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電車内の明かりで、百合子の横顔を何度か見た。不安の影も喜びの色もない、能面のような無表情だった。卓郎逮捕のニュースを見たのか、見ていないのか。真壁はまた少し自信がなくなってきた。
もしニュースを見たのなら、世間体のためにも、精二の霊前で手を合わせて神妙に一夜を明かすのが無難だろう。化粧までして外出する軽薄さは、潔白の証明なのだろうか。
それとも、卓郎逮捕のニュースを知らずに出てきたのだろうか。それにしても、夕方に買い物して帰ってきたことから、夕食でも作るつもりだっただろうに、結局それを置いて出かけたからには、どこから「出てこいよ」という電話が入ったのだろう。
ニュースを見たにしろ見なかったにしろ、百合子の胸の内では、精二の死を悼む気持ちがかなり薄れているのは間違いないような気がした。歳の離れすぎた結婚生活が不幸だったとは思わないが、ある時期から百合子にとっては重荷になっていたのではないだろうか。そして今、百合子は亭主の霊前から逃げ出して、どこかへ行こうとしている。
百合子は金町で降りた。北口から出て、まだ宵の口のネオン街に吸い込まれていく。10メートルほど距離を置いて、その後ろ姿を追う。
5分ほどまっすぐ歩いて、百合子は雑居ビルに入った。表に「美月」という看板が出ている。目的地は、地下へ降りたところにあるバーだった。百合子が店に入った後、ドアの外で真壁はじりじりしながらネクタイを外し、2分ほど待った。
それから、ドアを開けた。誰かを探すふりをしつつ店内をすばやく見渡し、奥のボックス席に後ろを向いて座っている百合子のスーツの背を見た。向かい合って座っている男がいた。
こちらを向いている男の顔を見たとたん、真壁は眼の裏にじりじりと焼け付くような焦燥を覚え、しばし呆然とした。記憶がどっと溢れ出し、それらをまとめる余裕もなく、真壁は夢中で踏み出した。人探しの顔で狭い店内を見渡しながら、ボックス席に近づき、その横を通り過ぎた。その一瞬、テーブルの上に乗っている灰皿を見やり、フィルターの根元まで吸って押しつぶされたタバコの吸い殻を確認した。何食わぬ顔で店を出ると、思わず眩暈を覚え、真壁は額に手をやった。
真壁はとりあえず地上に出て、雑居ビルの脇を通る細い路地に入り、手帳をめくった。ぎっしりと詰まった電話番号の中から、ある番号を探し出し、電話をかけた。
自動音声が「この番号は、現在使われておりません・・・」と言った。番号を間違えたのかと思い、もう一度試してみたが、やはり同じテープの声が繰り返した。そのとき、番号の押し間違いに気づき、「落ち着け」と自分につぶやき、電話をかけた。
3秒待たされてつながった電話から、「『エルム』ですが」という女の声が聞こえた。
「あの・・・早紀さん、いますかね?」
「失礼ですけど、どなた?」
「早紀さんの知り合いですが、マンションに電話しても連絡取れなくて」
「そうなのよ、うちの店も無断欠勤なのよ」
「いつからですか?」
「ええと・・・21日だったかしら。あの子、前から店を辞めたいって言ってたから、別に驚きもしなかったけど、お給料も取りに来ないなんて、バカにしてるじゃない」
「マンションにはずっといないんですか?」
「そう、鍵が掛かってるのよ。あの子、男に貢ぐ癖があったから、また逃げてるんじゃないかしら。あら、ごめんなさいね。あたし、酔ってるの。聞きたいことがあるんなら、警察に行って」
「ところで、お店は日曜もやってるんですか?」
「この不景気に、日曜に開けてる店なんかありゃしないわよ」
日曜は休み。手帳についているカレンダーをめくると、事件の前日に当たる17日は、日曜日に当たっていた。
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「須藤か。待たせてすまん。よく聞け、杉原百合子の2番目の亭主を覚えてるか?」
「たしか・・・本田、和宏とかいうヒモ野郎だったかな・・・」
「そいつだ。7月の20日に、荻窪のマンションに本田を訪ねたことがあっただろ」
「ああ」
「そのとき、マンションにいた女、覚えてるか?」
「木暮、早紀とかなんとか・・・」
「そうだ、木暮早紀って女だ。いいか、よく聞け。その早紀は、21日からバーを無断欠勤してる。マンションの電話は切れている。マンションの住所、覚えてるな?ちょっと今からマンションを見てくれ」
「今から?」
