18
「あなた、警察に言います・・・」
そう言いかけた老人の顔めがけて、突然、ジャンパーのポケットから現れた男の右手が飛んだ。ほんの短い呻き声を上げて、老人はテーブルにつっぷし、そのまま床に崩れ落ちた。男の右手には、掌に隠れるほどの小型のオートマチックが握られていた。
私はとっさに、公安だという奥のテーブルの男女に眼を走らせた。男女はこちらを見ていた。これまで見せたことのない、注視の眼差しだった。この男の正体を知っているのか。あるいは2人が狙っているのは私なのか。老人が殴られたというのに、動こうともしない。一体どういうつもりなのか。本当にあの2人は公安なのか。そして、この爺さんは?
何の判断もつかないまま、私は殺し屋に向かってうなづいた。席を立ち、頭を抱えて唸り声を上げている爺さんをまたぎ、通路を出た。
ウェイトレス2人がこちらを見ているが、声は出なかった。男が銃口を向けたからだ。奥の男女も動かなかった。男は私のかたわらに寄り添って、脇に銃口をつきつけ、『早く行こう』と促した。
こうして全身の血管が茫々としてふわりと広がるような感じに襲われる時、私は処刑場へ向かって歩いているように感じた。浮足立ってもはや判断力も何もなくなり、恐怖も遠のく。普段ならそうなのだが、そのとき私は、まだいくらか判断力があり、恐怖も残っていた。妻の顔を思ったせいだろう。私は残された時間を計算するために、ちらりと店の壁の時計を見た。時刻は午後7時31分。選択肢は2つしかなかった。
私は銃口で急かされて、男とともに喫茶店の入口の階段をかけ下がった。路地の喧騒が、あらためて生き返ったように耳に響いた。野次馬の雑踏に混じって制服警官がいくつも見えたが、喫茶店を囲んでいるような気配はなかった。あの老人がもし警察関係者なら、独りで喫茶店に戻ってきて私に耳打ちする前に、あることがあったはずだ。やっとそんなことを考えた。私の判断力も思考力も、刻々と鈍っている。
殺し屋と私は、野次馬に紛れて速やかに移動した。ファヴォリテン通りを出ると、男は駅の方向ではなく、北へ足を向けた。
「どこまで行く気だ」私は言った。
「警察が追ってくるぜ」男は短く、正確な英語で応えた。
それは事実だった。あの喫茶店にいた男女か。あるいは連絡を受けた張り込み班か。逃げる私たちの靴音と似たようなペースで、背後に靴音が聞こえる。通行人の靴音と違うのですぐ分かる。
私と謎の男は入り組んだベルヴェーダーエーガッゼの路地へ入り込んだ。早足に歩くうちに、「もういいだろう」と男は言った。背後の靴音は消えていた。
ゴミ箱が連なった暗い路地で、男は初めて口元を緩めた。能面が消えると、ごく普通の男の顔が現れた。
「忠告しに来た」男は言った。
「5分だけ付き合ってやる。5分経ったら、立ち去るからそのつもりでいろ」
この男の目的が殺しでないことは分かっていたが、男の素性や目的について、真剣に考える余裕は、私にはすでに無かった。
「アメリカへ行くんだろ?」男は尋ねてきた。
「何が言いたいんだ」
「まず、頭を冷やすことだ。あんたが日本の外交官だってことは分かってる。そのあんたが偽造旅券を買ったという話も洩れてる。あんた、井の中の蛙だ。この世界では、そんな頭ではやっていけない。脳味噌の中身から入れ換えることだ。何なら手伝ってやるぜ」
私はむかむかしながら、自分の腕時計を眺め続けた。何もかも洩れている。北朝鮮の情報将校よりも中国人の娼婦ひとりを亡命させる方が鬼門だったのかと慄然し、絶望が眼の前に垂れ下がると、今度は逆に腹が据わってくる。
「1分経った。まずは名乗れ」
19
男は写真と氏名の入ったイギリス外務省のパスポートを持っていた。名前はテープで消してあったが、写真は本人の顔だった。
「本題に入れ」
「アメリカへ行くのは結構だが、この状況では無理だな。今夜のあの喫茶店の状況を見る限り」
