〇ブリャンスク=オリョール攻防戦
9月30日午前5時30分、ドイツ中央軍集団のモスクワ攻勢―「台風作戦」の火蓋が切って落とされた。
第2装甲集団(グデーリアン上級大将)の第24装甲軍団(シュヴェッペンブルク大将)は、グルホフからセヴスクを経由してオリョールに至る道路を突進した。その北翼では、第47装甲軍団(レメルセン大将)がブリャンスク西方に展開するソ連第13軍(ゴロドニャンスキー少将)の背後へ進出し、南翼では第48装甲軍団(ケンプ大将)がオリョール街道の南翼を防護する任務に就いていた。
第2装甲集団による総攻撃の矢面に立たされたブリャンスク正面軍の南翼を担うエルマコフ機動集団は、拠点を維持できず東方へ撤退した。この後退により、第13軍との境界面に幅50キロほどの間隙が生じ、グデーリアンはこの好機を見逃さず装甲部隊をこの間隙に突進させた。
10月3日、第24装甲軍団の先鋒を務める第4装甲師団はオリョールの市街地に迫っていた。奇襲は完璧で、オリョール市の共産党やNKVDに重要な工場を爆破させる時間さえも与えさせなかった。
作家のヴァシリー・グロスマンは「赤星(クラスナヤ・ズヴェズダー)」紙の特派員としてオリョールに派遣され、現地のホテルで過ごしていたころ同僚のカメラマンが駆け込んできた。
「ドイツ軍がまっすぐにオリョールを目指して突進してくる。何百両もの戦車だ。あわやのところでその砲火を逃れて来たのだが、いますぐ出ていかないと、おれたちもつかまってしまうぞ」
グロスマンがホテルを引き払うと、市内は混乱に陥っていた。避難民の一団にまぎれてグロスマンがオリョールを脱出してから2時間後の午後6時、ドイツ第24装甲軍団は市街地に突入した。戦車が大通りの市電の傍らを進んでいると、通行人は彼らをロシア兵と勘違いをして手を振った。
ブリャンスク正面軍司令部と麾下の各軍司令部の連絡線は早々に途絶し、続く数日の戦闘の中でブリャンスク正面軍司令官エレメンコ大将もモスクワの「最高司令部」との連絡手段を喪失してしまった。ブリャンスク正面軍の残存部隊は壊滅から逃れようと、ドイツ軍の包囲網を死に物狂いで突破しようとしていた。グロスマンは、その光景をつぶさに目撃し、印象をノートに書き付けた。
「退却の場面に遭遇すると思っていたが、目前に広がる光景はいままで一度も見たことがないような、ものすごい想像を絶する情景だった。大脱出だ!聖書に出てくるエジプトからの大脱出のようだ!八列になって車両が走り、何台ものトラックが轟音をとどろかせ、一斉に泥沼から抜け出そうとしている。袋や包み、スーツケースを抱えた群衆もいる。あたかも聖書の大混乱の時代にタイムスリップしたかのような、強烈な感覚をおぼえた」
10月5日、第47装甲軍団の第18装甲師団がオリョールとブリャンスクを結ぶ交通の要衝カラチェフを占領した。また、第17装甲師団は3日前から攻撃を開始した第2軍とブリャンスク南方で合流を果たそうとしており、ブリャンスク正面軍は早くも完全包囲の危機に直面した。
10月7日午後2時ごろ、劣勢を悟ったエレメンコはブリャンスク正面軍の全部隊に、陣地を放棄して東方へ撤退するよう命じた。この時点ではまだ、重要な道路を制圧されていたとはいえ、ドイツ第2装甲軍の北翼を形成する兵力密度は疎らで、各所に開いた空隙から多数のソ連軍部隊が防御戦闘を続けながら、東方への脱出に成功した。
スターリンはエレメンコにただちに反撃に出るように命じたが、もはやブリャンスク正面軍には反撃のための戦車も兵力もほとんど残っていなかった。第13軍、第50軍は司令部とともに、ドイツ第2軍によって巨大な包囲網の中に閉じ込められた。
10月13日、エレメンコは脱出作戦の最中に空襲で脚に重傷を負い、軍用機で脱出せざるを得なくなった。翌14日、ザハロフ少将が後任のブリャンスク正面軍司令官に着任した。
モスクワに帰還したグロスマンは、「赤星」編集長のオルテンベルクに詰問された。
「なぜオリョールの英雄的な防衛に関する記事を送らなかったのか?」
「オリョールは防衛戦などやらなかったので」
