1
歌舞伎町に夜が明けようとしている。
真壁仁は早朝のパトロールに出ていた。人影はほとんどない。秋雨がもたらした冷たい風が顔を刺し、鼻の内で乾いて固まった瘡蓋を刺激する。花道通りを風林会館方向へ行き、そこで右に曲がって新宿コマ劇場の脇に出ると、通報者が待っていた。
バー「ロワイヤル」のオーナーである高見謙吾は、真壁の顔を見て驚いた。鼻梁の上に貼った絆創膏を指差す。
「真壁ちゃん、どうしたの?いい男が台無しだよ」
「昨日の夜、喧嘩沙汰に巻き込まれちゃって・・・」
花道通りの近くにあるキャバクラから110番通報があった。真壁が店内に入ると、右翼団体を名乗る男2人が取っ組み合いの喧嘩をしていた。どうにか男たちを店から出して仲裁しようとすると、男の1人が携帯電話を投げつけてきた。
頭に来た真壁は、相手の胸倉を掴んだ。すると、男はいきなり頭突きを真壁の鼻に食らわしてきた。鼻から鮮血が溢れ出し、余計に激昂した真壁は頭突きを数回たたき込んで、男を打ちのめしてしまった。
そのとき、歌舞伎町交番から同僚が出て来て男たちを連行して行った。第3係長の佐藤正登が公妨(公務執行妨害)にしようと言ってくれたが、真壁は恥ずかしくなり、「止めて下さい」と答えた。
真壁は不快そうに鼻を鳴らし、話を本題に戻した。
「それで、今朝はどうしました?」
「ああ、そこに女の子が倒れてんだけど・・・」
高見が指差した先に、真壁は眼を向けた。ゴミ袋を入れた青いポリバケツの脇に、女性の服らしきものが見える。上からのぞき込むと、ベージュのコートを着た若い女性が倒れていた。
コートの間から赤いワンピースが見える。髪はブラウン。胸元がはだけ、白い肌がまぶしく光る。裾もめくり上がり、細い脚が露出している。その傍に、カバンが転がっている。
真壁は女性をゆすって起こす。女性が細く眼を開ける。しかし、自分では起き上がれないようだった。
「どうしました?」
茫然自失の状態だった。真壁は女性の背中に手を回して上体を起こし、近くの自動販売機から清涼水のペットボトルを買って来て女性に渡す。よほど喉が渇いていたのか、音を立てて飲み干した。
「具合はどうですか?」
「ここは、どこ?」
「コマ劇場ですよ」
「あたし、東口を歩いてた気がするんだけど・・・」
女性は昨夜のことを話し始めた。
友達と東口で待ち合わせて、居酒屋に入った。その後、カラオケに入って11時ごろに店を出たような記憶がある。駅へ歩いている内に、急に気分が悪くなって、道端に座り込んだ。友達が抱き起こすが、身体が言うことを聞かない。
友達に支えられたまま、東口まで来た。
駅の入口で友達と別れた後、道路かベンチに座ったような記憶がある。しかし、その後の記憶はいっさい無い。気が付いたら、真壁に起こされていたというわけだった。
「財布とか、盗まれたものはありませんか?」
女性はカバンの中身を探った後、意外と幼い声を発した。
「大丈夫でーす」
真壁は自分の手や、女性の衣服に鼻を近づけた。特に異臭はない。浮浪者が酔って倒れた女性に乱暴をはたらくことはよくある。
「家は?」
「中野です。タクシーで帰りまーす」
真壁は女性に肩を貸し、靖国通りまで付き添った。タクシーをつかまえ、女性が後部座席に乗ると、真壁は言った。
「もう深酒はダメですよ」
「はーい」
真壁はタクシーが朝焼けの中に消えていくまで見送った。
2
真壁は3日後の夜、同僚の有村純平と一緒に巡回していた。
輝くような大通りから枝道へ曲ると、途端に照明がまばらになった。飲食店、風俗店の看板が薄暗く、頭上に連なっていた。
真壁の方が先に、気づいた。
街灯から少し外れた場所に、1台のステーション・ワゴンが停まっていた。銀色の車体は、半ば闇の中に隠されていた。ワゴンの傍らに、男が立っている。黒い革のジャンパーを着込み、耳に当てていた携帯電話を、ズボンへしまうところだった。
通り過ぎる時、真壁は後部座席に、何か白いものを捉えた。若い女性の脚。
「職務質問(バン)、かけるか?」
有村が、まるで真壁に決定権があるような言い方をした。気にしている間もなかった。真壁は「ええ」と答え、男に眼を向けた。
おそらく30代。金色に染めた短髪。同じ色と長さの髭を顎一面に生やしている。