「余計なお世話だ」
「なあ、あんた。今夜のあの店、おかしな奴ばっかりいたと思わないか?」
「そうだな。まず、あんただ」
「俺は小銭をテーブルにぶちまけたり、名刺をいちいち取り出して眺めたりしたおかしな野郎。あんたも振り向いて見ただろ。女もじっと俺を横目で見た」
「紫のスーツの女か」
「ああ。俺はあんたとあの女の眼を引きつけたかっただけだ。女は案の状、俺の正体に気付いた。だが、あんたは注目こそしたが、俺の素性については白紙のように見えた。俺は自分の出方を計算するために、それだけまず確認させてもらったんだ」
男はひとつうなづいた。
「それから、マフィアが1人。封筒を落として、足で蹴って椅子の下に隠した奴。あれは、俺の相棒だ。あとから入ってきた角刈りの男。私服警官もそうだ。マフィアの兄さんが落とした封筒の中身は、塵紙の束さ。見るか?」
「結構」
「あの芝居は、元はと言えば、あの女をひっかけるためだった。あの女、あんたは知らないだろう?あれは、北京からの指示を受けてあんたを見張っていた女だ」
「2分経った。急げ」
「あの女、情報屋をやりながら、資金稼ぎのために公認でブツを動かしていた。何回か、俺の筋と取引したことがある。それで、俺は仲間とあの芝居を仕組んだ。もちろん、あの女を葬るためだ」
「俺を見張ってた女が、なんであんたの挑発に乗ったんだ?」
「理由は2つある。1つは、俺が椅子の下から拾ったブツが、女にとってはあんたより重要だったこと。あんたの首は一銭にもならないが、ブツは金になる。あんたとブツを並べたら、女がブツを取るのは、俺には初めから分かっていた。だから仲間と芝居したんだがな。そしてもう1つの理由は・・・」
私は男の言葉をさえぎった。
「女の他に、見張りがもう1人。爺さんか」
「そうだ。あのジジイは女とグルだ。女と組んであんたを見張ってたようだ。《ようだ》というのは、あの場で初めて分かったからだ。ジジイがあんたに話しかけてるのを見て、俺は《ははァ》と思った。実はこれまで、ジジイはアパートの大家で、そのアパートの2階にあの女が住んでるということしか分かっていなかった。だが、今夜あの喫茶店に2人で揃って顔を見せたことで、やっと爺さんの正体がバレたというわけだ」
「しかし、あの爺さん、あんたが女に渡した封筒が、ヤクザの落した封筒と別ものだと気付いていた」
「だから、慌てたんだろうさ。あの現場で『おい、違うぞ』と女に注意しに行くわけにもいかない。そんなことしたら、グルだとバレる。ほら、爺さん、わざわざ席を立って爆発の現場を見に行ったっけな。ピンと来たんだろ」
「あんたの正体に気付いた」
「そうだ。野次馬根性で見物に行ったんなら、自分のバッグを置いていくか。バッグを置いていったのは、ともかくあんたを逃がすことが出来なかったから。そして、戻ってくるつもりだったから。戻ってきて、半信半疑ながら、俺の正体を確かめるつもりだったのさ。そうして喫茶店に戻ってきて、あんたにカマをかけた。おおかた、爺さんは俺がどこかの殺し屋だとでも言ったんだろう?」
「そう聞いた」
「まさか真面目に聞かなかっただろうな。あの爺さんが確かめようとしていたのは、あんたの反応だ。あんたの反応で、俺の正体が判断出来るからだ」
「そういうことなら、てんで役に立たなかった」
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「なに、爺さんは本来の目的は達したはずだ。あんたが誰かを連れて、逃亡しようとしてるのかどうか。あの爺さんと女には確かめる任務があった。あんたがさっさと逃亡するつもりなら、あんな喫茶店に1時間もじっとしてるはずがない。知らないジジイに声をかけられて、黙って聞いてるはずがない。だが、あんたはじっとしていた。席を立たなかった。あんたは誰かと接触しようとしてる」
「そんな話は初めて聞いた」
