9
京都の鈴宮重機へ電話をかけたら、応対に出たのは、ひどく多弁な男だった。
「営業部の中川という者ですが、お宅、警視庁の方?池袋南署の方?」
「警視庁の真壁です」
「さっきから再三電話で詳しい事情をお聞きしてるんですが、一向に要を得ませんで。一体うちの社員が死んだというのは、事故なんですか、それとも・・・」
「それはこれから調べます」
「しかし、うちも困ってるんですが。総務の方は対処のしようもないし、上の重役連中も外出や会議を延ばして、詳しい連絡を待ってるんですよ」
受話器に響く遠い声を聞きながら、真壁は相手の顔や体型を想像して気を紛らせた。腹だけ出た貧相な体躯で、毛は薄く、顔は逆三角。目はキツネとみた。
「事情はお察ししますが、こちらはやるべきことはやっています。ところで2、3つほどご協力願います。亡くなられた諸井さんは、月に何回、東京へ出張してましたか?」
「平均で2回。多いときは毎週。少ないときは月1回。いろいろでして」
「常宿はありましたか?」
「さあ、それは知りません。うちは交通費、宿泊費、食費込みの出張費を支給してますんで、個別の領収書で精算はしてません」
「接待費の領収書はいかがです?」
「諸井は接待してません。それより・・・」
「出張はいつもお1人だったのですか?」
「1人とか2人とか、場合によります。今回は1人でした。それより、あの・・・」
「諸井さんと一緒に出張に行ったことのある人は、今そこにいますか。話を伺いたいのですが」
「この電話、部長室にかかってますので、何名か探してあらためて連絡します。それより諸井は、明け方前に池袋駅の近くの路上で発見されたということですが・・・」
「そうです」
「何時ごろ、亡くなったんですか?」
「解剖してみなければ分かりません」
「しかし、諸井は午後6時ごろには仕事が終わっていたはずだし、取引先はどこも池袋とは方向が違うし、明け方にそんなところにいたというのは、ちょっと・・・」
「捜査はこれからです。まだ何とも言えません。すぐに、諸井さんと一緒に出張したことのある人全員を集めて下さい。15分後に、もう一度お電話します。よろしく」
真壁は受話器を置き、時計を仰ぐ。午前10時5分。
パイプ椅子と机が並んでいるだけの池袋南署の会議室はすでにがらんとしていた。黒板前の幹部席で、電話番の開渡係長がひとり、被害者の遺留品を調べている。白手袋をはめた手で、週刊誌をぱらぱらとめくると、真壁に声をかける。
「読み終わった週刊誌をカバンに入れとくか?」
「いや・・・捨てます」
「俺も捨てる」
「もう一度、読みたい記事があったんじゃないですか」
「あるいは、広告だな」
会議室に残っているのは、真壁と津田の他に、所轄の強行犯係2人。津田は強行犯係と一緒に、タウンページを繰りつつ、受話器片手に都内中のホテルや旅館に電話をかけているところだ。諸井が予約を入れていた宿泊先を探している。
カンの2組目の杉田と所轄の組は、諸井が前日に回った取引先3社を回っている。
10時45分を回った頃、署の受付から、諸井の妻と父親が到着したと連絡があり、真壁は重い腰を上げた。遺族の顔を見るのはいつでも憂鬱だが、聞かなければならない話がたくさんある。
諸井の妻は40ぐらいの色白の女で、目鼻立ちや口許は気の強そうな印象だった。くせ気のない髪を、肩へ下ろしている。身なりは普通だが、平凡な家庭生活でいつの間にか失せてしまっているはずの色香が、どこかに残っている。
妻の絵里は現れたときから顔をひきつらせていたが、年中冷房の効いた地下の安置室で、遺体を見るやいなや「いや!」と叫んで後ろを向き、しゃがみこんでしまった。恐怖か何かで眼を見開き、肩で息をしている。
絵里の代わりに、被害者の父親がこわごわ遺体の顔を覗き、すぐに目を逸らせた後、「邦雄です」と呟いた。
父親の剛は齢70過ぎで、いかにも鈍そうだった。少し呆けているのか、そわそわと揉み手をしながら、座り込んだ嫁をいたわるでもなく、息子の変わりはてた姿に悲嘆するでもなく、ひたすら居心地悪そうにつっ立っているだけだ。
「どうも、ご苦労さまでした。外へどうぞ」
