2
話は1か月前に始まった。
花冷えでみぞれが降りかけていた4月2日、真壁たちの十係はようやく深川北署の特捜本部から解放された。マンションで若いOLが、背中をメッタ刺しにされた姿で見つかったヤマだった。目撃証言と血液型からホシを割り出し、その日の夜にやっとのことで自白させ、被疑者送致へこぎつけたのだった。
今年は年末年始にかけてひっきりなしに事件に駆り出されて、愚痴をこぼす暇もない程だったが、それでもひとつの事件が片付けば嬉しいもので、署を出たとたん磯野憲一が「飲もう、飲もう」と騒ぎ出したので結局、胃腸の弱い開渡係長を除いた係の面々で錦糸町の居酒屋へそろって繰り出した。
日ごろ何かとうるさい十係の宴は例によって、いい歳した男たちがよってたかっての猥談パーティだった。
頭上を飛び交う卑猥な言葉の下で、真壁は珍しく渡辺からタバコをせびられていた。普段は身なりに気を遣い、口臭を気にして、服に匂いがつくからとタバコを嫌がっていた渡辺だが、ひとしきり紫煙をふかして「お前、キツイの吸ってるな」と苦笑いを浮かべ、ぼそぼそと話しかけてきたのだ。
「朝、駅で知らない女の子に声をかけられた」渡辺は囁いた。「歳は16ぐらいかな。ホームで電車を待ってたんだが、俺の方をじっと見てる視線に気付いたんで、睨み返したら、近づいてきた。で、いきなり『本庁の刑事さんですね』と言いやがるんだ・・・」
「へぇ・・・」
「知らん顔して背を向けたら、そいつ、俺の袖を引っ張って『お願いがあるんです。話を聞いてほしいんです』ときた。人目もあるから、改札の近くで、あらためてその子の住所氏名を聞いて、どこで俺のことを調べたのかと尋ねたら、どうやら俺と同じ町内に住んでいるらしい。名前は桐谷芽衣。父親が新聞記者だから、刑事の住所や氏名を書いた手帳を持っていて、それを見たんだという話だった」
「その子の用件は」
「それが・・・そいつの同級生が人を殺した、というんだな・・・」
「え?」
真壁が思わず聞き返していると、横槍が入った。高瀬がいきなり「おい、渡辺が女子高生に逆ナンされたってよ」などと言った。すると、珍しく吉村が「顔さえ良ければイイんだろ」と笑う。声のでかい馬場が「ただし、イケメンに限るってか」と受ける。
「このロリコン!」と杉田が調子を合わせた。
狭い座敷の一角は男たちのゲラゲラ笑う声で、しばし話が出来なくなった。真壁はギロリと一瞥すると、背を向け、話に戻った。大して興味深い話でもないが、神経にひっかかる点がいくつかあった。
「誰を殺したって・・・?」
「同級生の近所に住む独り暮らしの老人。その子曰く間違いないそうだ」
「それで?」
「まず地元の警察へ行けと言った。そしたら、無駄だと言いやがる。同級生の住所は三鷹台で、今年の2月下旬にその子の近所のアパートで老人が死んだらしいんだが、そのとき三鷹南署と消防は石油ストーブの不完全燃焼による一酸化炭素中毒で処理してしまったらしい」
「所轄が中毒死と見たんなら、中毒死だったんでしょう」
「多分な。だが、その同級生はたしかに『自分が殺した』と言ったというんだ」
真壁はとっさに「どうやって?」と返事をする前に、ちょっと間を置いた。そのとき考えたのは、真偽のほども定かでない見知らぬ子どもの話ではなかった。傍から考えれば常識外れのように思える女子高生との接触に何を、渡辺が真に受けたのかという点だ。
真壁は渡辺の顔を見た。二枚目の面立ちに、ひどく神経の立った表情が浮かんでいる。
「しかし、それは・・・三鷹南の話でしょう」
「それはそうだ。だが、どうも俺は気になって仕方がない」渡辺は呟いた。
真壁は「何が」と尋ねたが、渡辺はあいまいに首を横に振っただけで、しばらく答えなかった。そのとき、磯野が「相手が女だからってヤラれたら、ヤリ返す。でなきゃ、野郎やめろって」とわめき、馬場が「ヤラれたらって、ヤルのはテメエじゃねえか」とまぜっかえして、男たちの笑い声で狭い座敷がまた騒々しくなる。
渡辺はやっと、思い出すようにぽつりと呟いた。
「その桐谷というガキ・・・話しながら、薄ら笑いを浮かべやがったのさ・・・」