「それは、それは。ジジイの一連の言動は、あんたが1時間もあの喫茶店で我慢してる理由を、あのジジイが知っていたということでもある。どんなにつついても、あんたがあそこを動かないってことをだ」
「好き放題、言ってくれるな」
「あんたがあの喫茶店を動かないことは、皆知ってた。俺も知ってた。店の奥にいた男女も知ってた。いいか。あの男女も、俺も、あのジジイも死んだ女も皆、ある目的があって今夜、あの喫茶店にいたんだ。今夜あの時間帯に、あの店にあんたがいることを知ってたから、皆いたんだ。あの死んだ女とジジイはあんたを見張るために。そして俺は、その2人があんたを見張るだろう察して、その動きを見張るために。そして、あの若い女と中年男のカップルは、俺たち全員を見張るために」
そうすると、関係なかったのはポルノ雑誌を開いていたビジネスマンと、あとから現れたその連れ。そして、あの中年の調査員だけということか。
「ところで、あの中年男、誰だ?」
「保険の外交員」
「外国人のあんたに保険か。バカか」
「そう言ってやった」
「店の奥にいた男女のおかしなカップルが何者か、ついでに教えてやろう。連邦警察の公安にいる警部補と巡査部長だ。さあ、そろそろあんたも分かってきただろうが・・・」
「5分の約束だ。あと2分」
「尋ねたいことは、何かないのか」
「ない」
「それは結構」男は唾を吐いた。「ともかく今夜、あの時間帯にあんたがあの喫茶店にいることは、皆知ってた。だが、そういう可能性について、あんた自身は全く考えていなかったようだが、なぜだ?」
「質問してるのか」
「確認してるんだ。あんたは自分のスケジュールを他人に洩らすようなマネはしてない。そうだろ?逃亡しようという矢先に、不用意にそんなことをするはずがない。しかし、あんたの今夜の行動は逐一洩れてた。なぜだ?」
「さあね」
「あんたが今夜あの喫茶店にいることを知ってた者のうち、1人を除いた全員が、今夜あそこにいた。問題は、姿を現さなかった者」
「福の神」
「あんたが喫茶店で待ってた人物」
私はとっさに笑った。笑わなければ、他にどんな反応をすればよかったのだろう。この男は、レベッカのことを言っていた。もちろん私は信じなかった。レベッカが七時半までに店を出ると電話で言ったのは、つい1時間ほど前のことだ。そのときすでに、レベッカが今夜の私との約束をすべて警察に話していたというのなら、レベッカはそうして私をおびき出すよう脅迫されただけのことだ。
私はそのとき冷静だったのか、なかったのか。今夜の計画が、外に洩れる可能性について考えていなかったとすれば嘘になる。私とレベッカは用心のために頻繁に場所を変えて公衆電話を使ってきたが、それだって誰かに聴かれていたとも限らない。もし具体的な話が洩れるとしたら、私かレベッカの口しかないことも、私は分かっていた。
だからこそ、レベッカを連れ出したかったのだ。それに、この男が事実を語っているという証拠はどこにもない。
「もう時間切れだ。話は終わりだ」私は言った。
「あと1分残ってる」
そう応えて、男はにやりとした。
21
この男はなぜ笑うのか。私の愚行がおかしいのか。私の窮地を憐れむのか。
「駅へ戻るのか?公安が待ってるぞ。北京の殺し屋もその辺にいる」
「そこをどけ」
私は足を踏み出した。男は行く手に立ちはだかり、数秒にらみあった。そうするうちに、私はあることに気づき、知らぬ間に自嘲の笑みを洩らしていた。
男は正確な英語こそ喋っているが、臭いが違った。私が最終的に、この男の素性をおぼろげに察し、その目的を察したのは、そういうところからだった。男は私の計画をどこからか察知した上で、私と接触するつもりで近づいてきた人間だ。
しかし、私が圧倒されたのは、傲慢な男の顔の中に見え隠れしている強靭な自信だった。その自信のよって立つ島国から、臭ってくるある世界の臭気があった。私の血に流れているものと違う、異国の臭気だ。
