17
3日後、ジョージはどこか威圧的な感じのする建物の中へ入っていった。入口には「聖ヨハネ・サナトリウム」というエメリア語の看板が掛かっている。巨大な門がぽっかりと口を開いた。
そのまま、玄関へと歩いていく。この3日間、ジョージは休むことなく動き続けた。まず荷造りをし、それからエヴァソまで車で3日かかる道のりを走り続けた。とにかく、動いていれば、考えずに済むのだ。ルイスの頭蓋骨が割れる音や、引きずられた手足や飛び散った血ふぶきのことを。あるいは病院で意識もなく横たわっているジョセフや、苦痛に歪んだカマラの顔のことを。
それでも不意にそれらが頭をよぎるとき、とりわけカマラのことを思うと、ジョージは強い罪悪感に襲われた。本当なら自分はカマラの傍にいて、その悲しみを分かち合い、慰め、力になるべきだった。それなのに、自分は逃げるようにエヴァソにやって来たのだ。
自分はもはや神父ではない。肉親の死を嘆く遺族を慰めるのは、自分の役目ではない。アンという適任者がいるのだから。そうは思っても、罪の意識は消えない。
くすんだ緑色に塗られていた玄関の扉を開けると、薄暗いロビーに入った。
「すみません」
声が室内に反響した。返事はない。見回すと、階段や廊下が四方に伸びている。ジョージは適当に選んだ廊下へ歩き出した。しばらくすると、黒い修道服を着た尼僧と出会い、病室は2階にあると教えてくれた。
「ポリトウスキ神父はいらっしゃいますか?訪ねるように言われたんですが」
「出たり入ったりしてます。しばらく探せば、見つかるでしょう」
ジョージは礼を言い、近くの階段を上がり始めた。2階に着くと、眼の前に両開きのドアがあった。押して中に入ると、そこは休憩室のような大部屋だった。ぐらついたテーブルと椅子が乱雑に置かれ、汚れた窓には鉄格子が嵌っている。排泄物と吐瀉物のすえた臭いが鼻を突いた。
何十人という患者が歩き回っていたが、誰もがうつろな眼をしている。椅子に座り、ぼんやりとしている者。何ごとかブツブツと呟いている者。口を大きく開けたまま、両手を羽根のようにばたつかせている者。
水の入ったバケツを脇に、尼僧が床に這いつくばってブラシを使って何かをこすり落としている。ジョージが部屋を横切ってくると、尼僧が顔を上げた。
「誰です、あなたは?」
訛りが強すぎて何を言っているのかよく分からない。
「ジョージ・ロトフェルスといいます。ここにアントン・クーベリック氏が入院してると聞いて、面会に来たのですが」
「クーベリックさんは慢性患者の病棟です」
尼僧はそう言って、奥に続く廊下を指した。立ち去りかけ、ジョージは言った。
「失礼ですが、ここでは本当に患者の治療をしてるのですか?」
「ここの人たちは、もう治りようがないの。食べ物と寝る場所があるだけで、幸運というものです。それだって、お金が足りないくらいなんですから」
ジョージは暗澹たる気持ちで、教えられた廊下を足早に歩いていった。廊下に沿って、いくつかドアが並んでいる。ドアにはそれぞれ名前が書いてあるが、手書きの文字はほとんど判読不可能だ。
何人か患者とすれ違ったが、気がつくと、ジョージの周りには誰もいなくなっていた。廊下の奥まで6メートルほどあるが、そこだけひと気が無く、空っぽだった。分厚い、汚れた窓の付いたドアがあった。辺りが急に冷えてくる。
ドアに付けられた名札を見ると、歪んだ手書き文字がどうにかアントン・クーベリックと読める。汚れた窓から室内をのぞきこむと、こちらに背を向け、机で何やら作業している男の姿がかろうじて見える。ドアノブを回してみたが、鍵がかかっている。仕方なく、ジョージは誰か鍵を持っている人を捜しに行こうとドアを離れた。
カチリと音がした。ジョージは足を止めた。