3
正直なところ、真壁はしばらくその話を忘れてしまっていた。
4月8日の午後、本庁6階の大部屋にいた真壁は、自分のデスクで書類整理をしていた。今日は4日交替勤務の4日目だったが、そういう時に限って、第四強行犯捜査担当の管理官の秦野警視が開渡係長を呼び寄せる。どうせろくな話ではないと思っていたら、秦野は「渡辺が・・・」と言い出した。秦野の話はこうだった。
武蔵野東署の署長から本庁の捜査一課長あてに電話があって、ある市民から出された渡辺優大に対する告発状を、署が受理したという。告発人は新條博巳という人物で、告発の事由は、渡辺が数回自宅周辺をうろつき、近隣各戸に対して聞き込みを行い、個人生活を著しく不当に侵害した、というものらしかった。
事情を全く知らない開渡係長は口をあんぐりさせたが、真壁はピンと来るものがあり、デスクの受話器を掴むと、武蔵野東署へ電話をかけた。告発を受理した担当者を探し出すと、その者から地検の担当検事の名を聞き出し、今度は地検に電話を入れた。
「渡辺優大の告発の件ですが。調べは構いませんが、ちょっと時間を下さい。こっちでも調べますから」
よほどのことでもない限り、まともな検事なら不起訴処分にするのは分かっていたが、真壁はとりあえず念を押しておいた。受話器を降ろすと、真壁は渡辺の話を思い返して少し考えてみたが、雲を掴むような感じで不快さだけが残った。
肝心の渡辺を掴まえ、あらためて話を聞いたのは、その日の夜だった。本庁の会議室に真壁と渡辺の他に、何か問題が起こると、一言いわずにはすまない主任の杉田と、開渡係長も残った。こそこそと四人も面をそろえると、むさくるしさもこれ極まれりだ。
会議室に入って来るなり、杉田は真壁の手に紙袋を押しつけてきた。手に取ってみると、かなり重い。日中はほとんどパチンコ屋に入りびたっている杉田はたまに勝つと、景品を気まぐれに係の同僚にくれるという奇癖があった。
「さて、女子高生がどうした、え?」
まず杉田が口火を切った。木で鼻をくくったような言い方だ。
「気になるから、ちょっと調べてるだけだ」
渡辺は素っ気ない口調で、話し始めた。話を聞く限りでは、告発されているような『近隣の聞き込み』は、とりあえずしていない様子だ。渡辺を告発した新條博巳というのは、渡辺に接触した桐谷芽衣が言っていた同級生、新條紀子の父親らしい。
「例の2月下旬にあったという老人の孤独死。これは新聞に出てるのを確認した。死亡したのは宮藤研作、67歳。第1発見者はアパートの管理会社の男性。1階に住む大家が家賃の未払いと、新聞受けに新聞がたまっているのを不審に思って、連絡したらしい。管理会社の男性が合鍵で部屋に入ると、宮藤さんが布団の中でうつぶせになって死亡してたのを発見したと、記事に書いてある」
杉田は顔をしかめ、真壁と顔を見合わせた。
「新條博巳というのは、どんな人物です?」真壁が言った。
「人権派の弁護士」
「それで?」杉田が言った。
「消防と警察の正式の書類を見てないから、正確には分からないが、宮藤は部屋の窓を閉め切って、石油ストーブに火を付けたまま寝てしまったらしい。アパートは築年数の長い木造だから、冬は寒さがきついんだろう。不完全燃焼で臭いも出たはずだが、1人暮らしだから気づかずそのまま寝入って、長時間に渡って一酸化炭素を吸って中毒死。事件性の疑いはなしということで、死体の解剖はされなかった」
「それで」
「それで、って・・・」
「お前がなぜその話に首を突っ込むのか、それから聞かせてくれ」
渡辺は、しばらく黙っていた。次に口を開くと、ただ簡潔に「殺人なら、事件だ」と答えた。
「そんなことは尋ねてない。まず確かめたいのは、お前がその桐谷芽衣という初対面の女子高生の話に乗った理由だ」
4
真壁が口をはさんだ。
「ところで、渡辺さん。新條紀子とかいう子には会ったんですか?」
「尾行した」
「いつ」
「毎晩、新宿の予備校へ通っている。JRの改札に立ってたら、会える」
「どんな子です?」
「見りゃ分かる。普通だ」
杉田が口をはさんだ。
「ひょっとしたら独り暮らしの老人を殺したかも知れない女の子が、か」
