1
真壁仁は区役所通りの近くを巡回していた。一緒に回っている落合諒介巡査が、包帯が巻かれた真壁の左手に眼を落とし、ニヤりと笑った。
「そいつぁ、勲章みたいなモンだ。お前が歌舞伎町交番に就いた証だ」
真壁は憮然とした表情を浮かべ、3日前の夜のことを思い返した。
大久保公園の周辺で外国人同士がケンカしているという通報が入った。職安通りの南側は細い路地が複雑に入り組んでいて、安い連れ込み旅館やホテルが散在しているから、夜中になると外国人の街娼が数多く立っている。
真壁が現場に到着すると、ケンカしていたのは中国から来た街娼だった。どうやら客の奪い合いが原因で、向こうの言葉で罵り合い、バックを振り回して殴ったり、脛に蹴りを入れたり、とまるでプロレスのような有様だった。
真壁は体を2人の間に入れて仲裁しようとするが、一向に止める気配を見せず、ついに頭に来た真壁は「2人とも逮捕するぞ!」と怒鳴りつけ、応援を要請した。
応援に来た有村省吾巡査が「你收敛点(おとなしくしろ)!」と命じると、1人の女が取り押さえようとした真壁の左手を掴み、指をがぶりと噛み付いた。「イッテェ!」と叫んだ傍から、有村が流血している真壁の指を見て言った。
「お前、エイズ、大丈夫だろうな」
真壁は顔からさっと血の気が引いていくのを感じ、慌てて大久保病院に駆け込んだ。診察した医師はエイズの心配を鼻で笑っていた。噛んだ女の顔だけでも覚えておこうと思ったが、真壁にはどれも似たような顔に見えて諦めた。
「エイズじゃないかって言われたときは、さすがに肝が冷えました」
落合が豪快な笑いを飛ばした。
「あれはジョークだ。もしエイズだったら、オレはもう3回ぐらい死んでる」
「笑えませんよ・・・」
真壁が歌舞伎町交番第3係に配属されてから、2週間近く経っていた。以前に配属されていた「北一交番」の時とは段違いで、「みんなで何でもやろう」をモットーに係の目標は「歌舞伎町を少しでも安全で遊びやすい街」にするということだった。
年明けの初出勤日、真壁が新宿西署のロッカー室で制服に着替えていると、後から肩を叩かれた。振り返ると、見覚えのある顔だった。地域課の佐藤正登という警部補で、第3係の係長だった。
「君が北一交番に配属されている真壁君かな?」
「はい」
「今度、歌舞伎町交番に配属されたそうだな。おめでとう」
「えっ・・・試験的だって聞いているんですが」
「ヒデさんも人が悪いなぁ。だまされたんだよ」
真壁がこれまでの経緯を説明すると、佐藤いわくそれが「上岡の手口」だった。
地域課課長代理を務める上岡英昭は、目星をつけた警官が手柄を上げると、3日間の休暇を与え、「試験的でいいから」と歌舞伎町交番に勤務させる。上岡は与えた休暇の間にすでに歌舞伎町交番配属の根回しを済ませている、そういう算段だった。
6階にある地域課のオフィスで、佐藤は待機していた第3係に声をかけた。
「今日はでかいのやろうぜ」
メンバー同士で肩を叩き合い、続いて入った真壁にも声をかけてくる。すでに真壁がこの係に入ることが決まっているような雰囲気だった。
柔道で鍛えたずんぐりとした体格の落合が言った。
「すでに話を聞いてるんだ。お前はもう有名になってる。酔っ払った三下の手首を捻ってやったそうじゃないか」
今度は背の高い男が声をかけてきた。185センチはある真壁の上背と大差なかった。
「你的姓名?」
「はっ?」
落合が「初対面で中国語は無いだろ」と言いながら、肩を叩いた男は有村だった。中国語の他に、英語とスペイン語が話せる国際派だった。
「『あなたの名前は?』って意味だ。憶えておくといい」
2
区役所通りで、落合は周囲に眼を配っていた真壁の肩をたたいた。
「おい、真壁。あそこ見てみろ」
真壁は落合の指した方向に眼をやると、通りを脇にそれた細い路地にコインロッカーが並んでいる。その通りは普段なら人けがあまり感じられないのだが、この日の夜は黒い影がいくつか見える。
「ホームレスですかね?」真壁が言った。
落合は真壁の腹に肘鉄を食らわせた。
「バカヤロ。浮浪者って言え、浮浪者と。ホームレスつうのは、仕方なく路上で寝泊りしているんであってだな。浮浪者ってのは、路上でゴロゴロしながら悪さしているんだ」
真壁は腹をさすった。
「あの人たちが一体、何をしたっていうんですか?」
「ロッカーつうのは臭うんだよ。ホラ、いくぞ」
落合と真壁がロッカーの前に来たとき、黒い影が動いた。暗くて人相風体はよく分からないが、男が数人、女が1人のようだ。
「ちょっと、皆さん。何やってるの?」
落合が明るい調子で言った。
「荷物を預かってるだけよ。夜中にロッカー使っちゃいけない法律でもあるの」
