13
1か月ぶりに勤務が明け、本条は横須賀市上町のアパートまで歩いて帰った。基地から徒歩で20分はかかる距離だが、本条はどんなに疲れていようが、必ず歩いて帰ることにしている。途中に上り坂があり、狭い潜水艦の中の生活で鈍った足腰を鍛えるにはちょうどいいと思っていたこともあるが、一番の理由は身体の臭いだった。
自分たちでは気づかないが、長期間、潜水艦に乗っていた乗組員たちからはディーゼル油と艦内の生活臭がまざった臭いがするらしい。「ひりゅう」の同僚でも、電車やバスで隣り合わせになった客たちが席から離れていく経験をしたそうだ。それで、本条はバスもタクシーも使わず下宿先まで歩いて帰る。
本条の部屋は2階にある。8畳ほどのワンルームの窓を開けると、海から風が吹き込み、澱んでいた空気が入れ替わっていく。
Tシャツにジャージのパンツに着替えると、まず大きなバッグに入れて持ち帰った勤務中の汚れ物を、洗濯機に放り込んだ。作業服上下3組、つなぎ2着、肌着と靴下それぞれ12、3枚など、1回の洗濯では到底すまない量である。
独身の本条の部屋は比較的、整頓されている。1年のうち半分以上を留守にする潜水艦乗りたちは、別の艦に勤務している者同士、部屋の用心や郵便物の整理、家賃の節約などを理由に、共同で住む場合が多い。本条も以前は気の合う同期と部屋を借りていたが、相手が呉の第1潜水隊群へ異動になって引っ越して以来、独身で暮らすようになった。
早く結婚したい気持ちはある。本条の給与は家庭を持っても十分やっていける収入だが、長い航海から疲れて帰ってくると、しばらくは独りで好きに過ごしたいというのも本音だった。
質素な部屋には、やや不似合いな高価なステレオがある。電源を入れると、いきなり早口のアメリカ英語のトーク番組が流れてきた。ラジオの周波数をいつもAFN(米軍放送網)に合わせているからだった。AFNは海外に駐在する米軍人向けの放送で、リスナーからのリクエストに応じて50年代の名曲から最新のヒット曲まで幅広く流す。また、大統領の重要な演説や為替レート、気象予報、部隊の動向なども随時、放送される。
横須賀の第2潜水隊群は米軍基地内に位置している関係上、米海軍との連絡は多く、また海上自衛隊が米海軍と共同して行動することを前提としているから、英語になるべく親しむように心がけている。そのため、本条は英会話教室に通って1年になり、日常会話ならこなせるようになっていた。
冷たい缶ビールを飲みながら、スピーカーから流れるビリー・ジョエルの歌に合わせて口ずさんでいると、電話が鳴った。三期先輩の伍代征弥からだった。
伍代は防大の寮の部屋長であり、本条が実習幹部として「ひりゅう」に乗った時には水雷長で、ドルフィン・マークを付けられるよう心身ともに厳しく鍛えてくれた。今は別の艦の船務長だが、お互い非番の時はよく飲みに連れて行ってくれたり、早く身を固めろと心配してくれたりと、本条にとってはいつまでも頼りにできる兄貴分だった。
「今晩のコンサートには行くんだろうな?」
伍代はいきなり太い声で聞いた。
「あれ、今晩でしたかね」
水雷長就任に備えた訓練で、魚雷戦の試験をされた上、ロシア原潜との思わぬ遭遇で追尾に神経を磨り減らし、正直なところすっかり忘れていた。
「せっかくチケットを回してやったのに、忘れるとは何だ。その様子だと、一緒に行く相手も見つけてないようだな」
「今は洗濯の山と格闘中ですので・・・」本条は午後三時を過ぎた掛け時計を見上げた。「先輩こそ、そろそろ赴任の準備は出来たんですか?」
伍代は人事異動で、日本大使館付き防衛駐在官としてローマに赴任することが決まっていた。妻と小学生の息子一人がいるが、妻子は日本に残して単身赴任するという。