「強いて言えば、線の細い優等生タイプだ」
「おい、渡辺。俺の質問に答えろ」杉田はしつこく割って入ってきた。「その話、まず三鷹南の話だろうが。その上、どこの誰かも分からん子どものタレ込みだぞ。一体どういう理由で自分の手をわずらわそうと思ったのか、納得できる説明をしろ」
渡辺はやはり表情を崩さなかったが、返事の代わりに、拳をひとつ机に叩きつけた。
「俺は一歩外へ出たら、自分がどこの某だということは誰にも言ったことはない。それなのに、見ず知らずの女子高生から『本庁の刑事さんですか』と言われたんだ。どこから、そんな子どもに俺の素性が洩れたのか。それを突き止めないわけにはいかん」
杉田は首を横に振った。
「それと、子どもの話に振り回されることとは別だ」
「ブン屋だという桐谷芽衣の父親の件を調べたんだが、その父親がサツ回りだった時代、俺は本庁にいなかった。だから、芽衣が父親の手帳を見たというのは嘘だ。本庁の名簿がどこかから、洩れてるのかも知れん」
「それとも別だ」と、杉田はあえて同意しなかった。たしかに本庁の名簿がどこからか洩れているかも知れないというのは由々しき問題だが、それと桐谷芽衣はつながらない。ましてや、芽衣の同級生の紀子が犯したかもしれない殺人についてもだ。
ともかく、そのような次第で話し合いは頓挫しかけた。渡辺が何かを隠しているのは容易に察しがついたが、口を閉ざすところをみると、個人生活の話なのだろう。だとすれば、どこまで尋ねていいのか、判断が難しい。
しかし、その場は杉田が周到かつ現実的な対応をしてみせた。
「ま・・・俺が思うにだな、その件は第一に、三鷹南署の管轄だから、仮に証拠が出てきても、捜査のやり直しは所轄がやることだ。真壁、そうだろう?」
「俺は何も言ってないですよ」
「いいか、渡辺。はっきり言っておくが、俺たちが手を出す理由は、今も将来も何ひとつない。もちろん個人の問題として個人で対処するのは勝手だ。しかし、警官として告発を食らっている以上、お前が自分で動くのは許さん。お前の代わりにただで働いてくれるっていう奇特な人間がいるのなら、そいつに相談するのは止めん。しかし、係としては一切関知しない。いいな?」
そこで、真壁に眼を向ける。
「ところで、奇特なお人というのはお前か?けっこう、けっこう。分かってるだろうが、間違っても新條博巳の周辺には近づくな」
最後に「お前らがおかしなことをやってくれたら、俺の人事考課に響くんだからな」と言い捨て、杉田が会議室をさっさと出ていってしまった。
渡辺は大きく息を吐いた。
「みんなの手をわずらわすつもりはなかったんだが・・・」
傍から、開渡係長が待ち構えていたように「この話、気に入らんなぁ」と言い出す。
「何がです?」真壁は言った。
「16やそこらの女の子が見知らぬ刑事を掴まえるというのは、どう考えても常識外れにしか思えん。それに、同じ町内に住んでる刑事は他にもいるかもしれんだろ。なのに、なぜ渡辺を選んだのか」
開渡係長がひっかかった点は真壁も同意できるが、そういう点をいくら並べてみても、肝心の渡辺の胸中からは、少し外れているような気がしていた。開渡係長も会議室を出て行った後で、真壁は「ひとつだけ聞きますけど、俺が関わっても構わないんですね」と聞いたが、返事はなかった。
真壁はもう一度、「渡辺さん」と呼びかけた。
渡辺は自分の膝に眼を落とし、それから肩をゆすって苦笑いを浮かべた。
「迷惑じゃない。恩に着る」
「じゃあ、1杯奢って下さい」
そういう次第で、真壁と渡辺はその夜、神田のバーに入った。真壁が杉田からもらった紙袋を開けると、中に入っていたのは大量の桃缶だった。マスターに1つ開けてもらい、「つまみとしてアリか?」と疑問に思いつつも、甘い果肉を肴にウィスキーをちびちびと舐めながら、しばらくして渡辺はふとまた、あの言葉を呟いた。
「その芽衣ってガキ、俺と話しながら、薄ら笑いを浮かべやがったのさ・・・」
5
真壁が初めて桐谷芽衣という少女を見たのは、吉祥寺駅の朝のホームだった。すぐに近づくことはしなかった。最初の2日間、早朝の電車に乗り、本庁へ出る前に駅まで行き、東京行きの電車を待っている芽衣を、遠くから観察したのだ。