「大丈夫ですか?」
有村が心配そうな声音を作り、男に近づいて行く。真壁は男の傍らをすり抜け、車体の後部座席にすばやく接近した。
ガラス越しに、女性の横たわる姿が見えた。ベージュのコートから伸びた両脚が、車内の暗がりに消えていた。細いふくらはぎが青白く見える。
真壁は女性の顔をよく観察しようと、ワゴンの後部を回り込んだ。懐中電灯で、車内を照らした。
若い女性だった。コートにくるまり、瞼を閉じていた。ブラウンの長い髪。10代にも見える横顔に光を当てると、女性は一瞬、身じろぎした。
「ちょっと」男が声を上げた。「彼女、寝てるんだ」
真壁は電灯を消した。夜目に慣れ、わずかな街灯の明かりだけで、車内を窺うことはできた。有村と男の会話が耳に入る。
「客待ちです」男が言った。「次の客が決まるまでの間、休んでるんです。事務所?ちょっとここからだと遠いんですよ。名刺?・・・これですけど、戻って休むより、ここでひと寝入りした方がラクですから。彼女、昼は別の仕事してるらしくて」
「無店舗型性風俗の営業開始届は、ちゃんと出してるの?」有村が言った。
「当然です。届出証は、事務所に」
男は誇らしげに答え、身体検査も気軽に受け入れた。顔見知りだという生活安全課の警察官の名前を口にして雑談を始め、いかにも場馴れした様子だった。有村も、寝入る女性を起こしてまで車内捜索するつもりはないようだった。
座席を寝床に、女性は少し体を丸めて、コートだけを上掛けに寝入っているように見えた。どこかあどけなさも残る寝顔に、真壁は次第に自分の方が場違いであるように思えてきた。
男は有村に断ってから明るい場所へ、飲料水の自動販売機へ歩き出した。自販機の明かりに、男の顔色の悪さが映える。厚みのある上着と、痩せた首回りが不調和に見える。
真壁は再び電灯をつけた。ある予感がしていた。背後から投げつけられた男の怒号を無視して、車内を照らした。
再び車内に浮かび上がった女性の青白い顔に、見覚えがあった。
口がわずかに開いている。唇はきつい口紅の色で艶があるように見えたが、その奥の表皮は乾いている。ファンデーションが崩れたのは、たくさんの汗が流れた証左。ゆっくりと瞼が開いた。
虚ろな眼差しが真壁の方を向いた。未だ夢の中にいるように、ほんの少しだけ女性は微笑んだ。
そして、震え出した。
3
「有村さん!」
有村が真壁の傍らに駆け寄った時には、女性の震えは大きな痙攣へと変化していた。
「鍵を」
真壁は声を張った。男は、自動販売機の前にいなかった。どこにも姿は見えない。
有村が暗い通りの奥へ駆けだした。女性の足裏が、小刻みにドアを叩いた。コートが座席の下へ落ち、太腿が露わになると、その内側が赤い発疹が広がっているのが見えた。小さな黒い孔がいくつもあった。
真壁は電灯のグリップを窓ガラスへ叩きつけた。砕けたガラスが細かな破片となって、ワゴンの内外へ散らばった。警報がけたたましく鳴り始めるが、怯む余裕も無かった。車内へ手を伸ばし、指先で探り当てたロック・レバーを、真壁は引いた。
開いたドアの隙間から上半身だけ車内へ滑り込ませ、真壁は光を女性の見開かれた眼に当てた。
瞳孔が拡大している。
真っ赤な唇に鼻を寄せる。異臭がした。唾液の分泌異常によるものだろう。
今すぐ治療を受けさせなければならない。
「状況は?」
有村が帰って来ていた。
「瞳孔が拡大しています。病院へ搬送しないと」
「パトカーを呼んだ。あともう少ししたら来るから、お前も乗れ。おれはここに残る」
「被疑者は・・・」
「無線連絡は、した」
そこへサイレンを鳴らしたパトカーが到着した。真壁はワゴンの後部ドアを開け、女性の背中に両腕を差し込み、脇の下からその体を支えた。その重みと冷たさに、真壁は驚いた。体が硬直を始めているのだ。
有村がパトカーに駆け寄り、後部ドアを開けた。真壁は女性を抱えたまま、後部座席に入り、運転手に「段田さん、よろしくお願いします」と言った。
段田嘉之は救急搬送先を本部へ問い合わせ始め、備品の小さなペットボトルを真壁に手渡した。
「後ろでしっかり抱えていろ。嘔吐するようなら、気道確保を忘れるな」
有村はそう叫んで、ドアを閉めた。警光灯の回転で、周囲の道路が赤く染まっていた。
