29
その後しばらく、事件に動きはなかった。十係は相変わらず新條博巳に対する京王プラザと事務所の張り込みを続けた。三鷹南署からの連絡もなかった。
段田の声を聞いたのは、5月2日の夜だった。真壁が奈緒子と冨樫の2人と六本木のダイニングバーで飲んでいた時、本庁の宿直から呼び出されたのだった。
本庁に入れてきた段田の電話は、こう言った。
「現場で新條紀子を押さえた」
その夜、段田の一報で久我山の現場に駆けつけた時、真壁が見たのは、放水の水が垂れ続ける焼け跡だった。燃えたのは、家の庭先だった。4月の初めに見たころ、バンジーが半分ほど植えられていた花壇は、もう元の形を留めていなかった。灯油を撒いたらしいのと、風が強かったのとで、火の回りは早かったという。
新條紀子は消防車が駆けつけた時、燃える花壇の前に立っていて、消防隊に「私が燃やしました」と言ったということだ。そして、続いてやってきた警察にも同じように言い、ポケットからマッチを出してみせた。
三鷹南署に連行される途中も、その後も紀子はしごく平静で静かだったらしい。署員の問いには応えず、「私が燃やした」という言葉だけ繰り返し、あとは黙然としていた。
真壁が燃えた現場を見た後に三鷹南署へ足を運んだとき、紀子はすでに取調室に入っていた。あくまでお客さまの真壁は取調の邪魔はせず、受付前のベンチで待った。
それから間もなく、駆け込んでくる中年の男女を見た。紀子の叔母夫妻だろう。当直の署員にせき立てられて、どこかの部屋に姿を消す。
渡辺を待ちながら、真壁は黙りこくっていた。自分がちらりと関わっただけの女子高生のタレ込みが、こんな結末を迎えたことに当惑していた。
午前0時前、段田が1階に姿を見せ、真壁の方へ手招きをした。誰もいない刑事部屋で話をした。
「吐いた」段田は言った。「調べは明日もやる。紀子は今、留置場へ移した」
「叔母の夫妻が来ていたようですが」
「話にならん。2人ともそろって『信じられない』、『何かの間違いだ』の一点ばり」
「質問には答えないのですか」
「うむ。気が動転して答えられんのか、答えたくないから逃げてるのか、よく分からん」
「紀子の様子は」
段田は唸った。
「少なくとも興奮している様子は全くない。かといって冷静かというと、ちょっと。むしろ放心している感じだ」
「犯行は認めましたか」
「ああ。火をつけた一部始終はな。しかし、動機となると、いっさい何も言わん」
《そうか。そうなのか》と真壁は漠然と考えた。心を閉ざした故の形だけの自供。自分がやったとあっさり認めることでそれ以上の追及を拒絶し、決して心のうちを明かさずに法廷に立ち、そのまま刑務所に消えていく犯罪者たちが、現に何割かはいる。
「まあ、明日1日、ゆっくり話してみるが、ポイントは、親子関係という気がしたな。違うか?」
「そう思います」
「決して夫婦喧嘩なんかしない賢い親と、名門校へ進学するのが至上命令の1人娘。そういう図式だろう?」
「多分」
「ほかに何かないか?」
「友だち」
「タレ込みしたという、友だちか」
「最後の最後にした方がいいかも知れませんが、どうしても紀子の壁が崩れないようなら、ひと言、持ち出してみて下さい」
「そんなに大事な友だちか」
「分かりませんが、そういう気がします」
「名前は」
「桐谷芽衣。同じ高校で、去年まで一緒のクラスだったと聞いてます」
段田はメモをした。
「他にはないか」
「実は桐谷芽衣が最初にタレ込んだのは、同僚の渡辺なんですが、そのとき芽衣は面識のない渡辺を本庁の刑事だと正確に知った上で接触してきたのです。本庁の名簿がどこからか洩れたと考えてますが、その点について、ちょっと紀子にほのめかしてくれますか」
「信じられん話だ」段田はうなずいた。「そうか、君がガキのタレ込みに乗った本当の理由はそれだな。これで、やっと合点がいった」
