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真壁仁は2人の友人と一緒に、六本木まで飲みに来ていた。六本木4丁目のダイニングバーの中は洒落たインテリアに、フュージョンをBGMに流している。
どうも落ち着かない。真壁は革張りの椅子の下で、腰をもぞもぞさせた。
富樫誠幸がテーブルをはさんで、常連客らしくメニューを見ないで、ウェイターに慣れた調子で言った。
「ボランジェのスペシャルキュベを」
真壁は思わず眉をひそめる。
「なんだ、それ?」
石崎奈緒子が隣に座る富樫に得意げに言った。
「フランスのシャンパンじゃない」
「おっ、詳しいね。奈緒子ちゃん」
わずか1時間前に初めて会ったはずなのに、もう親しい間柄のように富樫と奈緒子は笑い合った。ちゃんとした芸能事務所に入れば、俳優やモデルで食っていける顔をしている富樫に奈緒子も人並みにやられているのだろうと、真壁は思ってみた。
「ねぇねぇ、2人はどうやって知り合ったの?」
「覚えてるよ」富樫が真壁に眼を向ける。「あれ、ケッサクだったな」
真壁は全く見当がつかなかったが、富樫の話はこうだった。
大学1年の初夏。クラブハウス棟の狭い廊下のベンチで、1人の男が缶コーヒーを手にしたまま、うつむいて座っていた。何の気なしに通り過ぎようとして、投げ出したジーンズの長い両脚が通路の邪魔になることに気づき、富樫は声をかけた。
「おい!足、どけてくれ」
「ああ・・・くそっ!」
悪びれず様子もなく身じろぎしたと思うと、手を滑らせて履いていたベージュのスニーカーの上に缶コーヒーの中身をこぼしてしまった。男は眩しげに眼を開け、傍らで内心呆れる富樫に眼をやった。そのきつい眼差しはお前のせいだと告げていたが、富樫は平然と「コーヒーを持ったまま居眠りする君が悪い」と声を出した。
奈緒子が涙を流しながら、大笑いする。真壁が甘いシャンパンに辟易して、タバコを咥えると、富樫が肩を小突いてくる。顔を上げると、富樫の指す先の壁に禁煙マークのシールが貼ってあった。真壁は憮然とした顔で立ち上がった。富樫はニヤついた笑みを浮かべている。
店のドアを押し開け、細い路地に立ってタバコに火を付けると、眼の前にある店の壁に貼ってある何かのポスターを見た。「奥多摩の都民の森」というキャプション。一面の若葉色が突然、脳裏に沁みてくる。
真壁は《ああ、もう5月なのか》と思い出していると、ズボンのポケットに入れていた携帯電話が震え出した。電話は本庁6階の宿直からだった。
「三鷹南署から電話が入ってる」
続いて、受話器から捜査員の声が聞こえた。
「真壁君か。現場で新條紀子を押さえた。来るか?」
「現場?」
「自宅の庭をライターで燃やしたところを、巡回中の警官が発見した」
三鷹南署からの声を聞きながら、真壁はこの1か月あまり追ってきた新條紀子の顔を思い浮かべた。色白い16歳の哀しげなおっとりとした顔だ。続いて、事件の端緒をつかんだ十係の同僚、渡辺優大巡査部長の端正な顔立ちも浮かんだ。
「ご連絡、ありがとうございます。すぐ行きます」
その後、渡辺を呼び出してすぐに三鷹南署へ向かうよう伝え、電話を切った。手にしていたタバコを排水溝に捨て、急いで店に戻ると、富樫と奈緒子に「今日は俺のオゴリ」と告げ、財布から2万円を取り出してテーブルの上に置き、背広を掴んで店を飛びだした。
富樫が「刑事さん、頑張って」と言い、奈緒子が「気を付けてね」と後押しした。
無意識に六本木通りまで少し走り、呼び止めたタクシーに飛び乗った後、真壁は事件の不本意な結末について何か考えようとしたが、出来なかった。それから、ある種の不条理な思いを含めて、一度起こした過ちは取り消すことは出来ないのだと思った。
やがて起こるかも知れない悲劇を、何らかの形で感じる。しかし、それは個人の不健全な推測の域を出ず、何の打つ手もないまま、たいていの場合は眼をつむることになる。
後悔は何の役にも立たない。死者は生き返らない。真壁はじくじくといつも思うのだ。