「急げ。あの百合子の家に3回来て、寿司を食った男は本田だ。今、金町のバーで百合子と会ってる」
「何だって・・・?」
詐欺事件となると、人一倍勘の鋭い須藤も分野が違えば、鈍い返事が返ってくるばかりだった。もっと言ってやらなければピンと来ないだろうと思ったら、続けて須藤は「そういえば・・・」と言った。
「今朝、百合子の家のゴミ箱をあさったら・・・『エルム』のマッチが出てきたな。すると、あれは本田が使ったんじゃないか」
当たるときは当たる。上司の平阪から言われ続けていたことが、ようやく実感できた。
「そのマッチ、大事にとっとけ。百合子と本田と早紀の三角関係を裏付けるマッチだ」
「そうじゃないかと、思ってたよ」
「ええ?」今度は真壁が聞き返した。
「ほら、荻窪の早紀のマンションに聞き込みに行ったとき、お前が本田と話してる間に、早紀がベランダに出てきて洗濯物を干しながら、じろじろと本田を睨んでたからな」
結局、真壁がゴミ箱あさりをしながら執拗に百合子の家の訪問者を探していた真意を、須藤はそれなりに察していたらしい。
百合子と本田がいる雑居ビルの入口に眼をやりながら、「だから?」と真壁は怒鳴った。
「早紀を探すんだろ?でも・・・」
「でも、何だ?」
「まさかお前、杉原卓郎がシロだと・・・」
「それで恥をかくのは本庁の連中だろ」
「そうだと言ってもだな・・・」
「つべこべ言わずに早紀を探せって。いいか、マンションに行って居なかったら、『エルム』へ行け。あそこのママは曲者だ。『あたし、酔ってんの』とかなんとか言うようだったら、手帳見せて早紀はどこだと脅せ。いいな?」
電話の向こうで、しぶしぶの返事があった。
「・・・分かった。でも、なんで早紀なんだ?」
「事件当夜、遺体の半コートを整えた者がいる。それは男じゃない。女がいたと俺は思ってるが、百合子じゃない。それにもう一つ、遺体が倒れていたあの姿勢だ。ホシが初めから殺そうと手を下した結果の姿勢だとは、俺にはどうしても思えない」
「要するに、遺体に触ったのが早紀・・・?」
「そんなこと、誰が言った。俺は万一の話をしてるんだ。それとな、本部に伝えるときは全部、俺が言い出したことにしとけ、いいな」
そう言うと、須藤の返事を待たずに、真壁は電話を切った。
すでに警視庁として犯人逮捕を発表してしまった今、万が一、真犯人が別に出てきたとなれば、面倒なことになるのは明白だった。そういう場合、先に逮捕された者は処分保留で釈放されるが、警察は十中八九、誤認逮捕を認めない。こっそり真犯人を逮捕し直すのはいいが、本庁と所轄の力関係によっては、真犯人を挙げた者が針のむしろになる。
その覚悟ができたのか、いまの真壁は肝が坐って落ち着いていた。須藤にあんなことを言ったが、全くの思い込みにすぎないことに、結果が出るのを期待する方がおかしかった。おそらく空振りに終わるだろうにと、自虐的な感じになった。
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午後11時を回った。真壁は雑居ビルの脇を通る細い路地から、百合子と本田が出てくるであろう入口を睨み続けていた。
最初にバーで見た、百合子と本田の表情を何度も思い浮かべて反芻してみた。ひっかかるのは、世間の目をはばかる逢引きのひそやかな喜びに満ちた輝きが、どちらの眼にもなかったことだ。
2人の間にあるのは甘い話ではないな、と真壁は直感した。たぶん、3回の訪問につながる何事かが話し合われているのだろう。遺産目当てに本田がよりを戻そうとしているのか、あるいは百合子の方がそう迫っているのか。
また本田の顔を見たとき、荻窪での聞き込みの帰り際、マンションのベランダで洗濯物を干していた早紀の仕草が瞼に浮かんだ。
そのとき、早紀が干していたのは、本田の下着やパジャマだった。いずれもきれいに手でしわを伸ばし、ロープに吊るしていく。アンダーシャツ一枚干すのに、洗濯バサミを三つも使っていた。その手つきが瞼によみがえる。
ともあれ、真壁が今夜、本田和宏の姿を見たときにとっさに考えたのは、百合子への未練と、その本田を睨んでいた木暮早紀の眼つきと、洗濯物を干していた早紀の手つきの3つだった。それらの3つが一度につながり、そこに本田が3回百合子の家を訪ねた事実と、早紀が失踪した事実が加わって、完結した輪ができかけていた。
少なくとも2つの条件さえそろえば、本田と早紀は杉原精二殺害に関わっていた「かも知れない」というところまで、来たのだった。すなわち、条件の1つは7月17日から18日にかけての事件当夜に、本田と早紀にアリバイがないこと。現時点では、17日は日曜日であり、早紀の勤め先の「エルム」が休みだったことが分かっている。
