〇連合国の脅威
「青」作戦の順調な推移に湧いていた1942年8月、ヒトラーは西ヨーロッパへの連合軍の侵攻の脅威に直面させられた。
8月18日から19日にかけて、イギリス・カナダ軍が防御の薄いと思われた北フランスの沿岸都市ディエップへの強襲上陸作戦―「ジュビリー」作戦を発動した。しかし、ドイツ西方総軍(ルントシュテット元帥)による迎撃を受けて、6000名のイギリス・カナダ軍は半数もの戦傷者を出して撤退を余儀なくされた。このように「ジュビリー」作戦は戦術的には失敗したが、戦略的には重要な成功を収めることになった。
この後、ヒトラーは連合軍の侵攻という脅威のために、精鋭の装甲部隊をロシアから西方に引き抜くための新しい方策を考えるようになった。
実際に、かなりの数の師団が西方に拘束されるようになり、その中には装甲部隊も含まれる。これらの装甲師団の中には、すでに消耗しきって休養と再編のために東部戦線から引き揚げて来たものも少なくなかったが、それでもこれらの師団が西方に引き抜かれたことは東部のドイツ軍がソ連軍に対して劣勢に立たされつつあることを意味していた。
そこで、ヒトラーは弱体化した歩兵部隊がソ連軍の圧迫によって局地的な撤退をくり返しているという傾向を止めさせようとして、1942年9月8日付の総統指令で、防御に関するきわめて詳細な指示を発した。
この指令の中で、ヒトラーは自ら防御戦を指揮すると公示し、東部戦線の全指揮官に対して、補給の現状と作戦能力の査定、現在地についての詳細な報告書を提出するよう求めていた。この要求は東部戦線をなかなか終結できないことへのヒトラー自身の苛立ちの表れであり、下位の指揮官が持つ戦闘時の自由な裁量を奪うことでもあった。
しかし、連合軍による最も手痛い打撃は、ドイツ空軍に対するものだった。「天王星」作戦で始まるソ連軍の冬季攻勢が発動された1942年11月、ドイツ空軍は400機を東部戦線から地中海へと配置換えしたが、これは北アフリカでの連合軍の脅威に対応した措置であった。実際、地中海でのドイツ空軍の損失は全体の約4割に当たっていた。
空軍の中でも、特に輸送機が高い代償となった。輸送機部隊は無駄に終わったスターリングラードへの空輸補給に加えて、西方の戦域で唯一重要な地上戦が行われていた北アフリカへの補給と増援に二度、駆り出された。一度目は1942年11月にモロッコとアルジェリアに対して行われた連合軍の上陸作戦―「トーチ」作戦に対してであり、二度目は1943年5月にアフリカ軍集団がチュニジアで壊滅した時である。この大々的な空輸作戦を含めて、この半年間でドイツ空軍の輸送力は壊滅した。これら輸送機なくしては今後の空挺作戦も輸送作戦も不可能であった。
また、西ヨーロッパ全域に対する連合軍による戦略爆撃によって、ドイツ空軍の衰退は加速していった。
1943年5月以降、西部戦線でのドイツ戦闘機の損失は常に東部戦線を超えるようになった。東部戦線でクルスク攻防戦が最高潮となる1943年7月でさえ、ロシア上空で撃墜された戦闘機は201機だったが、本土上空では335機が撃墜されていた。ドイツ本土を守ろうとするヒトラーとゲーリングの決意によって、ますます多くの戦闘機と高射砲が本土に集中するようになり、そのため東部戦線が犠牲となった。
本土防空のために空軍が撤収してしまったことで、ドイツ軍は航空攻撃に晒されやすくなってしまった。結局は装甲師団や自動車化部隊に軽高射砲中隊が配備されることになったが、通常の歩兵師団には防空のための手段がほとんど無かった。
この本土防空への戦力集中と戦闘機の激しい消耗によって、東部のドイツ軍が制空権を喪失する大きな原因のひとつとなった。
〇ドイツ軍の人員・装備の欠乏