ドアがわずかに開いている。さっきは回し方が足りなかったのか。ジョージは躊躇しつつ、部屋に足を踏み入れた。その瞬間、強烈な異臭に横っ面を張られた。こみ上げてくる吐き気を抑えるため、ジョージはポケットからハンカチを取り出し、鼻に押し付けた。
クーベリックは机の上に屈み込み、何やら書き物をしているようだった。壁には何枚もの絵が貼られていた。喉を詰まらせながら、ジョージは声をかける。
「クーベリックさんですね?デラチの遺跡で働いてましたよね?」
冷えきった空気が全身を包み、ジョージはしばしその場に立ち尽くした。途端に、クーベリックが笑い声を上げる。ジョージは自分が狂った男と2人だけで部屋にいることに気づき、背筋が凍りついた。
「あなたが描いた偶像、あれはどこで見たんですか?」
クーベリックは作業を続けている。貧乏ゆすりをしているのか、机の下の床をパタパタと叩く音がする。どうしたらいいか分からず、呆然としていると、堅い声が発せられた。
「ジョージ・ロトフェルス」
「なんでぼくの名前を知っている?」
パタパタと床を叩く音が速くなった。ジョージが眼を向けると、いつの間にか机の下に黒い染みができ、ゆっくりと広がっていく。ジョージは思わず叫んだ。
「なんでぼくの名前を知ってるのかと聞いてるんだ!」
背後でドアがばたんと閉まり、クーベリックはゆっくりと立ち上がった。長身で、がっちりしている。ジョージは後ずさりし、ドアノブを探った。鍵が掛かっている。
クーベリックが振り向いた。ボロボロに引き裂かれた患者服を胸元にかき合わせ、指の間から黒い液体がドクドクと流れ出ている。
ジョージは上着の懐に手を入れ、銃を構えた。クーベリックが胸元の両腕を大きく広げると、汚れたシャツが開き、胸に逆さ十字のマークがぬめりと光った。
「今日、ここに神はいないよ。神父」
膝がガクガクと震え出し、ジョージの背中が氷のようなドアにどんと当たった。クーベリックが手を開くと、長いガラスの破片が握られていた。ジョージの引き金にかけたひと差し指が疼く。クーベリックは尖ったガラスの先端を、自分の首筋に押しつけた。
「やめろ!」
クーベリックはニヤりと不敵な笑みを浮かべ、首にガラスを突き立てた。皮膚と肉が裂ける音がして、血が迸り、噴水のように溢れ出す。気管が破れ、空気が洩れる音がした。飛び散る血しぶきが壁のデッサンにかかり、まるで悪魔たちが血を流しているようだ。
やがて、血まみれになったクーベリックの体が床に崩れ落ちた。
18
室内は墓場のように静まり返っていた。心臓の鼓動だけが耳に響いてくる。ジョージは用心深く歩を進め、ぐちゃぐちゃになったクーベリックの首を見下ろした。切り裂かれた皮膚と肉がガラスの先からぶら下がり、その周囲に血だまりがテラテラと光っている。
胃が激しくむかつき、ジョージは嘔吐した。しばらくして落ち着いてくると、部屋の冷気がいつの間にか消えていた。銃を懐にしまい、ハンカチで口元を拭う。
ジョージは死体をよけて机に近づくと、隅にある据え付けのベッドの物陰から、1枚の紙片が飛びだしていることに気づいた。その紙を手に取った。木炭で描かれた、遺跡の教会のスケッチだった。四体の大天使ミカエルの彫像は形のない塊のように描かれ、判別するのに少し時間がかかった。その背景に、逆さ吊りにされた十字架がより丁寧に描かれていた。
奇妙なのは、教会の上に、さらに別の建物がのっていることだ。簡単なデッサンなのではっきりと分からないが、太古の寺院のように見える。内部では一群の人間がさまざまな性行為にふける様子が、克明に描かれている。血なまぐさい場所にもかかわらず、神学の徒としてのジョージの頭脳が動き始めた。この絵が伝えようとしていることは明白だ。
