにより、大きな損害を生じさせることになった。スモレンスク周辺に展開していた部隊はドニエプル河沿岸に残された狭い「回廊」を通って、10万人以上の兵力が脱出することに成功した。
だが西部正面軍の反撃は敵の意表を衝いて一時的に戦術的優位こそ確保したものの、協同作戦と支援砲撃の失敗、資材不足などにより失敗に終わった。防戦に転じて地歩を守り続けた中央軍集団は第3装甲集団と第2装甲集団がようやく、スモレンスク東方で合流を果たそうとしていた。
7月29日、第39装甲軍団の第20自動車化歩兵師団(ツォーン少将)と第47装甲軍団の第17装甲師団(トーマ中将)が、スモレンスクとドロゴブジのほぼ中間地点でようやく連結した。ティモシェンコは包囲された10個師団に東方への脱出を命じたが、8月4日までに多くの部隊は壊滅した。
7月31日、第24装甲軍団は第21軍(クズネツォーフ大将)の反撃を撃退し、数日以内にこれを壊滅させた。こうして中央軍集団に、東方もしくはキエフ防衛中の南西部正面軍北翼への作戦の道が開けたのである。
8月5日、ドイツは「スモレンスク会戦」の終結を公式に発表した。「第4装甲軍」司令部はその役目を終え、それまで第2軍に配属されていた歩兵軍団は、第2軍と第4軍に再分配された。
スモレンスクを巡る戦いで、西部正面軍は再び参加兵力の半数を超える約34万人を喪失した。1348両の戦車と自走砲、9290門の火砲を破壊または鹵獲された。
結果的には失敗に終わってしまった西部正面軍の反撃はヒトラーに思わぬ憶測を抱かせることには成功した。特に、第2装甲集団の南翼に対して行われた一連の反撃を重大な脅威とみなしたヒトラーは「バルバロッサ」作戦の第2段階において、攻撃の主軸をモスクワ街道周辺から外すことを考え始めたのである。