第3次ハリコフ攻防戦の輝かしい勝利にも関わらず、1943年春のドイツ国防軍は東部戦線で厳しい現実に直面させられていた。スターリングラードにおける第6軍と同盟国軍の喪失は別としても、人的損耗は戦力を1941年の水準以下のところまで減退させてしまっていた。
1943年4月1日の時点で、東部戦線のドイツ軍は兵員273万2000人、戦車1336両、火砲6360門であった。これに対して、ソ連軍は兵員579万2000人、戦車6000両、火砲2万門と推定された。
独ソ両軍の不均衡は特に歩兵師団で顕著だった。1942年6月の「青」作戦が開始される前でさえ、北方軍集団と中央軍集団の75個師団のうち69個師団が、正規の定員である9個歩兵大隊・4個砲兵中隊の編成から、それぞれ6個大隊・3個中隊へと削減されていた。
1942年の戦闘の後では、この削減された定員がどの師団でも当たり前になり、歩兵部隊への人員補充の比率はひどく減少していった。いずれの場合も結果として、師団は広い作戦正面を守るための兵員に不足し、反撃のために多少の戦略予備を保持しておくことも難しくなった。
そこで、各部隊は戦争継続に必要な人員の不足を補うため、捕虜として捕えたソ連兵のうちでドイツ軍に協力的な態度を見せる者を軍属のような形で非公式に部隊に編入させていたのである。これらのソ連兵はドイツ語で「志願協力者」を意味する「ヒルフスヴィリケ」を省略した「ヒヴィス」と呼ばれて、後方地域で雑役に従事していた。
また、稼働する馬匹や自動車が急速に減っていったため、各師団は1941年よりもはるかに機動力の劣るものになってしまった。馬匹と自動車の欠乏により、砲兵中隊ではしばしば火砲を移動させることが出来なくなり、弾薬の不足によっても火砲そのものが使い物にならなくなってしまうこともあった。
陸軍の壊滅的な人的損失を少しでも埋め合わせるため、ヒトラーは1942年に東部戦線の陸軍を補強するため、空軍と海軍から人員を転属させるという決断を下した。その際、ヒトラーは軍需相シュペーアから空軍には「幽霊人口」がいるとの報告を受けた。その内容は、空軍兵力は約160万人と記録されているが、実際には「約198万人」を保有しているというものだった。
調査の結果、この事実を知ったヒトラーは空軍総司令官ゲーリング元帥に対し、「適当な兵力」を陸軍に供出するよう指示した。自軍の人員を陸軍に奪われることを嫌ったゲーリングは空軍参謀総長イェショネク大将と相談した上、空軍の直轄下に歩兵部隊を創設するという代替案をヒトラーに示した。
ヒトラーはゲーリングの代替案に承認を与たえ、1942年10月に約25万人の空軍地上要員により「空軍地上師団」が創設された。
空軍地上師団は陸軍の師団と比較して小規模なもので、装備も陸軍や武装SSが優先されたために貧弱だった。そしてゲーリングの個人的な命令により、比較的平穏な戦線での防衛任務に制限されるよう取り計らわれた。
どの軍も恒常的な兵員不足は承知していたが、空軍と武装SSは戦争の全期間を通じてたとえ陸軍に損失を与えることになろうとも、自分たちのための新兵募集を続けた。特に武装SSでは血統基準などの条件を緩和し、外国籍のドイツ人、オランダ人、デンマーク人、ベルギー人、ノルウェー人に始まり、非ゲルマン系のフランス人、スラブ人、イスラム教徒までも対象を拡大した。
全体的にドイツ軍の中で、特に歩兵の地位が徐々に低下していく一方で、装甲部隊は予期しない復権を経験することになった。
1943年2月17日、戦車生産の混乱と装甲師団の貧弱な現状を目の当たりにして、ヒトラーは元第2装甲軍司令官グデーリアン上級大将をヴィンニッツァの野戦指揮所に呼び寄せた。
2月20日、グデーリアンはヒトラーとの会合の前に、東プロイセンのラシュテンブルクに立ち寄り、総統副官兼陸軍人事局長シュムント少将に自身の再登用に当たってはヒトラーに直接進言できる権限を強く要求した。