女性の上半身を膝に乗せ、長髪が乱れた頭部を、真壁は抱きかかえた。ハンカチに、飲料水を染み込ませた。顔を拭き、もう一度染み込ませて、唇を湿らせた。水分を摂取しようとする意思は、感じられなかった。突然、女性の体の強張りが解けた。
女性は少しだけ顎を上げ、薄く開いた瞼の奥の黒い瞳が光を取り戻したようだった。あらためて女性を観察した真壁は、その若さに気付いた。10代半ばを少し超えた程度にすぎなかった。今、何かを言った。声は小さく聞き取れなかった。
真壁は少女の乾いた唇に耳を寄せた。
「誰・・・?」
「警察です」
真壁は答えた。サイレンが鳴り響き、真壁は顔を上げた。車が動き出した。
「搬送先が見つかった」
段田は振り向きをせずに言った。
「少し遠い」
華奢な体が、今度は完全に弛緩した。真壁は強く抱きしめた。少女の体は、少しも温まらなかった。真壁は片手でその背中を擦りつつ、声をかける。
「頑張れ。今、病院に向かってる。水は?」
閉じかけていた瞼が開き、再び黒い瞳が真壁に向いた。ひどく緩慢な動作だった。聞き取りにくい小声で言った。
「よかった、アンタで」
真壁は少しでも温めようと掌を動かし続けた。緩んだ皮膚が、体から浮き上がり、掌に貼りつくように感じられた。
「・・・色々しでかしたけど、最後にアンタみたいなカッコイイ人に抱かれるんだから、上等よね・・・」
語尾がかすれ始めた。真壁は少女を抱き寄せた。少女は「ねぇ」と囁き声で言った。
「お父さんに、ごめんなさいって・・・」
浅い呼吸を数回くり返した後、再び体が硬直した。手足を突っ張ろうとする少女を、真壁はしがみつくように抱えた。震えが真壁の胸にまで届いた。少女は力を抜いていた。その首が傾いた。
真壁は両腕で、華奢な体をしっかりと支える。
そうしなければ、膝から少女が零れ落ちてしまいそうだった。
少女の体が重くなっていく。
4
担架に乗せ替えられた少女が信濃町の大学病院の救急搬送口の奥に消えるまで、真壁は見送った。蒼白な少女の顔を思い浮かべ、真壁は自分の制服の胸に染みができているのに気づいた。背中を軽く叩かれた感触があった。
「まだ、終わってない」
後ろから、段田の声が聞こえた。
「戻ろう」
現場に戻るまで、2人とも何も言わなかった。無線から、被疑者確保の報告は聞こえてこなかった。
放置されたワゴンの周囲には、すでに立入禁止のテープが張り巡らされていた。現場を覗きこもうとする野次馬を押しのけてテープを潜ると、生活安全課か組織犯罪対策課の腕章をつけた私服警官に睨まれた。
真壁は思わず睨み返した。今では逃走した被疑者のことばかり考えていた。テープの近くに立っていた有村が真壁の袖を引っ張り、低い声を出した。
「下がってろ」
「事情聴取は?」真壁は言った。
「もう終わった」
有村の声音から、聴取はかなり厳しいものだったことが伺えた。それでも有村はネタをひとつ掴んでいた。捜査員の会話を傍聞きしたところ、被疑者は無認可の風俗営業者であるらしい。
怒りが、明確な形となって真壁の胸の内に現れた。
鑑識員が銀色のワゴンに張りつき、作業を続けている。トランク・ルームの内容物を路上のビニール・シートの上に並べていた。金属製の工具箱。薄汚れた毛布。小型の発煙筒。鑑識員の1人が、後部ドアの砕かれたガラス片を丁寧に集める姿が見えた。ガラスの割れた理由を、説明しに行くべきだろうか。車へ近づこうとした真壁は、別の鑑識員が後部座席から抱え上げたものに眼を停めた。ビニールの小さな包みを束ねている。
ビニールで包装された注射器。大量の覚醒剤。男は売人でもある、ということだ。
そのとき、真壁の無線が鳴った。少女の父親が署に来ていた。
真壁は、少女の父親と眼を合わせることが出来なかった。
新宿西署の小さな休憩室で真壁が遺族と会うことになったのは、事情聴取を捜査員が行う前に、少女の死に際を警察から伝えるためだった。
少女の名前は、南野佳織といった。中野のセンターに総合照会をかけると、M号(未帰宅者・行方不明者)でヒットがあり、家族と連絡を取ることで身元が判明したという経緯を、真壁は生安課から説明を受けた。
父親は電車を乗り継ぎ、署へとやって来た。少し長く伸ばした髪は乱れ、服装も外へ出るために身に着けただけという感じだった。
