2
品川区旗の台。
曇天の下、寒風にかすむ東都大学付属病院のビルが灯台のように輝いている。
真壁仁は、入院棟の地下にある法医学教室にいた。腕時計を見ると、午前2時半を過ぎた頃だった。小さなテーブルをはさんで、准教授の岡島進がボールペン片手に、メモに何やら書きつけ、隣に座る石崎奈緒子に見せている。
「こういうふうに・・・車輪でせん断力が働いたんだよ」岡島が言った。
「ふぅん、だから脳みそがグッチャと・・・」
「おい・・・やめろ」
奈緒子が振り向く。
「なによ」
「いくらナースだからって、そんなことを平気で口にするな。吐き気がする」
喉に苦味がこみ上げてきて、奈緒子が入れてくれた熱いコーヒーを流し込んでどうにか抑える。その様子を、奈緒子は楽しんでいるように言う。
「マーちゃんって、意外に繊細なのね」
昨日の夜、中野で発生した強盗殺人事件の捜査会議の後、十係の同僚と焼肉を食べた帰りに、真壁はたまたま五反田で人身事故に遭った。事故の処理に来た所轄の巡査が新米で、その対応ぶりを気の毒に思い、東都大の解剖室まで付き添ってやったのだった。その人身事故の処理もついさっき終えたばかりだった。
真壁はずっと疑問に思っていたことを口にした。
「だいたい、おまえ今、夜勤中じゃねぇの?」
「いいの、この時間は仮眠中だから。ねぇ、それより・・・」奈緒子がテーブルに身を乗り出してくる。「クリスマス、あいてる?デートしようよ、デート」
「あー・・・分からん」
「たった1週間先じゃない」ぷぅと頬を膨らませる。
「この世の一寸先は、闇なんだよ」
そう言いつつ、真壁は中野の焼肉屋で係の仲間と飲んでいたとき、冗談のつもりで携帯電話の電卓を使って計算したら、恐ろしい数字が出たことを思い出していた。
殺人・傷害などを扱う本庁の捜査一課の第二~第四強行犯捜査班には12の係があり、凶悪な事案だけで平均年100件の案件を扱っている。1件の捜査にかかる日数はまちまちだが、短めに見積もって30日とすると、捜査全体の日数は合計3000日。それを12で割ると1つの係の割り当ては250日。そこに年平均300件の未遂などの事案を加えると、結局は600日以上必要になってくる。つまり、1日で2日分の給料を貰い、2日分働かなければ、事件は片づかない計算になる。しかも、最低でだ。
もちろん、片づこうが片づくまいが、現実には1日は1日。ただし、いつ始まりいつ終わるか分からない1日だ。それ故、たった1週間先でも、その時になれば何が起こっているか分からず、真壁の手帳はいつも真っ白のままだ。
幼馴染のよしみで言い合っていると、真壁は腰のベルトにつけていた受令機が鳴り出したことに気づいた。ほぼ同時に、ジャケットの胸ポケットに入れてあった携帯電話が震え出し、嫌な予感を覚えつつ、電話に出る。
相手は本庁の6階、捜査一課の大部屋にいる宿直だった。
「池袋の東京芸術劇場のそばに、男性の変死体が転がってる。急げ」
「今、中野で帳場かかえてる」
「知るか。とにかく、上からのご指名だ」
ひたすら舌打ちしたい気持ちを抱え、真壁は「了解」と忌々しげに呟き、電話を切った。
「事件かい?」岡島が尋ねる。
真壁は軽くうなづき、緩めていた赤いネクタイを外し、再び結びなおした。黒いスラックスのしわを伸ばし、同色のコートを着ると、奈緒子が立ち上がって、真壁の胸元に手を伸ばしてきた。
「ほら、ネクタイが曲がってる」
首元がきゅっと締まる。奈緒子に「ありがとう」と礼を言い、真壁は部屋を飛び出した。腕時計に眼を落とす。午前3時8分。
正面玄関に出ると、外は降りしきる雪のせいで、街を覆うコンクリートのジャングルをかき消して、白一色だ。足元の路面はひたすら濡れ続けている。現場の路面もたぶん、ビショビショだろう。靴痕跡は絶望的だ。
真壁は軽く駆け出した。28歳と3か月。徹夜も走り込みも、しようと思えばまだまだ出来る。病院から3分で中原街道に飛び出して、タクシーを拾った。