芽衣は、目白にある某私立大の付属高等部に通っている。新條紀子も同じ学校だ。教科書が入っているらしいデイパックを肩にかけ、同級生と談笑している芽衣は、明朗でくったくがなかった。優雅な雰囲気もあり、表情はきわめて明るい。
それから、芽衣が住んでいる松庵2丁目の一軒家にも一度、足を運んだ。渡辺が住むマンションは都道をはさんでちょうど反対側にある。都道は、まっすぐに吉祥寺駅へ続いている。渡辺はバスには乗らずにたいてい歩くらしいが、歩道を歩いていく刑事の姿を、芽衣は何度か見かけていたのかも知れない。
しかし、ただそれだけのことだ。真壁は歩き続ける。時には少女のことなど頭にないこともあり、散漫に思い出しては忘れ、また思い出す。初夏だ。風も日差しも、日毎にどんどん暖かくなっていく。わずかしかない個人的な時間を潰して、黙々と余計な寄り道をした。職業的な思考が、ろくでもないことを考えていた。
まず、新條紀子が人を殺したというような話を友人の桐谷芽衣に話したという点。親友同士の秘密の打ち明け合いにしても、人殺しの話というのは常軌を逸している。さらに、秘密を打ち明けられた桐谷芽衣が、今になってその告白をバラそうとした理由。
真壁は律儀に、目白の学校へも足を伸ばした。行ってみると、受験に追われない私学だからか、部活は盛んなようで、子どもらが校門を出る時刻はかなり遅かった。離れたところで芽衣を出てくるのを待ち、またしばらく遠目に観察する。
素行に問題があるふうでもなく、駅前のファストフード店で同級生と油を売った後は、ちゃんと家に帰る。ともかく、そうして数回見た限りでは、面識のない刑事に突然話しかけて、友人の秘密をタレ込むような突飛な所業は思い浮かべることが出来なかった。
次の観察は、新條紀子の番だった。同じ学校にいても、紀子は芽衣と下校時間が違う。紀子は、六時限目が終わるとすぐに校門を出てくる。新宿の予備校へ行くためだ。このまま付属の大学へは進まず、もっと難易度の高い大学を目指しているらしい。
紀子は、芽衣と違ってかなり暗い感じのする少女だった。体格は普通だが、顔つきに子どもらしさがなく、大人びた神経が覗いている。友達と話すこともなく、早足でまっすぐ駅へ急ぐその姿は、まるで何かに追われているような落ち着きのなさで、ホームで電車を待っている間も、参考書を開いている。《かなり、神経が立ってるな》というのが最初の印象だった。
しかし、何食わぬ顔で一緒に電車に乗り、近くに立ってみてちょっと驚いたのは、手にしているのが参考書のカバーをかけた普通の小説だったことだ。毎日、予備校へは行っているが、ひょっとしたら坐っているだけで身に入っていないのかも知れない。
ともあれ、新條紀子も、傍目には人を殺すような異常な精神状態は窺えなかった。渡辺が言ったように、一応は「普通」だった。服装も普通なら、行動も普通。変わったところはどこにもない。
目白の学校へ数回足を運んで分かったのは、現在、紀子と芽衣の間に交遊はないという感触だった。ある時期は親友であっても、何かのきっかけで、あるいは特に理由もなく、ある時ぷっつり付き合わなくなる。子ども特有の世界だろうか。
その後、深夜に久我山4丁目の新條の家へこっそりと行ってみた。渡辺が数回近所をうろついただけで、正式の告発をしてくるような弁護士の家だから、慎重を期してジャージ姿でランニングをしながら遠目に家の様子をうかがった。見たところ、分譲地らしく他の家とあまり違いが感じられない画一的な普通の住宅だった。
翌朝、念のために宮藤研作のアパートにも足を運ぼうと思い、真壁は本庁のデスクで警察電話帳を開いた。三鷹南署の刑事課のデスク番号を調べ、直接電話を掛けて確認したところ、知っている声が耳を打ち、面を喰らってしまった。
6
4月12日の午後、真壁は指定された三鷹駅前の喫茶店で待っていると、時間通りに三鷹南署刑事課強行犯担当の刑事が現れた。
「久しぶりだな」