「あの・・・遺体の引き取りは、会社の方が手配をしてくれるはずなんですが」と父親。
「これから、東都大の方で司法解剖しますので、それからです」
真壁は2人をせき立てて安置室を出た。
10
会議室の椅子に座ると、絵里はぶるぶる震えて強張っていた。すすり泣いていたと思うと、今度は目が据わり、「信じられません、信じられません」と繰り返した。その傍で、老父の方は肩を落としてぼんやりしている。
離れた別の机で、真新しいスーツに着替えた津田が備品のノートPCを広げ、キーボートに手を置き、黙々と待っていた。
真壁は形式通りに結婚歴、家族構成、被害者の日常生活などについて尋ねたが、なかなか答えが返ってこない。
遺族の感情にゆっくり付き合っている時間はないのだが、真壁は辛抱強く待った。
机には、遺留品が番号のついたビニール袋に収められて、並んでいる。シェーバーやハンカチ、財布、ネクタイ、時計、携帯電話、ワイシャツ、コンドームなどだ。カバンは、傷や付着物の検査のために本庁の鑑識の方へ行ってしまっていた。
「中学生になる息子と娘がおりまして」老父がそんな話を呟く。
「はあ」真壁は相槌を打つ。
「子どもたちにはまだ言ってません。試験なんですよ、今・・・」
「はあ」
「邦雄は真面目しか取柄のない子でした。わたし譲りのところがあって・・・真面目に今日までやってきたんですよ。不器用なんで、出世は遅い方でしたが、愚痴も言わず黙々と働いて、わたしの面倒まで見てくれてたんですよ。今どき、いい息子でした・・・」
父親の眼には、コンドームは入らなかったのだろう。ともかく、いい息子だったかもしれないが、絵里にとっていい亭主だったかどうかは分からない。その絵里は肯定も否定もせず、「信じられません」と呟くだけだ。その語調が、少しずつ虚ろになってきている。
「あのう・・・」父親は言いにくそうに真壁の顔を窺った。「邦雄は殺されたということでしょうか?」
「それはまだ分かりません。殴られるか蹴られるかしたのは確かですが」
「しかし、あの子がそんな・・・」
「東京では、いろいろと物騒なことも起こりますので」
「お金持ちでもないし、人さまに恨まれるような子でもないし、なんで殺されたのでしょう・・・」
「はあ・・・全力で捜査はします。奥さんの方にお聞きしたいのですが、旦那さんが、おとついお出かけになるときの様子に、何か変わった点はありませんでしたか?」
絵里は首だけ横に振った。
「クリーニングされたワイシャツとか、ネクタイは奥さんが用意なさったんですか?」
「いや、あれはいつも自分でなんでもやってしまう子でした」老父が代わりに応える。「なにせ、嫁は勤めてますし、子ども2人は何かと手のかかる時期なもんで、邦雄は皿洗いも自分でするような、優しい子でした・・・」
息子に老後の面倒を見てもらっている男の心境はこんなものなのか。真壁には分からなかった。孤児院で育った真壁は、本当の両親を知らない。自分を引き取ってくれた里親は新潟でしがない外勤警察官をしていた父が50代半ばで早世し、母もすでに亡いから、真壁には面倒を見る親はいない。
さらに遺留品について尋ねると、携帯電話は現場に残されていた1台のみで、時計は半年ほど前、諸井自身が夏のボーナスで買った中古品ということだった。
「奥さん、立ち入ったことをお聞きして申し訳ないです。ご主人は東京出張を始めてもう10年以上ですが、東京に特定の女性がいるような感じを持たれたことはありますか」
絵里はギクリとしたように目を見開き、老父と真壁を見やり、口許をひきつらせた。
「邦雄に限ってそんな・・・」老父が言った。
「すみません。奥さんにお聞きしてます」
「知りません」絵里は低く呟いた。
「出張から帰って来られたときに、出かける前と比べて変化はありませんでしたか」
「いいえ」
「女性からの手紙、電話などは」
絵里は強く首を横に振り、「いいえ」と呟く。
「ご主人の机の引き出し、個人的な収納場所はありますか」
「いいえ。主人は、家と会社の往復だけの人生でした。お酒も少ししか飲めなかったし、タバコもゴルフもパチンコも麻雀もしませんでした」
