25
1月8日は季節外れの、ひどく暖かい日だった。
3日前、板橋で現行犯逮捕された窃盗犯が中野の強盗殺人を自供して、そちらの方が少し慌しくなり、昨日までは十係全員、容疑者の取調や書類整理で追われた。それも片づいた今日は、指揮台から新たな呼出しがないことを祈りながら、またそれぞれ池袋界隈の地どりと、真希を探しに出払っている。
真壁と津田は、ある1件の情報をもとに大久保で聞き込みをしたが、大した話は聞けなかった。その後、津田を池袋に帰すと、真壁は新宿の東口へ出た。腕時計を見ると、午後0時を回ったころだった。
富樫は約束通りの時間に到着したが、車がいつものビードルではなかった。フィアット500。昔、テレビで放送していたアニメの怪盗が乗っていた愛車だ。
真壁は狭い車内にどうにか身を収めると、「車、替えたのか?」と聞いた。
「いや、安かったから買っちゃったよ」
富樫は何食わぬ顔で言ってのけた。大学からの付き合いだったが、神戸の芦屋に生まれた資産家の息子がどうして新聞記者になったのか、真壁は未だ分からずにいる。
「真壁こそ、そのマフラーは何だ?珍しいじゃないか」
「幼馴染から送られた手編み」
「幼馴染?お前にそんなのいたか?」
「いいから、こっちは腹が減ってんだよ。どこに行く?」
「昼はもう買ってあるから、御苑でゆっくり食べよう」
富樫はフィアットを出した。
ぽかぽかとした陽気の下、2人は御苑の芝生で富樫が買ってきた昼飯を食べた。富樫曰く、高島屋の地下でワインを3本買い、つまみに焼立てのバゲット1本とフレッシュチーズにしたということだった。
富樫は2本のコルク栓を抜いて1本を真壁に手渡し、2人で草の上でラッパ飲みした。残り1本は奥さんへのプレゼントだという。久方ぶりに飲んだフルボディの濃厚な赤は、真壁の喉をひどく焼いた。
「ところで、知り合いに聞いたんだが」富樫が言った。「城之内建設は、公共工事で入札価格よりさらに低い価格で最終的な請求額を出すことがあるんだと」
「一種の裏取引だな」
「あと、神奈川県の方で一度、体育館の手抜き工事が指摘されて、問題になる前にやり直したことがあったそうだ。その時は現場の方で手抜きがあったみたいだ」
裏取引に、手抜き工事。真壁の心象では、城之内建設は真っ黒だ。
「あと、城之内の社員を何人かつかまえて聞いたんだが」
「そんなことまでしたのか?」真壁は眼を丸くする。
富樫は口角を緩めた。してやったという顔。
「奥寺って専務、交際費が取り放題だったって噂。毎晩、銀座や赤坂を飲み歩いていたらしい」
だとすると、問題は奥寺と飲んでいた相手。順当な線で考えると、暴力団。土地売買や建築物の解体に伴う廃棄物の処理などに筋者が絡んでいるのはよくあることだ。
「でも、城之内建設が池袋の事件とどう関係あるんだ?あれは行きずりの犯行なんだろ?通り魔のような?」富樫が言った。
真壁は黙ったままタバコに火を付け、さらに思考を進めてみる。
諸井が身に着けていた高級腕時計。そうした時計をやり取りするような付き合いがある相手はおのずと限られてくる。真壁の感覚では、城之内建設には影がありすぎる。何か不都合なことを諸井に握られていたとしても想像に難くない。強請は、表沙汰に出来ない事情に絡んで起こる。私生活の話にしろ、会社の話にしろ、金が絡んでいる。
「なぁ、分かってるだろうが・・・」
富樫は真壁の肩を、やさしく3回たたいた。記事にはしないという合図。
だが、真壁が追っている線は記事にしようにも出来ないような、あやふやな内容だった。諸井が城之内建設を強請っていたのではないかというのは、真壁個人の不健全な想像でしかなかったし、それと諸井の撲殺との関係はなおさら不明である。
タバコを吸い終えると、腰の受令機が鳴った。池袋南署へ電話を入れると、開渡係長が受話器からまくしたてた。半時間前に変死体発見の110番通報を受け、本庁の九係が墨田区東駒形の現場に行ってみると、マンションの一室で女ひとりが死んでいたが、その変死体が真希ではないかという一報が九係の主任から寄せられたのだった。
26
真壁は地下鉄の駅へ走り、電車に飛び乗った。東京駅で乗換え、錦糸町からタクシーを飛ばした。現場は東駒形3丁目の小さなマンションだった。その前の路地に、機捜隊や警らの人間が群れ、野次馬の人垣が出来ていた。