退廃と快楽が、愛と信仰よりも上位に位置している。
ジョージは本能的にデッサンを床に戻そうとした。だが、何か思い当たることがあり、それを丸めて持ち帰ることにした。再び死体を避けて歩き、鍵のかかっているドアに手を伸ばす。
ドアノブが手の中でくるりと回転した。驚いたジョージは、床の血と吐瀉物に足を滑らせ、背後の壁にドシンとぶつかった。黒い聖職服を着た中年の男が部屋に入ってきた。屈強な現地人のスタッフが2人、後に続いている。中年の聖職者は死体を見下ろし、スタッフに後始末を命じた。
「安らかに眠り給え」そう言って、ジョージに向き直った。「ポリトウスキ神父です。お待ちしておりました」
午後の風が花々の香りを運び、椰子の葉が静かにそよいでいる。
ジョージとポリトウスキは、サナトリウムの裏手にある小道を歩いていた。わずかな時間でも、狂気に囲まれて過ごした後では、戸外の新鮮な空気がことさらありがたく感じられる。
「なぜぼくが来ることをご存じだったんですか。ヘレーネから連絡があったのですか?」
「いや、教皇府からです」
ジョージは思わず立ち止まった。
「何ですって?なぜ、ぼくがデラチから来ることを教皇府が?」
「ロトフェルス神父、あなたは神の御許から遠ざかりすぎて、何も見えなくなってしまったんですか?教皇府から枢機卿が来て、クーベリックは悪魔に触れたと判断したんです」
「悪魔憑きですか?ポリトウスキ神父、失礼ですがぼくにはとても・・・」
ジョージは苦笑した。
「憑かれたとは言ってません。ただ、触れただけだと」
「触れた?それは一体、どういう意味です?」
「400年ほど前、マッサリアのヴェルサンにある修道院で、悪魔憑きが異常発生しました。34人の修道女が悪魔に触れ、口に出来ないような行為にふけったんです」
「ええ、その話なら知ってます。フランク・ルーダンという不埒な色男が、修道院長を誘惑して、大勢の修道女と一緒に乱交パーティーをやったという話ですね。山羊も登場したという話があるが、それは誇張でしょう。でも、修道女たちは別に悪魔に取り憑かれたわけじゃなく、ただ欲情して・・・いろいろ創意に富んだ作り話を書いて、鬱憤を晴らしていたのでしょう。一方、ルーダンは枢機卿の命令を拒んだ。そこで、枢機卿は地元の検察官に指令を出し、ルーダンを逮捕させた。悪魔と契約したという廉でね。教会はルーダンを拷問にかけ、罪を白状させようとした。ルーダンがそれでも無実を主張すると、火あぶりの刑に処した。要はセックスと政治だ。それ以上の何物でもない」
「当時の記録には、セックスと政治以上のことが記載されてます」
ポリトウスキが反論した。
「ヴェルサンには当時、マルク・ジンメルという助祭がいて、こう記録しています。『尼僧たちはまるで首が折れたかのように、頭を自分の胸と背に、凄まじい勢いで打ちつけた。また腕を肩、肘、手首の関節で二重三重に捻じ曲げた』ほかにも、エビ反りになって頭を足につけ、その姿勢のまま、猛スピードで走ったとも書いてある」
「その記録の真偽のほどは、証明されてません。第一、ジンメルの筆跡で書かれてない。どちらにしても、ジンメルには黒ミサをやってたという話があるから、教会に対して偏向があったのかもしれない。とても信頼できる証言とは言えません」
「悪魔祓いのために、4人の神父が派遣されました。そのうち3人は悪魔に取り憑かれ、命を落としました。最後の1人は悪魔との闘いによって気が狂ってしまった。クーベリックにも同じことが起こった。デラチでは悪が徘徊してるとも、枢機卿は言いました」