「ご自宅の方で、週刊誌をお読みになることはありましたか」
絵里と老父は揃って首を横に振った。
津田がノートPCでタイプした供述調書を、真壁が淡々と読み上げて聞かせ、絵里が署名捺印し、聴取は1時間足らずで終わった。
11
幹部席の開渡係長が机を叩いて叫んだ。
「静かに!始めるぞ!」
夜の捜査会議は、朝いた幹部の姿がもうないので、たいてい雑然としている。質問と同じ数の罵声や野次が飛び、幹部席で所轄の署長と刑事課長がきょとんとした表情を浮かべている。《幽霊係》との異名を持つ十係だが、その名にそぐわない騒々しさが身上だ。
真壁の後ろの席に座っていた津田が、ハンカチで鼻をおさえてクシャミを連発している。二十数名のむさ苦しい男たちが放つタバコの煙とポマード、十係の磯野がつけているきついオーデコロンに鼻の粘膜を容赦なく刺激されるからであろう。
その夜はまず、東都大学の法医学教室から届いた死体の検案書で、捜査陣の一同がざわめいた。直接の死因は、凍死という判定だった。
死亡推定時刻は硬直の度合いと死斑の広がり方から、だいたい前夜午後10時から翌朝午前2時ぐらいの間。解剖時の血中アルコール濃度が平均で2・9%という《深酔状態》で、寒空で濡れた衣服で横たわっていたために、体温の下降から昏睡に陥り、死亡となったということだ。
外傷の方は、いずれも死因となるほどのものではないが、強打されたことで一時的に意識を失っていた可能性はある。打撲痕は顔の全面に広がり、頭部では右側頭部のみ。頭頂部に蹴られた際に出来たと思われる擦過傷。後頭部にも創傷があるが、これは地面に倒れた時に出来たものと思われる。
顔面の創傷は挫滅が著しいことから、人間の拳ではなく先端の尖った物体で殴られたことによる。頭頂部の擦過傷には微量の土と靴墨が混じっており、土のついた靴先で蹴られたものと見られる。ほかに爪でひっかかれたらしい創傷の内部から、マニキュアとみられる赤い塗膜片が採取され、これは鑑識で分析可能。
「よりにもよって、凍死かよ・・・」何かとうるさい馬場も、しばし声を失う。
被害者を殴った者は間違いなく傷害罪を問えるが、被害者の死因が凍死となれば、傷害致死罪の適応は微妙な線だ。
続いて、鑑識の主任が「有効な靴痕跡、指紋、いずれも採れませんでした」と言った。「血痕はすべて被害者のものです」
真壁が挙手する。「割箸は?」
「異物、食物の付着は検出できなかった」
「ソースとか醤油もなかったんですか?」
「たぶん、使ってない新品ですな」
新品の割箸一膳を割っておいて、片方だけ落とす奴がいるとは思えなかったが、真壁はとりあえず引き下がった。
1日じゅう池袋界隈を歩き回っていた地どり各区からは、収穫が挙がっていた。一番の成果は、所轄署の刑事と警らの巡査のコンビが挙げた。
西池袋1丁目にあるスナック《陽炎》という店で、被害者が午前1時の閉店まで飲んでいた証言が取れたらしい。
「入店は午後8時過ぎ。一見で、被害者は終始ひとり。水割り5杯飲み、ホステスとは喋らず、店の新聞を広げたり、ぼんやりしたり、他人のカラオケを聞いたりしていたとのことです。ホステスが店じまいだから勘定してくれと言うと、被害者は愛想よく支払い、そのまま店を出た。それが午前1時ちょっと前。足取りはかなりふらふらしていた、という話です」
「午後8時前までの被害者の行動について、カンから補足は?」開渡が言った。
「こちらの調べでは」杉田が言った。「被害者が3番目の神田の取引先で商談を終えたのが、午後6時。次、真壁!」
真壁が「津田が報告します」とだけ応えると、津田が慌てたように立ち上がった。
「被害者は品川のホテルに予約を入れており、チェックインのためにホテルに入ったのは午後6時30分ごろです。しかし、被害者は荷物がないからと言って部屋には上がらず、鍵だけ受け取ってそのまま外出しています」
ホテルを出た午後6時40分から、スナックに入るまで約1時間半。真壁は考えを巡らせてみる。
おそらく電車で移動したと思われるが、ホテルから駅まで徒歩で約5分。品川から池袋までの所要時間は約25分。池袋駅からスナックまで徒歩で5分。それらを引いて残り約1時間弱は、どこかで食事でもしたのだろうか。男ひとりの食事に1時間は長過ぎる。