脱出行に関する覚書は記事にはされず、オルテンベルクはグロスマンに再び前線に戻るよう命じた。
〇ヴィアジマ包囲戦
10月2日午前5時30分、前線に沿ったドイツ軍は、短い準備砲撃と高密度の煙幕の展張を行った。続いて、第2航空艦隊の爆撃が戦場一帯に降り注いだ。投下された爆弾の1発がソ連西部正面軍司令部に直撃し、司令部は一時的に機能マヒに陥った。
第4装甲集団(ヘープナー上級大将)は第33軍と第50軍の境界面に沿って進撃し、第3装甲集団(ラインハルト大将)はヴェルディノの北で第19軍と第30軍の戦線を突破した後、第41装甲軍団(モーデル大将)をルジェフに派遣し、第57装甲軍団(シャール大将)をヴィアジマに向かわせた。
ソ連軍は大部分の場所で陣地を維持していたが、ドイツ軍の突破が伝えられると、モスクワの「最高司令部」は遅まきながら退却を許可した。だが、予備正面軍司令部も西部正面軍司令部も各軍司令部と連絡が取れず、状況をまったく把握できなかった。西部正面軍司令官コーネフ大将は機動集団を編成し、3日から4日にかけてドイツ第3装甲集団に対する反撃を命じ、6日に開始された西部正面軍の退却を援護させようとした。
10月5日、第4装甲軍の先鋒を担う第40装甲軍団(シュトゥンメ大将)は、モスクワから約200キロに位置するユフノフを占領した。第40装甲軍団の第10装甲師団は進路を北へと変えた後、10月7日にヴィアジマ近郊に到達した。
10月7日、第3装甲軍の第57装甲軍団は西部正面軍の反撃を撃退し、モスクワ街道の関所であるヴィアジマ付近に進出した。第57装甲軍団の先鋒を務める第7装甲師団は翌8日、第4装甲軍の先頭部隊と合流を果たした。
特に縦深を欠いた部隊配置でドイツ中央軍集団の攻勢を迎え撃った西部正面軍の各部隊は瞬く間に司令部との連絡を断ち切られて混乱状態に陥っていた。そしてドイツ軍が合流を果たしたことにより、第16軍・第19軍・第20軍・第32軍がヤルツェヴォとヴィアジマの中間部で包囲されてしまい、包囲された各軍の指揮は、第19軍司令官ルーキン中将が執ることになった。
第4軍(クルーゲ元帥)と第9軍(シュトラウス上級大将)の歩兵部隊はソ連軍が後退阻止部隊によって依然として戦意を失わず頑強に抵抗を続けたため、ヴィアジマ包囲網を完全に閉じることに苦戦していた。
その抵抗の中で、第16軍司令官ロコソフスキー少将は途中でかき集めた敗残兵を引き連れて、東方へ脱出することに成功した。ロコソフスキーは食事のために立ち寄った農家で、老人からの叱責に殴られたような思いを抱いた。
「同志指揮官、おたくらは何をやっているのかね?わしらを見捨てて敵の手に渡すかね?わしらは赤軍のために出来ることはなんでもやってきた。最後のシャツ1枚まで脱いで、くれてやったものだ。わしらは昔の兵隊でドイツ軍と戦ったこともあるが、敵にはロシアの大地は一歩も踏ませなかった。今のこのザマを、おたくらはどう思っているのかね?」
10月12日から13日の夜にかけて、包囲されたソ連軍部隊の中から少なくとも2個狙撃師団がドイツ軍戦車の行動できない湿地帯を通って東方に脱出した。その後、ルーキンは重火器と車両の破壊を命じ、さらに多くの部隊が小さなグループを組んで包囲網からの脱出に成功した。包囲を免れた西部正面軍と予備正面軍の残存部隊はカリーニンからモジャイスクを経由してカルーガに至る第2防衛線まで後退し、その一部はパルチザンに合流した。
10月18日、ヴィアジマとブリャンスクの包囲環で抵抗を続けていた西部正面軍と予備正面軍の4個軍(第16軍・第19軍・第20軍・第32軍)が主要な抵抗をついに停止した。ドイツ国防軍総司令部は翌19日、ヴィアジマとブリャンスクの両包囲戦で国防軍が赤軍の8個軍、73個師団を撃滅したと発表した。
10月の第1週だけで、ソ連3個正面軍(西部・予備・ブリャンスク)は兵員の5割から8割(約68万8000人)と戦車の9割(830両)、火砲の8割(6000門)を包囲され、モスクワ街道は実質上「がら空き」の状態になってしまった。連綿と続く前線というものは存在せず、ソ連軍の抵抗拠点にぶつかると、ドイツ軍はそれらを迂回して「赤い首都」モスクワへの進撃を続けていった。