ジョージはポリトウスキの前で、声を上げて笑い出したい衝動にかられた。しかし、脳裏にいくつもの映像がよぎった。逆さ吊りにされた十字架。ジョセフを無視し、ジェームズを貪り食ったハイエナたち。クーベリックの首を切り裂いたガラスの破片。凍るような部屋。ジョージはじっと押し黙った。
「私はあなたの悪魔祓いに立ち会ったことがあるんですよ」
ポリトウスキはジョージの眼をじっと見ていた。
「・・・」
「3年前に。まぁ、そのときは助祭でしたが」
「仮に、クーベリックが悪魔に触れたとして・・・」
ジョージは低い声で言った。
「クーベリックはガラスで首を切って、自殺してしまった。だとしたら、悪魔も・・・」
「悪魔も天使と同じように階級があるのは、ご存じでしょう。弱い悪魔は、強い悪魔の奴隷のようなものです。死ねと言われれば、死ぬ。デラチの遺跡には、強大な悪魔がいるでしょう」
そう言って、ポリトウスキは懐から1冊の本を取り出し、ジョージに手渡した。
「悪魔と闘うには、これが必要です」
ジョージは本を見た。悪魔祓いの儀典書。
「ぼくはもう神父ではありません」
「あなたは常に神父です」
ポリトウスキはジョージの肩をたたいた。
「ジョージ・・・聖ゲオルギーから取られたんですね。竜を倒した英雄。侵略者から民を解放した者」
「ぼくは民を殺したんです」
ジョージはそう言って、立ち去った。
19
ヘレーネは薄暗いキッチンで、分厚い医学書に眼を通していた。日が暮れてからすでに1時間ほど経っていたが、部屋はひどく暑い。額から汗が流れる。しばし顔を上げ、ヘレーネはハンカチで汗を拭った。メモを取り、本に眼を戻す。文字が視界でゆらゆらと揺れた。なんとか集中しようとするのだが、だめだった。
本を閉じ、顔をこすった。ストレスがかなり溜まっているようだ。ジョセフは一週間も気を失ったままだというのに、ヘレーネには治療法どころか、原因も分かっていない。
あの恐ろしい晩のことは毎晩、悪夢となってヘレーネの眠りをさまたげている。ライフルを手にハイエナを追っていったカマラは翌朝、ルイスの遺体を持って戻ってきた。ハイエナに喰われたのか、首は無かった。ジョージはエヴァソに逃げてしまい、シスター・アンは開校をあきらめ、ジョセフはヘレーネの病院にいる。
床を何かが擦る音がする。
ヘレーネは病室へと続く入口に眼をやった。影が滑るように横切り、ふっと腐った肉の臭いが鼻を突いた。全身に戦慄が走る。
ハイエナ?
必死に勇気を奮い起こし、そっと立ち上がった。机の上の外科用メスを手に取る。大した武器とはいえないが、何もないよりはマシだ。音を立てずにドアに忍び寄り、そっと病室の方を覗いた。
暗がりに何かの影が見える。病室に入った。心臓の鼓動が耳元で大きく響く。次第に暗がりに眼が慣れ、ヘレーネは病室を見回した。ハイエナの姿は見えない。
ふと見ると、ジョセフのベッドが空になっている。胸騒ぎがして、ベッドに近づく。シーツと毛布がクシャクシャに丸まっている。点滴の管は床に落ち、針の先から薬が漏れている。ベッドの反対側で、何かが動いた。思い切って、ベッドの向こう側へ歩を進めた。
ジョセフがいた。こちらに背を向け、床に坐っている。膝には毛布がかかり、その下で手がゆっくりと動いている。何かを撫でているようだ。上体を揺らし、小さな声で何かを歌っている。
「ジョセフ?」
ヘレーネはそっと呼びかけた。
「何してるの?」
ジョセフは答えない。ヘレーネは毛布が血で汚れていることに気づいた。床に屈み、毛布を引きはがすと、血まみれのルイスの頭があった。眼を見開き、ヘレーネを見上げている。額には、くっきりと歯型の跡が残っている。
「ぼくのだよ」ジョセフは言った。「これはもう、ぼくのだ」