もう1つの条件は、本田たちが事前に、被害者の散歩コースと散歩に出る時刻を知っていたこと。これは事前に下見すれば、把握することは十分に可能だ。
しかし、現実の捜査の観点からすれば、本田と早紀は動機の点で今ひとつ曖昧なのは、真壁も認めた。三角関係は状況証拠でしかないし、遺体の衣服を整えたのが早紀だというのは、あくまで遠い推測にすぎなかった。
そして、被害者の頬に付着していた冬緑油という唯一の物証が、本田と早紀が杉原精二殺害に関わっていた可能性をさらに小さくしていた。仮に犯行を卓郎になすりつけようとしてやったことだとしても、卓郎が若年性のリウマチを患っていて冬緑油を使っていることを知ってなければならない。探偵でも雇えば把握することは可能だろうが、本田と早紀がそこまでする動機が真壁には考えられなかった。
何本目かのタバコを口にくわえ、マッチを擦る。吸い口に火を当てようとした瞬間、突然じゅっと煙と音を立てて、マッチの火が消えた。何事かと天を仰ぐと、さっきまで止んでいたはずの雨がまた降り出した。それも、バケツをひっくり返したような大雨だった。
真壁は「チクショウ!」と大声で悪態をつき、ビルの隙間から飛び出すと、通りを渡って、すでに店じまいをした金物屋のひさしに逃げ込んだ。
上着の懐に入れてあった携帯が震え出す。幸いにも、濡れなかったようだ。木暮早紀のマンションの様子を見に行った須藤かと思い、電話に出ると、相手は富樫だった。
「吉河組の事務所でガサ入れがあるみたいなんだが、何か聞いてないか?」
「吉河組?ガサ入れ?」
富樫の口から飛び出す物騒な単語に、真壁はとっさについていけず、「知るか!」と怒鳴り返し、携帯を切った。
バーにいる2人は、まだ出てこない。
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湯気が出そうな頭を鎮めるために、タバコのニコチンを流し込みながら、真壁はひたすら待った。2人のいる雑居ビルは、金物屋の正面よりやや左手にあった。
全身びしょ濡れになった体に、急に寒気が走る。地団駄を踏みながら、ふと脳裏に新宿西署で歌舞伎町交番に就いていた頃を思い出していた。そのとき、当時の上司から吉河組の事務所が金町にあることを聞かされたのだ。
いったん本部に確認の電話をするべきか、自分が戻ろうかと考えているうちに、雑居ビルの入口から百合子がひとりで出てきた。ハンドバックから折りたたみ式の黒い傘を取り出し、それを差して、雨が降りしきる通りを歩き出した。ビニール傘を喫茶店に置いてきた自分を、うらめしく思った。
濡れたままでも追うか、それともまだ店にいる本田を待つか。考える間もなく、本田が地上へ飛び出してきた。百合子の方はもう5メートルほど駅に向かって進んでいる。ビニール傘を差し、本田は駅に向かって進んでいる百合子を追って駆け出すと、その背に手を伸ばした。
百合子はいやという身振りで男の手を払い、歩き続ける。本田は今度、百合子の手をつかむ。それまで、2人がビルを出てきてから、ほんの10秒。
ケンカかと眼をみはっていると、本田は百合子の手を引き寄せて肩を抱き、百合子は身体を預ける格好で2人そろって立ち止まった。本田の口元は笑っていた。百合子の表情は見えなかったが、腰がしなを作っている。本田は百合子の肩を抱いたまま、車道に向かって手を挙げる。タクシーがウィンカーを出して近寄ってくる。そこまででも、やっと30秒足らず。
白けたような気分と疲労から、真壁が路上につばを吐いたときだった。さっきまで2人がいた雑居ビルの入口に、いつの間にか女がひとり立っていた。
女は10メートル先の道端で近寄ってくるタクシーを待っている、百合子と本田の方を向いていた。黒っぽいコートに黒いスラックスという恰好だと無意識に思った途端、女は2人に向かって駆け出した。
真壁は眼の前を横切った黒いコートの袖口から、何かが突き出しているのを見た。薄暗い外灯に反射して光り、尖っているものだった。それが何なのか考える前に、とっさに足が動いた。
「おい、待て!」
何歩か駆け出し、真壁が黒いコートの背後に食らいついたとたん、誰かが「きゃあ!」と叫ぶのを聞いた。
真壁はなぎ倒した相手と一緒に濡れた路面に転がり、腕をねじ上げて押さえ込んだ。下敷きにした女の振り乱した髪の間から、青白い細い顔が覗いていた。10日ほど前、ベランダで洗濯物を干していた女とは別人のような、早紀だった。