3階の一室に上がると、玄関先から猛烈な腐臭が漂い、刑事も鑑識も鼻をハンカチで押さえている。
2DKの部屋は、乱雑きわまりなかった。キッチンは汚れた食器と生ゴミで溢れ、居室はありったけの衣類や布団が散らばり、それらの間にテーブルやソファやベッドが覗いている。絨毯はタバコの吸殻、割箸、注射器、血痕、チリ紙、ゴミ、埃の乱舞だ。ひと目見たとき、死体がどこにあるのか分からなかったほどだった。
布団に埋まった半裸の女が見えた。すでに遺体は腐敗で黒ずみ、生前の顔貌も定かではないが、赤く縮れた髪に見覚えがあった。爪はマニキュアが剥がれ、無残に汚れていた。
「この顔で、どうして分かった・・・」
先に現場に入っていた杉田が三つ折りの便箋を投げてよこした。『真希ちゃんへ』という書出しで始まり、便箋1枚の終わりに『母さんより』と書いてある。封筒はない。
「これだけか」
「今のところ、それだけだ」
「死因は・・・」
「解剖してみなければ分からんが、見たところ中毒死だな」検死官が応えた。「死後約1週間から10日」
玄関口の方に戻ると、真壁はふと三和土の左側に置かれた靴箱の上に眼が留まった。白い壁紙の表面に、薄い茶色をした小さな跡が4つ、かすかに残っている。大きさからみて、女の指だった。鑑識を呼ぶと、「血のようだ」と言う。「かなり古い」
この日の夜、池袋南署の捜査本部に本所東署から各種報告書が届き、午後の会議はそれらを延々と読み聞かされることで終始した。
現場を撮影した写真の中に、生前の金城真希の写真は1枚もなかった。知人たちの話によると、写真を撮られるのをいつも避けていたという。死体検案書によると、死因は1グラム以上のコカインを一度に静脈注射したことによる中毒死。
マンションの持ち主は真希ではなく、いくつもの又貸しを重ねて、今はアメリカ国籍の元英語教師が住んでいることになっていたが、所在は不明。
次に鑑識の報告。靴箱の上の壁紙に付着した血痕が諸井の血液型と一致し、かすかに残された指紋が真希のものと一致したこと。マンションに残された真希のマニキュアの成分も、諸井の頭部にあった創傷内部で検出されたものと一致した。マンションでは、沢村の指紋も出た。
地どりでは早くも、12月18日未明に沢村と真希らしい酩酊した男女を池袋の東口で拾ったタクシーを突き止めた。タクシーの運転手は男女を東駒形のマンションへ運んだと証言した。
翌朝、吉村と渡辺がこれらの点に基づいて、板橋のアパートにいた沢村に任意同行を求めると、白を切るかと思った沢村は予想外に逆上し、次いで格闘になった。通報を受けた警らも駆けつけ、大立ち回りの末に公務執行妨害の現行犯で逮捕したのだった。
池袋南署の取調室に入れると、それまで白を切っていた沢村はようやく事件のことを供述し始めた。
まずマンションに住んでいるはずの元英語教師について、沢村はその男とも交情があり、男2人と真希は《ニューワールド企画》でコカインを通じて知り合ったという。
沢村は事件当夜、真希と一緒にたまたま池袋の東京芸術劇場で諸井と遭遇した。真希が一緒にいたことについては「よく分からない。真希は気分で俺について来たようだ」といういい加減な理由だった。
真希が諸井の顔をひっかき、沢村は指輪をはめた拳で諸井を殴り、ついでに蹴飛ばした。その足で2人は駅前でタクシーを拾い、東駒形のマンションに帰った。2人して諸井に暴行を加えた動機は判然とせず、沢村は「いつもよりもクスリが入っていたようで、とても気持ち悪かった」と繰り返すだけだった。
真希は諸井をひっかいたことを覚えておらず、ひっかいたという意識もなかったのだろう。玄関の狭い三和土で靴を脱ぐとき、真希は無意識に片手を壁に当てた。その結果、壁紙に血痕が残された。
結果的に殴った相手が死亡したことについては、沢村はしきりに「申し訳ない」と改悛の情を示し、供述調書としては完璧なものに仕上がった。
残されたのは真希の遺体ひとつだったが、手紙をよこした真希の両親は転居して行方が分からず、両親の実家には連絡が取れたが、「すぐに行きます」と電話口で応えた老母はいつまで経っても現れなかった。
その日の夜、捜査陣は会議室で10本の一升瓶を空けてささやかな打ち上げをした。その中に、真壁と津田の姿はなかった。
27
真壁と津田は西口交番の奥の休憩室にいた。電話機を1台貸してもらい、真壁は本部に訊かれたくない、個人的な捜査の話をしていた。相手は組対の落合だった。
