〇第3次ロストフ攻防戦
スターリングラードの西方では、南西部正面軍と南部正面軍(1月1日、スターリングラード正面軍から改称)がそれぞれ第1親衛軍・第3親衛軍、第2親衛軍・第51軍を先頭に、ドン軍集団をロストフへ圧迫していった。目標はドン軍集団の壊滅と、カフカス地方から撤退中のA軍集団(クライスト元帥)を分断することであった。
第6軍の両翼で同盟国軍の防衛線が破られたことで、東部戦線の南翼は一時的に前線が消滅した状況になっていた。ソ連軍の戦車部隊は南西へと突進を続けており、もしロストフに先に到着すれば、第1装甲軍(マッケンゼン大将)と第17軍(ルオフ上級大将)も失うことになる。マンシュタインの課題は、A軍集団の脱出のためにロストフを死守することだった。
ロストフ防衛を達成するため、フレッター=ピコ支隊(第3山岳師団・第304歩兵師団、第7・第19装甲師団)とホリト支隊(第48装甲軍団と「警戒大隊」)はチル河の防衛線を保持しようとしたが、両支隊の側面は広く開いていた。
12月24日、南西部正面軍と南部正面軍は新たに第5戦車軍、第5打撃軍、第28軍を前線へと送り込み、ドイツ軍の支隊を南北翼から圧迫していった。
1月3日、ドイツ軍の支隊はヒトラーの現位置死守命令にも関わらず、ドネツ河まで退却を余儀なくされた。その間に、第3親衛機械化軍団と第4機械化軍団がドン渓谷をロストフに向かって進撃していった。
1月7日、ドン軍集団は撤退中のSS装甲擲弾兵師団「ヴィーキンク」(シュタイナー大将)の支援をするため、Ⅵ号重戦車「ティーガー」を装備した第503重戦車大隊をジモフニキに送り込んだ。「ティーガー」は突進してくるソ連軍のT34を次々と撃破していったが、この大隊は訓練半ばで投入されたため、20両の「ティーガー」が動けなくなって放置された。この時、ソ連軍もT34を18両放棄していた。
この時、ソ連軍の消耗と補給不足が深刻な状況に陥っていた。特に「天王星」作戦以降、休む間もなく進撃を続けていた南部正面軍の消耗は激しく、1月下旬で戦車の稼働台数は数十両にまで落ち込んでいた。貧弱な兵站能力も限界が近づいており、先頭を進む戦車部隊では燃料や弾薬の不足が表面化し始めていた。
1月20日、南部正面軍はロストフへの総攻撃を開始した。第2親衛軍の第3親衛戦車軍団(ロトミストロフ少将)がマヌィチスカヤ付近でマヌィチ河を渡り、バタイスクの重要な橋に進撃した。その先鋒はエゴロフ大佐率いる機動集団だった。その南翼では、第51軍が第3親衛機械化軍団(ヴォリスキー少将)をバタイスクに差し向けた。
一方、マンシュタインはソ連軍のマヌィチ河に築いた橋頭堡を崩そうと考え、第11装甲師団(バルク中将)、第16自動車化歩兵師団(シュヴェーリン少将)、第503重戦車大隊を送り込んだ。すでに15日から、第16自動車化歩兵師団の一部はマヌィチスカヤに近いサモドゥロフカを攻撃していた。
1月22日、第11装甲師団はアクサススカヤでドン河を越えた。ドイツ軍の装甲部隊はレーニン国営農場で、エゴロフ機動集団と衝突した。ソ連軍の攻撃は何度も撃退され、戦車の大部分を失ったエゴロフは撤退せざるを得なくなった。
1月23日、第11装甲師団に続いて、第16自動車化歩兵師団もマヌィチスカヤで攻勢に乗り出した。3日間に及ぶ戦闘の末、ソ連第3親衛戦車軍団は補給不足も重なって大きな損害を出して後退した。ロトミストロフは第2親衛軍司令部に打電した。
「部隊はこの事態と重大な損害のため、積極的戦闘行為は不可能であります」
ここに来て、典型的な冬が到来し、独ソ両軍が行動に制限を受けることになった。1月24日、雪解けが道路を泥濘へと変え、26日には気温が零下15度まで低下したために戦場一帯は氷の世界となった。翌27日から3日間にわかる降雪が始まった。
ロストフへの進撃が思うように進展しないことに業を煮やしたスターリンは南部正面軍司令官エレメンコ大将を更迭し、後任に第2親衛軍司令官マリノフスキー中将を昇格させた。しかし、司令官の交代で戦局が変化することは無く、南部正面軍がロストフの奪回を完了したのは2月14日のことだった。