池袋のスナックに入る前に、どこか別の店で飲んでいたか、誰かと会っていたか、何か個人的な用事があったか。
12
「女だよ、女」というダミ声は馬場だ。「最後の仕事場が神田。宿泊先が品川。なんで池袋まで来るんだよ。女だ、女」
「特定の相手がいるような面か、あのガイシャ」磯野が呟く。
「女遊びに所持金4万少々ってのは微妙ですな」所轄から声が出た。
「真壁。ガイシャの遺留品については?」杉田が言った。
「携帯電話は現場に残された1台のみ。クリーニングされた衣類などは、自分で用意してたようです。他に異常な点はなし」
「カバンに入れていた週刊誌は?」開渡が手を挙げる。
「奥さんの話では、諸井は普段、週刊誌をあまり読まなかったそうです」
「コンドームは?ガイシャは東京に女を持ってなかったのか?」
「奥さんは『主人は、家と会社の往復だけの人生でした』と応えてます」
「あの・・・」津田がおずおすと声を出す。「被害者がカバンに入れていた週刊誌に、その手の広告が20件ほど載ってます。その辺から当たる価値はあると思われます」
高瀬が「寂しいあなたに人妻がウッフン」と囁いて、周囲が罵声とひそひそ笑いになり、隣に座る真壁が高瀬の足を蹴飛ばした。
「週刊誌の広告欄は当たる価値がある」杉田が裁断を下した。「報告者の相方は誰だ?真壁か?お前が責任をもって当たれ。いいな?」
「若いの、頑張れ」と磯野が冷やかし、「静かに!」と開渡が机を叩いて遮り、「こら、大事な話だぞ!さっき、ガイシャがスナックに寄ったと報告した者は!」と怒鳴った。
「私です」と所轄の刑事が答えた。
「被害者はスナックを出るとき、相当ふらふらしていたということだが、時間が分からないほど酔っていたかどうか、もう一度スナックで確認してほしい」
「時間ですか・・・被害者は店にいる間、ときどき時計を見ていたということですが、ホステスが店じまいだからと告げたときも、腕時計を見て『もう閉店なのか』と言ったそうですから、時間が分からないほど酔っていたとは思いません」
「分かった。聞いてくれ。被害者は、地方から出張で出てきたサラリーマンだ。出張のときぐらい酒でも飲みたい気分だったのだろう。しかし、なぜ品川で飲まなかったのか。なぜ電車に乗って池袋まで来たのか。これが疑問の第一点だ。現に、スナック《陽炎》も一見客だった。
次に、被害者はなぜ午前1時まで飲んでいたか。午前1時を過ぎたら、終電がなくなることは分かっている。普通なら時間を気にして早めに切り上げるだろう。しかし被害者は、たびたび時計を見ていて、『もう閉店なのか』と言った。つまり、被害者は午前1時という時刻を承知していたということだ。これが疑問の第二点。
次に、被害者はどうしたか。もう電車はないから、タクシーを拾ってホテルへ帰ろうとしたのか。違う。池袋のスナックからタクシーを拾いたければ、歩いて駅前に出ればすむ。それを、なぜ交差点を渡って劇場の傍まで行ったのか。これが疑問の第三点。ここまでで何か、あるか?」
開渡にしては長い演説がすむと、黙ったまま肩で笑ったのは吉村だった。長い間、付き合っている者同士、いろいろな意味が含まれた笑いだった。
開渡の話を聞きながら、3つの疑問点の理由はやはり週刊誌にあると、真壁は思った。想像だが、ホテルでチェックインを済ませた後、諸井はホテルの電話か、自分の携帯、もしくは公衆電話から広告に載っている電話番号のいくつかに電話をした。約束を取り付けたが、あるいは取り付けたつもりでからかわれたのかも知れないが、それは分からない。しかし、相手の女が会う場所を池袋に指定し、時刻を指定した可能性がある。電話で話しただけかも知れないが、とにかく女はいる。赤いマニキュアを塗った長い爪をした女かもしれない。
「質問がなければ、以上の点に留意して、明日も頑張って下さい」と、刑事課長の一言で会議は終わった。
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「週刊誌の広告は、俺が代わってやるよ」真壁の肩を叩いたのは高瀬だった。「そういうのは、俺の仕事だ。お前は外回りしろ」