ヒトラーはグデーリアンの要求を受け入れ、この日の午後に装甲兵総監に任命した。戦車生産について独立した権限を持たせるとともに、空軍や武装SS
を含む全ての装甲部隊に対して訓練・教条・編成についても管轄権を及ぼすことになった。
〇ソ連軍の改革
「バルバロッサ」作戦による壊滅的な損失に対して、ソ連軍は1941年中に複雑だった組織を単純化し、従来の軍事理論をいったん棚上げにしていた。その理由は、かつての組織と理論を有効に活用できる指揮官たちに指導性も兵器も不足していたからであった。だが「天王星」作戦の成功の後には、ソ連軍は「戦闘の記憶」を十分に蓄積し、急速に理想的な縦深作戦を遂行できる程度にまで進化していったのである。
1941年半ばから43年初頭までは、事実上すべてのソ連軍は6個師団と軍司令部直轄の戦略予備から編成されていた。国防人民委員部(国防省)は43年に軍の改革に着手し、各軍を3~5個師団と軍司令部直轄の支援特科部隊による編制に変更した。
この改革により、狙撃旅団は完全な狙撃師団へと再編され、正規の狙撃師団は親衛師団へと昇格した。生産力と兵員の許す限り、軍は工兵や火砲などの支援特科部隊を配属してもらえるようになった。これらの支援特科部隊は42年から43年にかけて拡大され、最終的には砲兵師団として軍に統合されるようになった。
最も重要な組織上の変更は、戦車・機械化部隊で行われた。
戦車・機械化部隊の運用は1941年中に複雑な軍団運用をいったん取りやめ、最大は旅団単位で一般の軍に追従していた。1942年は東方に疎開した工場から大量の戦車が届くようになり、戦車部隊は再び軍団運用に戻されたのである。
「天王星」作戦に始める1942年度の冬季戦は、1942年に編成された戦車・機械化軍団が敵陣地の突破に一定の役割を果たした。これを受けて、ソ連軍はドイツ軍の装甲軍に匹敵する、さらに大きな機械化部隊の創設を決定した。
新たな戦車軍の構想は、42年度末から43年度初めの機動戦の経験から生まれた。42年11月のタツィンスカヤ急襲では、複数の戦車軍団が横に展開して行動する必要性が判明し、43年2月のポポフ機動集団による攻勢で実験的な試みがなされた。
国防人民委員部は1943年1月28日付けの「指令第2791号」において、戦車軍の創設を認可した。戦争後期には6個戦車軍が縦深作戦での先鋒を務めるようになり、ドイツ軍の陣地を突破する際に重要な役割を果たしていくことになる。
狙撃師団の編成から戦車軍の創設に至るまでの変更は、全てのソ連軍部隊において、漸次的な権限の分散と並行して進められていった。特に狙撃師団では、春の雪解けで戦線の移動が停止した後、「狙撃軍団」司令部の復活が急ピッチで行われた。
軍司令官の指揮系統においても重大な改革がなされた。1942年10月9日付の「指令第307号」によって、軍に一元的指揮が復活し、政治委員は単に「政治上の事柄」についてのみ指揮官の代理になり得るとの地位まで格下げされた。
独ソ両軍に共通する問題は、全般的な人員の不足にあった。ソ連軍はドイツよりもはるかに多くの人員を動員できたが、それでも多くの新設部隊の階級をすべて満たすだけの要員を確保することはできなかった。たとえば、新戦車軍司令部の大半は、戦力の低下した軍の不要になった司令部によって編成され、通常の部隊よりも多くの補充兵と装備を受け取った。
また、各部隊の組織は内容も異なっていた。通常の狙撃師団は定員が9435人に対し、親衛狙撃師団は定員が1万670人とされ、より多くの火砲と自動火器があてがわれることになっていた。だが実際には通常の狙撃師団はドイツ軍と同様、兵員・資材ともに甚だしく不足していた。1943年の夏には狙撃師団の平均兵員数は7000人だったが、45年にはわずかに2000人へと減少している。
