〇死守命令
ソ連軍の冬季大反攻は当初の10日間、兵力的な優勢をまったく確保できていなかったにも関わらず、「赤い首都」モスクワの前面において目ざましい成果を上げていた。
12月8日、第10軍はトゥーラ東方のミハイロフを奪回し、11日にはドイツ第4装甲軍の戦区に当たるイストラが第16軍によって取り戻された。15日には第一打撃軍と第三〇軍の進撃を食い止める障壁の役割を果たしていたクリンも解放され、ドイツ第3装甲軍に所属する2個装甲軍団(第41・第56)は同市を放棄して西方へ脱出した。
モスクワとレニングラードを結ぶ鉄道とヴォルガ河が交差する北部の要衝カリーニンも16日に第29軍・第31軍によって奪回され、同市を護っていたドイツ第9軍はヴォルゴ湖からルジェフを経由してモスクワ街道沿いにグジャツクに至る線まで後退した。
ソ連軍の一連の総反攻によって、それまでにも高まりつつあったドイツ陸軍首脳部内での危機感が一気に加速され、ヒトラーの職業軍人に対する不信感が露わになった。彼はこの不信感を11月29日に起きた、SS自動車化歩兵旅団「LAH」のロストフ撤退の時からすでに抱いていた。
12月14日、第2装甲軍司令官グデーリアン上級大将はロスラヴリで陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥と面会し、第2装甲軍と第2軍の前線をオリョール東方からクルスク付近に至る線まで後退させるという提案を示し、口頭で許可を得た。しかし、それよりも前方での戦線の保持が可能だと考えていた第4軍司令官クルーゲ元帥はこのグデーリアンの提案を厳しく批判し、またしても両者の間で激しい感情的な対立が引き起こされた。
この感情的な対立の背景には、「総統指令第39号」に示された「防御に適した前線」を主体的に決められないブラウヒッチュの「リーダーシップの欠如」があった。最近の軍事作戦上の問題について成否を正しく判断できる知識もなく、ヒトラーの作戦指導に対する疑問や懸念を直言する度胸も持ち合わせていなかったブラウヒッチュの態度は、1個軍集団が壊滅の危機に瀕する「有事」にあっては、軍全体の機能を麻痺させるだけであった。
12月16日の会議において、ヒトラーは一向に「防御に適した前線」が定まらないことに業を煮やし、ブラウヒッチュが健康上の理由から同月7日に提出していた辞表を受理することを決定した。同時に、陸軍総司令部を通じて「現在位置から一歩も退いてはならない」との命令を、前線の軍司令官たちに下達したのである。
一方、ハルダー参謀総長からこの命令を聞かされた中央軍集団司令官ボック元帥は、すでに麾下の各軍に対して限定的退却を承認する命令を通達しており、その撤回は現実的に見て不可能であると判断していた。その結果、第2装甲軍・第3装甲軍・第4装甲軍・第9軍は、ヒトラーの命令に背く形で西方への退却を継続した。
自らの命令が無視されたことを知ったヒトラーは激怒し、12月18日の朝にあらためて、次のような「死守命令」を中央軍集団の全将兵に対して発令した。
「大規模な退却行動を禁じる。そのような行動は、重火器と装備の完全な損失をもたらす。よって全将兵は損失を顧みず、全精力を傾けて現在位置を死守しなくてはならない。私はすでに、ドイツ本国および西部方面から東部戦線への増援を手配してある。それらの増援が到着するまで、絶対に現在位置から撤退してはならない」
ヒトラーの「死守命令」が下された時、ボックはストレスで持病の胃痛を悪化させており、軍集団司令官という苛酷な職務を継続することが難しい状態になっていた。そのためボックは12月18日、中央軍集団司令官の辞任をヒトラーに認められ、後任には第4軍司令官クルーゲ元帥が昇進した。ヒトラーはこれ以上の大きな撤退を禁じ、クルーゲに対して救援部隊が到着するまでソ連軍の進撃を食い止めるため「熱狂的な抵抗」を続けるよう命じた。
12月19日、ヒトラーはブラウヒッチュの陸軍総司令官辞任を正式に発表し、翌20日には「後任の陸軍総司令官は任命せず、総統である自分が陸軍総司令官の職務を兼任する」という方針を明らかにした。
陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥と中央軍集団司令官ボック元帥がそろって指導部から離脱し、ヒトラーが陸軍総司令部に求めた「防御に適した前線」を確定できる人物が誰もいなくなった状況下で、ヒトラーが強権を発動して下した「死守命令」は中央軍集団の命運を左右する重大な賭けにほかならなかった。
〇綱渡りの進撃
12月5日の攻勢開始から1週間、クレムリンは自軍の意図を秘匿するためもあり、具体的な攻勢作戦の内容については最低限の報道しか行わない方針を貫いていた。
しかし、モスクワ前面での大反攻が確実な戦果を挙げつつあると確認された12月13日、クレムリンの情報当局はようやく、ドイツ軍のモスクワ攻勢が頓挫し、赤軍の反撃により敵が退却に転じたとの情報を、政府系新聞「イズヴェスチヤ」をはじめとするマスコミ各社に大々的に発表した。
スターリンはもはやモスクワ前面の危機は回避されたと判断し、クリンが解放された12月15日にクイビシェフに疎開していた政府機関をモスクワに戻すよう命令した。そして「最高司令部」に対して、オリョールとブリャンスクに向ける新たな攻勢のための正面軍を創設させるよう命じた。
「最高司令部」はスターリンの意向に基づき、12月18日に南西部正面軍の北翼に展開する2個軍(第3軍・第13軍)を分割し、戦略予備の第61軍と統括させて「ブリャンスク正面軍」司令部を設立し、正面軍司令官にはチェレヴィチェンコ大将が任命した。
順調に巻き返しつつあるかに見えたソ連軍の冬季総反攻であったが、その内情はこの反攻を開始する時点で、すでに大きな問題を抱えていたのである。それは敵陣への突破で主役となる強力な火力と頑強な装甲を備えた戦車の不足であった。
10月28日の時点で西部正面軍が保有していた戦車の総数441両(修理中の車両も含む)のうち、ドイツ軍の戦車に対して有力なT34とKVは208両(全体の47%)だったが、11月16日には894両のうち193両(全体の22%)にまで低下していた。
ソ連の軍需産業は、1941年後半に戦車6500両、火砲1万6000門、戦闘機1万2000機を生産していた。しかし、工場の疎開に伴う一時的な生産低下などの理由により、戦車の補充は時間と生産コストが低い軽戦車が大半を占める状態が続き、ソ連軍の戦車部隊は対戦車能力がきわめて低い状態に置かれ続けていた。
そして、慢性的な戦車不足を補うため、いまだ試作段階にある未完成の戦車や、完全に時代遅れと化した旧式戦車などを、最低限の訓練を施して慌しく戦車部隊に配属されていたのである。実際、冬季総反攻に投入された西部正面軍の戦車624両のうち、全体の70%に当たる439両は非力なT26だったのである。
さらに攻勢作戦に必要不可欠な各種の爆薬も、12月初旬の段階では、小規模な任務で消費される程度にしか備蓄されていなかった。
弾薬の生産量は、工場の軍需転換の遅れや疎開に伴う生産低下などにより、8月をピークに9月から減少しており、ソ連軍の前線部隊は冬季総反攻の時期を迎えてもなお、深刻な弾薬不足に悩まされて続けていた。
また、ソ連軍の進撃はきわめて貧弱な兵站に支えられており、いわば「綱渡り」のような進撃を続けていた。これまで西方からの退却を続けてきたソ連軍は敵に奪われる恐れのある補給物資の集積所を設置することをやめ、鉄道で運ばれてきた補給物資を、線路上の貨車から直接、各部隊が保有するトラックや荷馬車に分配する方式に切り替えていた。
ところが西部正面軍が冬季総反攻で使用できたトラックの台数はわずかに8000両ほどで、前線で戦う部隊の補給状況は、戦線が西方へ進むにつれて次第に悪化していった。トラックの不足を補うために大量の馬橇が投入されたが、それでも需要を満たすにはほど遠い状況だった。
このような事情から、1941年度の冬季総反攻における突破作戦では、弾薬と燃料の補給が不可欠でなおかつ数の少ない戦車ではなく、機動力に優れ補給の負担の軽い騎兵とスキー部隊が、重要な役割を担うこととなった。しかし、機動力はあるものの火力で劣るこれらの部隊は、敵の戦線崩れた場所では迅速に前進できたが、ドイツ軍が拠点を築いた地域では容易にその進撃を食い止められることとなった。