高瀬は真壁と同じ独身だが、結婚に失敗したわけではない。女が1人だけでは満足できない体質で、そのおかげで踏んだ修羅場の数は両手両足の指の数よりも多いはずだった。
高瀬に続いて、「俺も代わってやろう」と磯野が言い出した。「若いのに任せておいたら、女と口をきく前に、モメるのがオチだからな」
好意なのかどうか判断しかねる申し出に、真壁はしばし眉をひそめていたが、向き不向きを考えれば、捜査一課きっての女好きが2人も揃えば鬼に金棒といったところだ。
その傍らで、「じゃあ、お先に」と、渡辺はさっさと踵を返した。にやけるまいとして引き締めた口許が破れかけ、後ろ姿が踊っていた。「まぁあいつは仕方ない」と、皆は顔を見合わせた。大事なデートの相手は、資産家の令嬢だ。婚約の成否がかかっている。
一方、会議室からするりと出ていった馬場の背中は、ある種の傲慢さがにじみ出ていた。中年の厚顔無恥を打つ手なし。昼は府中、夜は大井がお決まりの競馬好きは、家庭の危機を迎えつつある。
それやこれやで、真壁は会議室を出ようとする津田に「今夜、何か用はあるのか?」と声をかけた。
「いえ。特に、何も・・・」
「なら、付き合え」と津田の肩をぽんと叩き、2人で夜の池袋に出た。
駅前に向かいながら、真壁は「週刊誌の件、よくやった」と言った後で、「こっからは特命捜査になる」とことわった。
事件が発生した時刻に、どういう人種、どういう個人が、どういう風体で、何をしながら、現場周辺に出没するか。
それをこれから何日もかけて見張っていかなければならないことを説明すると、津田は分かったような分かっていないような鈍い表情で首を縦に振った。
その日の夜はまだ深夜まで時間があった。思えば朝からパンを食っただけだったので、真壁と津田は空いている中華屋に入り、腹ごしらえをした。
その後、24時間営業のファーストフード店でコーヒーを飲みながら、2人は1時間ほど仮眠を取った。そうして午後11時まで時間を潰した後、駅前の路上へ出た。雪はもう降ってないが、夜気に刺があった。この日は、2時まで監視を行った。
真壁と津田はそれから毎夜、池袋のネオン街へ繰り出した。男2人で肩をゆすって徘徊し、深夜からは駅前に場所を移してまたぶらぶらする。
身なりは毎日変える。ジャンパー、アノラック、ヤッケ、ジーパンやチノパン。頭髪はどうしようもないので、スキー帽を被ってみたり、野球帽を被ってみたりする。それでも男2人がそうして歩くとかなり目立つ。特に目線だけは、ごまかしようがなかった。
池袋界隈というのは、ある種の緊張を強いられる場所だった。街に入る人が多ければ、去る人も多く、街にいる人間の顔ぶれが一定しない。被害者もその1人だった。人も物も、今日見たものが明日にはない。
被害者が横たわっていた現場には、池袋南署が出した大きな看板が立っていた。
『12月17日深夜から18日未明にかけて、ここで中年の男の人が何者かに殴られて死亡しました。当夜、事件を見かけた人はいませんか?』
真壁と津田は、毎日その看板を横目で見ているが、目撃者が現れる可能性は日に日に薄らいでいた。
5日間、駅前に立った限りでは、終電時の時刻が過ぎると、人の流れに全くパターンがなくなることが分かった。人がいるときはいるし、いないときは全くいない。通る人間も、毎晩顔ぶれが違い、時刻が違う。事件があった夜は雪が降っていたし、たまたま近くに通行人もいなかったのかも知れない。仮に目撃者がいても、不法滞在の外人なら、届けてくることはまずない。
もっともそんな夜に、被害者がひとり現場にいたというなら、何かしら理由があったはずだった。その理由を探して、磯野と高瀬は池袋界隈に事務所のあるテレホンクラブ、ダイヤルQ2、デートクラブ、ラブホテルを調べ続けている。
被害者の仕事・知人・家族関係などのカン捜査は2日で切上げ、3日目から杉田の組も女探しに加わっている。馬場、渡辺その他は依然、地どりだ。例のスナック《陽炎》のほかに、被害者が立ち寄った店は見つかっていない。