真壁は一礼すると、二度と父親の前で顔を上げることが出来なくなった。父親との間に置かれた机の表面へ視線を落としたまま、真壁は佳織の最期について語った。大量の汗をかいた跡があったこと。痙攣が始まったこと。痩せた体が、少しも温まらなかったこと。微笑んだこと。それから、「ごめんなさい」と伝えてほしいと言われたこと。
佳織の父親が座ったまま深く頭を下げたのは、気配だけでも感じることが出来た。机につくほど頭を垂らしたまま、しばらく何も言い出そうとはしなかった。真壁も、かけるべき言葉が見当たらなかった。誰もが黙っていた。同席した生安課の警官も、真壁の隣にいる有村も同じだった。
やがて、父親が少しだけ顔を上げた。
「・・・タバコを吸ってるところを、見かけたのです」力ない言葉だった。「その時は、強く殴りました。一人娘として、ずっと大切に育ててきたつもりだったのですが」
そして、怒ったように言葉を続けた。
「馬鹿な娘です」
それから、娘について何も話そうとはしなかった。
佳織と父親はずっとすれ違ってきたのだ。
真壁はそんなことを思った。
5
この日、佐藤警部ひきいる第3係は午後2時半に出勤し、翌日の午前10時まで勤務する「第二当直」に当たっていた。
巡回の前に拳銃、警棒、手錠などの装備と服装の点検が行われ、地域課課長の簡単な注意報告に入る。その場で新宿西署の講堂に、特別捜査本部が設置されたことを告げた。
司法解剖の結果、南野佳織の遺体の太腿に多く残された注射痕のうち、いくつかの孔は本人では打つことの出来ない角度から作られたものと判明した。少女の死の可能性を認識しながら、大量の薬物投与は未必の故意に当たるという解釈により、殺人事件としての捜査が開始されたとのことだった。
「被疑者として浮かび上がったのは、かねてから無認可の性風俗営業を疑われ、生安課が睨んでいた男だ。家出人の少女を多く擁していると推測され、今後とも歌舞伎町の周辺に出没する可能性がある。十分に警戒してもらいたい」
課長がしめくくると、黒い革のコートをまとった第3係は号令とともに、地域課の会議室を出た。真壁が同僚の落合諒介と出ようとしたところで、呼び止められた。
「真壁、ちょっとコッチへ」
地域課課長代理の上岡英昭だった。真壁を歌舞伎町交番に引っ張ってきた人物だった。
上岡は自分の机の上に置かれたファイルを開き、写真を1枚取り出した。
「これは特捜本部から借りてきたものだ。この顔に見覚えはあるな」
真壁は写真を手に取る。被写体は金色に染めた短髪に、同じ色と長さの髭を顎一面に生やした30代ぐらいの男だった。
「銀色のステーション・ワゴンの持ち主です。間違いありません」
「確認できたら、それでいい」上岡はうなづいた。「有村は優秀なんだが、少し抜けてるとこがある。人の顔をよく覚えられんらしくてな」
真壁は写真を手にしたまま、言った。
「この男の名前は・・・?」
上岡は訝しげな顔をし、ファイルに眼を通した。
「知りたいのか?ええっと・・・窪田惇一というそうだ」
「ワゴンには、大量のヤクがありました。どこから仕入れてるんでしょうか?」
「この資料によると・・・コロンビアからヤクを輸入してるブローカーがいて、そいつから仕入れてるらしいな。で、そのブローカーは吉澤会系の暴力団とつながりがあるとされている」
「では、特捜本部の狙いは窪田じゃなく、ブローカーと吉澤会系暴力団・・・?」
「まぁ、そうだろうな」
真壁は写真を上岡に返した。上岡は声を低くした。
「不服そうだな?顔に出てるぞ」
「いえ・・・」
「いいか、これは捜査員の仕事だ。制服警官の出る幕なんて、ないぞ」
真壁は無意識のうちに、低い声で返していた。
「やるべきことをやるだけです」
署の玄関に向かいながら、真壁は途中で立ち止まり、眉間に手をやった。さっき上岡が言っていた「窪田惇一」という名前。窪田の顔の記憶と名前が具体的に結びつき、脳裏に焼けつくような焦燥が増していくのを、真壁は感じていた。
署の玄関で、落合が待っていた。コートの肩に留めた無線のダイヤルを回していた。
「どうしたんです?」真壁が言った。