女が答える。
「いやぁ、そんなことはないけどね。この付近は犯罪が多いもんだから、一応、所持品なんかを調べさせてもらわないとね。疑ってるわけじゃないんだよ。俺たちだってこれがお仕事だからさ」
落合にならって、真壁も懐中電灯で奥を照らした。
女は太っていた。身長は150センチを少し超えたぐらいで、体重は70キロ程ありそうだった。赤っぽいワンピースを着ているが、布地は擦り切れており、汚れと垢にまみれて元の色が分からないほど黒光りしていた。
男たちも薄汚れた格好をしていた。よれた青いジャケットにだぶだぶしたグレーのズボンを着ていたが、これも黒光りしていた。年齢は50~60ぐらいに見えるが、実際は40かもしれない。
真壁は息が詰まりそうだった。浮浪者たちから漂うドブの腐ったような臭いが容赦なく鼻腔を突き刺してくる。隣の落合をちらりと見たが、慣れているのか平然としている。
「おい、それはなんだ?」
落合がロッカーの中を懐中電灯で照らした。外見とはおよそ似つかわしくない、高級そうな腕時計にブランド物のバック、貴金属類が所狭しと詰められていた。
「真壁、中身を全部だせ」
ロッカーは最上段の棚に入っているので、背の高い真壁が中に手を入れてひっぱり出した。いずれもスイス製やルイ・ヴィトンといった高級品だった。
落合が表情を厳しくして問い詰めた。
「これ、どうした?」
「預かったんですよ」
男の1人が答える。
「誰から?言ってみろ」
「言う必要があるんですか?」
「当たり前だ」
「通りがかりの人ですよ。急ぐからロッカーに入れてくれと。それで1万円、もらいました」
男は1万円札を見せたが、落合は追及の手を緩めない。
「所持品を見せてもらおうか。みんな、持ち物を出して見せろ」
金のネックレスにロレックスの腕時計、財布などが出てくる。質札が30枚ほどある。一度にこれだけの品物を質屋に入れると怪しまれるので、ロッカーに保管しておいて時おり質屋に持っていくつもりだったのだろう。
落合が怒鳴った。
「お前ら、窃盗団だな!よし、交番でみっちり絞り上げてやる!」
3
高城一範巡査部長が応援として加わることになった。高城は第3係の中で勤務暦の長いベテランで、角ばった顔貌に職人らしい頑固さがにじみ出ていた。
落合と真壁は持っていたロープを浮浪者たちの腰に通し、高城がロープの両端を落合と真壁の手首に結わえた。品物は1つのバックに全部つめて、真壁が持つことにした。
歌舞伎町交番に同行している途中、通行人が追いかけてきて真壁の肩を叩いた。
「おまわりさん。あの人が財布を落としましたよ」
通行人が浮浪者の男の1人を指した。田中と名乗っていた。
「あ、それは俺のですよ。うっかり落としちゃったんですね」
田中が受け取ろうとするのを、高城が真壁の手から財布を取った。
「ちょっと待て」
高城が財布を開けると、入っていた運転免許証の名前を確認する。
「この野郎、名前が違うじゃないか!これも盗んだんだろ!」
「す、すいません。さっき盗んだばかりなんで」
真壁が名前の欄を見ると、伊藤と書かれていた。呆然とする真壁に、高城が言った。
「どんな時でも耳と眼は動かしてろ」
「はい」
歌舞伎町交番で、窃盗の手口を追及した。手口の追及は、交番の1階の奥に相談室で行われた。台所へ続く通路をはさんで右側に2つ、左側にトイレと並んで1つある。
トイレの隣の部屋は第3係が入る時は高城の専用となっている。広さは2畳ほどで、スチール机とパイプ椅子が置かれているだけだが、机の上は高城の几帳面な性格を表していてペン立て、メモ用紙と付箋紙、四角いクリップ入れがきっちり計ったように並べられている。右上の隅に、正方形に畳んだハンカチが置いてあるのも定位置だ。
雑談を交えながら、高城が聴取した。真壁はその傍で、盗品の目録を書いた。腕時計が5点、指環やネックレスなどの貴金属類が20数点、バックが3点という内訳だった。
窃盗団を率いていた女によると、泥酔者を介抱するフリをして、その隙に衣服やカバンから盗み出すのだという。次に、置き引き。ゲームセンターでは、荷物を床に置いたままゲームやプリクラに熱中しているから、その間にカバンごと持っていく。
「どのゲーセンが最も狙いやすいの?」高城が言った。
「そりゃあ、この眼の前のゲーセンですよ」
歌舞伎町交番が眼の前にあるので、客は安心してゲームに集中できる。その隙を突くのだと、自信たっぷりに答えた。もちろん、金のありそうな者しか狙わない。そうした得た品物を区役所前のコインロッカーに隠していたということだった。
窃盗団はその後、パトカーで新宿西署に移送された。それを見送ると、高城が真壁と落合にぼそりと言った。
