〇第2次ハリコフ攻防戦
5月12日に開始された南西戦域軍のハリコフ攻勢は、「最高司令部」の愚かなまでの楽観と軍の未熟さによって、まだドイツ軍の夏季攻勢が始まる前だというのに、多くの優秀な部隊と司令官を死に追いやる結果となってしまった。
4月10日に発せられたソ連軍の計画はハリコフの二重包囲であったが、前年の冬からドイツ軍の兵力は低下したままであるという誤った仮定を基に作戦を立てていた。スターリンはドイツ軍の攻撃が再びモスクワに向けられると思い込んでおり、「最高司令部」も南方で力を取り戻したドイツ軍の兵力を見誤っていた。
ソ連側の偵察は、ハリコフ地区への新たなドイツ軍部隊の移動を察知できず、そのため敵陣地の強さも軽視した。ハリコフ地区のドイツ軍の兵力をわずかに11個歩兵師団と1個装甲師団と予測していたが、実際の兵力は2個軍団と2個装甲師団、16個歩兵師団を超えるものだった。
しかも、南翼から第6軍とボブキン機動集団を攻撃できる位置にいたドイツ第17軍を、南西部正面軍は見落としていた。第17軍と対峙していた南部正面軍司令部の諜報は南西部正面軍にいっさいの敵情を提供しなかった。
さらに、春の「泥濘期」が部隊の動きだけでなく、道路や飛行場の建設を妨げた。各部隊が攻撃発起地点まで移動するのに、多くの時間が割かれた。攻撃支援のために選ばれた32個の砲兵連隊のうち、攻撃開始時に定位置についていたのは17個だけであり、機動部隊に指定されていた第3親衛騎兵軍団(クリュウチェンキン少将)に至っては全兵力が集結できたのが、攻撃開始から3日後のことだった。
その間に、ドイツ軍の偵察隊はハリコフ地区でのソ連軍の動きが活発化していることに注目し、空軍が絶え間なくソ連軍の後方地域を叩いて、兵站機能を損耗させていった。このため、ソ連軍は攻撃に必要な補給物資を十分に集めることが出来ず、砲兵による最初の弾幕射撃用の弾薬でさえ、3分の1が手に入っただけだった。
5月12日、さまざまな遅延と齟齬の結果として、第21軍と第28軍によるハリコフ正面からの攻撃は限られた成功に留まった。
ドイツ第6軍は第17軍団(ホリト大将)の後方から、即座に第3装甲師団(ブライト少将)と第23装甲師団(ボイネブルク=レングスフェルト少将)を差し向けて、翌13日には積極的な反攻に乗り出した。この反撃を受けたソ連軍は攻撃開始3日目にして、攻撃発起点からわずか約20キロ地点で頓挫してしまった。
ハリコフ南方の突出部でも、戦況は芳しくなかった。ドイツ第4航空艦隊が戦力を集中させて戦地一帯の制空権を握ったことに加えて、ティモシェンコが第21戦車軍団(グジーミン少将)と第23戦車軍団(プーシキン少将)を出動させず、歩兵を中心とした限られた兵力だけで攻撃を実施させたことが原因だった。
しかし、突出部の先端から西方へと攻撃を開始したボブキン機動集団だけは、ドイツ第8軍団(ハイツ大将)の戦線を切り裂いて戦果を拡大させていた。攻撃開始4日目には、クラスノグラードのドイツ軍守備隊を攻撃し、そこから60キロしか離れていないポルタヴァのドイツ南方軍集団司令部を脅かしていた。
5月15日、ボブキン機動集団の進撃ぶりを過大評価した南西部正面軍司令部はモスクワの「最高司令部」に次のような報告を行った。
「敵はハリコフ付近で新たな攻勢の準備をしていた模様ですが、我が軍は敵の企図を粉砕することに成功しました。敵にはもはや、ハリコフ地区で攻勢を実行できる兵力がないことは明白です」
〇終結
ハリコフ前面の防衛線はどうにか維持されていたが、ドイツ南方軍集団司令官ボック元帥は気を緩めることは出来なかった。もしソ連軍が新たな機動兵力を投入してきた場合、戦局が一気に変わる可能性があったからだ。第6軍はすでに防衛線の保持に手一杯で、ソ連軍を挟撃するという「フリードリヒ」作戦の当初の方針は明らかに不可能だった。