運転手に「池袋の西口へ。急いで」と告げ、「ああ、さーめえな」と両手をこすった。
「お客さん、お国は新潟ですか?」運転手が言う。
「分かるか」
「私は石川で」
「へえ」
3
午前4時過ぎの夜陰は未だ濃いはずだが、一面のボタン雪がかかって白んで見えた。地面は真っ黒で、雪を被った摩天楼の輪郭が青白く光っている。信号灯とパトカーのビーコンが濡れた路面に映っている。
真壁はタクシーを降りた。ひと気のない路上の現場に立入り禁止のロープが張られ、警らの巡査が数名、私服の捜査員が3名うろうろしている。十係の残りは未着。路面に広げられた青いビニールシートと、周辺に敷いた黄色い通路帯が見える。
現場は、正確には劇場の西側にある小さな階段の上だった。警察署から40メートルしか離れていない。
真壁が「本庁です」とひと声かけると、私服の3人は足踏みしながら、眼だけで応じた。本部から出てきた機動捜査隊だ。1人が派手なクシャミを一発する。所轄の警官たちも目礼した。
真壁は膝を折ってビニールシートの端をちらりとめくり、遺体を一瞥した。
「京都から出張でやって来たサラリーマンらしい」機捜隊の1人が言う。「財布、カード、携帯も、全部ある。ほれ」
ビニール袋が突き出された。中身は黒い札入れ、名刺入れ、ハンカチ、レシート一枚、青いストラップがついた携帯電話の5つ。
「発見者は?」
「駅前の広場から歩いてきたサラリーマン。今、車の中にいる。たまたま、ここに倒れているこのホトケさんを見つけたそうだ。それで、110番」
「機捜は3人だけですか。少ないな」
「後楽園から呼び出されたんだぞ。やっとかき集めて3人だ。巣鴨で酔っぱらいが殴り合い。春日通り沿いの居酒屋で、また殺し。首都高は、この雪で事故だらけときた。ハ・・・クシュッ!」
「鑑識も手の空いてるのはゼロ」別の1人が言う。「春日の現場から回ってくるってよ」
「あんたも、どっかよその本部に出てるんだろうが。かけ持ちか」
「ええ」
「ご苦労さん。ハ・・・クシュッ!」
真壁は黙ってうなづき、冷えた両手の指に呼気を当てて温めた。手がかじかんでいるようでは、何かあった時に対応できない。
その場で立ち上がって、ひと気のない周囲の道路に眼を回す。普段なら、夜を徹して徘徊する遊び人や外国人たちの姿が消え残りのネオンの下にちらほらしているはずだが、雪のせいか人の姿は見えない。この界隈の空気にしみついてしまっている臭いすら、今はほとんど感じられない。
真壁は機捜隊の3人に声をかけた。
「始発の電車が動くまで、まだ時間がある。始発を待っているのが、その辺の漫画喫茶かネットカフェとかにいるかもしれない。適当に分担して当たってみて下さい」
普通なら係の主任が至急に地図を区割りして、その場にいる捜査員を聞き込みに走らせるが、この雪ではいつ来るか分からない。真壁は現場にいた警らからも3名出して、機捜隊に同行させた。
「5時半上がりで。この場所に再集合」
現場に残ったのは、巡査が2名だけ。腕時計を見ると、午前4時26分になろうとしている。耳を澄ましたが、何の物音も聞こえない。
鑑識も十係の残り7名も、所轄の捜査員らも、まだ来ない。110番の通報や指揮台の指令を、同時通報のスピーカーで聞いたはずの新聞各社の姿もない。たしかに地方から来たサラリーマンがひとり路上に倒れていても、ニュースのネタにはならないのは事実だ。
4
ほとんど機械的に白手袋をはめ、真壁はあらためてビニールシートに近づいた。残った巡査の1人がシートを半分めくり、そのまま端を持って屋根を作った。
真壁がしゃがみ込もうとすると、シートを持っている巡査の歯がカチカチと震えていた。眼を向けると、血の気のひいた青い顔に口元が少し汚れている。
「大丈夫か?」真壁が言った。