ヘレーネはハッと眼を覚ました。心臓が早鐘のように鳴っている。また悪い夢を見ていたようだ。しかし、眼が覚めても、悪夢は手を伸ばせばさわれそうに生々しく、宙に漂っている。ため息をつき、寝返りを打つと、眼の前にモーガンの顔があった。
あっと悲鳴を上げ、ヘレーネは慌てて壁際まで身を引いた。モーガンはベッドの脇にひざまずき、じっとヘレーネの顔を覗き込んでいたようだった。
「なんで、捨てた!?」
モーガンの手に、聖ヨセフのメダルがゆらゆらと揺れている。
「ゴミみたいに捨てやがって」
「出てって!」
ヘレーネは毛布を首まで引き上げ、怒鳴った。
「外に転がってた。なんで、捨てた!?」
「捨ててないわ」
なんとか後ろを下がろうとするのだが、背中が壁について、もう逃げ場はない。背筋がぞっと寒くなる。
「嘘だ!」
ヘレーネは震えた。必死に部屋を見回す。何か身を守るものはないか。ベッドサイドのテーブルには空になった夕食の皿があり、脇にナイフが置いてある。ヘレーネはナイフを取ろうと身構えたが、モーガンはベッドに上がってきた。重みでバネがギシギシと鳴る。
「そんなに俺が嫌いなのか?」
顔にモーガンの唾がかかった。
「この顔さえ治してくれりゃ、俺だってあのガキに負けない色男なんだぜ」
その瞬間、悲鳴が空気を切り裂いた。モーガンが振り向くと、ドアのそばにジョセフが立っていた。汗まみれのパジャマを着て眼を大きく見開き、震える指でモーガンを指した。
「あいつが来る・・・」
ジョセフは押し殺した声で言った。
「何だと?」
モーガンは明らかに落ち着きをなくし、喘ぐように言った。
「あいつが来る。あんたのところに。あんたを掴まえに来る!」
ジョセフの声は激しい咆哮のように響いた。モーガンはベッドから飛び降りると、転げるように部屋を飛び出した。ヘレーネはどんな細かい兆候も逃すまいと、じっとジョセフを観察した。裸足で、白目は黄色く濁っている。
「ジョセフ」ヘレーネは両腕を広げた。「眼が覚めたのね!」
「こわい夢を見たんだ」
ジョセフはヘレーネの胸に飛び込み、抱きついた。涙が頬を伝っている。
「すごくこわかった」
ヘレーネは泣きじゃくるジョセフをしっかり抱きしめ、初めてその体が赤くただれているのに気づいた。
20
月明かりの下、ジョージの運転するジープは墓地のそばを通り過ぎた。不吉な予感に襲われる。白い十字架の群れが動き出しそうな雰囲気がただよっていた。ジョージは邪念を払い、運転に集中した。夜の道は危険だったが、道端で夜を明かすのは御免だった。
しばらくして、ようやく村はずれに着いた。夜気は乾燥していて暖かく、どこかでドラムを叩く音が聞こえてくる。小屋から人影が現れ、ジープのヘッドライトに手を振った。車を寄せると、人影はムティカと、薬の瓶を手にしている10代の少女だった。ムティカがトゥルカナ語で何か言い、少女はうなづいて闇の中へ姿を消した。
「車が運転できたんですか?」ムティカが言った。
「司祭になったころ、習ったんです。乗りますか?」
ムティカはうなづいて、ジープに乗り込んできた。
「村の人たちは?」
ジョージはジープのギアを入れ、車を進めながら言った。
「族長のセビトゥアナに赤ん坊が生まれるんで、村中がお祝いのために集まってるんです。ただ、どうも難産で、奥さんのロキリアはかなり苦しんでるらしい。さっきの子はフェラシャデー、産婆さんの弟子です」
「へぇ」
「産婆のティティが、ドクターのところへ薬をもらいによこしたんです」
「どうしてロキリアを病院に連れてこないんだ?でなきゃ、ヘレーネがロキリアのところへ行けばいい」
「セビトゥアナは西洋医学を信じてない。薬のことは内緒です」
ジョージはジープを病院の前に停めた。ジョージが車を降りて病院に入って行くと、ムティカはジープを運転して走り去った。