「へえ・・・」私は初めニヤニヤし、笑みはやがて哄笑になった。
「分かったか?」男もニヤニヤした。
「ふざけるな。レベッカはどこにいる?」
「この国の警察が知ってる」
「じゃあ、あんたが知ってるということだろう」
「この国の警察と我々は目的が違う。警察が女をおさえているのは、女を保護して国へ送り返すためだ。北京から、そういう要求が来てる」
それには応えず、私は「レベッカはどこだ?」とさらに尋ねた。
「質問するのは俺の方だ。レベッカの正体は?」男は応えた。
「ただの娼婦だ」
「あんたの気持ちは分かる」男は真顔で言った。私は「何が」と怒鳴ろうとしたが、それまで笑っていたために、切替えに失敗し、言葉に詰まった。男は続けた。
「レベッカが以前から警察に情報を流してたのを、知らないことはあるまい。不法就労で眼をつけられ仕方がないとも言えるが、今は立派な情報屋だぞ」
男が『情報屋』と言ったとき、その口に浮かんだ侮蔑と怒りの表情は、私の胸を深く射抜いた。そんな言葉を当然のように使う男に、憎悪がつのった。
「作文はそれで終わりか?」
「作文だと思うなら、試しに駅へ戻ってみるか?」男は呆れたように首を振った。「頭を冷して考え直せ。悪いようにはしない」
「あんた、俺を何だと思っているんだ。領事館へ行っても、俺が喋ることなど何もない」
「あるかないかは、こっちが判断する」
「喋るかどうかを判断するのは、俺だ。俺は誰にも迷惑はかけないし、誰も裏切るつもりはない」
「レベッカは来ないぞ」
「だったら、あんたは国の役に立つことをしろ。レベッカの親族に1人、北京市人事院の高級官僚がいる。レベッカは国を脱出する際、あるリストを持ち出した。香港が操る反体制派活動家のリストだ」
「金を返してやろうと思ったんだがな」男はまたにやりとする。
「何の金だ」
「あんたがカリミから1000ドルで買った偽造パスポートの、残りの代金だと思えばいい」
「ほかに金で買えるスパイを探して、そいつにくれてやれ」
「貴様の棺桶に飾る花代にしてやる」
男は笑い出した。この路地にも、自分にも、無縁の笑顔だった。
「貴様の上司によろしく」
私はそれを最後の言葉にした。男は「おい」と間の抜けた声を上げて、私の手首を掴んできた。私はそれを払い、男を押し退け、歩きだした。
ライナーガッセに出て、私は少し走り、またシェーンブルク通りに入った。路地の暗がりを選んで、私はコートを脱いだ。スーツの上着を脱ぎ、具合の悪かったネクタイも外した。足が痛かった革靴も脱いだ。そうして、ボストンバッグに入っていた古いセーターをジャンパーに着替え、履き古したズックを履いた。
私は再び歩き出した。別に、何かと訣別しようとしたわけでもないし、縁起を担いだ儀式のつもりもなかった。着慣れた衣服に変えたのは、ただ人目をごまかすためだった。金や旅券は、スーツの上着のポケットから、ちゃんとジャンパーのポケットに移した。私の頭の半分は、充分に冷静だった。残り半分がどうだったかというと、夢見心地という表現がおそらく一番当たっていただろう。
22
遠目には別人の姿になった私はシェラインガッセを左に曲がり、ドクトル=カール=ラントシュタイナー・パークに向かった。時刻は午後7時50分。
公園の周辺は、爆弾騒ぎで駆けつけてきたマスコミと連邦警察のパトカーと野次馬で、19分前よりいっそう賑やかになっていた。私は野次馬の群れから群れへ移動しながら、公園の方へ近づいた。
硝煙の臭気がまだ残っている。かなり強力な爆弾だったようだ。私を見張っていた厚化粧の女の顔など、もう浮かんでも来なかったが、恨みも何もなかった若い女の死は、さすがに胸にこたえる。こうした死を日常的にもたらす世界の虚しさが、あらためて足元に広がっていく。