第1装甲軍は1週間前の2月7日にアゾフ海北岸への脱出を完了しており、第17軍は北カフカス正面軍(テュレーネフ上級大将)の追撃もむなしくクバン橋頭保への撤退を果たしていた。
このようにソ連軍は1942年度の冬季戦も、去年の冬と同じように終わらせる結果となった。すなわち、わずかな資源しかないのに、あまりに楽観的な戦略的攻勢を立てて、途中で疲弊して目標を達成できなくなってしまうのである。このような事態は、1月から3月までの一連の攻勢まで続いた。
〇B軍集団の壊滅
1943年1月中旬、「最高司令部」と赤軍参謀本部は「小土星」作戦の成功をもとに、ドン軍集団に続いて、B軍集団に対する攻勢を徐々に拡大させていった。この一連の攻勢はドン河上流の敵陣地を一掃して、今後の作戦のために地ならしをすることだった。
「小土星」作戦に続くドン河流域における第3次攻勢は、目標となる2つの町の名前を取って「オストロゴジスク=ロッソシ」作戦と名付けられた。ヴォロネジ正面軍(ゴリコフ大将)が南北からの両翼包囲によって、ハンガリー第2軍(ヤーニ大将)を壊滅させるという内容だった。作戦の調整役として、赤軍参謀本部から作戦部長兼参謀次長アントーノフ中将がヴォロネジ正面軍司令部に派遣された。
1月13日、ヴォロネジ正面軍の第40軍(モスカレンコ中将)は2時間に渡る支援砲撃の後、突出部の北翼から「オストロゴジスク=ロッソシ」作戦を発動させた。翌14日には中央部の第18狙撃軍団が敵を牽制しつつ、第3戦車軍(ルイバルコ中将)が南翼から攻勢を開始した。
この進撃を受けて、イタリア第8軍の中で唯一損害を受けていなかった山岳軍団(ナスチ中将)の4個歩兵師団(第2「トリデンティナ」・第3「ジュリア」・第4「クネンゼ」・第156「ヴィチェンツァ」)はドン河流域から数日の内に消滅した。当初は10万人の兵力を擁していたイタリア第8軍は約1か月間の戦闘で、約8万5000人の将兵を戦死または行方不明者として失い、本国からの補充兵を含めた約3万人が凍傷などで戦線から離脱した。
1月16日、第3戦車軍は南部のロッソシを奪回した。ドン河沿岸の陣地を放棄したハンガリー第2軍の3個軍団(第3・第4・第7)は戦線を再構築できぬままソ連軍に次々と撃破され、北部のオストロゴジスクで3個歩兵師団が包囲された。
1月19日、ソ連第7騎兵軍団は攻撃開始点から100キロ離れたオスコル河畔のヴァルイキに到達した。ハンガリー第2軍の残存部隊はドン河とオスコル河の狭い回廊に閉じ込められ、次々と壊滅させられていった。
この敗北により、当初は総兵力20万人を擁していたハンガリー第2軍は戦死者と負傷兵を合わせて約13万5000人を数え、6万人を捕虜として失った。
モスクワの「最高司令部」は「オストロゴジスク=ロッソシ」作戦に続いて、「ヴォロネジ=カストルノエ」作戦に認可を与え、ドン河流域からドイツ軍を一掃しようと考えていた。この作戦はヴォロネジからカストルノエに至る突出部にいるドイツ第2軍(ザルムート大将)に対する両翼包囲であり、ブリャンスク正面軍(レイテル中将)から第13軍の支援を受けて、ヴォロネジ正面軍が担当することになっていた。
1月24日、ハンガリー第2軍の掃討を終えた第40軍と第4戦車軍団は南翼から再び攻勢を開始し、第4戦車軍団は日没までに16キロ前進することに成功した。新たな包囲網の形成に、ドイツ第2軍司令官ザルムート大将はヴォロネジの放棄を余儀なくされ、第2軍の3個軍団(第7・第13・第55)は西方への撤退を開始した。
1月25日、突出部の正面から前線を突破した第60軍が半年ぶりにヴォロネジの市街地に入った。装軌車でなければ行動できないほどの豪雪にも関わらず、ソ連軍の攻勢はさらに勢いづいた。