「バカモノ。そんな準備はとっくのとうに済ませてある。今はもう、成田だ」
「成田?」本条は驚いた。「今から出発ですか?」
「最後に、お前の声を聞きたくなってな。真田とはついに会えなかったし・・・」
防大の寮では、本条の同期でパイロット志望の真田健吾という男が同じ部屋に入っていた。同期の顔が浮かぶのと同時に、7年前の苦い記憶が甦って本条は少し押し黙った。
「今晩のコンサートはちゃんと行けよ?」伍代は念を押した。「彼女にはくれぐれとよろしくと伝えておくんだぞ」
「ええ、分かってますよ」
本条はそう答えると、電話は切れた。急いで洗濯物を干すと、髭を念入りに剃り、気に入っている紺のジャケットにネクタイを締めてチケットを内ポケットに入れた。
14
本条は横須賀から電車で横浜に向かった。窓際の席で揺られながら、伍代と相談して同期の真田を上司に密告した苦い記憶を思い出していた。
8年前、横須賀で一緒に酒を酌み交わしたとき、真田は本条に「実は学生時代のサークル活動を通じてロシア大使館の外交官と知り合った。今も時どき会っている。ロシア人の友人がいるとまずいだろうか」という相談をした。
翌日、本条はその話を伍代に伝えた。伍代はこう言った。
「本条、その話はすぐに情報保全隊に伝えないとダメだ」
「ですが、あいつの立場が危なくなるでしょう。ロシア人との関係を断てばいいだけじゃないですか。事を荒立てる必要はないと思いますが」
「そういう次元の話じゃない。聞いてしまった以上、組織に対して黙ってたら、こっちに火の粉が降ってくる。警察はロシア外交官の行動は徹底的にマークしてる。後で警察から本省に通報されると、あいつがさらに窮地に陥ることになる」
「密告みたいなことはしたくないんです」
「これは密告じゃない。自衛官の職業的良心として、組織に伝えなくてはならないことだ。とにかく俺がこれから保全隊に行って、今お前から聞いた話を伝えてくる」
数日後、東部情報保全隊で防諜を担当する課長補佐から、伍代と本条の2人で朝霞に呼び出された。課長補佐は本条に対し、真田から聞いたときのやりとりを出来るだけ正確に再現するようにと命じた。聴取は、伍代の同期である伊東敏也・一尉がメモを取っていた。
本条は記憶を整理して報告した。課長補佐は深刻な顔を浮かべ、伊東は「本省にも報告せざるを得ませんね」と言った。すると、伍代が「お願いしたいことが」と言った。
「何だ?」課長補佐は答えた。
「本条からこの話が伝わったということが分からないようにして欲しいんです。本条は同期を密告するような卑怯な真似をする人間じゃありません。本省のことを心配して私に伝えてくれたんです。それから、同期を守って欲しいと本条は強く私に言いました。同期にもあまり厳しい対応をしないようにして欲しいんです」
伍代がリスクを負って庇おうとしているのを眼の当たりにして、本条は胸が熱くなった。
課長補佐は「本条君には迷惑をかけないようにうまく伝える。その同期にどういう対応をするかは、調べた後のことだ。それから、この話は一切口外しないように。私以外にも何も言わないように」と念を押した。
伍代と本条は「分かりました」と答えた。
それから1か月くらいして、課長補佐に再び呼ばれた。近くベルリンへ赴任することになったので、その前に伍代と本条を誘って昼食を食べさせてくれた。そこで、真田の話が出た。
「あの件について君たちが教えてくれたことに対して、本当に感謝してる。相手のロシア人はGPU(連邦軍参謀本部情報総局)の筋だった。おそらく警察もマークしてたと思う。早く気づいてよかった」
「真田は大丈夫でしょうか。本省からマイナスの評価をされることが心配です」本条は尋ねた。
