私はオーケストラを指揮する時、楽譜は絶対に使いません。獅子使いがライオンを飼いならす方法が書かれた本を持って檻の中に入りますか?
ディミトリ・ミトロプーロス
イントロダクション by ティム・ペイジ
"ライブ"録音、特にこのセットに収録されているような未発表の演奏は不気味な魅力を放っている。しばらくの間、私たちは過去の聴衆に混ざったり、その霊魂と触れ合ったり、時間の経過とともに失われた過去の一部分を再現することが出来るのです。
この特別なライヴ録音が自らの過去に執着し、取りつかれているとさえ言える有名な街―ウィーンで行われたことがいかに適切なことのように思える。しかし、1950年代後半から1960年代前半にかけて、ウィーンは他に類を見ないほど前向きな楽観主義の時代となっていた。1955年にはオーストリアの主権が回復し、10年以上にわたってウィーンを占領していた連合国軍がついに帰国した。新政権は平等主義的で進歩的で、すべてが可能に思えた。最近の恥辱ではなく、永遠の栄光を強調する時だった。
これらの栄光の中でも最も偉大なものは昔も今も、この街の音楽の歴史だった。このセットに収録されている3人の作曲家はいずれもウィーン、特にウィーンフィルとの強い結びつきがあった。これらの演奏会にいた聴衆の多くは、R.シュトラウスを覚えていただろう。彼は1949年に亡くなったばかりだった。もっと数少ない人はかつてウィーンフィルの音楽監督を務めたマーラーとの思い出があるかもしれない。また、歳を召した参加者の1人や2人はブルックナーに会っていた可能性もある。ウィーンにはこのような音楽文化が存在した。
ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮者としてのキャリアの多くは、2つの偉大なオーケストラの間で揺れ動いていた。1957年4月17日のムジークフェラインザールにおけるブルックナーの交響曲第8番の演奏と、その1か月後にEMIに遺したベルリン・フィルとの商業録音を比較するのは有益である。ウィーンフィルとの演奏では、彼のテンポはわずかに速くなっている。その演奏はレコーディング・セッションが保証するようなシームレスなものではない。しかし、この演奏には私たちがいつも連想するカラヤンとは違う自発性がある。繊細な音の輝きの中に、ある種の民俗的な歓喜のようなものさえ感じられる。
カラヤンとディミトリ・ミトロプーロスほど、個人的にも仕事上でも、2人の指揮者に大きな隔たりがあることは想像に難くない。一方は冷徹な愛国者であり、もう一方は自己に厳しく周囲から苦しめられたインテリだった。ミトロプーロスによる1960年10月2日のマーラーの交響曲第9番は史上最もエキサイティングな録音の一つである。軽やかで推進力があり、猛烈に煽るようでもあり、(十字軍の)熱気に包まれている。その演奏はミトロプーロスのかつての弟子であるレナード・バーンスタインが好んだような主観的なマーラーでもなければ、クリストフ・エッシェンバッハなどが最近披露した、より穏健で新古典主義的なマーラーでもない。むしろ、この演奏はマーラーのスコアに忠実でありながら、終始熱気を孕んでいる。そして、この演奏に稀に見る恐ろしいほどの感動を与えているのは、単に後知恵としてミトロプーロスが1か月後にマーラーの交響曲のリハーサル中に心臓発作で亡くなったことを知っていたためではないと思っている。
最後に、R.シュトラウスが気に入っていた解釈者の1人であるカール・べーム(牧歌的な悲劇「ダフネ」の献呈者)はこの巨匠の「死と変容」と「英雄の生涯」で、豪華で熱量のある素晴らしい演奏を聴かせてくれる。この演奏は1963年5月19日にウィーンの「もう一つの」ホール、隣のコンツェルトハウスで録音された。1932年から1971年までウィーンフィルに在籍したコンサートマスターのウィリー・ボスコフスキーの存在感は両曲の醍醐味である。それらの曲において、彼は完璧な名人芸と古きウィーンのロマンチシズムを絶妙に組み合わせている。
◆ 筆者紹介
ピューリッツァー賞受賞者のティム・ペイジはワシントン・ポスト紙のクラシック音楽評論家であり、アンダンテ・レーベルの寄稿者である。著書に『Glenn Gould Reader』『William Kapell』『Selected Letters of Virgil Thomson』などがある。