巡査が「ええ・・・」とほとんど消え入るような声で答えると、もう1人が「こいつ吐いたんですよ、さっき」と言った。
真壁は眉をひそめ、「名前は?」と聞くと、相手は「津田です」と応えた。「次から気を付けろ」と言い、ビニールシートの下に頭を突っ込む。
「動かしてないか?」
「はい」
アタッシェケースを脇に投げ出して、黒いダスターコート姿の中年男が階段の上に仰臥している。右足を膝のところで内側に折ったままだ。折ったその足の靴が脱げかけている。
津田から懐中電灯を受け取ると、真壁は自分の胸の前で、小さく十字を切った。
衣服もカバンも靴も、何もかもビショビショだった。路上に押しつけている頭部も濡れそびれ、凝固しかけた血が洗われて少しずつ流れ出している。ざっと髪を掻き分けると、血の固まった創傷が3つほど見つかった。
顔面は抉られたような深い創傷が数か所。鼻が潰れている。顔の全面に暗紫色の挫傷が広がっている。頬と首筋に爪痕のような小さい擦過傷が4つ。面積は小さく、鋭く尖ったもので創った傷だった。
眼球に懐中電灯の光を当てる。瞳孔は散大しているが、角膜はきれいだった。硬直は顎の辺りで始まっている。死後、数時間というところ。路上で濡れていたために体温はすっかり失われている。着衣に破れ、乱れはなし。
直接の死因は解剖してみなければ分からないが、暴行されているから事件は事件だ。
ふと、被害者の右手首に眼が止まった。黒い文字盤の腕時計。真壁はあまりブランド品に詳しい方ではないが、なんとなく高いものであることは察しがついた。
ビニール袋の中身をあらためてみる。まず名刺を確認する。勤め先は、京都府下京区の鈴宮重機。肩書は営業一課課長。氏名、諸井邦雄。
札入れを開ける。運転免許証に貼られた写真の顔は本人に間違いない。所持金は1万円札4枚、1000円札5枚。残りは硬貨で421円。クレジットカード1枚。3月まで有効期限のある新幹線の普通席回数券1枚。東京・京都間。
青いストラップがついた携帯電話は、会社から支給されたものなのか、電話帳リストは自宅の電話番号の他は、取引先の会社がほとんどだった。個人用にもう1台、持っていたのかもしれない。
ビニール袋の中のレシートには、九段下のある喫茶店の名前と昨日の日付と、400円の値段が記されている。昨日、九段下でコーヒー1杯を飲んだのだろう。
真壁は次いでアタッシェケースを開けた。社名入り封筒が多数あり、中身は重機のカタログ。バインダーには、取引先とおぼしき建設会社数社の営業担当者の名刺がはさんである。書類のほかには、シェーバー1つ。ネクタイ1本。クリーニングされたワイシャツ1枚。週刊誌1部。未使用のコンドーム4つ。
脇から覗き込んだもう1人の巡査がいやらしく笑った。真壁も苦笑いが出た。下着の替えがないところからみて1泊の出張らしいが、コンドーム4つとは。
それらの雑多な中身をあらためて、真壁は目当ての手帳を探し出し、ざっとめくってみる。取引先の電話番号、担当者の名前、商談の日時、場所などが並んでいる。それらを見ると、被害者は昨日の午前10時ごろに東京に着いて、それから新宿、九段下、神田の3か所で3社を訪ねている。
だが、真壁が探していたものは見つからなかった。宿泊先の名前、住所、電話番号を書いたメモがない。宿の確保をせずに上京してくる出張者はまずいないから、どこかに予約を入れていたはずだ。あと、個人で所有していたはずの携帯が見つからない。
2つとも探さなければならない。
5
午前4時42分、池袋駅西口の方から、2人の男が交差点を渡ってこちらへ走ってくる。まずは捜査一課の2枚目を自称する磯野憲一巡査部長。今日もけばけばしいイタリア製のスーツに、きついオーデコロンという取り合わせだ。
「なんだ、若いのが一番乗りか」
35歳の磯野とは歳は大して離れてないが、なぜか真壁のことを「若いの」と呼ぶ。