〇不穏な空気
クレムリンは当初、直面する脅威の大きさを認めようとはしなかった。「最高司令部」は通信の混乱により前線の状況を把握できず、10月5日になってもまだ「西部正面軍とブリャンスク正面軍は、敵と激しく交戦中」という程度の情報しか掴んでいなかった。
10月5日、モスクワへの接近路を偵察した哨戒機が「ドイツ軍の装甲部隊が長さ25キロも縦列をなし、モスクワから200キロと離れていないユフノフへの道路を急進している」という報告を上げた。2機目の偵察機が飛ばされ、先のパイロットの報告が正しいことを確認した。
この報告を受けたNKVD長官ベリヤは激昂し、次官のアバクーモフをモスクワ軍管区空軍司令官スヴィトフ大佐のもとへ送り、スヴィトフとパイロットを「臆病者で混乱を煽った」罪で逮捕することも可能だと脅した。
しかし、スターリンはブリャンスクとヴィアジマにおけるドイツ軍の攻撃がモスクワを目標とする大攻勢である可能性を危惧し、10月5日にレニングラード正面軍司令官ジューコフ上級大将を電話で呼び出し、モスクワへ戻るよう命じた。
10月7日、ドイツ陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥は中央軍集団司令部を訪れ、今後の作戦方針ついて中央軍集団司令官ボック元帥および麾下の各軍司令官と協議した。その結果、第2装甲軍はトゥーラの攻略を目指し、新たに2個軍団(第12・第13)の増援を受けた第4軍は第四装甲軍と協力し、カルーガおよびモジャイスクを占領する。第2軍はブリャンスク周辺の残敵を掃討し、第9軍は第3装甲軍と協力し、カリーニンおよびルジェフを占領する。
ヒトラーはボックに対し、もしソ連政府がモスクワの降伏を申し出てもこれを受諾しないよう言い渡した。10月12日に陸軍総司令部の命令文書として規定されたこの制限によって、ヒトラーは「ドイツ軍部隊は決してモスクワおよびレニングラード市街地に足を踏み入れてはならず、砲撃と爆撃で完全に抹殺する」ことを厳命した。
モスクワ市民が初めて戦争を肌身で感じるようになったのは、開戦からちょうど1か月が経過した1941年7月22日のことだった。この時点で、ドイツ中央軍集団はモスクワから約400キロ西方のドニエプル河東岸に到達しており、空軍が保有する爆撃機の航続距離内に入っていた。
ヒトラーは7月13日の会議で、「モスクワへの心理的効果を狙った爆撃」を行う可能性についてハルダー参謀総長に示唆した後、同月19日に署名した「総統指令第33号」において、第2航空艦隊司令官ケッセルリンク元帥に次のような任務を与えた。
「ソ連空軍機によるブカレストおよびヘルシンキへの空襲に対する報復として、第2航空艦隊は可能な限り速やかに、西部戦線から爆撃機を転用して戦力を増強し、モスクワへの爆撃を敢行せよ」
当時のモスクワは1930年代に大規模な整備計画が打ち出されていたにも関わらず、居住用建物の7割が木造だった。工場建屋の屋根は燃えやすいゴム引きやタール引きのルーフィング材で覆われており、まさに「火薬庫」だった。
モスクワに対する最初の長距離爆撃行は、随伴可能な航続力を持つ支援戦闘機がなかったために、7月21日から22日の夜間に行われた。合計127機のユンカース88やハインケル111から編成された爆撃航空団がモスクワ上空に侵入し、104トンの高性能爆弾4万6000個の焼夷弾を投下した。
この空襲によりベロルシア駅、日本大使館、モスクワ動物園、イギリス大使館をはじめ166件の火災が発生した。37棟の建物が破壊され、クレムリン周辺に4発の高性能爆弾が落下した。そのうち1発がクレムリン宮殿の屋根を貫通し、聖ゲオルギー広間に大穴を開けたが、幸いにも不発だった。130人の死者、負傷者は662人を数えた。
第2航空艦隊はこの後も8月17日までの間に、モスクワに対する空襲を計17回実施した。主として地上軍の戦略的支援に回されていたので、1回の空襲に出撃できる爆撃機の数は少なく、そのためモスクワが受けた被害は小さかったが、立て続けの空襲にモスクワ市民は神経をすり減らしていた。
