〇破局
ドイツ南方軍集団に対するソ連軍の前進はゆっくりとしたものであったが、それでも実質的には止まることなく、春の融雪期まで攻勢は継続された。
ドニエプル河西岸への攻勢を準備する際に「最高司令部」は軍の並び替えを行い、6個戦車軍をすべて南部に投入した。主攻勢は第1ウクライナ正面軍と第2ウクライナ正面軍が担当する。両正面軍の目標は南方軍集団を中央軍集団から分断し、黒海もしくはカルパチア山脈に釘付けにすることで殲滅しようとするものであった。
ドニエプル河東岸の掃討作戦に続いて、ドニエプル河西岸からカルパチア山脈に至る第二次攻勢は5つの作戦を含み、それぞれの作戦は以下の地点と日付が設定されていた。
3月4日、プロスクーロフ=チェルノフツィ。
3月5日、ウマーニ=ボドシャニィ。
3月6日、ベレスネーゴヴァチア=スニギレフカ。
3月26日、オデッサ。
4月8日、クリミア。
モスクワの「最高司令部」はドイツ軍の予測、すなわちソ連軍の主攻勢は南方軍集団司令部が置かれたヴィンニッツァに向けられるだろうという予測につけ込もうとした。ドイツ軍の注意がコルスン包囲網に釘づけになっている間に、ソ連軍は南方軍集団の北翼に対して「ロブノ=ルーツク」作戦を行っていた。
2月29日、第1ウクライナ正面軍司令官ヴァトゥーティン上級大将は、「ロブノ=ルーツク」作戦に続く第二次攻勢の準備のため、前線を視察中だった。その際、ウクライナ蜂起軍による待ち伏せを受けて重傷を負ってしまった(4月15日に死亡)。後任には、ただちに第1ウクライナ正面軍司令部に派遣中だったジューコフが替わり、参謀業務は滞りなく進められた。
第1ウクライナ正面軍による「プロスクーロフ=チェルノフツィ」作戦は、ロブノの周辺から南翼のカルパチア山脈に向かって展開するという内容だった。プリピャチ湿地帯南翼から3個戦車軍(第1・第3親衛・第4)を西翼へ突破させてポーランドに進出しつつ、ドニエストル河に向かって南に展開し、ドイツ軍の後方を切断する。
その南方では、第2ウクライナ正面軍も3個戦車軍(第2・第5親衛・第6)によってドイツ第8軍(ヴェーラー大将)の前線を突破して、ドニエストル河東岸を一掃する。これが「ウマーニ=ボドシャニィ」作戦の骨子となった。
この2つの攻勢に加えて、第3ウクライナ正面軍が「ベレスネーゴヴァチア=スニギレフカ」作戦によってドイツ第6軍(ホリト上級大将)を攻撃し、北方へ向けられるドイツ軍の救援を断つことになっていた。
最後の瞬間になって、陸軍参謀本部の東方外国課はようやく敵の攻撃意図に気づいた。旧ポーランド国境に近いシェペトフカ=ドゥブノ地区に6個軍が集結しており、プリピャチ湿地帯西端の鉄道要衝コヴェリを脅かす位置に迫っていたことを、南方軍集団司令部に警告した。
マンシュタインは幾度も総統大本営に対し、戦略予備を増強するよう求めた。しかし、ヒトラーはこの要請を拒否したため、マンシュタインは間に合わせの手段を取らざるを得なくなった。
一番危険だと考えられたのは、軍集団北翼のプリピャチ湿地帯からシェペトフカまでの80キロの前線だった。この前線に配置されていたのは、弱体化した第13軍団だけだった。マンシュタインは包囲される危険に対し、第4装甲軍(ラウス大将)を第13軍団の後方に移し、最悪の事態に備えるしかなかった。第1装甲軍(フーべ大将)はシェペトフカの南方に配置されることになった。
だがこの結果、別の危険が生じた。第8軍は装甲兵力の半分以上を割かれ、第2ウクライナ正面軍と対峙することになってしまった。
〇最後の戦い