「さっきから、署活系の無線がうるさいんだよ。今夜あたり、何か動きがあるかのかもしれんな」
6
午前1時すぎ、真壁は巡回に出ると断って歌舞伎町交番を出ると、風林会館の脇の細い路地で無線に耳をすませていた。
『男は1人か。間違いないか』『1人です』『顔、見えたか』『見えません』と、刑事たちの短いやり取りが続いている。
何か動きがあるという落合の言葉通り、今夜また、窪田がヤクの受け渡しを歌舞伎町で行うと無線のやり取りが告げていた。
真壁は無線の断片的な情報を頭の中で組み立て、現場を突き止めようとするが、仮に現場に突っ込んだ際、どうしたらいいのかという性急な思案へ頭を切り替えなければならなくなっていた。
そのとき、無線の抑えた一声が囁いた。
『こちら、1班。スカイライン到着、停車』
『3班、移動準備。2班、持ち場で警戒』
暗がりの中、脇道を大勢の靴音が駆け抜ける音がした。真壁は音がした方向へ走ると、歌舞伎町2丁目の遠くの街灯に黒い背広姿がいくつも浮かんでいた。
『全員、警戒態勢。3班、班長の指示を待て』
『1班、スカイライン発進した。区役所通り方向・・・』
反射的に腕時計で確かめた時刻は、午前1時38分。スカイラインに乗った窪田が現場から逃げようとしている。
《こっちへ来たらどうする》と思った瞬間、いくつかの短い怒号と複数の足音が近づいて来て、「曲がるぞ!右折だ!」という叫び声が聞こえた。
真壁は顔を上げた。甲高いブレーキ音を響かせて、黒い車が路地へ回り込んでくる。距離は約20メートル。強引な右折で大きくぶれながら、路地へ突っ込んでくる眩しいヘッドライトの光の輪が2つ。
フロントガラスの奥に、ぼんやりと窪田の顔が浮かんだ。「止めろ!止めろ!」という複数の怒号、いくつもの靴音が折り重なるなか、真壁は突進してくる車のフロントガラス目がけて、自分の身体がふわりと移動していくのを感じた。そして眼前の車が止まっているような錯覚が見えた瞬間、激しいブレーキ音と衝突音とともに車が視界からかき消え、意識が飛んだ。
車は電柱に突っ込んで止まっていた。たちまち駆けつけた刑事たちが取り囲み、ぶつかりあう人の輪から真壁ははじき飛ばされた。車から引きずり出された男に、捜査員たちがのしかかり、押さえつける。
「身柄確保!身柄確保!」
その後、眼前の人だかりが動き出し、押さえつけられていた男が地面から引きずり起こされた。捜査員の隙間から、窪田の顔が見えた。
耳元で「闘牛場へ行け」と誰かがささやいた。電柱に突っ込んだ車のフロントガラスに黒革のコートが引っ掛かっていることに気づくと、真壁はようやくそれが自分のコートだということに驚き、自分は何をしたんだと考えたが、それも思い出せずその場に立ち尽くしていた。
後日、捜査員の許可を取って、真壁は取調室で窪田と対面した。どうしても聞きたいことがあったからだ。
真壁と顔を合わせると、窪田は口角を緩めた。
「アンタのことは覚えてるよ。運のいい奴だ」
真壁はこみあげてくる嫌悪感を抑えた。
「運の善し悪しなど、関係ない」
「・・・佳織の奴、どうなった?」
「死んだ。テレビで報道されてただろ。新聞とかネットでも」
「見ちゃいない」
「お前が打った注射で、人が死んだ。何か、言いたいことがあるんじゃないか?」
「頼まれたからさ。頼まれて、打っただけだ。手が震えるからって」
窪田は何か苦しそうな表情を見せた。
「量は増えてたがな、いつもと同じだったんだ。あの日に限ってアイツの汗が止まらなくなった」
「ヤクへの耐性は、体内で急激に形成される。致死量は常用性によっても、体質でも体調でも、大きく変化する。だが、殺したのはお前だ」
窪田は鼻を鳴らし、笑った。
「アイツの趣味みたいなモンよ。気晴らしさ。止めやしないさ」
真壁はくり返し言った。
「お前が彼女を殺したんだ。違うか?」
「・・・死んでから、アイツ、どうなった?」
真壁は窪田の顔を見つめたまま、黙っていた。
「引き取り手がいないなら・・・」
「父親が引き取った」
「何か言ってたか?」
「何も」
父親は「馬鹿な娘」だと言っていたが、佳織の遺体をたしかに受け取ったのだ。
「・・・そうか」
窪田は急に静かになった。
「たぶん、許してもらえたんだろうな」
真壁は答えなかった。