1月26日、突出部の北翼では第13軍と第38軍が攻撃を開始し、2日後にはカストルノエにおいて南から進撃してきた第40軍と合流し、ドイツ第2軍の一部を拘束した。しかし、ソ連軍の包囲網には兵力不足によって間隙が開いており、包囲されたドイツ軍の各部隊は重装備を放棄しながら、どうにか西方に脱出することに成功した。
ドイツB軍集団はもはや1個軍規模にまで兵力が低下して、ソ連軍の攻勢を押しとどめる力は残されていなかった。ドイツ軍が1942年6月に開始した「青」作戦で占領したロシア南部地域の大部分が、「天王星」作戦から約3か月に渡るソ連軍の攻勢によって、すべて失う結果となった。
〇立案
モスクワの「最高司令部」は1月中旬、「ヴォロネジ=カストルノエ」作戦と平行して、B軍集団の壊滅によって生じたドネツ河上流の戦線に対する新たな攻勢作戦を立案しようとしていた。もはや目前の事態に対応するだけで精一杯のドイツ軍にさらなる追い討ちをかけるためには、「ヴォロネジ=カストルノエ」作戦の完了後、即座に別方面で攻撃を仕掛けることが有効だという意見で一致していたからであった。
こうした研究の成果として、1月20日から23日にかけて、赤軍参謀本部は2つの攻勢計画を立案した。
1つは石炭や鉱物資源が豊富なウクライナ東部のドンバス地方を奪回し、そのままドニエプル河まで突進する「ギャロップ(スカチョーク)」作戦であり、2つ目はハリコフ奪回を目的とした「星(ズヴェズダー)」作戦であった。
南西部正面軍司令部が計画した「ギャロップ」作戦の内容は、集中的な戦車運用法に基づいており、ドイツ軍の「電撃戦」を彷彿させるものだった。まず、最初の戦車部隊をアゾフ海沿岸のマウリポリに向かわせて、1週間以内に同市を制圧する。続いて、第2の戦車部隊をクラスノグラードに突進させて、ドイツ軍の重要な補給路があるサポロジェとドニエプロペトロフスクを制圧する。攻撃開始日は1月29日とされた。
1月26日、モスクワの「最高司令部」は次のような内容の一般命令を南西部正面軍司令部へと下達した。
「ヴォロネジ正面軍が実施した一連の攻勢作戦の成功により、敵の抵抗は完全に打ち砕かれた。敵の防衛線は広範囲にわたる綻びを見せており、充分な戦略予備を持たない彼らは、各地で分散して孤立状態に陥っている。現在、南西部正面軍の北翼はドンバス地方の北側へと大きく張り出しているが、これはドンバスとカフカスおよび黒海沿岸に残る敵兵力を包囲殲滅する上で、絶好の状況であるといえよう」
一方、ドン河流域の掃討を終えたヴォロネジ正面軍司令部でも、「星」作戦の計画が進められていた。「最高司令部」は攻撃開始日を2月1日にするよう指示を出し、南西部正面軍の「ギャロップ」作戦と連動して、ハリコフとビエルゴロドの解放を命じた。さらに後に、最高司令官代理ジューコフ元帥の提案により、クルスクも「星」作戦の目標として加わることになった。これはヴォロネジ正面軍に、戦局に対する楽観視が広がっていたことを証明している。
「最高司令部」と赤軍参謀本部、攻勢作戦を担う南西部正面軍・ヴォロネジ正面軍司令部においても、新たな攻勢の成功を疑う者は誰一人としていなかった。そして、この両作戦が成功すれば、南部におけるソ連軍の圧倒的優位は保障されたも同然であった。
一方、ドン軍集団司令官マンシュタイン元帥は1月から3月にかけてヒトラーの機動防御への強情な反対と、スターリングラードの勝利で意気上がるソ連軍の両方を制するための処置をとり続けた。
ドン軍集団の麾下には「第4装甲軍」と「ホリト軍支隊」という2つの上級司令部が存在したが、ここに配属されている装甲師団や歩兵師団はいずれも「冬の嵐」作戦からチル河・ドン河流域の撤退戦で消耗しており、休暇帰還兵や後方作業員などの「寄せ集め部隊」がその穴埋めとして臨時に編入されていた。
そのため従来の指揮系統に則って部隊を指揮することがもはや不可能になり、1943年初頭以降の東部戦線におけるドイツ軍では、特定の指揮官の直属下に2~3個師団を編入した「支隊」や「戦闘団」が各地で必要に応じて編成され、機動防御や撤退作戦を展開する状況が繰り返された。