「一応、大きな問題はないということで処理した。しかし、彼の行動は注意深く観察してる。警察も見てると思う」
「しかし、大学時代にサークルで偶然知り合うようなことは十分あると思いますが」
「私たちとしては、こういう対応を取らざるを得ない。GPUにはこれまで酷い目に遭わされてきた。性悪説に立たないと、私たちは生きていけないんだ」
その晩、伍代と有楽町の居酒屋で酒を飲んだ。本条は酔った勢いでこう言った。
「ぼくは無実の同期を陥れてしまったような気がします」
「本条、今後もこういうことはいくらでも起こる。俺は親父が外交官だったから、いろんな人間模様を見てきた。ロシア人と付き合ってるという話をお前が同期から聞いてしまったんだから、ああするしかなかった」
「保全隊には黙って『ロシア外交官と付き合うのはやめろ』と言うこともできました」
「真田がそれでも接触を続けたら?」
「・・・」
「あまり深く考えるな。俺たちは自衛官としてやるべきことをやった。それだけのことだ。後は忘れてしまえばいい」
1年後、真田は防大を自主退学した。その後の行方は不明だった。
15
久しぶりの生演奏に、本条はすっかり聞き入っていた。
最初の曲目はウェーバーの「魔弾の射手」序曲だった。3階までの客席に2500人収容の大ホールは、ドイツ人の高名な指揮者がタクトを振るとあって、満席だった。本条は2階のほぼ中央最前列に座っていた。
小休止の後、ブラームスの交響曲第3番が演奏された。しばし眼を閉じていた本条は突如、チェロのまろやかな音色に体を上げ、舞台に視線を向けた。
女性奏者が1人、体をしならせるようにしてチェロを奏でている。肩まで流した黒髪が一筋、ふっくらした頬にかかっている。たおやかな指先で弓を引き、棹で絃を優しく抑えると、澄み切った旋律がホールを満たした。
1か月ほど前、人身事故発生のため、山手線が運行停止になり、再開のメドがたたない混雑した上野駅のホームで、伍代と本条も立ち往生していた。伍代のローマ赴任の送別会から帰る時だった。
本条たちのすぐ横で、若い女性が駅員に乗り継ぎの相談をしていた。大きな楽器のケースを置き、時計を見ながらかなり困っている様子だった。そんな様子を見かねてか、伍代は女性に声をかけていた。
「お困りのようですが、我々もタクシーで帰ろうかと思ってた矢先です。駅前のタクシー乗り場は長蛇の列でしょうから、別の通りまで出るつもりですが、よろしければもう1台拾うお手伝いをしますよ。女性ひとりでは止まってくれないでしょうから。な、本条」
伍代はいきなり本条に振り向いた。本条はきょとんとした。伍代は「では、行きましょうか」と女性をうながし、本条に「ほらケースを持ってやりなさい」と言った。
大通りで待った後、駅前の方へ入ろうとしたタクシーを1台、伍代が強引に掴まえた。タクシーに乗る際、女性は深々と頭を下げた。
「助かりました。私、帝都フィルのチェロ奏者をしています。もしよろしければ、お礼にチケットを送らせていただきます」
「それで、楽器をね」
伍代は相手が差し出した手帳に自宅のアドレスを記した。1週間後、今夜のチケットが入った封筒が届き、伍代は「音楽は趣味じゃない」と本条に譲った。封筒に書かれた送り主の名前は、花菱葵だった。
最後の曲が終わると、万雷の拍手が四方から沸き起こった。いったん舞台の袖に消えた指揮者が、再び満面に笑みを浮かべて現れた。
本条はそっと席を立ち、楽屋に向かった。途中、警備員に止められたが、薔薇の花束を示して通してもらい、楽屋口にたどり着いた。ホールに来る途中、駅の近くの花屋で買った花束を、今日のチケットのお礼として手渡すためだった。