3月4日、第1ウクライナ正面軍はシェペトフカ=ドゥブノ地区から新たな攻勢を開始した。第60軍(チェルニャホフスキー中将)と第1親衛軍(グレチコ大将)は、第4装甲軍の前線を突破し、第4装甲軍は二つに分断されてしまった。第13軍団(ハウフェ大将)は西と北西へ圧迫され、第59軍団(シュルツ中将)の2個歩兵師団(第96・第291)は第1装甲軍へ追いやられた。
南西へ実施されたこの攻勢は順調に推移し、ジューコフは攻撃のテンポを速めるため、第3親衛戦車軍(ルイバイコ大将)と第4戦車軍(レリュウシェンコ中将)を投入して、第4装甲軍を西方へ押し返していった。
3月5日、第2ウクライナ正面軍はウマーニから攻勢を開始した。第52軍(コロテープ大将)の支援を受けながら、第2戦車軍(ボグダーノフ中将)と第5親衛戦車軍、第6戦車軍がドイツ第8軍の陣地を突破した。
3月7日、第1ウクライナ正面軍の戦車部隊は南部のドイツ軍に補給物資を送り込む大動脈であるリヴォフ=オデッサ間の鉄道を遮断し、プロスクーロフに迫った。
ここで、マンシュタインの配慮が実った。シェペトフカ南方で、第1ウクライナ正面軍は第1装甲軍の第3装甲軍団(ブライト大将)と第4装甲軍の第48装甲軍団(バルク大将)による反撃に遭い、進撃を阻止されてしまった。
3月10日、第2ウクライナ正面軍はドイツ軍の補給廠が残されたウマーニと、直前まで南方軍集団司令部が置かれていたヴィンニッツァを立つ続けに奪回すると、第2戦車軍と第6戦車軍の先遣部隊は翌11日にブグ河の下流で橋頭堡を確保し、2日間の渡河作戦を実行した。
3月16日、第2ウクライナ正面軍はレンベルク=オデッサ鉄道に達した。第5親衛戦車軍の第29戦車軍団は翌17日にドニエストル河に到達し、ただちに狙撃師団を渡河させた。21日までに、第2ウクライナ正面軍の戦車部隊が渡河したため、北翼にいた第1装甲軍は南翼の第8軍と分断されてしまった。
マンシュタインが恐れ続け、何としても避けようと努めていた破局の事態が急速に現実味を帯び始めた。第4装甲軍は西方に押し返され、第8軍は叩きのめされ、第6軍はドニエプル河畔で孤立したまま北翼の救援を行う余裕などない。第4装甲軍の主力から80キロも引き離されて、第1装甲軍がブグ河とドニエストル河の広大な地域で殲滅の危機に立たされた。
3月21日、プロスクーロフでのドイツ軍の抵抗に業を煮やしたジューコフは前線に第1戦車軍を投入した。攻勢の勢いを取り戻した第1ウクライナ正面軍は、再び第1装甲軍の陣地を突破して南に進出した。
3月23日、マンシュタインは戦況を鑑みて、第1装甲軍を強引に西方へ脱出させる計画を立てた。もし第1装甲軍が南へ脱出してしまえば、第4装甲軍との間隙はますます開いてしまい、ソ連軍が容易にルーマニアへ進撃することを許してしまう可能性があった。
レンベルクの戦闘指揮所から、マンシュタインはヒトラーに第1装甲軍の脱出許可を求めた。しかし、ヒトラーは現在位置を死守せよとの総統命令を送りつけた。最も危険な時期に前線から離れることになってしまうが、マンシュタインはヒトラーに対して直接、自軍の戦況を説明する決心をした。
3月24日、情け容赦なく進撃を続けた第1戦車軍はドニエストル河に到達すると、休む間もなく渡河作戦を実行した。その際、ドイツ軍兵士の五感を攪乱するため、夜間もヘッドライトを付けてサイレンを鳴らして進撃した。
ジューコフは補給が途絶して進撃が停滞していた第4戦車軍に対し、カメネッツ=ポドリスキを翌25日までに占領するよう命じる。これにより、ドイツ第1装甲軍を包囲網に閉じ込め、スターリングラードの再現が出来ると考えたのである。
〇カメネッツ=ポドリスキ包囲戦
3月25日、マンシュタインはベルヒデスガーデンにあるヒトラーの山荘に乗り込み、第1装甲軍を脱出させる許可を即座に与えるようヒトラーに直言した。