〇一斉退場劇
ソ連軍の冬季総反攻開始とともに、東部戦線のドイツ軍は全正面で西方への退却を余儀なくされ、対ソ侵攻作戦を1941年度内に終結させるという希望は、零下20度から40度という酷寒の中で凍りつき、粉々に打ち砕かれた。
12月17日、第2装甲軍司令官グデーリアン上級大将は3人の軍団長と前線の状況を確認し、今後の方策について会議を開いた。その際、最近前線でドイツ軍兵士の間で広まりつつある「指導部への不信」について、軍団長たちから異口同音に報告がなされた。
「いまや兵士たちの間では、最高統帥部(ヒトラーと陸軍首脳部)が間違った敵情判断に基づき自分たちに無謀な突進を命じたのでは、という疑いが広がっています」
この報告を聞いてショックを受けたグデーリアンは最高司令官であるヒトラーに直談判して、現在自軍が直面している問題点の説明を行うとの決心を固めた。
12月20日、グデーリアンは中央軍集団司令官クルーゲ元帥の許可を得て、飛行機で総統大本営が置かれた東プロイセンのラシュテンブルクに向かった。5時間に及んだヒトラーとの会議において、グデーリアンはまず第2装甲軍と第2軍が置かれている苛酷な状況を説明し、被服・装備・塹壕のいずれも不足していて、同月14日にブラウヒッチュが承認した両軍の後方への撤退計画をただちに行う必要性を強調した。
これを聞いたヒトラーは、即座に返答した。
「そのような行動は許さん!貴官は第1次大戦中にやったように、榴弾砲の砲弾で地面に穴を掘ってでも現在の地歩を保持せねばならんのだ!」
グデーリアンはなおも抗弁しようしたが、ヒトラーもまた自らの信念に固執し、グデーリアンの要請を一蹴した。
「大義の実現のためには、兵士の犠牲が止むを得ない場合がある。貴官が軍務に熱心で、軍に身を捧げていることは承知しているが、いささか物事を近くから見すぎていて兵士に対する感情移入の度合いが強すぎるようだ。もう少し離れて物事を見るべきだろう」
最前線の実情をヒトラーに知らしめて退却の許可を得るというグデーリアンの目論見は完全に失敗に終わり、12月21日、グデーリアンは暗澹たる気持ちでオリョールに置かれた第2装甲軍司令部に戻り、ヒトラーの指示に従って前線の再構築に取りかかった。
12月24日の夜、第10自動車化歩兵師団がグデーリアンに命じられた拠点を護りきれず、敵の包囲を避けて退却を継続してしまったため、再び中央軍集団司令官クルーゲ元帥との間で新たな感情的対立が引き起こされた。
12月25日、またしても自分の命令を無視されたことに激怒したクルーゲはグデーリアンと激しい口論を演じた後、ヒトラーにグデーリアンの「問題行動」を注進するという動きに出た。
5日前の会談でグデーリアンに対し不愉快な印象を抱いていたヒトラーは、このクルーゲの報告を「厄介払いのいいチャンス」と考え、12月26日付けでグデーリアンを第2装甲軍司令官から罷免する決定を下した。
年が明けた1942年1月8日には、第4装甲軍司令官ヘープナー上級大将もグデーリアンと同様に、「許可なく部隊を退却させた」ことを理由に罷免された。この時もクルーゲのヒトラーへの報告がヘープナーの罷免に一役買っていたが、その内容は「台風作戦」開始後にヘープナーとクルーゲの間で発生した確執や遺恨を反映したものであった。
その結果、ヒトラーはグデーリアンの時よりも激しい怒りをヘープナーにぶつけ、ヘープナーは即座に軍籍を抹消された上、軍服の着用や勲章佩用の権利など、軍人としてのあらゆる権利を剥奪されるという憂き目を受けることになった。
こうした突発的な人事異動は、ブラウヒッチュとボックの離任に端を発した大規模な「人員の入れ替え」を、中央軍集団内で加速させる役割を果たした。
1941年12月23日から翌42年2月1日までの40日間に、中央軍集団に所属する6個軍のうち5個軍で軍司令官の交代が行われ、またこれらの6個軍に配属する21個軍団でも、3分の2にあたる14人の軍団長が冬季戦の最中に、交代するという事態にまで発展した。