カーテンコールの拍手がようやく鳴り止むと、燕尾服姿の指揮者を先頭に演奏者たちが次々と戻ってきた。皆、額に汗を滲ませ、成功した演奏を喜び合っている。
花菱葵もそれに続いて現れた。白いブラウスに黒いロングスカートの装いながら、2階席で眺めていた時よりも美しかった。
気圧されながらも、本条は勇気を出して歩み寄った。
「花菱さん。私、横須賀の伍代宛てにチケットを送って下さった折、一緒にと書き添えていただいた本条です。今日はご招待にあずかり、有難うございました。ささやかですが、伍代と2人のお礼の気持ちです」
上ずった声で我ながらきまり悪かったが、手にしていた薔薇の花束を差し出した。
「まあ、来て下さったんですね。お花までいただいて」
花菱葵はまだ、ほんのりと上気した紅い頬を薔薇に寄せた。
「いい香り、嬉しいです。伍代さんは?」
「それが急な仕事でうかがえず・・・くれぐれもよろしくとの伝言を預かってきました」
「こちらこそ、その節は本当に助かりました。おかげさまでチェロの恩師の最期に、間に合いました」
頬にかかった黒髪を耳にかけ、改まった口調で礼を言った。
「お忙しそうなので、これで失礼します。演奏会はまた、聴きに参ります」
そうは言ったものの、妙に切ない気持ちがせり上がってきた。しかし、演奏が終わったばかりの楽屋に長居するわけにもいかない。
「この人が青柳先生の病院へ連れて行ってくれた人かい?」
オーボエを手にした銀髪の楽団員が、横から声をかけた。
「はい、今もお礼を申し上げたところです」
「じゃあ、お茶でも付き合ってあげたら?打ち上げは、どうせ遅くなるさ」
銀髪のオーボエ奏者は本条の緊張と高揚した表情に内心を察したのか、茶目っ気たっぷりに片眼をつむってみせた。
「いずれにしても着替えてきますので・・・ロビーのラウンジでお待ちくださいますか」
「も、もちろんです。ごゆっくり」
予想もしなかった展開に、本条は天にも昇る気持ちで、楽屋を出た。
16
他のホールでもコンサートがあったらしく、ラウンジは混み合っていたが、ちょうど2人連れの席が空いたところだった。華やいだ雰囲気の中で、花菱葵を待っていると、ふと以前から約束していたような錯覚にとらわれた。
程なくしてワンピースに着替えた葵が現れた。背はそれほど高くないが、化粧を落とした素顔に近い顔は、意外に幼く色白で大きな瞳がまぶしかった。
「お花は楽屋受付に預けてきました。帰りに寄って、家に飾らせて戴きます」
「かえってお手数をかけましたね、カクテルでも?」
本条はメニューを開きながら、聞いた。
「では、軽いものを」
打ち上げを気にしてか、遠慮がちにブルーハワイを注文した。本条はウィスキーのロックを頼んだ。
「さっきのチェロのパッセージ、素晴らしかったです。ゆったりとしたメロディはもちろんですが、速い部分も」
本条はこんな表現でいいのだろうかと戸惑いながらも、感じたままを率直に口にした。
「本条さんは、音楽がお好きなんですね」
「プロの方の前で好きというのは恥ずかしいですが、休日にたまにステレオで楽しむ程度です」
ウェイターがグラスを2つ運んできた。本条はブルーハワイをどうぞと勧めながらも、後の会話が続かないのに焦り、当たり障りのないことを聞いた。
「チェロは小さい時からですか」
「ええ、最初はお稽古程度に習ってたんですが、高校生の時にちょっとした演奏会で、先月お別れした先生に出会い、それから本格的に指導を受けるようになって。本条さんのお仕事は?」
黒い瞳をまっすぐ向けた。本条は瞬時、返事につまった。
「海上自衛隊に勤務しています」
「はい?」
早口だったせいか、花菱葵はとっさに聞き取れなかったようだ。
本条は思い切って、ジャケットの内ポケットから名刺を取り出して渡した。
『潜水艦 ひりゅう 船務士 二等海尉 本条薫』