ハッと真壁が顔を上げると、本田が百合子の手を引っ張って走っていく。ネオン街のビルの角から、2人組の警官が駆け寄ってくる。
「おい!その男女を捕まえろ!」
警官に向かって夢中で叫びながら、真壁は頭の中でガンガン鳴っている警報を聞いた。早紀は初めからあのバーにいて、ずっと百合子と本田の逢引きを見ていたのだ。一度はこの眼で店の中を見ておきながら、百合子と本田に気を取られて、早紀の姿に気づかなかったとは。
そのとき、不意に早紀が体を動かし、真壁の胴に強烈な肘鉄を食らわせた。思いがけない衝撃を受けた真壁は早紀の手を放してしまい、無様にしりもちを付いた。
「殺してやる!」
早紀が恐ろしい声を上げながら、2人に向かって駆け出していく。「くそっ!」と真壁はひとつ悪態をつき、起き上がろうとしたとき、驚いたことに周囲のビルから恰幅の良い男たちが飛び出してきて、たちまち真壁と早紀を取り押さえた。
「ワレェ、どこの組のモンじゃ!」
「バカヤロ、俺は警官だ!」
地面に押さえつけられた真壁は、ただあがくことしかできなかった。
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実際の犯罪者のように後部座席で上体を屈めて、パトカーで亀有南署に入ったころには、すでに8月1日になっていた。カメラのフラッシュが一瞬たかれ、その中に富樫の姿をちらりと見た。
当直の刑事が本田、百合子、早紀の3名から事情を聞いている間、真壁は別の取調室で生まれて初めて自分の供述調書を取られた。いったん沸き立った頭も静まり、真壁は心身ともに鉛のようになっていた。ろくに口をきく気にもなれず、ただ疲れていた。
同年代ぐらいの巡査に「氏名、年齢、住所、職業」と聞かれ、真壁が答えを考えあぐねている内に、部屋のドアが開いて「身分を明かさない筋者ってのは、お前のことか?」と声をかけられた。
落合諒介。
以前、新宿西署で一緒に交番勤務したことがあり、今では本庁の組織犯罪対策部四課に所属する「マル暴」刑事だった。その落合のおかげで、真壁は手帳を見せることになり、「一体、どうしたんだ?」と訝られた。
「いろいろ、あるんスよ」と、真壁はお茶を濁した。
「まぁ、そうだろうな」
落合は若い巡査を人払いすると、形通りの質問をし、調書を作成した。金町の繁華街にいたことについては「所用で通行中・・・」云々という、いい加減な供述内容で済んだ。
聴取が終わると、1階の受付前のベンチに2人で坐り、少し世間話をした。
「まさか、ヤクザと勘違いされて取り押さえられるとはな」
落合はタバコに火をつけた。
「本庁が出張るヤマがあったんスか?」
「東金町の第一病院に今、瀧谷組の若頭が入院しててな。まぁ入院つっても、夜な夜な女と一緒に街に繰り出してんだが・・・」
紫煙をゆっくりと吐き出し、ゴミ箱に灰を落とす。
「昨日、シャブで捕まったチンピラ二人が、自分たちは吉河組の鉄砲玉で瀧谷の若頭のタマ取りに来たと吐いて・・・あの通りの吉河組の事務所でガサ入れしてたら、お前が女と騒ぎを起こしたってわけ」
「こんな時間に、ガサ入れ?」
「逮捕したとき、2人とも景気づけにとばかり、たっぷりと打ってやがってな。薬が抜けてようやくまともになったのが・・・今日の夜7時だぞ。7時!」
鼻息を荒く吐き、落合はタバコをゴミ箱に捨てた。
「ところで、あの早紀、何と言ってるんですか?」
「『あたし、殺すつもりだったのよ』とか、言ってるようだがな」
「取り押さえたとき、酒臭かった。飲んでたんでしょう?」
「包丁突き出して走った以上、どうしようもないな。逮捕したよ」
「動機は?」
「さぁ、詳しい聴取は明日だろう」
「男女の方は?何か言ってるんスか?」
「狙われる心当たりは無いと言ってるらしいが、臭いな。2人とも、早紀を知ってる。そういう眼だ」
何も知らない落合に、真壁は「実は・・・」と本田、百合子、早紀の3人を追っていたことを手短に話し、「うちの署には内緒です」とささやいた。
「へぇ、なんでだ・・・」
「まあ・・・いろいろあって」
「何の容疑だ?」
「今夜の通りです。三角関係がこじれて・・・ひょっとしたら、ある事件とつながってるかも知れないと思ってるんですが、そっちの方は証拠がない。今夜分かったのは、間違いなく三角関係でも揉めてたということです」
「まぁ、お前の事件だからな」
そう言うと、落合は受付台の下から真壁のネクタイが入ったビニール袋を取り出し、真壁に投げつけた。
「今度、ノー・ネクタイでうろついたら、また逮捕するからな」