その精神的な重圧はドイツ軍がモスクワに近づくにつれ、ますます深まっていくことになる。
〇窒息
ドイツ北方軍集団は9月上旬に、レニングラードと内陸部を結ぶ連絡路を遮断し、形式上は市街地を包囲することに成功していた。この事態に対し、モスクワの国家防衛委員会は8月30日、ラドガ湖の水運を利用した新たな輸送路を構築するようレニングラード正面軍司令部に命じていた。
レニングラードの包囲を完全なものにするためには、ラドガ湖の東岸でドイツ軍とフィンランド軍が接続する必要があり、ヒトラーが9月6日に発令した「総統指令第35号」にもこのことが示されていた。
しかし、9月8日にスヴィリ河に到達したフィンランド軍は2年前の「冬戦争」で奪われた失地を全て占領すると、フィンランド政府にはこれ以上、対ソ戦に参加する意義は存在しなかった。
また、フィンランド軍の将兵は大規模な市街戦を想定した訓練を行っておらず、ましてや甚大な人的損害が予想されるレニングラードにおける市街戦は人口の少ないフィンランドにとっては、自殺行為に他ならなかった。そのためフィンランド軍総司令官マンネルハイム元帥はスヴィリ河より南に部隊を進めてほしいという、ヒトラーの要請を毅然とした態度で拒絶していた。
対ソ戦に関する根本的な認識の違いを見抜けなかったヒトラーが、レニングラードの完全包囲を達成するためには、ドイツ北方軍集団から部隊を北上させる必要があった。この時点で、レニングラードに搬入される補給物資は東方からティフヴィンを経由してヴォルホフに通じる鉄道によって輸送されていた。
10月1日、ヒトラーは陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥に対して第39装甲軍団(アルニム大将)を用いたティフヴィン攻略作戦を実施するよう命じた。第39装甲軍団を南翼から支援する4個歩兵師団のうち1個は、スペインから派遣されたグランデス大将率いる義勇兵による部隊で、通称「青(アズール)」師団と呼ばれていた。
一方、ヴォルホフ河東岸に戦線を築いていたソ連軍は、10月5日にジューコフがモスクワへ呼び出されたことにより、レニングラード正面軍司令部ではジューコフの後任に第42軍司令官フェデュニンスキー少将が任命された。
レニングラード正面軍司令官に就任したフェデュニンスキーはさっそく軍事会議を召集し、第54軍・第55軍によるレニングラード解囲作戦の立案を進めた。しかし、この反攻計画は初めから失敗する運命にあった。フェデュニンスキーは10月20日を攻撃開始日に定めていたが、その4日前にドイツ軍のティフヴィン攻勢が始められたのである。
10月16日、第39装甲軍団はヴォルホフ河を越えて東方への攻勢を開始し、第4軍(ヤコヴレフ中将)と第52軍(クリュイロフ中将)の境界面を切り裂くように突進した。作戦開始から8日目には45キロ東方のブドゴシュチに到達した。
10月23日にブドゴシュチを占領した第39装甲軍団は、目立った抵抗拠点に遭遇することもなく鉄道に沿って東方のティフヴィンに向かって進撃を続けていたが、レニングラード周辺では例年より早く10月2日に初雪が降り、深い積雪の中を進撃しなくてはならなくなっていた。
積もったばかりの雪の下にはまだ凍結していない沼地が点在しており、進撃中の戦車が車体の重さで沈む事態が発生していた。さらに東方に進撃していく内に両翼の側面が延長され、ただでさえ部隊の不足に悩む北方軍集団は大きな問題に直面した。
10月30日、モスクワの「最高司令部」はティフヴィンに迫るドイツ軍の攻勢を一刻も早く粉砕すべく、第4軍に反撃を行うよう命じた。しかし、11月2日に北からブドゴシュチに向けて開始された反撃は4日間に渡る死闘の末に頓挫させられた。