葵は驚いたように名刺を見入った。
「では、もう1人の伍代さんも?」
「そうです。勤務している艦は違いますが、2人とも潜水艦乗りです」
「自衛隊の方にお会いするのは初めてです。まして潜水艦に乗っている方なんて・・・狭い音楽の世界で生きてるせいか、自衛隊そのものについて知識がなくて・・・台風や地震などの災害時に出動されるのをニュースで知る程度です」
葵はグラスを手に、申し訳なさそうに言った。
「それが普通です。おまけに海自では、そういうニュースになるような機会もあまりないですし」
「潜水艦というと、普段はずっと海の中を潜ったままなんですか?」
葵は興味ありげに聞いた。
「そうです。だから人目につかない海自の中でも、最も見えない部隊です。今も日本に潜水艦部隊があるんですかと、聞かれることがあります」
本条はウィスキーを飲みながら言った。
「でも、ぼくたちの任務はそれでいいんです。日本の周辺の海で、ぼくらは密かに警戒に当たっています。外国がそれを見て、日本は潜水艦が盛んに活動してるようだから下手な手出しをすると痛い目に遭いそうだと思わせるのが、理想なんです」
「なんだか、大変そうなお仕事のようですね」
「慣れてしまえば、そんなことはありません。当直についてる時は忙しいですが、休みの時間は音楽を聞きながらベッドに横になってることが多いです。その時は、深海魚にでもなったような気分になります」
そこまで話して、本条は自分でも恥ずかしいほど饒舌になっていることに気づいた。
「つまらない話をして、すみません。お時間は大丈夫ですか?」
時計を見て、慌てて聞いた。
「あっ、そうですね。カクテル代、お支払いします」
腕時計を確認して財布を出そうとする葵を、本条は制した。
「今日は僕の奢りですから。東京でまた演奏会がある時は伺いたいですが、予定はお決まりですか?」
「8月25日に上野文化会館で。チケットは手に入らない時がありますから、よろしければ私の方からまたお送りします。宛先はこの名刺のところですね。カクテルはご馳走様でした」
花菱葵は申し訳なさそうに言い、手を差し伸べた。しなやかで柔らかいその手に触れ、本条はそっと握り返した。
足早に去って行く後ろ姿を見送った後も、その場から立ち去りがたい思いを抱きながら、本条はホールの外に出た。冷房の中に長く居たせいか、むっとした風が頬を撫でる。かすかに潮の香りがした。
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「本条二尉、お探ししていたんですよ」
横須賀上町のアパートに帰ったのは、午後11時過ぎだった。階段を上がっていると、車のブレーキを踏む音に続いて自分の名を呼ぶ声がした。本条は振り向いた。隊庶務の海曹長がジープの運転席から怒鳴っていた。
「首席幕僚から、命令を言付かっております。群司令部で緊急のオペレーション会報が開かれるので、参加してください。もう間もなくですので、お急ぎください」
気が気でない様子で、急かされた。首席幕僚の芹澤忠幸・二佐は第二潜水隊群司令の片腕ともっぱら評判の人物だが、いきなりどういうことか、戸惑った。群司令部のオペレーション会報など、自分のような尉官クラスが出席できるはずがない。
何かの間違いではないかと思いながら、部屋に戻って私服から制服に着替え、隊庶務が運転するジープで基地に向かった。携帯端末を演奏会の時から切ったままだった。
ジープは第2潜水戦隊司令部の前で止まった。本条は明かりのついていない建物に入り、2階のオペレーション・ルームの前まで駆けつけたが、ふと立ち止まった。部屋の扉は暗証番号を入力する仕組みになっているからだ。
「本条、間に合ったか」