落合は意地悪く笑った。
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真壁がタクシー代をはたいて上野南署に着くと、玄関前の雰囲気が少しおかしかった。普段は見かけない車が3台止まっていたし、見る間にタクシーが次々にやって来て男たちを降ろしていく。
何事かと思わず足が止まったら、明かりを灯した玄関からでかい男が現れて外を見回し始めた。須藤だった。眼が合った。
「あ!」と須藤が気づき、「早く来い!」と手招きする。
「探してたんだぞ!早く来い!金町で早紀を捕まえたの、お前だろ!30分ほど前に、亀有南署から連絡があって・・・」
「それがどうした?」
「吐いたんだよ、吐いたんだ、全部!」
飛び出しそうになった心臓を抑えて、真壁は「何だって?」と声を低くした。
「殺したのは本田。現場にいて、遺体に触ってコートを整えたのは早紀。本田に亭主の散歩コースを教えたのは百合子」
須藤の声を聞きながら、真壁は一瞬ぼうっとなった。この1か月間、頭にたまっていた血がすっと下りていったような感じだった。身体が軽くなり、脚が浮いてくる。酔いも手伝って、足元はかなり不安定だった。
3階の会議室には、一報を聞きつけ、大慌てで駆けつけてきた連中が10人ばかり集まっていた。真壁が姿を見せると、ざわめきがぴたりと止んだ。どの顔にも、困惑や疑念を全部混ぜたような、複雑怪奇な表情が浮かんでいた。平阪は真壁の顔を見るなり、絶句してしまった。
そこへ人垣をかき分けるようにして、刑事課長代理の瀬川が顔を覗かせた。
「遅くなってすみません」真壁は潔く一礼した。実のところ、こんなに急に度胸がつくとは思っていなかった。
瀬川が咳払いをし、「その・・・重大な展開があった」と言った。続いて「とんでもないことになった」と唸った。
「早紀とは偶然、金町で出くわしただけで・・・こんな結果になるとは思ってもみませんでした」
「まぁ、ゴミ箱あさりの成果があったということにしておこう」
そう言って、瀬川は幹部席の方へ戻っていった。
傍でにやにやと笑っている男がいて、真壁がちらりと眼を向けると、小野寺だった。ぽんと真壁の肩を叩くなり、「やってくれたなぁ、真壁ちゃんは」と笑った。
「課長は?」
「さっきから署長室で、本庁の連中と雁首そろえて会議中」
真壁の後ろで、須藤が「こりゃ嶋田さんの胃、かなり痛いだろうぜ」と笑った。
皆が席に着いたところで、瀬川は亀有南署から届けられた調書の一部を読み上げた。
たぶん字数にして2000字もなかっただろう短いものだったが、それを聞いている間、真壁の心身は茫洋と膨らみ、ある種の充足感で静かに満たされた。だが警察にとっては大失態であり、3人の男女にとっては不幸で残酷な話であった。
そのとき読み上げられたのは、事件のほんの大枠であり、ことに愛憎の部分については供述が食い違っている部分が多かった。三者三様の思い込みのずれがあってこその三角関係だったと、真壁は思えた。
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本田和宏と杉原百合子は、今年はじめに上野で再会し、それ以来ときどき電話で話すようになった。それについて、本田は「百合子に未練がありました」と言い、百合子は「本田はどうせ金目当てだと思いましたが、私も寂しかったので・・・」と言っている。
4月はじめには、本田が「亭主と別れろ」と迫り、百合子が「今さら別れられない」という話になった。本田は「百合子は、亭主の遺産が入るまで別れるつもりはないようでした」と言い、百合子は「スナック嬢のヒモをやってるような男が、今さら私に言い寄ってきた本心をずっと疑ってました」と言うが、精二の眼を盗んだ電話の逢引きはその後も続いた。そして6月半ば、本田は一度、百合子の亭主に談判してやると言い出した。
「あの爺さんは、自分の面倒を見させる家政婦代わりの若い女を欲しかっただけの、いやらしい年寄りだったから、百合子がかわいそうだと思ったんです」
杉原精二が本当にそんな亭主だったかどうかについては、百合子は黙秘している。
しかし、談判してやるとしつこく言う本田に、百合子は根負けし結局、亭主の散歩コースと時間を教えた。「本当に談判に行くとは思っていませんでした」という。
事件のあった7月17日の夜、本田は酔った勢いで愛人の早紀とケンカをした。早紀いわく「本田が百合子に電話しているのを知ってたから」頭に来て、痴話ゲンカになったということだ。