その時、ポケットに入れている受令機と携帯電話が鳴り出した。自動的に、時間を確認する。午前0時半。《渡辺はどうした》と思いながら、真壁は電話に出た。相手は開渡係長だった。その声を聞いた途端、真壁は眼を見開いた。
「新條博巳が自殺した」
30
タクシーを飛ばして新宿の京王プラザホテルに着いたのは、午前1時5分前だった。20階のエレベーターホールには所轄の新宿西署の他に、十係がかたまっていた。
「お探しの人物ですか」と新宿西署の誰かが声をかけたが、誰も応えなかった。
真壁が部屋に入ると、天井に取り付けたれた照明から、新條博巳が下ろされた。革ベルトを首に巻きつけての縊死だった。
「出入り口と窓は全部閉まってる」杉田が言った。「遺書付きだ」
手渡された紙にはワープロで打ち込んだらしい、『ご迷惑をおかけしました』という一文しかなかった。遺書は十係の間で回された。無言の磯野が床を一発蹴りつけ、高瀬は唾を吐き、吉村は眉根に皺を寄せて眼を逸らせていた。
腹に一物あるらしい馬場は口許を険しく歪めて、真壁をちらりと見た。真壁はそれを無視して、渡辺を眼で探す。ちょっと離れたところに立っていた。憮然とした顔だった。
「鑑識、どうぞ」
開渡係長の一声で十係は引き下がり、代わりに鑑識がフラッシュを飛ばし始めた。その場を離れた馬場は渡辺の方へ踏み出していく。
「さあ、どういうことか説明してもらおうか」
「私のせいだというんですか」渡辺が眼をむいた。
どちらも、外野には届かない低い声だった。発見時の張り込みを担当していた渡辺と、新條を精神的に追い込んだ馬場の両方の失点だった。
双方の手が動く前に「場外乱闘ならホテルの玄関前でやってこい」という開渡係長の一言でケリになった。
新條博巳の自殺に、何ら特異な点は見つからなかった。重要参考人が自殺してしまった以上、警察は出てきた事実と前後の状況で判断するしかなかった。
レジデンス子安町302室から新條の指紋が出たことから、新條が302号室を出入りしていた可能性はあった。事件当夜、新條と梁瀬が訪ねたのは三橋英理の部屋だったことを裏付ける物証はないが、状況証拠はある。
そこまで推理が進めば、十係の頭にひらめく思いはひとつだった。鑑識を拝み倒して出動願い、久我山の新條博巳宅を徹底的に洗い直した。
十係の面々が、密かに期待したのは血液だった。頭で点滅していたのは、男女の性交よりも、梁瀬の頭を殴りつけた凶行のその漠然とした映像だった。つもりつもった何かの思いの爆発。人けのない路上でホシが狂ったように振りかざした《一部に凹凸があり、かなりの重量のある棒状の鈍器》。
部屋という部屋の開口部を黒い布で覆い、真っ暗にした中で、そこらじゅうにルミノール試薬を吹きつけていく作業が1時間ほど続いた。
最初に新條宅の駐車場の床が1か所、青い燐光を発した。続いて、車のリアバンパーの付近に2か所。トランクの中に入っていたゴルフバッグのジッパー部分。そして最後に、5番アイアンのヘッドだった。
それから2時間ほど後に、採取された血液は梁瀬陽彦のものと判定された。
推測すればこういうことになる。
新條は子安町に向かう途中に梁瀬の姿を見かけ、尾行し、梁瀬がマンションに入っていくのを確認した後、近くの路上で梁瀬が出てくるのを待っていた。午後11時過ぎ、マンションから出てきた梁瀬を持っていたアイアンで殴りつけ、その足で南へ逃走した。四つ角の北西の家で、このときの叫び声を聞いた住人が、靴音の片方は南方向へ走ったと言ったのは、当たっていたことになる。
しかしながら、そもそも梁瀬陽彦と三橋英理はいつ、どこで知り合ったのか。いつから関係を持っていたのかなど、分からないことは多い。