沖田艦長が廊下の奥から足早に駆け寄ってきた。暗証番号を入力し、分厚い扉を開けた。
「部屋の隅で見学しておけ」
沖田の後から頭を低くして入室すると、遮光カーテンを引いた100平米ほどの会議室は照明がついていた。前面に大きなスクリーンが下がり、それと向かい合うように最前列に椅子が数脚、やや間を置いて後ろにも十数脚並んでいた。本条は、末席に浅く腰を下ろした。
スクリーンの近くでは首席幕僚の芹澤を中心に、司令部の要員がプロジェクター用の報告資料を並べたり、何事か小声で確認し合ったりしている。
「その後、新たな動きは入ってるか?」
「ただ今のところは、特に・・・」
「写真だけじゃなく、関連資料も準備してるよな」
「はい、集められるものは全て揃えました」
本条はそのやりとりを隅で聞きながら、ある種の緊張感を感じ取った。通常の会報とは何か雰囲気が違うのではないか―。
やがて在泊中の「せいりゅう」艦長と副長、第4潜水隊司令、最後に第2潜水隊群司令・藤堂巌・一佐が入室し、最前列の椅子に腰を下ろす。芹澤の司会でオペレーション会報が始まった。
芹澤は単刀直入に本題に入った。
「昨日発見されました、中国の商級原潜の動きについて、情報参謀からご報告します」
情報幕僚が立ち上がり、プロジェクターのスイッチを押した。部屋の照明が落とされ、スクリーンに東シナ海北部の海図が表示される。
「093型原潜は宮古列島と尖閣諸島の間を引き続き北に進んでいます。昨日、1400の発見位置から本朝0600までに120マイル(約193キロ)弱しか進んでいませんので、速力は7ノット(時速13キロ)程度と思われます」
自転車をこぐような遅い速度である。
「写真は撮れたのか?」藤堂が聞いた。
「はい、厚木から送ってきました」
情報参謀が答えると、スクリーンに航走中の写真が映し出された。
最初に発見したのは、海上保安庁の巡視船だった。その後、第4航空群(厚木基地)のP-3Cが定例の監視飛行中に発見した。航空部隊はこのP-3Cの報告に基づき、適宜の間隔で中国原潜の動静を把握し、その情報は潜水艦隊へも刻々ともたらされていた。
本条は、藤堂司令が発した言葉に衝撃を受けた。
「すでに、海上保安庁からの申し出により、本省は海上警備行動を発令した」
会議室の中に、空気が小波のようにざわついた。海上警備行動が発せられる事態は、ソマリア沖の海賊対処部隊の派遣任務以来の非常事態を意味していた。
その後、第四潜水隊司令より2隻の潜水艦―「ひりゅう」と「せいりゅう」に対して、尖閣諸島より南方海域を制圧する旨の命令が下された。「ひりゅう」と「せいりゅう」は、北方から接近する中国水上艦船および潜水艦に対して阻止哨戒を実施する。
「君たちが現場海域に到着する頃には、内閣から防衛出動が発令されているだろう」
潜水隊司令の訓示が終わると、沖田は群司令の藤堂に問いかけた。
「敵艦の撃沈も止むなし、ということでしょうか?」
藤堂は深くうなずいた。
「勿論である」
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「ひりゅう」は第5バースに停泊していた。吉倉桟橋の一角で、「ひりゅう」への魚雷の積み込み作業が始まった。弾薬輸送艇からクレーンで吊り上げられた魚雷が、斜めにセットされた台の上に置かれ、「ひりゅう」の艦内に吸い込まれていった。
輸送艇にも潜水艦の艦橋にも赤い旗がひらめいて、弾薬取り扱い作業中であることを示していた。金色に光る魚雷の前方部分に黄色い帯が書かれている。弾頭に爆薬が入った実弾を示す帯だ。
