〇ルジェフ=ヴィアジマ作戦
西部正面軍とカリーニン正面軍は1月8日から10日にかけて、目標の2つの都市にちなんで名づけられた冬季総反攻の第2段階―「ルジェフ=ヴィアジマ作戦」を開始した。この攻勢にかけるスターリンの期待は並々ならぬもので、同月11日にカリーニン正面軍司令官コーネフ大将に対し、次のような指令を送った。
「いかなることがあろうと、1月12日までにルジェフ市を奪回せよ。最高司令部は、この目的のために当地区にある砲兵隊、迫撃砲隊、航空隊を用い、市街地の被害に臆することなく、ルジェフ市を全力で壊滅させることを勧告する」
ドイツ中央軍集団に降りかかった脅威は容易ならぬもので、カルーガからヴェリョフに至る陣地に約30キロもの間隙が開いてしまった。反攻開始から数日後、第1親衛騎兵集団はこの間隙に対して突撃を敢行し、第4軍と第2装甲軍の背後からヴィアジマに迫ろうとした。
この戦況に対し、陸軍総司令官を兼務するヒトラーは前年12月18日付けの「総統指令第39号」で言及した「陸軍総司令官の指示する防御に適した前線」を次のように定義する命令に署名し、1月15日に中央軍集団の各軍司令官に下達した。
「私は中央軍集団司令官に対し、第4軍、第4装甲軍、第3装甲軍をルジェフからグジャツク東方を経てユフノフに至る街道沿いの線まで退却させることを許可する。これらの都市間では、相互の連絡線が維持されなくてはならない。そして、敵の攻勢作戦は前述の線で迎え撃ち、停止させなくてはならない」
クルーゲが中央軍集団司令官に転任して以来、空席だった第四軍司令官には前年の12月26日、第49山岳軍団長キュブラー大将が着任していた。ソ連軍に背後を衝かれる事態に置かれたキュブラーはただちにヒトラーのこの命令に従い、北翼のヴォロコラムスクから南翼のカルーガまで展開していた前線部隊に、ヒトラーの指示する線まで退却するよう命じた。
ヒトラーはまた、スターリンが前年の11月に下した「指令第428号」、すなわち「焦土作戦」に類似した内容の命令を、退却するドイツ軍の前線部隊に向けて発した。
「対峙する敵から離脱する時は、以下の手順で行うこと。
離脱作戦は、あらかじめ後退線を用意した上で最小限の行動で行う。装備の損失は最小限に留めるが、携行できない火砲や機関銃、車両、弾薬は無傷で敵の手に落ちることのないよう、完全に破壊せよ。ただし、負傷兵を敵陣に残して離脱することは、部隊全体の汚点となることに留意すべし。すべての交通手段(鉄道、関連建造物など)は、徹底的に破壊せよ。そして、すべての村々を焼き払い、暖炉もすべて破壊せよ」
一方、モスクワの「最高司令部」は北西部正面軍(クロチュキン中将)の第3打撃軍(プルカイエフ中将)と第4打撃軍(エレメンコ大将)に対し、1月7日から「トロペッツ=ホルム作戦」を開始し、オスタシュコフ近郊の森からスモレンスクに向かって進撃するよう命じた。
1月20日、第4打撃軍の第16親衛狙撃師団(タラソフ少将)がトロペッツの占領に成功すると、ヴェリキエ・ルーキとルジェフの間に125キロもの間隙が出現し、前年の12月6日以来の最悪の事態が中央軍集団に訪れた。
中央軍集団司令部はフランスから第59軍団(シュヴァレリエ中将)を呼び寄せ、ヴィデブスクの前面でスモレンスクに迫るソ連軍を食い止めるよう命じた。
主力はまだフランスから送られる段階にあり、どの部隊も満足な状態ではなかったが、第59軍団の3個歩兵師団(第83・第330・第205)は第9軍と第16軍の間隙をどうにか埋めることに成功し、思いがけぬ大きな損害を被った第4打撃軍はついに攻撃を中止せざるを得なくなった。
その西翼に展開する第3打撃軍も同じ末路をたどった。急きょ編成されたシェーラー戦隊が防衛するホルムが中央軍集団の北の「防波堤」となり、第3打撃軍はスモレンスク=モスクワ街道沿いのヤルツェヴォとヴェリキエ・ルーキを占領することに失敗した。
この苛々させるような経過を受けて、スターリンは緒戦から生き残っていた5個空挺軍団(実質的には、第4空挺軍団・第5空挺軍団とその他の再編された軍団の一部)を、実戦に投入させる決断を下した。
〇雪中の落下傘
ソ連軍がドイツとの戦争で空挺部隊を投入したのは、この時が初めてではなかった。