寝起きの欠伸まじりの声で「ああ、畜生」と言い、シートの下へ勢いよく頭を突っ込んだのは、33歳の渡辺優大巡査部長。頭の中は彼女とのデートのことで一杯のはずで、殺された中年男など微塵にも思っていないはずだ。
「一緒だったんですか?」真壁が言った。
「駅で。タクシーから降りたら、横を肩で風切って歩いてる奴がいて・・・面見たら、コイツだった」
そう言って渡辺を指すなり、磯野は痘痕の目立つ強面をニッとさせた。掛値のない話、2枚目に相応しい風貌をしているのは渡辺の方だが、そんな真壁の思いをよそに、磯野も膝を曲げて遺体に触れる。
いったん仕事となれば、刑事なら誰だって無駄口は消える。もっとも足元に横たわっているのは、何か言葉を洩らそうにも、漏らす言葉が出てこない、ある意味でもっとも刺激に乏しい部類に入る被害者だった。
「寒いな。コロシか?」などと言いつつ、ビニールシートの方へ首を伸ばしてきた男は、池袋南署の刑事課長だった。場所を譲りもしない磯野と渡辺の肩越しに遺体を覗き、「何か盗られてるのか?」と真壁に尋ねた。真壁は首だけ横に振ってすませた。
「じゃあ、ただ殴られたってのか?」課長はひとりごちたが、誰も応えない。「鑑識はどこだ?まだ来てないのか。始発の電車が動き出す前にコレ、署の方へ移したいが」
「鑑識が来ないことには」
「本庁もたるんどるな、近頃は。この遺体、通勤ラッシュが始まるときにこんなところへ置いておけってのか。で、本庁から上は出てくるのか、来ないのか」
真壁は肩をすくめた。
「それにしても、お宅も人数が少ないな」
「はあ」
「ああ、ひどい雪だ。この冬一番の寒気団が来てるってな・・・」
ぶつぶつとぼやき始めた刑事課長のスラックスの足をつついて、顔を上げずに「邪魔だ、どけろ」と渡辺が吐き捨てる。その背を見下ろして、刑事課長は不快な顔つきになり、後ろへ一歩下がった。
そこに、いろいろな挨拶の声が続き、新たに十係の顔が3つ加わった。
「来る途中で考えたんだがよ」と43歳の主任、馬場徹警部補。その名の通りの恐ろしい馬面が開口一番、ダミ声を張り上げた。「なんで、また俺たちなんだ。順番が合わねえだろうが。今度は絶対、九か十一だったはずだ。当直の奴らが、当番表を見間違いやがったに決まってる」
「間違いだと思ったんなら、なんで出てきたのさ」磯野が言った。
「出てきてから気付いたのよ。だいたい、まだ中野の強殺も片づいてないってときに、どうするんだ。こんなホトケ・・・」
中年の厚顔で馬場は先客を押し退け、遺体の上に屈み込む。手にはしっかり手袋もはめている。
その傍らから首を突き出して被害者を覗き、眉をしかめたかと思うと、大きな欠伸を洩らしたのは、高瀬良徳巡査。磯野と同じ35歳。小太りのふくよかな顔が、脂か汗で光っている。
「ひどいなぁ」と呟いたのは、吉村亮司巡査部長。十係長に次いで刑事人生の長い54歳の老兵は、日陰の石のように黙々としている。その吉村も手に白手袋をはめながら、型通り遺体の上に屈み込む。
十係はあと二人足りない。
6
午前4時56分。ビーコン付きのワンボックスカーが現場に到着し、鑑識の係員が3名降りてきた。鑑識の主任がぶつぶつ言いながら、現場の人垣をかきわける。
「なんて夜だ。雪は降るわ、コロシは重なるわ、人はいないわ・・・さあ、みんなどけ、どけ!」
鑑識の係員がカメラのフラッシュをたき始める。
雪を頭と肩に載せたまま、トレンチコートを着た男がせかせかと交差点を渡って走ってくる。十係のもう1人の主任、36歳の杉田哲平警部補。
「京都から来たサラリーマンだと?何も盗られてない?死後、何時間ぐらいだ?殴られて、ひっくり返ってそのままあの世行きか。くそ、世も末だぞ」
そう言ってコートの裾を股にはさんで屈み込むやいなや、杉田はさっと死体を見やり、手早くカバンの中身をあらためた。コンドームの袋をつまんで眼を丸くし、それを再びカバンに放り込むと「それで?」と立ち上がった。