病室にはランプが明るく灯り、辺りをこうこうと照らし出している。こんな夜中までヘレーネが働いているのを見て、ジョージは驚いた。眼の周りに黒い隈が出来ているのが、ちょっと心配だ。ジョージの足音を聞きつけ、ヘレーネが顔を上げた。
「帰ったのね」
「ジョセフの様子は?」
「変なの。見て」
ジョセフはベッドで輾転反側していた。相変わらず点滴がつながれ、全身汗まみれだ。ジョージはジョセフの上に屈み込んだ。首や肩に赤い発疹が広がっている。脳裏にモーガンの顔が浮かび、ジョージは落ち着かない気持ちで毛布を元に戻した。
ジョセフの眼がパッと開いた。ジョージはそばに寄った。
「ジョセフ?」
だが、その眼はふたたび閉じてしまった。外ではドラムの音が続いている。ジョージはヘレーネに向き直った。
「あなたは大丈夫ですか?」
「ちょっと疲れてるだけ。ジョセフはずっとこんな具合なの」
「この発疹は・・・事件のショックだけが原因とは思えないが」
「ここで話すのはよくないわ。こっちへ来て」
ヘレーネはジョージをランプの灯った病室の隅へ連れて行った。空いているベッドに2人で腰掛けると、ヘレーネが不安そうに言った。
「発疹は完全に無症候性なの。まったく理屈に合わないの。もうそろそろ回復するはずなのに、血圧が下がって熱が出てる」
「考えられることは?」
「いろいろ考えられるわ。でも、あの子の症状はどの病気にもぴったりとも当てはまらないの。私には、ただ見守ることしか出来ない」
何秒か過ぎた。外でドラムが一定のリズムを刻んでいる。ジョージはヘレーネの顔を見つめていることに気づいた。自分と同じヒスイ色の眼に。ポリトウスキから渡された儀典書がズボンのポケットにずしりと重い。
「明日は朝早くから、現場に行かなくては」
沈黙を破るように、ジョージは言った。
「もう寝ます。あなたは大丈夫?」
ヘレーネは疲れた笑顔を見せ、ベッドの端をたたいた。
「ちょっと待って、ジョージ。噛みついたりしないから」
ジョージは立ち去るつもりだったが、気が付くとヘレーネの隣に沈み込むように座っていた。腕に蠅がとまり、手を振って追い払う。
「エヴァソはどうだった?クーベリックには・・・会えたの?」
「死んだんだ」
「え?どうして?」
ヘレーネの顔から笑みが消えた。ジョージは後悔した。
「自殺したんだ。ぼくの眼の前で」
「まぁ」
ヘレーネは手を口に当てた。
「どういうことなの?まさか、そんな・・・何があったの?もう、私には誰にも助けられないんだわ・・・」
ヘレーネの眼に涙があふれ、ジョージの胸は痛んだ。ハンカチを取り出し、そっと涙を拭いてやる。ヘレーネがジョージの胸にもたれた。ジョージは少し驚き、それからおずおずと肩を抱いた。腕に触れる体は温かく、黒髪が鼻先をくすぐる。
「ふふ・・だめねぇ」
ヘレーネが笑う。
「私のほうがお姉さんなのに・・・でも、こうしてると落着くわ。慣れてるのね」
ジョージは震える声で言った。
「姉さんがいたんだ・・・名前はゾフィ。とても強い人だったけど、ときどき1人で泣いてるときがあった。そういう時は・・・ぼくがこうしていたんだ」
ヘレーネの手がジョージの顔に触れ、そこがゾクゾクと疼いた。心臓がドラムに合わせて鼓動を打っている。ジョージはおずおずと身を乗り出した。
ヘレーネが身を寄せ、キスをした。やわらかい唇だった。ジョージはヘレーネの肩に当てた手に力をこめる。二人はいったん離れた。ヘレーネが微笑む。
そのとき、ジョセフの点滴パックにふっと血が混じり、液体が濁り始める。
ジョージはもう一度、身を乗り出した。2人はキスをかわす。ヘレーネの手がジョージの胸や腹を撫でまわす。