早紀とのケンカでカッとなった本田は、午後9時ごろ荻窪のマンションを飛び出し、電車に乗った。「百合子に会いたかったが、精二がいるから会えないと思うと、今夜こそ談判してやると思い」、東京で電車を乗り換えて上野駅に向かった。上野に着いた時刻は覚えていない。
傘を持っていなかったので、駅から上野公園の現場まで濡れて歩くうちに、気分が悪くなってきた。じとじと雨の降り続く公園に人影はなく、こんな天気の日に本当に精二が来るのかと思い始めると無性にイライラし、ますます精二が憎くなってきた。ぶらぶらと周囲をうろつき、不忍池のほとりで凶器となる石を拾う。
傘を差した男の姿が見えたので、遊歩道の端に寄って、男が近づいてくるのを待った。
本田は精二の顔を知らなかったので、男に近づき、「杉原精二さんか」と尋ねた。男がそうだと答えた。本田が「百合子の前の亭主だ。話がある」と言うと、精二は驚いた顔をしていたが、すぐに気の強いところを見せて「あんたのことは百合子から全部聞いている。稼ぎもないヒモのくせに何を言うか。警察を呼ぶぞ」と怒鳴り始めた。
「稼ぎもないヒモという言葉を、百合子を家政婦代わりにするようなじじいから浴びせられるのが許せませんでした」
本田は「このやろう」と怒鳴り、石を持ち上げ、正面から頭に殴りつけた。精二は植え込みの中ほどに倒れ、うんうん唸っている。本田は顔を見られているととっさに考え、精二の背中にのしかかって頭に石を何度も打ちつけた。精二はすぐに動かなくなったが、死んだのかどうか確かめなかった。頭がぼうっとなってしまったからだ。
一方、早紀は本田が百合子に会うのではないかと思い、本田がマンションを飛び出した後、すっとあとを尾けてきていた。そして公園内の遊歩道の、少し離れたところから見ていると、思いがけない揉みあいを目撃した。早紀は、本田が誰かを殴ってケガをさせたのではないかと心配になり、急いで駆けつけた。
見ると、植え込みの中に老人が伏している。早紀はそのとき、無我夢中で老人に駆け寄り、「しっかりして」と声をかけた。反応がないので死んでいると気が付いたとき、涙が溢れた。「田舎のおじいちゃんのことを突然、思い出しました」ということだ。
怖いとか、逃げなければと思うより先に、早紀は本田が着けていた軍手を借り、遺体を持ち上げ、近くにあったベンチの上に仰向けに横たえた。そして、遺体の乱れた衣服を丁寧に整えた。
「なぜ、そんなことをしたのかはわかりません。たぶん、もうこれで何もかも終わりだという気がしたのでしょう。だから、変に落ち着いていたのだと思います。本田はぶるぶる震えているだけでした」
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早紀は本田を引っ張って、現場から逃げた。きっとすぐに警察が来るだろうと覚悟していたが、1日待っても2日待っても来ない。そのうち冷静になって、自分たちは被害者の知り合いの範囲に入っていないから、警察が捜しだすことはないだろうと話し合った。
7月20日になって2人の刑事が聞き込みに現れたが、本田がかつて一緒だった百合子のことを聞いていっただけだった。しかし、そのときの本田の様子から、早紀は「やはり本田は百合子に未練がある」という確信を持ったらしい。
警察が来たことで本田は神経質になり、マンションの電話を切ってしまった上に、早紀には銀座の店にも行くなと言った。
本田の執拗なすすめで、早紀は7月21日から岡山の実家に帰った。その間、22日と25日、28日の3回、本田はこっそり百合子の家を訪ねた。電話をかけても、百合子が以前のように打ち解けて話さないので、焦ったからだという。本田は、精二が死んだことで一番得したのは百合子だと信じ、百合子に転がり込んだはずの遺産を、自分もいくらか貰う権利があると考えていた。3回も百合子の家を訪問した本来の目的は、その話をするためだった。
しかし、百合子に向かって、精二を殺したのは自分だと言う訳にはいかず、どう理屈をつけたものかと思案しながら最初の訪問をしたとき、驚いたことに百合子の方から「あんたがやったんでしょう」と冷たく言われた。本田は否定した。
「百合子は亭主の死でいろいろ疲れていたのだと思いますが、疑心暗鬼に凝り固まって、別人のように暗い感じでした」
そういうわけで、本田の3回の訪問は全て、百合子の疑いを晴らすことに費やされた。
「私は人がいいんです。それに、百合子からそう思われるのが辛かったのです」