前年の12月14日にカリーニン正面軍の戦区に位置するテリャエヴァ・スロボダに1個大隊、1月3日には西部正面軍戦区のモジャイスク南方のメドィンの西に2個大隊の空挺部隊をそれぞれ降下させ、現地のパルチザンとともに道路や鉄道の遮断など妨害任務を行わせたが、いずれの場合も効果はきわめて小さかった。
「ルジェフ=ヴィアジマ作戦」では、特に地形が重要な意味を持った。この一帯にはわずか2本の舗装道路しかなく、1本はスモレンスクからヴィアジマを通ってモスクワまで走り、もう1本は南西に対角線上にモスクワからマロヤロスラヴェツを経由して、ユホノフへと走っていた。この幹線道路上を進撃した第33軍は、隣接する諸軍に比べて先走りしがちだった。
そのため、最初の空挺降下は数個連隊の兵力によって行われ、第33軍と第1親衛騎兵軍団の前進を助けることが任務とされた。
1月18日、ヴィアジマ南方約40キロに位置するジェラニエの周辺で、ソ連軍の空挺部隊がパラシュートによる降下作戦を実施した。第250狙撃連隊と第201空挺旅団の2個大隊(第1・第2)が、ウグラ河湾曲部の湿地帯に降下したのである。
この空挺作戦に合わせるように、第1親衛騎兵軍団と第33軍の3個狙撃師団(第113・第338・第160)が1月27日から2月1日にかけて、ドイツ第4軍の前線を突破してヴィアジマの南へと進撃すると、ジェラニエに降下した空挺部隊はパルチザンとともにこの突破兵力と合流して、機動集団を形成することに成功した。
このように1月末までに、ソ連軍は各地で突破を成し遂げたが、ドイツ中央軍集団の主力を完全には撃滅することはできなかった。しかしスターリンは、これらの突破をはずみにして、より大規模な空挺作戦を計画した。すなわち、1万人からなる第4空挺軍団(グラズノフ少将)を夜間にヴィアジマの西方に降下させようというのである。
だが、ソ連軍の兵站の脆弱さが最初からこの作戦に災いした。輸送機の不足のため、軍団の下降には何日も要することになり、これではどんな奇襲も望めなかった。精鋭の落下傘兵のうち、冬季用の白い迷彩服を支給された者はきわめてわずかで、しかも部隊がカルーガ飛行場付近に現れたことで、ただちに空挺作戦が行われることを示してしまった。
第4空挺軍団の第8空挺旅団(オヌフリエフ中佐)が1月27日から2月1日にかけて、ヴィアジマの南西に散り散りになって降下した。降下の大部分は悪天候とお粗末な航法が原因で、装備や補給品、通信機の多くを雪原で失ってしまった。結局、旅団に所属する2100人のうち、旅団長のもとに集合できたのは1300人だけだった。その結果はせいぜいドイツ軍に脅威ではなく動揺を与えた程度で、第4空挺軍団の2個旅団は降下する前に作戦を中止された。
一方、苛酷な戦況下でドイツ第4軍司令官キュブラー大将は心身をすり減らし、第43軍団長ハインリキ大将がその後任を引き継ぎ、階級も上級大将に昇格した。1月20日に第四軍司令官に着任したハインリキは、即座に積極的な反撃を計画し、ソ連軍が突破した戦線を塞ぐことで彼らの後方連絡線を断ち切る方策に出た。
このハインリキの素早い対応により、第1親衛騎兵軍団と第8空挺旅団の攻撃は何度も撃退され、各部隊は次第に攻撃を維持する能力を失っていった。ヴィアジマを奪取する攻勢がすべて失敗に終わることを危惧したスターリンは2月中旬、再び第4空挺軍団を降下させて手詰まりになった戦況の打開を試みた。
2月17日から18日にかけての夜、第4空挺軍団は一連の降下を開始したが、またもや輸送機の不足と戦闘機による援護の欠如によって妨害された。この週に降下した7400人の落下傘兵のうち、7割以上が集合地点まで集結できず、軍団長をはじめ多くの幕僚がドイツ軍の戦闘機によって撃墜されて戦死した。生き残った部隊は第50軍を援護するため、ユホノフ街道沿いの高地を制圧しようしたが、この攻勢は何度も失敗に終わった。
この時期になってようやく、ジューコフら指揮官たちの不安が的中する。彼らの軍隊は中央軍集団に対して両翼から包囲する作戦を実行するには、まだ必要な戦力も技量も不足していた。このことが顕著に表れたのが、ルジェフでの攻防戦だった。
〇第1次ルジェフ攻防戦
西部正面軍の北翼では、カリーニン正面軍の2個軍(第29・第39)がシチョフカを占領して北へ転じ、ドイツ第九軍を包囲しようと、同軍の重要な補給路であるルジェフ=ヴィアジマ間の鉄道を切断しようとしていた。