事件直後の警察の聞き込みに対して三橋英理が偽証したのも三橋自身の判断なのか、おそらく確証を得るすべはないだろう。
三橋英理の遺体も見つかっていなかった。交通事故があった15日の夜、Nシステムによると、新條の車は奥多摩市の一本道へ向かい、数時間後に同じ道を戻ってきていることが分かった。おそらく三橋英理を殺害し、どこかの山中に遺棄したことが考えられるが、手をかけたと思われる新條が自殺してしまったとなれば、真相は永遠に謎のままだった。
31
5月6日の朝、新條紀子は放火と殺人の罪で送致された。真壁は遂に、紀子と口をきく機会はなかった。
代わりに6日の夜、真壁は渡辺とともに三鷹南署へ足を運び、段田に供述調書一式の写しを見せてもらった。そこから想像し、考え込んだ事柄は多い。
紀子について言えば、やはり最後まで警察の追及は及ばなかった。証拠に関しては、カバンの中から絞殺に使用したタオルと宮藤研作の部屋の鍵が見つかり、どちらからも宮藤のDNAと指紋が検出された。
物証に反して、紀子の供述調書は実に内容が少なく、2月20日にいかにして宮藤を絞殺したかを詳細に語っているだけで、凶行に及んだ理由については《受験勉強でムシャクシャしていた》のただ一言があるのみ。宮藤研作との接触については不明。2月20日に宮藤のアパートに上がった理由も不明だった。
紀子自身の口から出た言葉としてはほかに、父のものと取り違えて学校に持って行ったファイルの中に、平成××年4月度の警視庁刑事部各課の事務分掌表というものが含まれていた、という供述がある。これはオフレコで、真壁たちに耳打ちされた。各課の事務分掌表はもちろん部外秘で、課員全員の氏名と係が載っている。
紀子はその分掌表を「秘密の資料」だと認識して大事にしまいこみ、「大事な友だち」1人だけに見せたことがあると言った。その「大事な友だち」の氏名は、黙秘した。
この話は、桐谷芽衣に対する聴取で追認された。芽衣は、昨年夏ごろ紀子に資料を見せてもらったことを認め、その中にあった渡辺優大の名前を見て、すぐに団地自治会の世帯主一覧表にある名前だと確認した。芽衣の母親は自治会の役員をしていて、そういう資料が手近にあったらしい。
芽衣は好奇心から自治会資料の地番をもとに、渡辺優大の住居を確認し、まもなく毎朝姿を見ていた男が渡辺優大だと確認した。3月末に警察へのタレ込みを決心したとき、渡辺に話そうと決めたのはそういう事情からだ、と芽衣は供述している。
ところで、紀子は事件について、核心部分は何ひとつ語っていない。しかし、そこに何があったのかは、周囲の人間がはからずも少しずつ明かす形になった。
新條博巳の事務所に働く弁護士の見習いや事務職に対する聴取で、新條が見知らぬ男からの嫌がらせを受けていたことが分かったのだった。
最初にその嫌がらせあったのは、去年の10月のことだった。
東京地検のエグチを名乗る人物から事務所に電話があり、その電話を女性の事務員が新條に伝えた。電話の内容は『ミハシエリという人物についてお伺いしたいことがある。先生にそう伝えてください』という意味のものだった。声はしゃがれ、無愛想な感じだった。公衆電話から掛けているようだった。
その後、同じ内容の電話が何日か事務所に掛かることがあり、ある時から新條が「知らない人からの電話は切るように」と怒り出すことがあった。男のイソ弁が事情を聞こうとすると、新條は「東京地検のエグチもミハシエリも知らない」と答えた。
この話を耳にした時、真壁は「東京地検のエグチ」が宮藤だと脳裏にひらめいた。「ミハシエリ」はまさしく三橋英理であり、2人の関係を盗聴でつかんだ宮藤が新條を強請っていたのだろう。宮藤と新條の間にどんなやり取りがあったのかは分かる術もないが、ある時から宮藤は標的を紀子に変えた。盗聴したテープを聴かせて脅し、関係を強要する。似たような事件を上野南署の時に経験したことがあった。