ジョセフのベッドの車輪がひとつ、ゆっくりと転がり始めた。かすかに軋む音が、かろうじてジョージの耳に届く。車輪はもう一度、キーッと音を立てた。ジョージはヘレーネから身を離した。ジョセフのベッドが壁から動き出している。
「何だ?」
ジョージは腰を上げた。ヘレーネも一緒に立ち上がり、急いでベッドへ駆けつける。点滴の瓶が血で真っ赤に染まっていた。
「どういうことなの?」
ポリトウスキの言葉が脳裏に浮かぶ。
《クーベリックは悪魔に触れた》
「嘘だ」
ジョージは片手をジョセフの額に当ててみる。
その途端、ジョセフの体がベッドから跳ね上がった。ジョージが退くと、ジョセフの全身が激しく痙攣し始めた。点滴の瓶が床に落ちて砕け、粉々になったガラスと赤黒い液体が床を流れた。ヘレーネがジョセフを押さえようとしたが、痙攣の勢いで押し退けられてしまった。
「押さえて!」
ヘレーネが叫ぶ。途端に、痙攣が止んだ。ジョセフは絡まりあった寝具の上に、落ち着いた寝息を立てている。まるで、何ごとも無かったかのようだ。
「いったい何が起きてるの、ジョージ?」
ヘレーネの声にはヒステリックな響きが混じった。
ジョージは口を固く結んだ。自分には答えがない。あるとすれば、あの教会しか考えられなかった。
21
現地人の村落では、楽隊の一団が笛とドラムで出産の歌を奏でている。族長の丸い小屋からは、ロキリアの唸り声が聞こえていた。
フェラシャデーは村の入口で立ち止まって、ムティカからもらった薬瓶をシュロの葉に包んだ。小屋の外では族長のセビトゥアナをはじめ長老たちが輪になり、松明を掲げて心配そうに立っている。
フェラシャデーがロキリアのいる小屋に入ろうとしたときだった。セビトゥアナがその腕をがっちりと掴んだ。
「白人の家に行って来たな。おまえは自分を汚した。おまえがいると、赤ん坊も汚れる。入ってはならん」
「家のそばを通り過ぎただけです。中には入ってません。産婆のティティから、もっと薬草を持ってくるよう言われたのです」
「見せろ」
ロキリアが絶叫する。痛みを止める薬が必要なのに、夫がそれを許さないのだ。男には産みの苦しみなど、分かるわけがない。しかし、族長には誰にも逆らえない。ドキドキしながら、フェラシャデーがシュロの葉を差し出そうとすると、新しい声が割って入った。
「そこにいたの!」
ティティが小屋から顔を突き出している。
「さっさと薬草を持っておいで。さぁ!」
セビトゥアナが声を上げる間もなく、フェラシャデーは小屋へ逃げ込み、ほっと息をついた。たとえ族長といえども、出産の間は小屋の中に入ることは許されない。
丸い小屋の中では、小さな火がたかれ、年配の女性が立っているロキリアの裸体を支えていた。フェラシャデーはシュロの葉を産婆のティティに渡し、ロキリアを支えている女性を手伝いにいった。
ロキリアがまた叫んだ。その顔は激しい苦痛に歪み、張り出したお腹の筋肉が波打っている。フェラシャデーは唇を噛んだ。この叫びを聞くと全身が総毛立って、耳を塞ぎ、逃げ出したくなってしまう。そんな自分をフェラシャデーは心の中で叱りつけた。もう10回以上、ティティの手伝いをしてきたのだ。子どもを産むときは、どんな女でも必ず叫ぶ。だが、ロキリアの叫びはちょっと違うのだ。その悲鳴を聞くと、血が凍りそうになる。
この間にティティは白人の医者からもらったモルヒネをコップを入れ、山羊のミルクを加えてロキリアの口元に持っていった。
「これがきっと効く」
そのとき、誰かの手がコップを叩き落とした。薬はジューッと音を立てて火の中にこぼれてしまった。見ると、小屋の入口からセビトゥアナがティティを睨みつけている。痛みに苦しむ妻には眼もくれず、セビトゥアナはティティの手から薬瓶を奪い取った。
「白人の薬だ。わしの妻に毒を飲ませるな!」