7月28日に実家から早紀が戻ってきたとき、運悪く、本田は百合子と電話で話しているところだった。またケンカになり、険悪な状態になった。本田はそろそろケリを付けなければと真剣に思った。しかし、ケリを付けるといっても、とりたてて方策があるわけではなく、全ては百合子の出方次第だった。
百合子と早紀の供述では、本田は結局、早紀には「百合子に金を出させるから、一緒によそへ行こう」と言い、百合子には「早紀と別れるから、一緒になろう」という話をしていたらしい。
7月31日、本田はいつも通り午後8時ごろに百合子の家を訪ねるつもりだったが、その直前にニュースで卓郎の逮捕を知った百合子が「ひさしぶりに外で会いたいの」と電話をかけてきたので、金町で会うことにした。百合子はこう言っている。
「精二を殺したのが本田ではないとわかりましたし、なにしろ精二が病気で倒れてからというもの、もう息が詰まりそうな状態だったので、たまには外出したかったのです」
そして、真壁があとを尾けて目撃した通り、本田と百合子は金町のバーで会った。話し合いは、すでに本田の容疑も晴れていたので、これまでとは違った雰囲気になった。
百合子は「早紀と別れて」と言い出した。本田は、もう精二が死んでしまったので「亭主と別れろ」と言うこともできず、結局、百合子に再婚を迫られる形となった。
2時間足らずの話し合いの末、本田は早紀と別れることを約束した。しかし、頭の中では「籍さえ入れたら、あとはどうにかなる」と考えていた。早紀のことも諦めきれなかったし、「金さえ手に入れたら、早紀を言い含めることもできると思った」という。
しかし、早紀はそんなことを考えていなかった。事件当夜と同じく、早紀は外出した本田のあとを尾けていた。そして、バーの片隅で本田と百合子の逢引きを見つめ続け、ついには凶行に及んだ。
「もう本田のことは信じてませんでしたが、最後まで諦めきれなかったんです」
21
短い調書を聞き終わって、真壁が確実にわかったのは、杉原精二を殺したのは息子の卓郎ではないということだけだった。
本田、百合子、早紀の3人の間に起ったことは、謎に満ちていた。百合子を見たら百合子を愛おしくなり、早紀を見たら早紀が愛おしくなるという本田という男は、本当はどこまで狡猾であり、どこまで明確な犯意があったのか。
百合子と早紀という2人の女にしても、いったいどの時点で本田に惚れ、どの時点で愛想を尽かし、どの時点で未練を持ち、どの時点で憎んだのか。また、ついには凶行に及んだ早紀の精神状態は、単なる嫉妬で片付けられる感じではなかった。百合子が手にした遺産を目当てに、本田と共謀した可能性は否定できない。
それに・・・と、真壁は考えを巡らせる。あの短い調書の中で、唯一の物証である冬緑油についてはいっさい触れられていない。本田はいつ、どうやって被害者の一人息子である卓郎が若いころからリウマチを患っていて冬緑油を使っていることをつかんだのか。また、冬緑油の入手方法は。
そんな考えを断ち切ったのは、「おい!」という鋭い一声だった。見ると、いつの間にか会議室の入口に嶋田が立っていた。苛立たしげに手を振り、顔が「こっちに来い」と告げていた。
真壁がそばに寄ると、嶋田は開口一番、「ネクタイはちゃんとしめろ!」と怒鳴りつけた。真壁は頭を垂れることしか出来なかった。
嶋田にせかされるようにした入った署長室は、書類をめくる音だけが支配していた。入口正面に、本庁から一課長の代理で来た理事官が座っていた。右のソファに第五係長と管理官。左のソファに座る2人の男は、中野東署から来た第十係長と管理官だという。
どうして中野東からと真壁が面喰っていると、理事官が「読んでみたまえ」と眼の前のテーブルに置かれた書類を指した。手にとって見ると、上申書のようだった。内容を読み進めていくうちに、真壁は眼を見開き、思わず紙面から顔を上げた。
「読んでの通りだ。本田和宏は、中野の強盗殺人を自供した」理事官が言った。
「中野東はホシを特定してたじゃないですか。どうして、本田が本ボシだと・・・」
「本田は左手をケガしている」と言ったのは、第十係長。
第十係長の話は、次のような内容だった。
米村巡査が刺殺された現場は行き止まりで、犯人が逃走時に残したとみられる血痕がブロック塀に残されていた。その血痕の血液型はB型。米村の血液型はA型だから、その血痕はホシのもの。事件の翌日、本田が荻窪の病院を受診していることが分かった。本田の血液型はB型ということだった。その点について追及すると、本田はあっさりと犯行を認めたという。
突如として、真壁は思い当たった。中野の薬局から盗まれたのは、現金と軟膏。