三鷹南署を出ると、真壁は渡辺に、それとなく聞いてみた。
「渡辺さん、紀子を尾行した際に、どこかで新條が三橋英理と会ってる姿を見たんじゃないですか?」
宮藤から父親の行状を聞いて、紀子は父親の跡を尾けていたのではないかという、不健全な想像だった。その紀子を渡辺が追い、新條は尾行する者の影に気づいたが、それは渡辺の方だった。だから、告発状が出された。新條自身と一人娘の醜聞を隠すためだ。
「俺は人の顔を覚えるのが苦手なんだ。もし見てたとしても、覚えちゃいない。刑事は全能じゃないんだ。これが俺の限界だと思ってくれ」
渡辺に答えをはぐらかされた気もするが、「刑事が全能じゃない」という言葉には同意できた。そもそも宮藤が三橋英理に眼をつけた理由。なぜ、宮藤は三橋の部屋に盗聴器を仕掛けるまでのことをしたのか。これまた当事者が死亡してしまっているので、これ以上の推測は不可能だった。
32
梁瀬陽彦殺害事件の実像は何も分からぬまま、被疑者死亡で書類送検された。《めでたいことだ》と、十係は白けた顔で呟き合い、5月7日の捜査会議を終えた午後8時半、八王子東署を出た。
事件が一つ終わると飲みたがる磯野の音頭で、十係は北口商店街の居酒屋に入っていったが、真壁はその夜、行かなくてはならないところがあった。遅刻だなと思いながら、新宿行きの電車に乗った。
神保町のバー「モンブラン」に着いたのは、午後9時半だった。冨樫はカウンター席の一番奥に座り、「やっと来たな」と口角を緩めてみせた。
バランタインの17年物をロックで飲み交わしながら冨樫が話したのは、紀子の母である真千子の話だった。
三鷹南署の聴取に対し、真千子が話したのは《紀子は父親がしていることをみていたんです》だけだった。
紀子は父のカバンから警視庁の内部資料を見つけたことによって、父の仕事について何らかの疑念を持ち、独断による評価を下したことも考えられる。父は弁護士で人のために働きながら、実は《汚いことをやっている》のではないか、と。
新條が警視庁の内部資料を持っていた理由は不明だが、事務所の職員が「暴力団の弁護を担当していた時期があった」と言っていたことから、ある程度まで推測は立つ。
暴力団絡みの事案では、拳銃や覚醒剤所持といった、起訴事実自体は争えない場合が多く、弁護側は代わりに捜査や取調のちょっとした行き過ぎや不備をついてくる。その際は捜査担当者を証人として裁判に呼び出して締め上げるものだが、あまりに軽微な犯罪に時間をかけるのも考えもので、事前にウラで打ち合わせていたのだろうか。
「人の為になす。すなわち偽り、だねぇ」というのが、冨樫のオチだった。
こうして断片的に見えてきた事柄をつなぎあわせても、一つの家庭の内実とはほど遠いことだろう。学校関係者には紀子は《おとなしい、真面目な子》であり、父博巳は世間で《剛直でバイタリティー溢れる正義漢》であり、母真千子は《絵に描いたようなキャリアウーマン》であり、事件が明るみに出てみると、世間は《なぜあんな真面目な子が》《なぜあんな理想的な家庭が》と首をかしげるだけだ。
実際、捜査に当たった警察も本当のところはどんなふうだったのか分からないまま、時間の制約もあって送致したのだった。
家庭に対する憎悪の正確なところは、知るよしもないが、両親の実像、受験勉強の重圧などが、すべて絡み合っていたに違いない。そして、家では感情を表に出さない、あるいは出せないような育ち方をしてきた少女が、外で求めたものは本と、友だちだった。
アルコールが回ってきた脳裏に、真壁はうつらうつらしながら先日、三鷹南署の段田から聞いた話を思い出した。