「このままでは、第1装甲軍は敵に包囲され、スターリングラードの二の舞になります。そして、第1装甲軍の壊滅は隣接する第4装甲軍の破滅をも意味します」
不愉快な決断を迫られたヒトラーは、感情を高ぶらせてマンシュタインを非難した。
「貴官は作戦のことだけを考えておるが、いつも退却ばかりしておるではないか」
この言葉を聞いたマンシュタインは冷静に、辛辣な言葉を返した。
「総統閣下、このような事態を招いた責任は全て総統ご自身にあります。閣下はこの8か月間、我が軍集団に対し、作戦的に実行不可能な任務を課し続けて来られた。充分な予備兵力も行動の自由も、本官に許可されなかった。もし許可されていたなら、現在のような破滅的状況は回避されていたでしょう。全ては、閣下の責任ですぞ」
その日の夜、再びマンシュタインを山荘に迎えたヒトラーは態度を改め、第1装甲軍の西翼への脱出を承認した。また、第1装甲軍を西翼から迎える第4装甲軍に、戦略予備から4個師団(第9SS装甲・第10SS装甲・第367歩兵・第100猟兵)を配属させることを約束した。マンシュタインはヒトラーの提言に意表を衝かれたが、その背後に隠されたヒトラーの決意を知る由もなかった。
3月26日、第1ウクライナ正面軍の第4戦車軍は、カメネッツ=ポドリスキを占領した。第4戦車軍は第38軍(モスカレンコ中将)と協同しつつ、第1装甲軍の残兵である装備の貧弱な約21個師団に対して緩やかな包囲を完成した。
ドイツ軍は第1ウクライナ正面軍の通信を傍受して暗号を解読し、現地の赤軍兵力や部隊配置、補給状況などについて、ほぼ完全な情報を得ることに成功していた。
この情報を基に、マンシュタインは包囲網の西方に15キロの間隙があることを掴み、第1装甲軍に対して「西へ突破せよ」と命じた。第1装甲軍は3つの集団に別れ、空路補給に頼りながら西へ脱出をはかり、敵の兵力が疎らな地点を突破した。
3月29日、第1ウクライナ正面軍の先鋒はプルート河畔の古都チェルノフツィに入り、間もなく第2ウクライナ正面軍との合流に成功した。この時になって、ジューコフはようやくドイツ軍が南ではなく西へ脱出することに気づいたが、ただちに西へ差し向ける部隊は手元になかった。
4月6日、第1装甲軍は第24装甲軍団(シュヴァレリエ中将)と、第4装甲軍の第2SS装甲軍団がストリパ河畔のブチャチで合流した。脱出に成功した第1装甲軍だったが、コルスン包囲戦と同じく、大量の重装備を遺棄しており再編が必要な状態に陥っていた。
1個装甲軍の包囲・殲滅を取り逃がしたとはいえ、カルパチア山脈によってドイツ軍の前線を分断することに成功したことを考えると、ソ連軍のドニエプル河第二次攻勢はほぼ成功を収めたと言っても良かった。
そして、ソ連軍が全く予期していなかった重大な副産物を生む結果となった。
3月31日、ドイツ陸軍最高の智将と謳われたマンシュタインが、作戦遂行中における総統指令への度重なる反抗とヒトラー自身に対する批判的な言動が原因となり、南方軍集団司令官を更迭されたのである。
ホトとマンシュタインという機動戦の名将を相次いで失ったドイツ軍は、もはや怒濤のように押し寄せるソ連軍に対して能動的に対処できる力は残されていなかった。各部隊を占める経験不足の新兵の割合は増加の一途をたどり、東部戦線に展開するドイツ軍の作戦遂行能力は、徐々に硬直化していった。
〇クリミアの解放
第1ウクライナ正面軍と第2ウクライナ正面軍が足並みそろえて前進していた時、他の2つの正面軍はずっとのんびりしていた。
第3ウクライナ正面軍は3月6日、「ベレズネーコヴァチア=スニギレフカ」作戦を発動し、黒海沿岸での攻勢に乗り出した。