「それだけ」と真壁。
「まあ、流しだろうな」と馬場。
「そういうこと」と磯野は唾を吐く。
「足取りでも洗うか」と高瀬。
「ああ、くそ。係長、遅いな」と渡辺が足踏みをしている。話し声はみな低い。
濡れた路面を這っている鑑識が「何もないぞ、この様子だと」とぼやいた。
「とにかく死ぬ理由のないサラリーマンひとり死んだんだ。まずは、解剖。どのみち傷害致死か殺人だ」
杉田はそう言いつつ自ら大欠伸を洩らした後、すぐさま池袋署の捜査幹部の方へ片手を挙げた。「地検と京都の家への連絡は?」
「これからだ」と刑事課長。
「解剖するから、許可状の手配頼みます。遺体は、うちの係長が来たらすぐお宅の署へ移します。捜査本部作るから、会議室か講堂、空けといて下さい。本部は8時半招集」
「何人ぐらい出す?」
「うちが7人。機捜隊からは・・・」
「3人」真壁は言った。「あとは鑑識」
「まあ、そんなところだな。分かった」
池袋署の幹部は、連絡と称して、やれやれという顔で先に引き揚げていった。
階段の周辺で、地面に這いつくばっていた鑑識が「吸殻が10個に、紙クズがいっぱい。見事なもんだ」と言った。
「こっちは割箸1本」ともう1人の鑑識。「靴痕跡は無理だな」
「あ・・・そうだ。ガイシャの携帯、落ちてないか?」真壁は尋ねた。
「ない」
「よく探してくれ」
「顔の爪痕は女だな」杉田が口をはさんだ。「だが、男の顔をあれだけひどく殴ったのは女だとは思えん。男もいたんだろうよ」
「女がひっかいて、男が殴ったのか。よく出来てら」磯野が言った。「それにしても、よく降りやがるな、この雪・・・!」
磯野は低く唸って、雪雲に拳をひとつふたつ繰り出す身振りをした。
誰もが気落ち半分、苛立っていた。事件となれば、眠気も疲労もとりあえず関係ないが、今の気分は出足を挫かれたランナーのようなものだった。
「ともかく、一にガイシャの足取り。一に昨夜から現場周辺にいた者の割り出し」杉田が指折り数える。
「あと、ガイシャの宿泊先も」真壁が言った。
「ラブホでも当たるか」渡辺が欠伸交じりの声を出す。
「殴った奴を探さなきゃな」馬場が背を伸ばす。「俺たちの仕事だ。ありがたく思おうぜ」
現場を見れば、これがほぼ行きずりの殺人に近いことは見当がついた。何らかの動機がある場合、手間をかけてこれだけ顔面を殴り、首を絞めるヒマがあれば、もっと有効な方法を取る。第一、警察署が眼と鼻の先にあるこんな場所は選ばない。金目当てでも同じだ。要するに、殺される理由のない男が、殺す理由のない何者かと遭遇し、何かの拍子で衝突が起こり、加害者はそのままどこかへ消えてしまったのだ。残ったのは、遺体ひとつ。
こういうのは、捜査する側には一番難渋するケースだった。怨恨その他の辿れる線がない。どこからか目撃者が現れるか、近くで同一犯による似たような事件が起こるか、犯人が自首してくるか。いずれの幸運でもないかぎり、今分かっているのは、延々と歩き回る日々がこれから何十日も続くだろうということだけだ。
「それにしても、静かだな」吉村が呟いた。
たしかに、新聞記者ひとり現れない。見慣れたピンクのビードルもだ。普通は殺人事件発生となれば、本庁から一課長、管理官も現場へ姿を見せるのだが、夜中に春日の現場に出向いて、もうたくさんだということだろう。
7
雪は降り続いていた。もうすぐ電車が動き出す時刻で、通勤者の姿がちらほらし始めている。立入り禁止のテープの外から、こちらの方を窺いながら、通り過ぎていく。
係長の開渡鉄太郎警部はまだ来ない。自宅が多摩で、遠いせいもあるが、今日はとくに遅い。係全員が現場を見るまでは、遺体も動かせない。
午前5時半。先に聞き込みに回っていた機捜隊と巡査の3組が戻ってきた。3組とも一様に表情は鈍く、成果はなし。ロープの向こうの野次馬が増え、そこにようやく池袋南署の強行犯係が駆けつけてきた。