聴取の際、段田はあまりに孤独に見えた紀子に『友だちはいるのか?』と尋ねた。
紀子はひとつうなずいた。
『誰?同級生?』
紀子はまたうなずく。
『桐谷芽衣君?』
またうなずく。
『今も仲良し?』
うなずく。それ以上の問いは、段田も発しなかった。紀子は芽衣が春休みになってから疎遠になったことを、誰よりも自覚していたはずだが、とにかくうなづいたのだった。芽衣が自分を裏切ったことを、予感していたのかどうかは分からない。
真壁がしばしば思い知らされるのは、人間の心には明かす必要のない部分があるということだ。《動機の解明》はたんに法律上の便宜であって、司法の理解の及ばない心の襞に、司法が分け入る権利はない。
送致が決まったとき、段田は紀子に『両親と会うか』と尋ねた。
紀子は首を横に振り、こう言ったという。
『これで自由になれます』
エピローグ
新條紀子が送致された後日談は一つ。
5月9日、本庁6階の捜査一課の大部屋には珍しく、十係全員の姿があった。管理官の秦野警視から謹慎処分として、係全員の在庁を命じられたのだった。
十係の眠たげな面々が桜田門に集まった朝、磯野が着てきたのはピンク色のサマージャケットだった。もちろん有名なイタリアのブランド品だ。
磯野が現れたとき、真っ先に目敏い杉田が「おう、やったな」とけだるい声で囁いた。
「今度は気合が入ってるぞ」新聞の陰で馬場が真壁に耳打ちした。「まるでサーモンの切り身みたいだ」
「まあ・・・」真壁は生返事をした。
「今日は事件が入らないって、八卦見が言ったんだ」磯野は自席に腰掛けた。「だから、これを着てきたんだよ、俺は」
「デートか」と高瀬。
「ばかやろう。人生、もっとマジな話もあるんだ」
「離婚話で家裁へ行く、とか」これは渡辺。
「今日は日曜で、家裁は判事が休み」と杉田。
「お前らには分からんさ」と磯野。
「分かってたまるか、上着をとっかえたついでに、頭の中身も変えろ」馬場が怒鳴る。
「ひでえな、主任は」
うはは、と吉村が忍び笑いをした。
大部屋に鳴り響いている警電の音も同報のスピーカーも話し声も一瞬かき消え、外野からは「黙れ」「失せろ」「ニワトリ小屋!」と怒鳴られた。
久しぶりに大部屋で迎えた在庁番の朝に起きたちょっとしたさざ波は、その場はそれで終わりになった。すると、渡辺が眼の前の机から、ちらりと1枚のスナップ写真を真壁に見せてくれた。去年の暮れに吉祥寺のキャバクラで一緒だった人物だったという。
若い女の顔が写っていたが、真壁は新宿界隈を警らしていた時に見かけた男娼たちの風貌に近いものを感じ、正体は聞くまでもなかった。
「きれいですね」とだけ、真壁は言った。
渡辺がぶつぶつ呟いた短い言葉から察するに、渡辺はその《女》と付き合いがあり、吉祥寺の道を何度か一緒に歩いたという。渡辺が同じ町内に住む女子高生から声をかけられ、ニヤニヤされて、前後の見境なく焦り狂ったのは、要するにそういうことだ。
「それで?」
「いろいろ、ありがとう」
聞こえなかったフリをして、真壁は黙って写真を返した。事件の教訓で、遅まきながら禁欲主義に徹する決意でもしたのか、そんな情けなさそうな渡辺の横顔だった。
その日の夜、八卦見が言った通り事件は起きず、真壁は定時で桜田門を出た。冨樫と一緒に神保町駅の構内を歩いていた時、冨樫が突然、「あれ・・・」という声を挙げて立ち止まった。その眼は、構内のどこかに止まっていた。
冨樫は壁のポスター1枚を顎で示し、「もう5月かぁ・・・」と溜め息をついた。
1週間ほど前、真壁も六本木の路上で同じポスターの写真を見た。奥多摩の都民の森が一面、初夏の緑に輝いている。
「なぁ、夏に穂高にでも行かないか・・・」真壁は呟いた。
「穂高のどこへ?」
「北鎌尾根から槍ヶ岳・・・前穂北尾根でもいい」
「休み、必ず取れよ」
「ああ」