私はまず、見える限り公園を見渡した。路地にちらほらしている人間をひとり残らず見やり、レベッカの姿がないことを確認した。
時刻は午後8時5分前だった。爆発のあった方角に、鑑識員の制服が群れている。ロープが張ってあり、見張りの警官が何人も立っている。それを遠巻きにして、見物の人間の人垣がある。それを横目に、私はグラーフ=シュタルヘムベルク=ガッセに入った。コルシツキーガッセとの交差点に、喫茶店はあった。
午後8時に閉まる喫茶店は、閉店5分前の静けさだった。客は残っているのか、いないのか。仮に最後の客がいるとして、その客が店を追い出されるのを待つために、私は数分、事故現場の人垣の後ろに立った。
欲に眼がくらんで爆弾入りの封筒を掴んだ女がブタなら、そのブタを爆弾で吹き飛ばしたのは何様だ。たかが爺さんひとりといえども、ぶん殴られて昏倒したのを黙って見ていた警官の男女は何様だ。
いや、こうして喫茶店を待合場所にしたために、これだけの騒動を引き起こしたこの俺こそ、どこの何様なのか。
そうしたことを、そのとき私はそれほど真剣に考えようとしたわけではなかった。頭の半分は、しっかりと時間を計っていた。
午後8時2分前になったとき、私は落ち着いた足取りで人けのない喫茶店の階段口を上がり始めた。
自動ドアが開く。店内は空だ。ウェイトレスがこちらへ振り向く。
「もう閉店ですけど」
「手帳を落とした」と言いながら、私は数歩中へ進んだ。
「どんな手帳ですか・・・」
ウェイトレスは、不機嫌な顔で口だけ動かした。もう1人のウェイトレスは、奥の方で椅子をテーブルに上げ始めていた。厨房にいるはずの男の従業員の姿は見えない。
「黒革のやつ。その座席だったかな」
私は椅子をテーブルに上げているウェイトレスの方へ近づいた。
女が顔を振り向けた時、私は脚を払われて床に転がった。背中を踏みつけられた次の瞬間、頭上から手が伸びて女の手から椅子を取り上げて投げ捨て、女の手首を掴んだ。私が首をねじ上げた瞬間、額に銃を突きつけられた。女は「いやぁ」と派手な悲鳴を上げた。
銃の持ち主は店中に聞こえる大声で、もう1人のウェイトレスに怒鳴った。
「警察を呼べ。そこに大勢いるだろう。呼んで来い!」
ウェイトレスは外へ飛び出していき、たちまち警官5、6人の姿が戸口に現れた。店の奥に転がる私とウェイトレスと拳銃の銃口を見るなり、団子になって立ち止まった。
「妹を呼べ」再び持ち主は言った。男の声だった。
「そんな言い方では分からん。《妹》の名前と住所を言え」警官らが応えた。
「連邦警察の公安部の誰かに伝えろ。この喫茶店にいる男が《妹》を呼べと言ってる、とな。それで奴らには分かる」
制服警官たちは顔を見合せ、1人がすぐに踵を返して姿を消した。公安と言っただけで、彼らの顔色は変わり、自分たちには関係のないことだといわんばかりにそそくさと道を譲る。その反応の早さは、予想通りだった。
「落ちつけ。今、連絡しているから、そのまま待て。人質には手を出すな」残った警官たちは言った。
ウェイトレスは、泣くかと思えばわめき、またすすり泣く。ショック状態の混乱なのだろうか。気の強い娘のようだった。男は女の首筋を銃口でこづいて「黙れ」と脅すと、声は聞こえなくなった。
23
「なぁ、起こしてくれないか。床で寝るのは嫌いなんだ」
男は舌打ちをひとつした。
「両手を頭に当てて、ゆっくりと立て。変なマネをしたら、殺す」
「そんな度胸はないよ」
私は言われた通りにして、立ち上がった。男の顔を見る。喫茶店で今まで見なかった顔だった。髪はボサボサで、無精髭は伸ばしたままだ。眼は血走り、息も荒い。ヤクでもきめているのかと不安になった。男は銃を口に咥え、右手で私の身体を検査した。スラックスの尻のポケットに入っていたパスポートを抜き取り、開いた。
「フン、中国人か」
男が取り出したのは、カリミから買った偽装パスポートだった。