その背後から、やっと開渡係長の姿が現れた。ダスターコートの背を丸めて、どこか無気力な足取りでロープを越えてくる。みな、目だけで挨拶する。
開渡が遺体を覗き、杉田から説明を聞き終わるのに3分とかからなかった。開渡は顎だけでわずかにうなずき、「そうか」とだけ応えた。
「係長、中野の方はどうするんです?」馬場が言った。
「こっちの様子を見てからだな」開渡はポケットからティッシュを取り出し、盛大な洟をかんだ。
その傍で、杉田はさっさと鑑識に遺体の移動を命じ、その場にいる人数を数え直し、2人ずつ聞き込みの組分けをして、もう出かける態勢を取っていた。
「あんたとあんたは西口五差路を北へ。あんたとあんたは南へ。あんたとあんたは立誠大学方向。俺と高瀬は、東口に出て区役所方向。磯野と馬場、吉村と渡辺はサンシャイン周辺。真壁はそこの巡査と組んで、明治通りを南へ。8時半上がりで、署へ集合。出発!」
真壁は津田と組むことになった。
青いシートをかけられたまま担架に移された遺体が、ヴァンで運び去られていった。開渡は現れたときと同じ緩慢な足取りで、池袋署の方へ立ち去っていく。ロープの向こうの野次馬を、立ち番の巡査たちが追い払っている。
捜査員たちは割り当てられたとおり、それぞれの方向に散った。
濡れた路面にボタン雪が散っていた。天気のいい日なら、早朝から雑多な人間が歩いているはずだが、さすがにこの空模様では人かげもない。
東口に出ると、路上に坐り込んでいるのが2人いた。寄り添って垂れた頭に雪が載っている。真壁と津田が近づくと、男2人はふいと頭を挙げ、とたんに互いを引きずり上げるようにして立ち上がったかと思うと逃げ出した。
「こら、止まれ!」
とっさに真壁が駆け出し、行く手を阻んだ。男2人は足元がもつれ、走り出してすぐによろめき、1人は濡れた舗石で滑って転んだ。完全にラリっている。顔つきは高校生だ。
「なぜ、逃げた?名前と住所、言え!」
真壁に睨みつけられ、腕をつかまれ、怒鳴られた若者2人は涎を垂らし、歯を鳴らして震えていた。真壁は気短に若者らのポケットを叩き始める。しきりに「すみません、すみません」と言い、若者たちは泣き声を出す。
それには耳を貸さず、真壁はさっと財布、定期入れ、50ccのシンナー、ビニール袋、その他の所持品をポケットから取り出した。真壁はシンナーの瓶だけ取り上げ、残りをポケットに突っ込み直し、ついでに自分の警察手帳を男らの眼前に突きつけた。
「いつからここにいる?」
「1時ごろ・・・」と1人が言い、もう1人が「終電に乗り遅れて・・・」と言った。
「どの方向から来た?」
「あっち」2人は駅の方を顎で示す。
「口で言え」
「大学から・・・」
「西口は見たか。人は何人ぐらいいた?」
「覚えてません・・・」
「1時ごろなら、もう人は少なかっただろう。酔っぱらいとか、人待ちの女とか、変わった風体の人間とか、何か見なかったか?」
「覚えてません・・・」
「よし。早く家へ帰れ」真壁は一喝した。「今度吸ったら、補導するぞ!」
駆け出す直前、若者の1人が不敵な照れ笑いを浮かべた。真壁はとっさに片足を出し、若者はつまずいて道路をひっくり返った。
真壁が無言の唾を飛ばした。その様子を、津田が呆然とした様子で眺めていた。若者2人は、足をもつらせて駆け去っていく。
8
真壁も津田も足元は革靴だったが、靴音はない。代わりに未だ明けない夜陰の物音が、鋭敏に身体に伝わってくる。
「あの・・・」津田がおずおずと声をかける。
真壁は指1本、自分の口に当てて『静かに』と示した。
建物の静寂には、それなりの物音が必ずひそんでいる。建物に通っている電気のかすかな唸り。地下の下水道の音。それらを貫いて、彼方から届いてくる音もある。24時間絶えることのない都市の物音だ。車や電車の騒音は、雪のせいでいくらか遠く聞こえる。人間の立てる喧騒は未だない。