段田嘉浩は窓際のテーブル席で真壁の前に腰を降ろし、コーヒーを2つ注文した。真壁とは5年前に新宿の歌舞伎町交番で、何度か同じ現場に出たことのある、たたき上げの五十男だ。ウェイトレスがコーヒーを運んできた後で、段田は声を低くして言った。
「用件は?」
真壁がアパートの地番を告げると、段田は数回瞬きし、「2月の20日に老人が孤独死したところだな」と即座に答えた。「あれが、何だって?」
「ちょっと私らの方へタレ込みがあって、コロシだと・・・」
予想した通り、みるみるうちに段田の眼つきがきつくなってくる。所轄で処理した件について、本庁から口出しされて穏やかな気分でいられる者はいない。
「いったい、誰のタレ込みだ?」
「16歳の女子高生」
「寝ぼけてるのか、本庁は」
「まあ、それに近いです。タレ込んできたのは、犯人の同級生で、犯人から打ち明けられたと言ってます」
段田はコーヒーを口に含むと、少し上体を椅子の背もたれへひいた。じろじろと真壁を見た後、「まあ、君がふざけてるとは思わんがな」と吐き捨てた。
「石油ストーブの一酸化炭素中毒という検証結果に、疑いの余地がなかったかどうか」
「検証は、うちと消防できっちりやったぞ」
「解剖は」
「たしか・・・しなかった。検死代行でウチの刑事課長が視て、その後で大学の先生にも視てもらったが、事件性を疑うような点は何も出なかった。大家に聞いてもガイシャの家族や親戚は把握してなかったから、そのまま通した」段田が真壁の肩を小突いてくる。「その前にこの件、コロシだっていう証拠はあるのか?」
「いえ、俺が個人的に相談してることです」
その後、渋る段田を説き伏せて、事故の調書一式のコピーを本庁に送るよう頼むと、真壁は宮藤研作が住んでいた緑橋緑地近くのアパートに向かった。三鷹台駅前の交番で、たまたま事件当日に当直していた中年の巡査長をつかまえた。
大家がドアを開くと、まず表面の塗装がかすれた床が見えた。巡査長が「すぐ終わりますから」と礼を言い、真壁は部屋に上がった。入ってすぐ左手が台所。くすんだステンレスの流し台に、焦げのこびりついたコンロ。奥の和室は六畳程度。窓にはきっちりカーテンが引かれているため、部屋の中はひどく暗い。家具はすべて大家が廃棄したという。
巡査長の説明は事件の少ない所轄で地域に馴染んでくると、本庁組とはもはや隅々まで波長が違う感じがした。
「宮藤さんは布団の中で、うつぶせになって死んでました。上半身はセーター、下半身はパンツ姿でした。パジャマのズボンが側に畳んであったので、自分で脱いだ後に死んだのだと思われます」
「石油ストーブは」
「顔の脇に。遺体発見時、出入り口ドアの鍵は掛かってました。外部からの侵入の形跡は見当たりませんでした」
「死体の状況は」
「衣服に乱れはなく、目立った外傷もなかったです。敷き布団に手を当てましたが、濡れていませんでした。財布や鍵の所在はわかりませんでした」
真壁は部屋の片隅に、山積みにされた段ボール箱に眼をやり、大家に言った。
「これは?」
「ああ、それは粗大ゴミに出すものなんです」
「令状は無いですが、開けますよ。いいですか?」
大家がうなづき、真壁は手近の箱を開けてみた。中には本がぎっしり詰まっており、内容はコンピュータ関連と無線、電波機器の専門書やガイドブックのようだった。次に開けた箱には、デスクトップ型のパソコン。3つ目に開けた箱には、回路や基盤、小さなアンテナが付いた発信器のようなものが十数点あった。
アパートの管理会社の書類と大家の話を総合すると、宮藤がこのアパートに入ったのは4年前。大手家電メーカーで開発部門に長く勤めていたが、昨今の不景気でリストラ。それを機に、離婚。子どもは娘が1人いるような話をしていたが、連絡先は不明。最近はビル清掃のバイトをして生計を立てていた。機械いじりが好きで、あまり人付き合いせず、自室で何か機械をいじっていたという。
真壁は思うところがあって、部屋の段ボール箱を全て運び出すと、科学捜査研究所に送る手はずを整えた。そうしてその日の残りは段ボール箱と一緒に警視庁の隣に立つ警察総合庁舎まで出向き、鑑定依頼書と証拠品預かりの書類の作成で潰れた。