3月22日、第4親衛騎兵軍団と第4機械化軍団を統合したプリエフ機動集団はブク河の南岸に達し、最終目標であるルーマニア国境のドナウ河へ突進した。ドイツ第6軍は時期を逸した進撃ながら、ウクライナ南部を横切って西に撤退した。こうして3月末、第3ウクライナ正面軍はオデッサの攻略に乗り出しつつ、4月初めにルーマニア国境のドニエストル河に沿って、第2ウクライナ正面軍の脇の位置にまで迫った。
第4ウクライナ正面軍の南端部では、東部戦線におけるドイツ軍の没落を決定づける闘いが、今まさに始まろうとしていた。
4月8日、第2親衛軍(ザハロフ中将)と第51軍(クレイゼル中将)がペレコプ地峡からクリミア半島への強襲を開始したのである。その3日後には、独立沿海軍(エレメンコ上級大将)がケルチ半島から西へと進撃し、同月16日には黒海沿岸の保養地ヤルタの奪回に成功した。
クリミア半島には、ドイツ第17軍(イエネッケ上級大将)の指揮下に6個師団とルーマニア軍7個師団が展開していた。
東部戦線南翼の戦況が退潮期に入った43年9月、前南方軍集団司令官マンシュタイン元帥はヒトラーに対し、カフカス西部を流れるクバン河の橋頭保から第17軍を撤退させるよう進言した。ヒトラーが渋々ながら撤退を承諾したため、ドイツ軍はカフカスでの最後の足場を失い、資源戦争の夢は潰えてしまったのである。
第17軍の脱出は1943年9月7日、開始された。10月初めに、最後の兵士がクバン河からクリミア半島へ脱出すると、第17軍司令官イエネッケ上級大将はセヴァストポリ港から輸送船を用いて麾下の兵力をルーマニアの港湾へと撤退させる計画を軍司令部の参謀たちに研究させていた。狭いペレコプ地峡を突破されたら、ドイツ軍が退却する道は黒海の洋上だけとなるからである。
4月10日、第17軍司令部は海上撤退計画―「鷲(アドラー)」作戦の発動を命じ、ドイツ軍とルーマニア軍は段階的に船で黒海へ脱出することになった。しかし、この計画案を聞かされたヒトラーは同月12日にクリミアからの撤退を厳禁する総統指令を命じた。クリミアの放棄は、トルコに対する政治的影響が大きすぎるという理由だった。
第17軍司令官イエネッケ上級大将は南ウクライナ軍集団(3月31日、A軍集団より改称)司令官シェルナー上級大将を通じて繰り返しヒトラーに直訴し、撤退の許可を求めたが、ヒトラーはシェルナーを飛び越えてイエネッケを更迭してしまった。
5月1日、第17軍司令官に第5軍団長アルメンディンガー大将が後任となったが、司令官の首をすげ替えてみたところでクリミアの戦況は全く変わらなかった。
5月8日の深夜、戦況報告を受けたヒトラーはようやく、クリミア半島の保持を諦めて死守命令を撤回したが、その時には既に第17軍は約5万人の兵員を失っていた。
5月12日、クリミア半島に残る最後のドイツ軍部隊が降伏し、クリミアは2年ぶりにソ連軍の手中へと取り戻された。
その間にも中央軍集団の向かい側では、第1バルト正面軍(バグラミヤン上級大将)、西部正面軍(ソコロフスキー大将)、白ロシア正面軍(ロコソフスキー上級大将)がスモレンスクから白ロシアへ至るモスクワ街道周辺のドイツ軍陣地に対する強襲を続けていた。
1943年12月から1944年3月までの3か月に渡って、3個正面軍は少なくとも7つの攻勢に乗り出し、20万人以上の犠牲を払ったが、白ロシアへの決定的な前進を成し遂げることは出来なかった。
これにより、プリピャチ沼沢地以南のソ連領内における枢軸国軍の支配地域は、旧ポーランド東部のリヴォフ周辺とモルダヴィアの南翼だけとなった。
衝撃的な開戦から3年を経て、スターリンにとっての対独戦はようやく「敵国の領土で戦う段階」へと入ったのである。