「妻と待ち合わせてるんだがね」
「黙ってろ!」
男はテーブルを倒し、出入り口に向かって楯にするように動かした。テーブルの足に、女と私をウェイトレスのエプロンの紐で縛りつけた。今度は窓際に移動し、カーテンを全て閉めた。閉まる直前、私は路地を見やった。レベッカの姿は無かった。野次馬はみなどこかへ移動させられ、防弾チョッキを着た警官だけが走っている。
時刻は午後8時25分。
あの男女が連邦警察本部にいるなら、この喫茶店まで出向いてくるのに半時間はかかるだろう。
私は今でも、あのイギリスの使者が言ったことは信じていない。レベッカが警察に、同胞の情報を流したりしていたのが事実だとしても、2時間前に電話口で《助けて》と言ったレベッカが、嘘をついていたことにはならない。警察に脅されてそう言わされたのなら、なおさらだ。
実は、今夜この喫茶店で落ち合う計画は、レベッカには興信所の調査員を使って知らせたのだった。2か月ほど前、私が住んでいたホテルのバーに、足しげく通ってくる中年の興信所の調査員がいた。酒を奢った。男は金を払うと言ったが、それを断り、代わりにこう言った。
「手紙を届けてくれたら」
そのときすでに、私の頭で計画は出来上がっていた。
調査員に託した手紙は、たった三行。
『君のことが忘れられない。コルシツキーガッセの喫茶店〈ファイルヒェン〉で待ってる。電話をしてくれないか』そして、電話番号を書き添えた。
ラブレターだと思い込んで、調査員は遠く離れた〈ロゼ〉まで足を運び、手紙をレベッカに届けた。レベッカは私が指定したコールボックスへ応答をくれた。そうして連絡が始まり、一度も顔は合わさなかったが、私とレベッカの逃亡計画は出来上がっていた。
《ヘレン》が興信所の調査員を雇ってまで、私を探していることなど知る由もなく。想像する理由もなかったのだ。いったい何を伝えようとしたのか。
私がイギリスの使者に漏らした話は、全て事実だった。レベッカは、電話でさまざまなことを話した。私はいつも聞き役だった。話し相手を欲しがっていたのだろう。寂しかったのだろう。
レベッカが国境を越えた理由は、共産党内部の権力闘争だった。改革派の主導者である胡耀邦が失脚すると、その影響は政治局だけで留まらなかった。あらゆる官僚機構にも改革派の排除の機運が高まり、北京市人事院で改革派に属していたレベッカの兄は知識人たちと結託して学生デモを扇動したと弾劾され、逮捕されたという。
同時に、レベッカは『助けて』と言った。そのために、レベッカはあるリストを持っていると打ち明けた。逮捕直前に兄から託されたものだという。
結城から警告の電報が来たその日、私は本省の国際情報局に電話をかけた。相手は中国課員の清藤隆だった。
私の話を聞いた清藤は、呆れた声を出した。
「香港からの脱出者の話を真面目に受け取ったのか、お前」
「逃げてくるには、それなりの理由があるはずだろ」
「あんな広い大陸で、全員が階級闘争してると思ったら大間違いだ」
「いいから、はやく確認しろ!名前は劉少剛。妹は劉玲だ」
小一時間後、清藤から電話が返ってきた。
「銃殺されたとの未確認離脱者情報が見つかった。今年の5月に、北京市人事局の官僚3名が処刑されてる。うち1名の名前が劉少剛」
その日の夜に、私はホテルのバーで興信所の調査員と接触した。
たった2時間前に、レベッカは『助けて』と言ったのだ。
レベッカが私との計画を警察に話したとしても、脅され強要された結果であり、2時間前の電話で、レベッカが私に『助けて』と言ったのが、最後に残った真実だ。人は過ちを犯し、救いを求める。そのレベッカの声を、ほかの誰でもない、この私が聞くことが出来たのは幸運だったと思う。私は結城から「人を疑うように」と諭されたが、根はただのお人好しだ。こんな私だから引き起こしたこの事態だと言ってもいいだろう。
24