11月8日、第39装甲軍団の第12装甲師団(ハルペ少将)がレニングラード東方180キロに位置するティフヴィンを占領した。ラドガ湖に通じる唯一の鉄道を遮断された上、ヴォルホフ近郊のゴスチノポリチェに置かれた物資の補給基地がドイツ軍によって砲撃されたことにより、レニングラード市街地への物資補給は絶望的な状況までに追い込まれてしまった。
〇決断
東部戦線の最南端では、ドイツ南方軍集団(ルントシュテット元帥)に所属する第11軍(マンシュタイン大将)が、クリミア半島において正面幅がわずかに7キロしかないペレコプ地峡を守るソ連第51軍(クズネツォーフ中将)の陣地に激しい攻撃を繰り返していたが、9月末に南部正面軍の反撃にあってその勢いを削らされていた。
10月18日午前5時40分、第11軍司令官マンシュタイン大将は攻撃兵力を増強させた上で、ペレコプ地峡の南部に位置するイシュニ地峡で、第2次攻撃を命じた。攻撃の主力は第54軍団(ハンゼン大将)だったが、予備兵力として第30軍団(ザルムート大将)を敵の戦線に綻びが生じた時に投入する計画になっていた。
ソ連第51軍は正面幅がペレコプ地峡よりも若干広い12キロから15キロのイシュニ地峡とその東のチョンガル半島に面した鉄道橋に、第9狙撃軍団(バトフ中将)を配置していた。
大陸とクリミア半島をつなぐ「天然の陸橋」を奪取しようと第54軍団の3個歩兵師団はペレコプ地峡における攻勢と同様、正面からの肉弾突撃に身をさらした。急降下爆撃機、火砲やネーベルヴェルファーの支援もあって着々と地歩を築いていった。
10月21日、マンシュタインは第30軍団を前線に投入した。砲煙と土埃が舞う中、第11軍の歩兵部隊はソ連軍の防衛線の西端でついに突破口を抉じ開けることに成功し、26日にはクリミア半島北部を流れるシェルタリク河に到達した。
10月28日、マンシュタインはペレコプ北東30キロの位置にある第11軍司令部で、参謀長ヴェーラー大佐と作戦主任参謀ブッセ大佐とともに、今後の作戦についての戦略会議をあいた。マンシュタインが最初に口を開いた。
「ブッセ、状況をどう思うか?敵はクリミアを放棄するだろうか?」
「そうは思いません、閣下」
「私も思わん。そうすれば敵は黒海の制海権を失い、南方軍集団の側面への脅威をも捨てたことになる。そんなことはやるまい。それに2個軍を輸送するのは困難だろう」
ヴェーラーが机に広げられた軍用地図を指で示した。
「敵がセヴァストポリ、フェードシャ、ケルチの防衛を試みることは確かであります。敗れた部隊をそこに収容し、休養させてから再び攻撃させるでしょう。敵がセヴァストポリの要塞を保持する限り、それは可能です」
「我が軍が阻止しなければならないのはそこだ」
マンシュタインの言葉に、ブッセが問いかけた。
「しかし、どうやって歩兵で迅速に要塞まで追撃させますか?装甲師団か自動車化歩兵師団がひとつでもあれば簡単なのですが」
ヴェーラーがある意見を述べた。
「手持ちの歩兵師団に配属された自動車化部隊を集めましょう。偵察大隊、高射砲部隊、猟兵に至るまで。それを快速戦隊として投入するのです」
「よろしい」
マンシュタインは決断を下した。
「ブッセ、急いで戦隊を編成したまえ。指揮はツィーグラー大佐だ。第1目標はシンフェロポリ。半島の首都、交通の要衝だな。そこからセヴァストポリと南岸へ出られる。そこを押さえねばならん」
11月2日、ツィーグラー大佐の自動車化戦隊(ほぼ旅団規模)は第54軍団の先鋒としてシンフェロポリを占領し、セヴァストポリ要塞の外縁から23キロ地点のバフチサライに到達した。
11月14日、第54軍団はヴァストポリ要塞の包囲を完了し、第30軍団は南部に大きく横たわるヤイラ山脈を越えて黒海沿岸の保養地ヤルタを制圧した。また、増援として投入された第42軍団(シュポネック中将)は東に敗走するソ連第51軍の残存部隊を追撃し、11月16日までにケルチ半島からソ連軍部隊を一掃させた。
ケルチ半島の陥落とソ連第51軍がケルチ半島を挟んで東からクリミア隣接するタマーニ半島に撤退したことにより、クリミアに残るソ連軍の拠点はオデッサから撤退した独立沿海軍(ペトロフ少将)が立てこもるセヴァストポリ要塞のみとなってしまった。