本条は身震いした。防衛出動が発令されれば、それはすなわち実戦である。あまりに衝撃的で、潜水艦乗りとして多くのことを考えさせられた。自分が会報に呼ばれたのは、あの中国原潜の領海侵犯の様子を見せるためだったのか。なぜ自分に。
からからに渇いた喉を潤すために、本条は第2潜水戦隊司令部に入る。洗面所へ行き、両手に水を受けて一気に飲み、ほてった頬に冷水を浴びせていると、背中を叩かれた。振り返ると、船務長の森島が角ばった顔に優しい笑みを浮かべて立っていた。本条は慌てて頬を拭う。
「群司令のオペに初参加できたそうだな」森島が言った。
「はい、私のような一介の船務士にどうして、お声がかかったのか・・・」
「そりゃあ、見込まれたからだろう。中国原潜が領海侵犯している件については、小耳に挟んでいる。本当に、奴らはしそうなのか」
「本隊と思われる艦が南下の準備をしているらしいです・・・」
「そうか。またとない勉強の機会を頂いて、お前はけっこう強運な持ち主だな。俺なんか未だに群司令のオペなど、出たこともない」
森島と一緒に、「ひりゅう」の艦内に入った。実戦を眼前に控えて、確認しなければならない項目は無数にある。装備の動作確認、安全点検、機器の交換部品や食料の搭載状況、出航に備えた修理作業場の清掃など。
「本条二尉、先程から何度も電話が入っています」
発令所に入ると、海図を広げていた航海科員が言った。
「どこから?」
本条が問い返した時、艦内当直が電話を取り、「船務士に電話です」と差し出した。
停泊中は電話回線をつないでいるため、各所から連絡が入る。
「本条二尉です」
「情報保全隊の伊東だ。本条二尉だな?」
「はい」
「伍代が消えた」
「消えた?」
「イスタンブールでトランジットのため、空港に降りたのは分かってる。その後、姿が見えない。ローマの日本大使館の職員が本省に連絡して、さっきこちらに情報がきた」
本条は耳を疑い、言葉を失っていた。
「防大で、伍代は君の部屋長だったな?何か心当たりはないか?」
「いえ、特に・・・」
「出航準備中に失礼した。伍代について、何か思い出したら、すぐに連絡して欲しい」
受話器を手にしたまま、本条は数秒、その場に立ち尽くした。
―伍代が消えた?
理由が思い当たらなかった。最後に話したのは、昨日の昼間、アパートに掛かってきた電話。演奏会に行くよう軽口をたたいた明るい声しか浮かばない。呆然とするが、航海科員から声をかけられる。士官室でブリーフィングが開かれます―。
士官室に集まった幹部は艦長以下、わずかに八名。沖田艦長は、普段と変わらぬ様子で話し始める。任務は海上警備命令に基づく、尖閣諸島の周辺海域における阻止哨戒。まず「ひりゅう」が阻止哨戒を実施。実施後は「せいりゅう」と指定海域で交代し、四国沖まで進出、直衛艦「ちよだ」と合流する。
敵艦の撃沈も止むなしという言葉には、幹部の誰しもが小さく息を吐いた。しかし、士官室に起こった小波はすぐに止んだ。ブリーフィングの終了と同時に、ただちに「ひりゅう」の出港準備に入るよう、沖田は命じた。
夜明け前、沖田艦長は「ひりゅう」の乗組員に対し、「直出入港」配置を命じた。主機のディーゼル・エンジンが心地よい振動とともに稼働を始める。信号員の合図により、前部と後部の曳航索が外された。「ひりゅう」は前進微速でゆっくりと進み出した。
艦橋には艦長、副長、信号員、電話員が並んでいる。
「艦長。『ちよだ』艦長より信号。『航海の無事を祈る』です」
信号員が、「ちよだ」の旗甲板に双眼鏡を向けながら言った。
「信号員、返信せよ」沖田は言った。「『了解。貴艦の無事も祈る。いずれ横須賀で』だ」
「あっ、艦長。潜水艦桟橋の『せいりゅう』からも発光信号です。『せいりゅうよりひりゅう。航海の安全を祈願する』です」
暗い雲に覆われた空の下、「ひりゅう」は外洋へ沈んでいった。