午後8時35分。膠着状態が終わったみたいだ。私は首を捻って、テーブルの脇から喫茶店の出入り口を見た。新たな靴音が響き、防弾楯で固められた喫茶店の入口を、私服の男の姿がちらりと横切った。予想した通り、あの不倫の男女の、男の方だ。相変わらず憂鬱な顔に、今は怒りと侮蔑の色が加わっている。
楯の向こう側から、その男の声が「人質を解放しろ」と言った。
「妹を出せ」男は応えた。
「君の妹など、我々は知らんぞ!君の妹は半年前に姿を消した。行方不明だ」
「妹を連れて来い!」
「無理を言うな。彼女は去年の夏にいなくなったのを君は知らんのか!」
「10分待つ。妹を連れて来なければ、人質を撃つ」
男はテーブルの縁に銃口をのせ、いつでも撃てる構えで待った。入口の方からは、楯越しに「話し合おう」とか「落ちつけ」とか言ってくる。
「あと5分だぞ!」男は怒鳴った。
「頭を冷やせ!君がこの喫茶店で待ち合わせようとした妹は、別人だ。君が2か月前に興信所の調査員に手紙を託したことは知ってる。その手紙を受け取って君に連絡を取ってきたのは、別の女だ。分からんのか!」
公安刑事が怒鳴り続けている。
「君は電話で話してただけで、妹には会ってないんだろうが!君が話してたのは別人だ。信じろ!」
「あと3分」
「君は騙されたんだ。我々は嘘をつかん。君は妹をネタに誘き出されたんだ。銃を捨てろ。話し合おう!」
私は戦慄を感じながら、男と公安のやり取りを聞いていた。聞いている限り、男は偶然なのか、私と同じ方法を使って《妹》という女と接触しようとしていたようだ。
そう。私も騙されたのか。《だが、誰に?》どこかの女にレベッカを名乗られて私を誘き出したのは、誰だ?あのイギリスの使者か?すでにいない女を使わなければならないほど、私は困難な獲物だったわけでもあるまいに。現に、こんなに簡単に騙される男がどこにいるか。私はこの通り、たかが女ひとりの声も冷静に聞き分けることが出来なかった男だ。
茫々とした耳に『助けて』と囁く女の声が響いてくる。甘い声だ。この数日、いつもいつも公衆電話を通して聞いてきた声だった。
崔景姫が最後に、私に伝えたかったのはこのことだったのだろうか。《レベッカ》という女はいない。自分を釣り上げるための撒き餌だったと。
レベッカの告白を聞いた時、冷酷な職業意識が脳裏に浮かんだのは間違いなかった。レベッカを脱出させた暁には、文化大革命や今回の胡耀邦の失脚、今まで不明な点ばかりが目立つ中国の内実に知見が得られることは間違いなかった。また、リストを反体制派の親元であるイギリスとの交渉の場に使うこともできる。
あの電話の声がレベッカではなかったのか。私は自分の冷静な判断を退け、あらゆる事態が警告していた危険信号から耳を閉ざし、希望的観測で自らを騙していたのか。
私はレベッカの告白を聞いたとき、省内で出世の階段を上がれる絶好の機会だと思った。息子が2人に、近いうちに娘が1人できる一家の主として家族を支えていかねばならない。国際情報局の分析官で終わるわけにはいかない。自分はまだまだ―。
そうして自身の胸の内を覗いてみると、そもそもこの逃亡計画そのものが、自分を騙さなければ決意できなかったのだろう。自分がこの計画に対して抱いた不安や絶望を、私は警察に転向させられたレベッカの恐怖とすりかえ、自身の出世や家族のためだと折り合いをつけようとしたのだろう。
「あと1分」男は言った。
レベッカ・ラウ。この私自身がどこかへ逃げ、別人に生まれ変わるために必要としただけだったのかも知れない。
レベッカ・ラウ。家族や出世のために、どこからか引っぱり出してきた身代わりだったような気もする。可哀相な中国人の女。
その時、私は天井から響く音を耳にしていた。コツコツと皮靴で硬い床を叩くような感じだ。リズムを刻んでいる。
まさか、と思った。
25
喫茶店の入口で、楯の向こうで防護服を着た制服警官たちが動き出す。突破する用意を始めたようだ。公安の男は怒鳴り続けている。