5月16日、ボックは南方軍集団参謀長ゾーデンシュテルン大将と協議した上で、攻撃開始日を1日早めて南翼のみで「フリードリヒ」作戦を開始することを決定した。この決定を受けて、第1装甲軍の第3装甲軍団、第17軍の2個軍団(第44・第52)は慌しく攻撃発起地点に集結した。
5月17日午前4時、ドイツ軍の砲撃が始まり、第1装甲軍の第3装甲軍団(マッケンゼン大将)が南部正面軍の第9軍(ハリトノフ少将)と第57軍(ポドラス中将)が構える突出部の南翼に襲いかかった。この戦区では十分な防御設備が構築されておらず、有刺鉄線が張られていたのは170キロもの前線のうち11キロほどで、陣地の縦深もわずか5キロほどにすぎなかった。
30度を超える猛暑の中、「クライスト集団軍」は翌18日までにスラヴィヤンスクからイジュムに至るドネツ河の西岸地域を占領し、結果として幅80キロの大穴をソ連南部正面軍の南翼に開けることに成功した。
しかし、ソ連軍は未だ事態の重大さを認識していなかった。病身のシャポーシニコフに代わって、5月11日に参謀総長に就任したヴァシレフスキーはハリコフへの進撃中止を提言したが、南西部正面軍司令官コステンコ中将は戦車部隊を前線に投入して、ハリコフ攻勢を継続すると反対し、スターリンもこれに同意したのである。
5月17日、第38軍司令部は4日前に偵察部隊が捕獲したドイツ軍の機密書類を解読した。その内容は、ドイツ軍が南北翼から突出部を挟撃するという「フリードリヒ」作戦の詳細であり、驚いた同軍司令官モスカレンコ少将は南西戦域軍司令部に通報した。
敵の意図をようやく把握したティモシェンコはただちに全軍に対し、ハリコフ攻勢の中止と戦車部隊の移動を命令したが、危機を脱するにはもはや手遅れだった。
5月22日、第3装甲軍団の先頭を進む第14装甲師団(キューン少将)はついにバラクレヤ東方でドネツ河に到達した。対岸には第51軍団(ザイドリッツ=クルツバッハ中将)が展開しており、ハリコフ南方の突出部に布陣する第6軍と第57軍は背後を断ち切られ、完全に包囲されてしまった。
5月23日夕方、ティモシェンコは包囲された2個軍に対し、東方への脱出作戦を開始するよう命令した。現地司令官に任命されたコステンコは直ちに包囲部へと飛んだ。
包囲されたソ連軍の各部隊は25日以降、繰り返し敵戦線を圧迫し続けたが、脱出できたのは第23戦車軍団と一部の戦車部隊だけだった。多くの兵士が機銃掃討と対戦車砲の餌食となり、見通しの良い草原が死体と戦車の残骸で埋め尽くされた。
5月28日、第2次ハリコフ攻防戦は終結した。この戦いでソ連軍は戦車652両、火砲4924門、兵員26万7000人を失った。犠牲者の中には南西部正面軍司令官コステンコ中将、第6軍司令官ゴロドニャンスキー中将、第57軍司令官ポドラス中将、機動集団司令官ボブキン少将といった高官も含まれていた。
ティモシェンコが自信を持って提案したハリコフ攻撃作戦だったが、結果としてソ連軍の作戦遂行能力がドイツ軍にはるかに及ばないという事実だけが浮き彫りにされた。防御時の縦深陣地の形成や戦車部隊の投入のタイミング、捕獲した情報の活用などの基本的な軍事行動において、ソ連軍はことごとく後手に回り、代償として大きな犠牲を払うこととなった。
しかし、この戦いはあくまでも「青」作戦の序章に過ぎないのである。ドイツ軍がヴォルガ河に至るまで、ソ連軍は稚拙な作戦のために、更なる大きな犠牲を払い続けなければならなかったのである。
〇ケルチ半島の奪回