ジョージは教会の屋根に立っていた。頭上には満月が輝き、辺りは本が読めそうなぐらいに明るい。クーベリックのスケッチを広げ、ジョージはそこに描かれた二重の教会を見ながら、屋根を歩き回った。
ジョージは眉をひそめた。もしこの絵が何らかの比喩ではなく事実を描いたものなら、かつてこの教会の上には2番目の教会があり、屋根のどこかにその痕跡が残っているはずだった。しかし、そのような跡は全く見受けられない。
デッサンを丸め、尻のポケットにしまった。ドームを覆っているカンバスをめくり、教会の深みを見下ろす。バックパックから2つのフックがついたロープの束を取り出すと、フックをドームの縁に固定し、ロープを教会の中へ落とした。ジョージはバックパックを背負い直し、慎重に縄はしごを降りはじめた。
まるで月光の柱を降りていくようだ。やがて底に着き、ジョージは固い大理石の床に降り立った。影の群れが威嚇するかのように、自分を取り巻いている。
背筋がすっと寒くなり、真夜中に1人でここに来るなんて、全くバカとしか言いようがないと自嘲した。バックパックからカンテラを取り出し、ライターで火をつけた。大天使ミカエルの像の上に、またカラスが集まっていた。それも、この前よりも数が増えているようだ。獰猛な黄色い眼が、ジョージに向かってゆっくりと瞬く。
石像の足元の床で、何かがジョージの眼を引いた。カンテラを下へ向けてみる。胸の悪くなるような光景が浮かび上がった。何十羽ものカラスの死骸が散らばっているのだ。胴体はバラバラに裂かれ、肉は食いちぎられ、血や羽が絡まった内臓がそこら中に散乱している。
カンテラの光が揺れた。手が震えているのだ。懸命に気を静めようとする。何も珍しいことはない。鶏でさえ同類を食べることがあるのだ。それに、カラスは決して夜中には飛ばない。襲われる危険はない。
ジョージは用心深く石像の間を通り、祭壇の台座に近づいた。石像にとまったカラスたちは身動きしたり、しわがれ声で鳴いたりしているが、そこから離れる気配はない。
祭壇にカンテラを置き、クーベリックのデッサンを広げたとき、ジョージは無数のカラスの眼が鋭く自分に注がれているのを感じ、身震いした。根本を折られた十字架は相変わらず宙を浮き、上方を見つめる主の眼も、じっとこちらに向けられているようだ。
ジョージはデッサンを見つめ、それから天井を見上げて教会と比べてみた。何か違和感を覚えた。デッサンには四体の天使像、逆さ吊りの十字架があって、その上に第2の教会が建っている。
ジョージはあることに気づいた。逆さなのだ。
十字架は今では逆さ吊りにされているが、元々はちゃんと上を向いて立っていた。デッサンを上下にひっくり返してみた。第2の教会は、この下になった。
不思議と興奮を覚え、それまでの不安が消えた。デッサンをバックパックにしまい、祭壇を入念に観察してみる。柔らかいカンテラの光の中で、モザイクがきらめいている。8枚、10枚の翼を広げた天使たちが剣や槍、棍棒などを振りかざしている。普通ならニカイア教会のモザイクには、美しく静謐な天使たちの情景が描かれるが、この天使たちは怒りをむき出しにしている。
ふっと冷たい隙間風が顔をよぎった。ジョージはカンテラを下ろし、ライターを取り出した。火をつけ、祭壇の前でゆっくりと左右に動かすと、炎が大きく揺れ、ひらひらと躍る場所を見つけた。祭壇に指を這わせる。やがて、天辺のあたりに継ぎ目があるのを探り当てた。
ジョージはライターをしまい、カンテラを床に置き、バックパックからハンマーとバールを取り出した。心の中で神への冒涜を非難する声がした。だが、かまわずバールを祭壇の継ぎ目にこじ入れ、ハンマーをバールの頭に当てる。それを数か所に行い、祭壇の蓋を力強く押した。