「妹は行方不明だ、いない者をいつまで待つ気だ!」
壁にかけられた時計の秒針が最後の一周を回り始めた。男は天井から響く音に気づいていない。ふと、どこかでぐずぐず泣く声が聞こえた。すっかり忘れていたが、隣でテーブルの足につながれたウェイトレスだった。
確信は持てなかった。しかし、泣きじゃくるウェイトレスの顔を見ている内に決心がついた。
「いい加減にしろ・・・!」私は中国語でわめいた。「どこの人か知らんが、たかが《妹》ひとりがどうしたというんだ。子どもじゃあるまいし。何を言ってるんだ!」
男は私の顔を見下ろした。怒りと敵意に満ちた黒い眼が、こちらを睨み返してきた。
「黙れ!」
「《妹》はもういないと、刑事さんが言ってるじゃないか。いない人を待ってどうするんだ。こんなことして、待ってるのは刑務所だけだ!」
「黙れって言ってるんだ、この野郎!」
男は銃口を私の額に押し付け、撃鉄を起こした。
テーブルの陰で、ウェイトレスが悲鳴を上げる。
喫茶店の入口に並んだ楯が動いた。私はテーブルの縁から、入口に視線を送った。楯の間から、黒く長いものが飛び出した。タイミング通り。
「撃てるものか!この腰抜けめ!」私は怒鳴った。
怒号と轟音が重なった。私は思わず閉じていた眼を開けた。入口からいくつもの頭が見え隠れし、楯が立ち上がる。飛び出してくる。
床に男が仰向けに倒れている。頭から赤黒い液体が広がる。眼は虚ろだ。
制服警官が両手を縛っていたエプロンの紐を解いてくれた。防護服から、火薬の匂いがぷんと鼻をついた。そばに転がっていたカバンを手渡してくれた。
「ありがとう」
私は制服警官を見た。右肩にライフルをかけている。ヘルメットと目出し帽で表情は分からなかったが、眼を見れば分かった。イギリスの使者だった。
「天井の音は・・・」私は言った。
「おれの《相棒》の1人が、この上の階に住んでる」
「霞ヶ関の本省にも、相棒が?」
「アンタがガボンに赴任する際、無線をいじれるようになったことも知ってる」
私が入省して3年目の時だった。技術職でもないのに、モールス信号を始め無線の初歩的な動作を覚えるよう当時の上司から命じられた。ひと通り訓練を終えると、ガボンの総領事館への異動を言い渡され、若い私は眼の前が真っ暗になるのを感じた。
立てこもりの最中、天井から響いてきた音は、ある一定のリズムを刻んでいた。モールス信号の符牒だった。冷静になって信号を解読すると、天井は《挑発しろ》と告げていた。そのときすでに、私の脳裏に、このイギリスの使者の傲慢な面構えが浮かんでいた。
「危険な目に遭わせて」
「あれしか方法がなかった」
イギリスの使者は私の腕を取って、喫茶店の入口へ歩き出した。周囲の警官は何も言わない。ここの公安にも話を通したということか。
「男の正体は?」
「過激派。大統領府の爆破未遂事件の主犯」
「男の《妹》は?」
「公安の男が言った通りだ。数か月前に失踪してる。公安がこの喫茶店ではってたのは、アンタじゃなかったんだな。あの過激派がターゲットだった」
喫茶店の外に出る。
「おれの役目は果たした。あとはアンタだ」
イギリスの使者は私の手に航空券を押し付けた。行き先はフランクフルト。
「ヒースローで、おれの《相棒》が待ってる」
そう言い残して、イギリスの使者は喫茶店に消えた。
私はその場で呆然とした。しばらくした後で、パトカーや救急車がひしめく道路を夢遊しているように歩き、非常線をくぐった。
野次馬の中から近づいてくる姿があり、私は思わず緊張した。眼の前に立ったのは、レベッカだった。ベージュのコートに青いカバンを持っている。
緊張して顔をしかめた私に、まずレベッカは「ごめんなさい」と言った。「電車が事故に遭って、遅れちゃったの」
「大丈夫だよ。まだ間に合うから」
私はレベッカの手を取った。