〇武器貸与法の影響
1942年から43年にかけては、ソ連に米英連合国による各種軍需物資の援助が届き始めた時期でもあった。
1941年3月に米連邦議会で可決された「武器貸与法(レンドリーズ)」に基づき、米英両国はアルミニウムや石炭をはじめとする大量の資源をソ連に供給し、「バルバロッサ」作戦によってドイツ軍に奪われた分の穴埋めがなされた。この供給によって、ソ連の軍需産業は格段に早く回復することが可能となった。
これら原料の他に連合国は約110億ドルに相当する軍服3400万着、軍靴1450万足、食糧450万トン、機関車と車両1万1800両をソ連に給与した。兵器生産に必死であったため戦争の全期間を通じてたったの92両の機関車しか生産できなかった点を考えると、給与品目の機関車は重要であった。
また同様に、これらの品目の中で特に重要だったのが、軍用トラックである。工場では戦車の生産が最優先され、国産のトラックの品質が劣悪だったこともあり、ソ連軍ではトラックが恒常的に不足していた。
レンドリースにより、終戦までにソ連軍のトラックのうち3台に2台は外国製で占められていた。その中には輸送用トラック40万9000両とジープ4万7000両が含まれる。特に頑強で故障が少なく、不整地走破能力の高いアメリカ製の「ウィリス」や「スチュアートベーカー」は好評をもって迎えられた。
トラックの供給によって、ソ連軍の兵站における最大の不備のひとつが解消された。すなわち、ドイツ軍の背後まで突破した後の機動性と補給の維持が可能となったのである。
これ以外の「武器貸与法」による兵器の供給では、戦車7056両、航空機1万4795機、火砲8218門を受領した。供給された戦車と航空機については成功したとは言えず、「連合国側が二線級の兵器を給与している」として、ソ連は不満を募らせた。
「小土星」作戦で投入された第5機械化軍団は戦車193両のうち、その大部分はイギリスから給与された「マチルダⅡ」歩兵戦車、「チャーチル」歩兵戦車、「ヴァレンタイン」歩兵戦車だった。「チャーチル」や「ヴァレンタイン」の評判は悪くなかったが、砲塔が小さすぎて40ミリ砲以上は搭載できなかった。そのため、ドイツ軍の新型戦車に対しては全く歯が立たず、実戦では耐えられないものと判断された。
アメリカからはM3中戦車「リー」、M4中戦車「シャーマン」が供給された。車高が高く装甲が薄い「リー」の評価は最悪だったが、「シャーマン」は砲塔に十分な余裕があり、もっと大口径の主砲と換装できた。アメリカ軍ではガソリンエンジンが主流だったため、ソ連軍にはディーゼルエンジンを搭載型の戦車が送られた。しかし、「シャーマン」は軌幅が狭いためにドイツやソ連の戦車と比較して、泥濘の中での機動性がきわめて鈍くなり、総じて燃費も悪かった。
同じように、ソ連空軍は軍用機の19%が米英製の航空機だった。輸送機は重宝していた一方、戦闘機については低性能と見なしていた。
そもそもソ連空軍は、イリューシンIL2をはじめとする対地上・対戦車性能を持った攻撃機「シュトルモヴィク」を主力機としており、対戦闘機戦闘に重きを置く連合国の空軍とは戦闘機に要求する性能の主眼が異なっていた。すでに旧式となっているものの生産されていた機種の中から、アメリカのP39「エアラコブラ」、P40「ウォーホーク」、イギリスの「ホーカー・ハリケーン」を速度性能の点で受け入れた。空軍のエースパイロットであるポクルイシュキンやレチャロフはP39を駆って、数々の戦功を挙げた。
これらの連合国からの援助物資は、極北のムルマンスクとアルハンゲリスクの港湾、南方のイラン、極東のウラジオストック港から鉄道でソ連国内の工業地帯や戦線後方の部隊集結地点まで輸送され、ソ連軍の強化に大いに貢献していたのである。