それはあたかも、赤軍の上層部で1930年代に吹き荒れた暗黒の時代―「大粛清」を彷彿とさせる、貴重な高級将官たちの一斉退場劇であった。
〇攻勢の拡大
1942年1月1日までに、ソ連軍は北方ではカリーニン、南方ではカルーガの奪回に成功していた。ルジェフ、モジャイスク、マロヤロスラヴェツ、ユフノフなどの交通の要衝では、ソ連軍の攻撃と極寒の天候から生き残ろうとするドイツ軍の増援部隊と補給部隊の殺到によってごった返していた。
この時のスターリンは、「ドイツ軍が戦線を後退させた」という報道に「1812年の再現」という考えを禁じえず、狂喜乱舞した。絶望的な状況だった11月と12月の総反攻成功の対比が、スターリンにこれを好機として執着させることになり、当初の反攻計画を中央軍集団だけでなく、北方軍集団の一部まで含めた大部隊を包囲する為の総攻撃にまで拡大させようとした。
1月5日、スターリンは赤軍の最高幹部をクレムリンに召集して、参謀総長シャポーシニコフ元帥に全ての戦線における一大反攻作戦の骨子を説明させた。
まず、モスクワ正面に担当する3個正面軍(カリーニン・西部・ブリャンスク)が、中央軍集団を撃破する。北方では3個正面軍(レニングラード・ヴォルホフ・北西部)が北方軍集団を撃破して、レニングラードの包囲を解放する。南方では2個正面軍(南西部・南部)が南方軍集団を撃破して、ハリコフとドンバス地方を解放する。カフカス正面軍は黒海艦隊と協力して、クリミア半島を奪回する。
スターリンは高らかに宣言した。
「ドイツ軍は、モスクワで自分たちが後退していることに驚いているようだ。しかも、冬のための装備が十分でない。今こそ総攻撃をかける時が来た」
これに対してジューコフ以下の指揮官たちは、必要な兵力をあまりにも広い正面に分散させてしまうことになるとして、この総攻撃に反対した。戦時中の経済計画を担当していたヴォズネセンスキーも、ジューコフの意見に同意を示した。しかし、スターリンは幹部らの反対意見には耳を貸さず、これ見よがしな態度を取った。
「ティモシェンコとも話をしたが、彼も攻撃に賛成だった。ドイツ軍が春になって我々を攻撃できないよう、今のうちに彼らを叩き潰さなければならない。さて、議論はこれで終わりだな」
会議の場を出る際、シャポーシニコフはジューコフに向き直った。
「反論するなんて、君もバカなことをしたな。ボスの心はもう決まっているのに」
「なぜ同志スターリンは、わざわざ自分に意見を求めるようなマネをしたのか?」
ジューコフはそう尋ねると、シャポーシニコフはため息をついた。
「友よ、私には分からない。分かるはずがないだろう」
スターリンの狙いは中央軍集団の主力(第4軍・第9軍・第3装甲軍・第4装甲軍)を撃滅することであり、モスクワ前面では西部正面軍とカリーニン正面軍に対し、ヴィアジマのドイツ軍を全周からの攻撃によって包囲するように命じた。
カリーニン正面軍(第22軍・第29軍・第30軍・第31軍・第39軍)はルジェフとシチョフカからヴィアジマに進撃することになり、西部正面軍の南翼(第43軍・第49軍・第50軍)がユフノフからヴィアジマへ向かい、カリーニン正面軍と連結する。この攻勢と時を同じくして、西部正面軍の北翼(第1打撃軍・第16軍・第20軍)がヴォロコラムスクとグジャツク付近で防衛線を突破して、その中間部では2個軍(第5軍・第33軍)が、モジャイスクからヴィアジマを叩くことになっていた。
そして、西部正面軍南翼の先鋒を担う第1親衛騎兵軍団(ベロフ中将)とカリーニン正面軍の第11騎兵軍団(ティモフェーエフ少将)がそれぞれ東と北から敵陣の奥深くへと突破し、両騎兵軍団がヴィアジマ付近で合流することでドイツ中央軍集団の主力を包囲網に閉じ込めるというのが、モスクワ前面における反攻計画の第2段階であった。
すなわち、「バルバロッサ作戦」の序盤におけるミンスク=ビアリストク包囲戦で、ドイツ中央軍集団が第2装甲集団と第3装甲集団に担わせた役割を、スターリンはわずか2個騎兵軍団の兵力で再現しようと考えたのである。