「下馬の方はどうなりました?」
「あの2人が最初から三谷を狙ってたことは吐いた。誰に頼まれたかは、黙秘」
「ところで、誠龍会の岩城竜生って、どんな奴ですか?」
「両刀使いの変態野郎だ」
「岩城の動向はつかんでますよね?写真も撮ってるはずです」
「嫌な予感しかしないが・・・何が言いたい?」
「今からソッチに1人やりますから、岩城の写真を見せてやってください。過去3か月ぐらい・・・岩城がどんな奴と一緒にいたか。それが知りたい」
「うちは別件で、近々に誠龍会をタタくことになっている。あまり騒ぐな」
「殺しが絡んでたら、別でしょう」
「・・・確かなのか?」
「それを確かめるだけです」
落合が息を吐く音が聞こえた。「・・・俺がブチ切れる前に、早く人をよこせ」
「恩に着ます。近々、1杯奢ります」
「そんなヒマがあったら、嫁さん見つけろ」
真壁は受話器を置くと、眼の前に座っている津田に向き直った。
「お前には今から本庁に行ってもらう。組対で落合っていう人に会え。俺の名前を出せば、相手は分かるはずだ。写真を見せてもらう。過去3か月くらいだ。そこで・・・」
真壁はジャケットに手を入れ、写真を3枚取り出す。
「左から岩城、奥寺、沢村だ。この3人が一度に写ってるモノがあればいいが、岩城と奥寺、岩城と沢村が写ってるモノだけでもいい。とにかく探し出せ、いいな」
津田はうなづき、写真を受け取る。
「真壁さんはこれからどうするんですか?」
「俺は病院だ」
午後8時半過ぎ、真壁は池尻大橋の大学病院の横を通り過ぎて、小さな公園に入った。街灯の脇のベンチに、黒のニット帽を被り、サングラスで睨みつけてくる男がいた。
勝原安信。渋谷署の刑事だが、真壁とは本庁の武道場で竹刀を通じて知り合い、ある殺人事件の捜査で協力してから口をきくようになった。
真壁が「時間がない。さっさとやろう」と言うと、勝原は同じ変装具を手渡しながら、低い声を出した。「奥寺ってのは、入院棟の3階にいる。いったい何をするつもりだ?」
真壁が不敵な笑みを浮かべる。
「奴を締め上げる」
黒のニット帽とサングラスで変装した真壁と勝原は病院の裏口からさっさと中に侵入し、階段を駆け上がり、入院棟の3階の個室に入った。
勝原が寝ている奥寺の鼻と口を片手で一気に覆った。奥寺が眼を開ける。筋者らしい2人の姿を見た男の眼がひきつった。勝原がゆっくりと手を放す。
真壁は奥寺の耳に「誠龍会の筋から頼まれてきた者だ」と囁き、相手の反応を見る。
奥寺は顔を強張らせたまま、かすかに顎をうなづいた。やはり誠龍会が絡んでいるのか。真壁は噛んで含めるように続けた。
「・・・いいか、誠龍会の岩城がパクられそうになってる。いや、大丈夫だ。沢村が口を割らなければ、サツは手も足も出ない。アンタ、沢村に何かバラしてないだろうな?」
「知らない・・・」奥寺は絞り出すような声を出した。「沢村なんて聞いてない・・・」
「ふざけるな。沢村が諸井を殴ったことは知ってるはずだ」
「本当だ・・・岩城さんは『どうにかする』としか言わなかった」
「アンタは岩城の親友だ。だから、岩城は細かいことは聞かなかった」
そこまで探りを入れると、奥寺はうなづく。
「岩城はサツが自分にまで及ぶようになったのは、諸井に政治家とか何かヤバい筋があったんじゃないかと疑ってる。アンタがそれを知ってたとも」
「そんなはずはない・・・諸井はウチが荻窪で建設中のマンションであった手抜き工事を知ってた。それをネタに、金を強請って来ただけだ。政治家とかは絡んでない・・・」
「諸井は手抜き工事の件をどうやって掴んだ?」
「ウチの下請けをしている納谷興業の三谷とかいう奴から・・・」
突然、真壁は眼の裏にじりじりと焼け付くような焦燥を覚え、しばし呆然とした。隣の勝原が「おい」と低い声を出し、話を打ちきるつもりで真壁は口をすごんだ。
「そんな話じゃ、何も分からん。三谷は死んだし、沢村は警察だぞ。どうしてくれる」
奥寺は全身を痙攣させ、眼球を動かし、突然ベッドから起き上がるやいなや何か叫びかけた。その口をすばやく勝原がふさぎ直し、黙らせた。
「家族に別れの手紙でも書いとけ」
真壁と勝原は2分で部屋を出て、再び階段を駆け降りた。勝原と玉川通りで別れて地下鉄の駅に向かいながら、真壁はまだ本庁にいる津田に電話を入れた。奥寺が話した三谷の件を確認するためだった。