1月8日、第9軍司令官シュトラウス上級大将は、北翼から突破してきた第39軍(マスレンニコフ中将)と第11騎兵軍団(ソコロフ大佐)に対して反撃を命じたが、オレニノで退路を断たれた第23軍団は包囲され、第6軍団はルジェフの西と南西に新たな防衛線を構築することに成功したが、予断は許さない状況に置かれていた。
1月14日、度重なる激戦で第9軍司令官シュトラウス上級大将は健康を損ない、陸軍総司令部から司令官の辞任を認められた。後任には翌15日、第41装甲軍団長モーデル大将が就任することになった。
指揮所に入ってきたモーデルは挨拶し、部屋の暖気でくもったモノクルを磨き、作戦地図に歩み寄った。
「かなり悪いな」乾いた声で言うと、最新の書き込みをさっと点検した。
「ただいま、最低限必要なところをご説明申し上げたところであります」
作戦主任参謀ブラウロック中佐が報告を始めた。
「第9軍としましては、まずシチョフカ周辺の状況を安定させ、ルジェフからシチョフカまでの鉄道を確保することが急務であります。第1装甲師団によってシチョフカの安定がなされれば、SS自動車化歩兵師団『帝国』の先遣部隊が到着いたします」
モーデルはうなづき、「そうしたら、まずこの穴をふさぐことだ」と、ルジェフからソロミノの間に空いた敵の突破口を示す太い矢印を手でさすった。
「突破した敵の補給線を切断せねばな。しかもここで」と、シチョフカを示した。「われわれは敵の側面を衝き、締め上げるのだ」
ブラウロックはモーデルの楽観に愕然とし、その驚きを慎重に質問に表した。
「閣下はこの作戦のために何か持ってきていただけたでしょうか?」
モーデルは取り巻く参謀たちを悠然と眺め、「私だよ」と笑った。
第9軍の新司令官に就任したモーデルは指揮装甲車から飛び降り、馬で深い雪をかきわけながら最前線を視察して回り、攻撃に出ることが自軍を安定させ、士気を向上させることを感じ取った。
1月22日、モーデルは第6軍団を増強した高射砲部隊で支援させ、ルジェフの西からソロミノへ向かうよう命じた。同時に、ソロミノの西から第23軍団が包囲を突破し、第6軍団と合流すべく東進を開始した。
第8航空軍団(リヒトホーフェン大将)の支援を受けながら、第9軍の2個軍団は死力を振り絞ってスモレンスク=モスクワ街道にまで到達したソ連第11騎兵軍団の背後で突破口を塞ぐことに成功し、翌23日、第23軍団は第6軍団と合流を果たした。
1月28日、モーデルは2個軍団(第6・第23)に対し封鎖線を強化するよう命じるとともに、ルジェフの南で第46装甲軍団(フィーティングホフ大将)を集結させ、突破してきたソ連軍を攻撃させた。
日ごとに変化する酷寒の中、死闘が続いた。深い雪埋もれた森では、木こり小屋が要塞となり、村落の焼け跡が戦闘の激しさを物語っていた。
2月4日、第23軍団の第1SS騎兵連隊(フェーゲライン中佐)はついに第46装甲軍団の第1装甲師団(クリューゲル少将)とルジェフの西で合流を果たし、ソ連軍は第39軍と第29軍(シュヴェツォフ少将)が包囲されてしまった。包囲戦は同月17日まで続き、カリーニン正面軍の2個軍は殲滅されてしまった。
中央部でも、ソ連軍の攻勢は硬直化し、戦局が次第に不利になっていた。
1月18日、ソ連第5軍(ゴーヴォロフ中将)はモジャイスクとメドィンの奪回に成功したが、その直後から戦力が弱まり、天候の悪化も伴ってグジャツクへの進撃は遅々として進まなかった。中央軍集団の背後まで進撃できたのは、第33軍(エフレモフ少将)だけでヴィアジマ郊外にまで達したが、ドイツ第4軍の反撃によって師団の半数が分断されてしまった。
思うように進まない戦況に苛立ったスターリンは2月1日に「西部戦域軍司令部」を復活させ、西部正面軍司令官ジューコフ上級大将に司令官を兼任させるとともに、カリーニン正面軍をこの管轄下に入れて、統一的な攻撃でドイツ中央軍集団を壊滅させようと考えた。しかし、前線の各方面では弾薬の枯渇が深刻化しており、砲兵はほとんど火砲を撃てない状態に陥っていた。
〇終止符
2月14日、西部戦域軍司令官ジューコフ上級大将は、次のような報告をスターリンに行った。
「弾薬の不足が原因で、攻撃する赤軍兵士の損害が急激に増加しています」