〇マンシュタインの迎撃計画
ドン河流域における退却戦の終了に伴い、ドン軍集団司令官マンシュタイン元帥はドン河の西を流れるドネツ河を軸とした防衛線の再構築に取り掛かった。
1月27日、カフカスから脱出した第1装甲軍はA軍集団からドン軍集団に移され、第4装甲軍とともにはロストフの正面に置かれた。
しかし、ドネツ河流域の戦線にはいくつもの弱点が存在していた。特にハリコフからイジュムに至る200キロ近い正面は、B軍集団のランツ支隊(第29・第320歩兵師団)とドン軍集団の第19装甲師団しかいなかった。これではソ連軍の攻勢を長期的に阻止することは不可能であり、この方面の防衛線を固めるにはロストフへの回廊を守る装甲部隊を移動させる必要があった。
2月6日、マンシュタインは南部戦域における今後の戦略についてヒトラーと協議するため、東プロイセンの「総統大本営」に呼ばれた。会議の冒頭、ヒトラーは「スターリングラードの失敗は私ひとりの責任である」と明言し、マンシュタインを驚かせた。
まずマンシュタインは危機的状況を脱するためにはロストフ回廊を放棄して、ドネツ河下流を守るホリト支隊の戦線を縮小するとともに、回廊南部にいる第1装甲軍をドネツ河上流に配置転換すべきだとの考えを述べた。
報告を聞いたヒトラーは口を開くと、マンシュタインの計画案に異議を唱えた。
「仮に貴官の言う通りに戦線を縮小して兵力を抽出したとしても、敵も同様に浮いた兵力を決戦場に転用できるようになるわけではないのか?だとすれば、敵の攻勢を挫くことにならんのではないか?」
「ご指摘はごもっともですが、重要なのは兵力転用という策を先に行った側が、その後の展開の主導権を握ることが出来るという点にあります。また、現実問題として我が軍集団の北翼は予備部隊をほとんど保持しておらず、戦線崩壊という最悪の結果に至る可能性は日に日に増大しています」
「いや、こうも考えられよう。すなわち、我が軍が頑強に一歩も譲らずに防衛線を保持し続けたなら、敵は一歩前進する毎に莫大な出血を強いられ、やがては大兵力といえども消耗させられるだろう。それに、攻勢発起点からの距離が増大するに従って、敵の前線部隊への補給も困難となってくるはずだ。数日内にはこの一帯でも雪解けが始まり、敵味方を問わず部隊の長距離移動は大きな困難に直面するものと予想できる。そうなれば、敵も我が軍を遠くから迂回するような大包囲戦は実行できなくなるであろう」
ヒトラーはカフカスの石油を再度うかがおうと考えており、ロストフ回廊の放棄を渋り、今に「泥濘期」が来てソ連軍の攻勢が停止するだろうと反論した。ヒトラーの意見にも一理あったが、ドン軍集団の背後へ向かいつつある敵の進撃が「泥濘期」で確実に停止するという保証が存在しない以上、マンシュタインは不確かな願望に大勢の兵士の命を賭けるつもりはなかった
マンシュタインは根気強く、ヒトラーに訴えた。
「我が軍集団全体の運命を、全く季節外れの融雪期の到来という仮定に委ねるような無責任な態度をとることは、私には断じてできません」
4時間に渡る会議の末、ヒトラーはマンシュタインの決意が揺るぎないことを悟り、しぶしぶながらロストフ回廊の放棄に承認を与えた。
2月7日、マンシュタインはロストフ正面に置かれていた第1装甲軍に、ランツ支隊とホリト支隊の空隙に移動するよう命じた。そして、フランスから増派されたSS装甲軍団(ハウサー大将)をハリコフ正面に投入して、ソ連軍のハリコフ奪回を牽制しようとした。だが、ドン軍集団の麾下にいたのはSS装甲擲弾兵師団「帝国」(ケプラー大将)のみで、残りのSS装甲擲弾兵師団「アドルフ・ヒトラー親衛隊旗(LAH)」(ディートリヒ上級大将)とSS装甲擲弾兵師団「髑髏」(アイケ大将)がハリコフに到着するのは2月下旬まで遅れるとの回答だった。
ソ連南西部正面軍による「ギャロップ」作戦は、マンシュタインが第1装甲軍とSS装甲軍団によってドネツ河の防衛線を固めている最中に発動されるのである。