「冬緑油を盗んだんだ・・・」
部屋にいる全員が、真壁に視線を送っている。次に思い当たったのは、さきほど会議室で聞かされた短い調書を全否定することだった。
「百合子が本田に教えた・・・」
真相はあまりにも恐ろしいものだった。百合子が杉原精二の遺産を目当てに、本田と共謀した可能性は極めて高く、しかも限りなく主犯格に近い。
だが、分からないことがある。亀有南署から送られた短い調書を聞かされた限り、本田と百合子は入念な口裏合わせをしていたようだが、本田が現場に自分と同じ血液型の血痕があっただけで強殺を認めたのはどういうわけか。本田が薬局に忍び込んだのは、冬緑油を盗むためであり、それは被害者の一人息子である卓郎の犯行に見せかける重要なカギであった。犯行を卓郎になすりつけるというアイデアもまた百合子が本田に教唆した可能性は極めて高く、結果として本田は百合子を裏切ったのではないか。
「君はどこまで知っていたのかね?」
きっちりと分けた七三の髪型に、細いフレームの眼鏡をかけた神経質そうな面持ちをした理事官は、まるで紳士服売り場のマネキンを思わせる能面だった。
「君は本部の方針を無視して独自に動いていたそうだな。君は杉原百合子が本田を唆して、中野の強殺と上野公園の殺人をやらせたと、どこかで掴んだのではないのかね?」
真壁は何も言えなかった。理事官はため息ひとつ付くと、嶋田と真壁に手を払って、部屋を下がらせた。
低頭しつつ、署長室の扉を閉めた嶋田は真壁を睨みつけるなり、次の瞬間、「謹慎だ、謹慎!」と怒鳴りつけた。
エピローグ
12月の曇天の下、真壁と須藤は大理石に雑巾がけをしていた。「小野寺家之墓」は、晴れた日には富士山が見えるという高台の中腹にあった。せっせと墓石を磨いている2人のそばで、中年の女性が「ごめんなさいねぇ、甘えちゃって」と言っていた。
「いいんですよ、奥さん。これで少しは恩返しできるってモンです。なぁ、真壁」
真壁は「ああ」とだけ答えて、雑巾がけを続けた。
小野寺が倒れたのは、8月の末だった。肝臓の末期ガンで、去年の冬に余命半年を宣告されていたという。退官を7か月も前倒しにした理由は、子どもこそ出来なかったが、せめて余生は妻と一緒に過ごしたいということだった。
「でも、それも出来なくなっちゃったなぁ」と、小野寺は病床で淋しく笑い、見舞いに来た真壁と須藤を「息子みたいなモンだ」と妻に紹介した。
「あらあら、こんなに大きい息子が2人もねぇ」と笑った妻は、十数年前、小野寺が八王子北署の生活安全課がいたころに出会ったという。夫婦仲が良いことは入院中にまめまめしく世話を焼いていたことからもうかがえた。
そんな2人の様子を見ながら、真壁は百合子に思いをはせた。百合子もまた、杉原精二が脳卒中で倒れたときにかいがいしく世話を焼き、近所から「よくできた奥さん」と言われていた。だが、その胸の内は、真壁にはついに分からなかった。
本田はその後、全ての犯行は「百合子の指示によるもの」と供述し、「精二の遺産を折半するつもりで引き受けた」という。これに対し、百合子は「本田が噓をついている」と全面的に否認し、結局、動機も分からずじまいだという。
真壁と須藤が最後に見舞ったときには、小野寺はすでに昏睡状態に陥っていた。話すこともできず、2人はただ様子を見守ることしか出来なかった。ところが病室を辞そうとしたときになって、小野寺がぼんやりと薄目を開けた。
須藤が感極まって、敬礼した。真壁も姿勢を正し、伸ばした右手のひとさし指と中指を額に当てる。小野寺がそれを見て、酸素吸引マスクの中で口をかすかに動かした。その日の夜、小野寺は亡くなった。58歳だった。
墓参りを終えた2人は、急な坂道を慎重に歩き進める。奥さんは残して行った。夫婦だけの時間を与えてあげたかった。
「そう言えば、お前、本庁の捜査一課に異動だって?」須藤が言った。
「9月の人事でな」
「それで今、何やってんの?」
「府中の学校で、講習受けてる」
「へぇ」
ようやくバス停の休憩所に着き、バスが来るまでまだ時間があったので、真壁と須藤はタバコを吸うことにした。「小野寺さんの置き土産だな」と、真壁がマッチで二人分のタバコに火をつけた。須藤の感想は「ライターと違いがわからん」とのことだった。
紫煙をだいぶ噴かした後、「それにしても、あの時の敬礼・・・」と、須藤が笑う。「お前、似合ってなかったな」
「小野寺さんにも言われたよ」
「いつ?」
「教えるか」
喫茶店でマッチをすすめる小野寺の淡い笑顔が真壁の脳裏にふっと浮かんだ瞬間、厚い雲が割れて光が差し込んだ。