東部戦線の最南端にあたるクリミア半島では、1941年12月26日にソ連ザカフカス正面軍(コズロフ中将)がモスクワ前面における総反攻と時を同じくしてクリミア半島から東に延びるケルチ半島に強行上陸を行い、ドイツ第11軍の一部を駆逐することに成功していた。
この情勢を受けて、第11軍司令官マンシュタイン上級大将はセヴァストポリ要塞の攻略作戦を一時中断せざるを得なくなり、ソ連軍に対する反攻作戦は泥濘期が終わるまで延期とされた。
年が明けた1942年1月2日、モスクワの「最高司令部」はザカフカス正面軍司令官コズロフ中将から提出された攻撃計画を認可し、可能な限り早急にケルチ半島の付け根に位置するパルパチ地峡への総攻撃を開始せよと急きたてた。
いよいよ本格的な反攻を期待されたクリミア正面軍(1月28日、ザカフカス正面軍より改称)の3個軍(第44軍・第47軍・第51軍)だったが、党から派遣された軍事会議員の干渉などにより攻勢準備は遅々として進まず、度重なる延期の末、ようやく2月27日になってようやく総攻撃が開始された。
クリミア正面軍は数次に渡る反攻を試みたが、そのことごとくが失敗に終わり、4月4日を最後に何の戦果も得られぬまま頓挫してしまった。
マンシュタインは第46歩兵師団の砲兵観測所に赴き、高台の上からソ連軍の陣地を視察した。パルパチ地峡部におけるソ連軍の前線は、奇妙な線を描いていた。南部からまっすぐ北に伸びてから、北では大きく西へ突出した状態になっている。ソ連軍は当然、北の突出部に予備兵力の大半を配置していた。
敵の意表を突くべく、マンシュタインはパルパチ地峡部の北部に総攻撃を行うと見せかけて牽制を行いつつ、第30軍団(フレッター=ピコ中将)と第22装甲師団(アペル少将)を南部から投入して戦線を突破した後、一気に敵の背後に回り込んで退路を断つという大胆な作戦を立案した。作戦名は「野雁狩り(トラッペンヤークト)」。
5月7日の深夜、ドイツ第11軍は「野雁狩り」作戦を開始させた。フェードシャから高射砲部隊の支援を受けながら、第30軍団の第132歩兵師団がソ連第44軍の陣地に襲いかかった。
夜が明けると、ルーマニア軍と第22歩兵師団の偵察大隊から編成されたグロテック大佐率いる装甲旅団は急造の橋を渡り、第44軍の背後を衝いた。
5月9日、第30軍団の後方から第22装甲師団が出撃し、幾重もの防衛線を突破して北へ回り込んだ。ソ連軍は戦車旅団による波状攻勢をしかけてきたが、この日の夕方から雨が降り始め、戦場一帯が底なしの泥濘と化し、独ソ両軍とも身動きが取れなくなってしまったが、ドイツ軍の装甲部隊はソ連軍の抵抗を着実に排して行った。
5月11日、道なき道を進撃していた第22装甲師団はアク・モナイでアゾフ海に進出し、ソ連第47軍の背後を封鎖することに成功した。グロテック装甲旅団もフェードシャから東方へ急進してクリミア正面軍司令部のはるか後方に忽然と姿を現し、マンシュタインの奇襲攻撃と指揮系統の混乱が相まって、ソ連軍の各部隊は作戦開始からわずか10日足らずで崩壊してしまった。
ソ連軍の残余部隊は必死にドイツ軍の先鋒を食い止め、ケルチ東岸に押し込められた部隊をモーターボートやカッター船でカフカス地方へ脱出させようとしていた。第11軍司令部は第30軍団の第170歩兵師団(ザンダース少将)に追撃を命じた。
ケルチに進出した第30軍団の砲兵隊は、ソ連軍の急造船団に猛砲撃を加え、多くの船舶を黒海に沈めた。
5月17日、「野雁狩り」作戦は終了した。一連の戦闘でソ連クリミア正面軍は火砲4646門、戦車496両、航空機417機、兵員15万人を失った。この報告を聞いて激怒したスターリンはコズロフを少将に降格させた上、現地に派遣していたメフリスを赤軍政治総本部長から罷免した。
〇セヴァストポリ要塞の陥落