これに対し、スターリンは攻撃の停止を許可せず、冬季反攻作戦の継続を各司令官に伝えた。だが、もともとソ連軍の冬季反攻作戦は「戦力の集中」という原則を反する形で実行されていたため、1942年1月から2月に差しかかる頃には完全に「息切れ状態」に陥り、いずれの戦域においても打撃力を喪失していった。
西部正面軍の北翼では、北西部正面軍の3個軍(第3打撃軍・第11軍・第34軍)が1月7日からヴァルダイ高地に布陣するドイツ北方軍集団麾下の第16軍(ブッシュ上級大将)の陣地を蹂躙し、同軍に所属する第2軍団(ブロックドルフ=アーレフェルト大将)をデミヤンスクの狭い範囲に包囲した。
1月12日、北方軍集団司令官レープ元帥はデミヤンスクで包囲された第2軍団の撤退許可をヒトラーに求め、これを拒絶されると翌13日に辞表を提出し、同月18日付けで受理された。北西正面軍は包囲内のドイツ軍を殲滅する必要に迫られたが、悪天候と困難な地形のために攻勢は徐々に停滞し、戦線は固定化されてしまった。
モスクワの「最高司令部」は春先になれば南方でもさらに戦果が上がることを見越して、2つの作戦に取り掛かった。
西部正面軍の南翼では、オリョールの東方に位置するボルホフを防衛しているドイツ第2軍に対して、ブリャンスク正面軍が何か月に渡って攻撃し続けていたが、北のスヒニチから第2装甲軍の第24装甲軍団(エルレンカンプ中将)による反撃が開始されると、背後を脅かされたソ連軍は攻勢を中止せざるを得なくなった。
1月18日、南西部正面軍(コステンコ中将)と南部正面軍(マリノフスキー中将)が協同して、ドイツ南方軍集団の第6軍(パウルス大将)と第17軍(ホト上級大将)の境界面を激しく攻撃した。
この作戦は、ハリコフの南でドネツ河からドニエプル河に展開することが狙いで、2個正面軍に所属する5個軍(第6軍・第9軍・第37軍・第38軍・第57軍)と3個騎兵軍団(第1・第5・第6)による奇襲攻撃により、同月27日には攻撃発起点から80キロ西のロゾヴァヤまで前進した。
南方軍集団司令官ライへナウ元帥が1月18日に心臓発作で急死するという事態に見舞われたドイツ軍だったが、後任に約1か月の休養でいくらか体力を回復した前中央軍集団司令官ボック元帥が着任すると同月31日までに装甲部隊を再編し、バルヴェンコヴォでドネツ河に強固な防衛線を構築した。
800キロに渡って戦線が燃え上がり、冬季戦は4月20日まで続いた。やがて戦闘は個々の部隊による機動戦と、単なる消耗戦となって沈静化した。
ソ連は開戦からの6か月間で、当初の動員兵力313万7673人の3分の2が戦死または捕虜となるという壊滅的な敗北を被った。数字の上では途方もなく巨大な赤軍も、訓練と管理の点では不備が多かったためである。上級および中級指揮官たちの多くは臆病であり、または単に無能であり、国防の観点からするとそれは致命的な欠陥だった。
ドイツ軍にとっては、1941年6月から7月の成功とその規模そのものが、まさしく進撃の妨げとなった。装甲部隊は容易にソ連の最深部まで到達し、そのことがドイツ軍の上層部に抑えの利かない楽観論を持たせ、自慢の装甲部隊を兵站線の伸びきるところまで駆り立て、消耗させてしまう。
ドイツ軍の磨き上げられた「電撃戦」という「剣」は、ソ連軍の「巨大な鈍い棍棒」が繰り返す、不器用で単純な打撃によって次第に鈍磨していった。この「棍棒」は次々と編成される新軍の「波」という形をとり、そのつど侵入者に損害を与え、次の「波」が押し寄せてくる。ソ連の動員能力が、ドイツ軍の進撃に「終止符」を打ったのである。
スターリンは戦況に対してまったく動ずることなく楽観的で、1942年4月にハリコフで再び攻勢を開始させるまで、勝利は我が手中にありと確信していた。スターリンがモスクワ攻防戦から誤った結論を引き出していたとすれば、ヒトラーもまた誤った結論に達していた。
ヒトラーの狂信的とも言える「死守命令」は、後に第4軍参謀長ブルーメントリット少将が「当時のモスクワ前面の状況下では間違いなく正しい決断だった」と賞したが、ドイツ軍が持ちこたえたのはそのためではなく、ドイツ軍の将兵がソ連軍の能力以上のことを成し遂げたためであった。
このような双方の誤解が1年後、ヴォルガ河畔の工業都市スターリングラードを巡る一連の攻防戦で、それぞれ跳ね返ってくるのである。