「制服は着替えた方がいいかもしれんな。俺たち、臭うぞ」
そう言われて、真壁は制服の袖に鼻をやると、たしかにドブのような臭いがする。
「それと、眼を擦らない方がいい。俺は脹れたことがあるぜ」落合が言った。
「本当ですか?」
高城はうなづき、苦笑を浮かべた。
「これだから、浮浪者を相手にするのはヤなんだよな。あいつらの臭いは、あの世までついてまわるとしか思えない」
4
窃盗団を捕らえてから1週間経った夜、真壁は立番中に、こみ上げてくる欠伸をどうにか抑えていた。
警視庁の地域警察官は4つの係に分かれ、それぞれが日勤、第一当直、第二当直、非番という順序で交代勤務している。第3係は午後2時半に出勤し、翌日の午前10時まで勤務する「第二当直」に当たっていた。
そこに、高城が顔を出してきて、真壁の肩を小突いた。
「若いくせして、情けねぇな」
真壁は「すいません」と呟き、いまだ夜間の勤務に慣れない自分を呪いながら、「どうしました?」と訊いた。
「110番通報。歌舞伎町2丁目のホテルで女性客が暴れているらしい。行くぞ」
真壁は高城に急かされて、夜道をホテルへ走った。高城の年齢は50に近く、走るのが億劫になり、若い自分を先にやって後からついて行こうという算段だろうかと思った。
真壁が到着すると、ホテルの女将が「あら、若いのね」としげしげと眺めてくる。
「どうかされたんですか?」
「いやね、昨夜は社長さんらしい人と一緒に泊まったんです。でも、朝になったら男の人は先に帰ったらしくて女の人が独りになっていてね。それで暴れてるんですよ。訳の分からないことを言って」
女将によると、女性は30歳前後だが、定時制高校生で、社長の事務所で働きながら都立高校に通っているという話だった。
高城が遅れて到着する。女将の説明を真壁が高城に伝えると、高城と真壁はさっそく女性が入っている部屋に向かった。
部屋のドアを開けた女性は、全体的に体がひ弱そうで痩せていた。ダイエットして痩せている感じとは違うようで、よく見ると、顔色が青白い。浴衣を上からはおっているが、その下は裸である。パンツも履いていない。
2人の警官を見るなり、女は叫んだ。
「どうして警察なんか呼ぶのよ。私はお金を払って延長しようとしてるのよ。警察なんか関係ないわよ」
浴衣がはだけているので、裸が丸見えだが、気にする様子もない。真壁は「まだヤクが効いてるようだ」と感じ、高城に耳打ちしようとすると、女は急に真壁に近づいてきた。
「坊や、ちょっとイケメンね。坊やになら、見せてアゲル」
浴衣をはずし、裸になった。真壁は眼を見開いた。女の前で直立不動になり、眼のやりどころが無く視線が泳いだ。
その様子を見ていた女将が「見てらんない」と言って立ち去った。さらに大胆になった女は真壁の傍によりかかって「あなた、あなた」と言いながら、抱き着いてしまった。真壁が体を振り払おうとすると、「いいじゃないの。私のことキライ?」と迫る。
真壁が高城を見ると、自分の様子を見て笑っている。
「高城主任、こういう時は・・・」
高城は女を引き離した。
「ちょっと、ちょっと。こいつはまだ若いんだから、あんまりいじめるなよ」
やがて社長がやって来た。女は社長に訴える。
「私、この2人に犯されました」
女は裸である。状況は警官らに不利だ。
「何言ってるんですか?」真壁が言った。「最初から裸だったじゃないか」
「いいえ、違います。このおまわりが来た時は、パンツをはいてたし、ブラジャーもしてたんです」
社長も2人の警官をにらみつける。
そこへ女将がやって来ると、高城は「女将さん、私らがこの女の人を裸にして犯したと言ってるんですよ」と声をかけた。
「冗談じゃないわよ。最初から素っ裸じゃないか。私が証人になりますよ」
女将の強い口調に、女は口をつぐんだ。その場をどうにか高城がいなすと、社長は女の宿泊費を払って、2人は待たせていたタクシーでホテルを出て行った。
真壁と高城が続いてホテルを出ると、東の空が明るくなってきていた。交番への道を戻りながら、真壁は高城に言った。
「女はヤクをきめてたみたいでした。覚せい剤使用で逮捕しても良かったのでは?」
「女の部屋は見たか?」
「いえ」
「ベッドの上に小さなアルミのパッケが転がってた。おそらく、危険ドラッグの一種だろう。お香とかバスソルトの名目で売られてるものだ」
真壁は思わず高城の顔を見た。
「あれはお香だと言われれば、それで終わりだ。摘発できない」
高城は真壁の肩を叩き、低い声で言った。
「よく聞き、よく見るんだ。頭は放っておいても、後からいくらでもついてくる」
「はい」
東の空が明るくなり始めていた。新宿の夜が明ける。