再びセヴァストポリ要塞の攻略に専念できるようになったマンシュタインは第2次総攻撃に先立ち、手に入る限りの重砲をクリミア半島に運び込ませた。
その結果、第306上級砲兵司令部(ツッカートルト中将)の指揮下には、大小合わせて1300門の火砲が配備され、1キロ当たり52門という恐るべき密度でセヴァストポリの要塞とその周辺に照準を合わせていた。その中でも、とりわけ不気味な威容を誇っていたのが「ガンマ(口径427ミリ)」「カール(口径615ミリ)」「グスタフ(口径800ミリ)」と名付けられた3門の列車砲だった。
一方、要塞に立てこもるソ連独立沿海軍(ペトロフ少将)はこの時点で狙撃師団7個、狙撃旅団3個、独立戦車大隊2個を中心に10万6000人の将兵を擁していた。
要塞を守る強力な堡塁が随所に置かれた第2防衛線の南北では、ドイツ軍が《マキシム・ゴーリキー》と呼んだ305ミリ連装砲台が配備され、41年11月には巡洋艦「チェルヴォナ・ウクライナ」から取り外された130ミリ砲台が転用されて、新たに6か所の重砲台が設置された。これによって、口径100ミリ以上の火砲は44門に達したが、マンシュタインが集めた重火砲群には完全に見劣りしていた。
6月3日未明、第2次セヴァストポリ総攻撃が開始された。ドイツ軍の重火砲群が一斉に火を吹き、5日間に渡って凄まじい砲弾の雨を降らせた。ヒトラーは第11軍の攻撃支援のために、第4航空艦隊から第8航空軍団(リヒトホーフェン上級大将)を派遣し、1日延べ1000~2000機の頻度で要塞とその周辺施設に爆撃を行わせた。
6月7日午前3時15分、第54軍団の4個歩兵師団(第22・第24・第50・第132)が北部のベルベク渓谷から、第30軍団は南東のサプン丘陵からソ連軍の陣地に襲いかかった。縦深陣地に立てこもるソ連軍は砲台からの支援を受けながら、必死の抵抗を続けた。
6月12日までドイツ軍とソ連軍は炎天下の中、砲台が立ち並ぶ北部の防衛線を巡って死闘を繰り広げた。戦場には耐えられないほどの悪臭が立ちこめ、ハエの大群が無数の死体にたかっていた。ドイツ軍の旗色は良くなかった。損害は日ましに増え、弾薬も不足し始め、戦闘中止を強いられることもしばしばあった。増援が来るまで攻撃を中止すべきだという指揮官もいたが、マンシュタインは増援を当てにすることは出来なかった。
6月17日、第132歩兵師団を苦しめ続けていた《マキシム・ゴーリキーⅠ》砲台が、ベルベク渓谷に据えられた355ミリの重臼砲から放たれた重さ1トンの特殊レヒリング榴弾の直撃を受けて、沈黙した。サプン丘陵一帯の陣地も1平方メートル当たり1・5トンの砲弾を落とされて壊滅し、その周辺に散在する拠点も次々とドイツ軍によって占領された。
6月19日、第22歩兵師団が要塞を守る最後の障害であるセヴェルナヤ湾に到達すると、第24歩兵師団が翌20日にコンスタンチノフスキー砲台をようやく陥落させ、要塞周辺の砲台はすべてドイツ軍によって占領された。
6月26日の夜、モスクワの「最高司令部」はセヴァストポリの窮地を救うため、海路によって2個狙撃旅団(第138・第142)を派遣した。制空権を完全に奪われた状況では、これ以上の兵力を海上から要塞内に輸送することは不可能であった。補給物資の輸送も敵の空襲を恐れて、潜水艦で運搬されたが、その量も気休めにしか過ぎなかった。
6月30日、セヴァストポリ防衛司令官オクチャブリスキー提督は、独立沿海軍司令官ペトロフ少将とともに快速艇でセヴァストポリから脱出した。その4日後、最後のソ連兵がヘルソネス岬で銃を捨てて降伏した。
エカチェリーナⅡ世によって1738年に「偉大なる都市」と命名された要塞港は、ついに陥落させられたのである。