空気と街の臭気は、今朝は雪に吸い込まれてしまったかのようだ。ガソリン、調理油、埃とゴミとコンクリート、濃厚な人間の体臭、整髪料、化粧品。早朝の1時、それらの臭気が薄れて、木と土の臭いがわずかに感じられた。
眠気が耐え難くなって、真壁は路傍のゴミ箱に腰を下ろす。眼を上げると、遠くにサンシャインシティの灯火が見えた。ジャケットからタバコを取り出し、箱を振って1本だけ口にくわえると、津田に振って見せた。
「吸うか?」
「いえ、僕は吸わないです」
「そうか」と呟き、マッチで火を付ける。「この辺の地理、分かるか?」
津田は首を横に振る。
「適当に歩いてみるか」
ボタン雪に包まれたビルの谷間を、2人はゆっくりと歩を進めた。どちらの眼も休みなく四方へ走り続ける。頭の雪を手で払いながらの朝の散歩だった。
学習院の近くまで進んで、出会った人間は1人。ベンチに坐っていたその男は、真壁たちの姿を見るやいなや、やはり走り出した。また真壁が走る。
「止まれ!」
今度は逃げられた。夜目に顔貌までは定かではないが、足が長く腰が大きい体躯は日本人ではなかった。
また東口の前に来ると、時刻は午前5時半。まだ暗い。電車の音が響いている。退屈しのぎに道端に散ったゴミを拾い、確かめ、捨てる。真壁が割箸1本を拾っている間に、津田はビニール袋を拾っていた。臭いをかいで、ゴホゴホ咳き込んだ。
真壁は割箸1本、手にちょっと辺りを見回す。弁当の空き箱か箸の片割れが落ちていないか、と思ったのだった。何もなかった。近くにはゴミ箱もない。
割箸1本どうということはないが、真壁はそれをハンカチに包んでポケットに入れた。事件現場近くにも、割箸1本落ちていた。可能性は限りなく低いが、万が一の場合、あの1本とこの1本が対で一膳ということもある。
真壁と津田はさらに2時間歩き、2回往復して午前7時半には、現場に戻った。すでにどんよりと明けた空に、雪がかかって灰色だ。
通勤ラッシュが始まっている。現場にはチョークの跡が残っているだけで、立ち番の巡査が1人立っている。
真壁がコンビニで買ってきたパンと牛乳を、西口交番の奥の休憩室で食べた。さっさとパンひとつ食ってしまうと、真壁はタバコを吸った。津田は食欲がないのか、小さな口でぼそぼそ食っている。
真壁の頭は未だ空っぽだった。千の死体には千の事情があるといっても、今の段階で、考えることは何もなかった。あと半時間ほどで始まる初回の捜査会議でも、たぶん状況は変わらない。解剖の結果が出て、聞き込みの成果が少し上がってくる今夜には、少しは進展もあるだろう。
「おい、津田」年配の巡査が顔を覗かせる。「お前、署に戻れ」
「何でですか?」
「本部に人手が足らんらしい。しっかりやれよ」
津田が青い顔になる。真壁はタバコを灰皿に押し潰し、「巡査になったの、いつだ?」と聞いた。「今年の春です」という返事。
壁にかけられた時計が、午前8時を示していた。真壁は暗澹とした思いで、腰を上げた。
「署に戻ったら、制服は脱げよ」
初回の捜査会議は、まず本部長となる署長の訓示、もし出てくるなら本庁の捜査一課長の訓示が行われる。次に所轄の刑事課長か、代行検視をした者の概要報告、鑑識の報告と続き、本庁の係長が捜査員の頭数と経験をざっと見積もって、班分けを行って終了となる。
構成はカン(敷鑑)に2組。地どりに7、8組。ゾウ(贓品捜査)はゼロ。肩書の順位からして、カンを担当するはずの馬場が地どりに回ったおかげで、真壁は津田と組んでカンに回された。
真壁は仏頂面を浮かべた。現場の状況は流しの犯行を示唆している。ならば、被害者の周辺を洗ったところで何も出てこないはずだ。誰かがやらなければならない無駄働きを、馬場は押しつけてきたのだ。
残りは地どり。池袋界隈一帯の聞き込み。