19
「ひりゅう」は指定された海域で哨戒を開始した。北を脅威方向として東西方向にとり、往復して艦首と側面、曳航アレイで構成されるソナーシステムを使う。
沖田艦長は注意深く全周を見渡してから、潜望鏡を哨戒長に渡した。
「敵の哨戒機の心配はないだろうが、潜水艦が周辺の海域に潜んでいる可能性を考えると、スノーケルは控えた方がいいだろう。AIP運転始め。目標を探知するまでは、このままで行け」
「ひりゅう」と「せいりゅう」は非大気依存(AIP)推進機関―スターリング・エンジンを搭載しており、液体酸素が尽きるまでは電池の消耗を抑えられる。
「ひりゅう」は魚釣島の南を通過してから北に針路を変えて哨区に向かいながら、魚釣島周辺の中国艦の状況把握に努めた。攻撃目標の順位は空母、潜水艦、輸送艦船、水上戦闘艦の順だ。今のところ尖閣諸島の北方には味方の水上、航空部隊はいない。電波探知機(ESM)ではレーダーを数波探知した。少なくとも駆逐艦が2~3隻、揚陸艦が1隻と見られた。
本条は森島から、戦闘記録員として記録を取るよう命じられた。沖田艦長にも、「これが将来への大切な遺産になる」と念を押された。
東シナ海は大陸棚から続く浅い海底が広がっているため、航行は制限される。音が遠くへは届きにくく、敵に捕捉される危険性は低いが、同時に「ひりゅう」も敵を探知するのは難しい。加えて、2日前に通過した熱帯低気圧のせいで、水測状況は予測よりずっと悪い。低気圧が去ってからは、漁船もだいぶ出てきた。不規則に動く多数の漁船は雑音になるため、ソナーには邪魔な存在だ。
ESMについている電測長の山崎・一曹が報告する。
「ESMに探知です。方位160度、水上レーダー波です。目標番号をE(エコー)7とします」
副長が報告する前に、沖田艦長が発令所に姿を現した。同時に、天井のスピーカーからソナーの報告が入った。
《発令所、ソナー。タービン音を感知。方位163度、S10とします》
いまどき蒸気タービンとは珍しいなと、本条は思った。そばで森島が「旅大級か、ソブレ(メンヌイ)だろう」と呟く。いずれも、駆逐艦だ。沖田艦長は哨戒を止め、S10の方位に艦首を向けるよう指示した。方位変化を見るためだ。
《発令所、ソナー。S10の方位変化、わずかに右です》
「機関室、AIP運転やめ」沖田が言った。「ディーゼル、運転開始。キャビテーションを起こさないように、速力を8ノットまでゆっくりと上げろ」
《機関室、発令所。ディーゼル機関、運転開始。速力8ノット。ゆっくりと上げます》
「操舵、針路270度」
「針路270度、了解」志満が答える。
敵の駆逐艦を取り逃さないよう、沖田は艦を西へ向けて距離を詰めるよう指示を出すと、電測員が声を上げた。
「曳航アレイ探知、方位205、潜水艦のようです。目標番号をE8とします」
発令所に緊張が走る。水域管理しているので、味方の潜水艦はいないはず。米海軍には申し入れているので、米海軍潜水艦も行動していない。だとすれば、駆逐艦を護衛している敵の潜水艦だろうか。沖田は淡々とした調子で言った。
「ソナー、E8を確認できるか?」
《発令所、ソナー》相原が答える。《方位202度に、かすかに聞こえます。目標番号をS11とします。音が静かすぎます。原潜ではありえません》
「この敵潜水艦をM(マスター)17とする」沖田が言った。「操舵、取舵標準、針路205」
「取舵標準、針路205」志満が答える。「方位205です」
「ソナー、M17の距離と種類は?」
《本艦との距離は一万、バッテリー航走しています。横に並んで2つの渦流が探知されていますので、M17は二軸だと思われます》
「とすると・・・」山中が言った。「M17はキロ級潜水艦でしょう」
沖田はうなづき、矢継ぎ早に指示を出した。
「戦闘無音潜航、発射管制関係員、配置につけ。電測員、曳航アレイを回収」
続けて操舵員に「針路そのまま、速力を4ノット上げ」と言い、発射管室に「1番から4番発射管に魚雷装填」と命じる。
このとき「ひりゅう」の曳航アレイが捉えたのは、久場島の北で哨戒中のキロ級潜水艦だった。さらに西からもう1隻、商型原子力潜水艦「長征14」が向かっていた。
20
中国の商型原潜「長征14」は15ノットで東に航行し、日本の水上艦船や潜水艦との予想位置で速力を落として、魚雷発射の準備をしてから捜索を始めた。
昨日、「長征14」は緊急で大連港から出港を命じられた。弾道ミサイルを搭載した晋級原潜の護衛で3か月の哨戒任務を終えた矢先だった。命令自体は、驚くような内容ではなく『北海艦隊各艦は、東シナ海に進出。有事に備え、警戒配備に着け』というものだった。
「長征14」は全長107メートル、最大幅11メートル、排水量7000トンの攻撃型原潜である。休暇を取り消された乗組員たちは士官すら不満顔で、大急ぎで補給物資の積み込みを行い、停泊してからわずか半日で「長征14」は大連港の桟橋を離れた。セールの上部には艦長、副長、信号員が立っていた。
副長の楊栄成(ヤン・ウィンシン)・中校(二佐)が報告する。
「異状なく出港しました。上甲板作業終了、航海配置に就け潜航準備を命じます」
艦長の陸耀明(ルー・ヤオミン)・上校(一佐)は仏頂面でうなずいた。
大連湾口に差しかかった頃、発令所から「潜航準備完了」の報告が入った。陸は潜航を下命して、楊と信号員と共に、長い垂直階段を降りて艦内に入った。直後、セールのハッチが閉じられ、潜航警報が鳴り響いた。十分後、潜望鏡深度についた「長征14」は傾斜が水平になり、静寂を取り戻した。楊が報告した。
「艦長、潜望鏡深度につきました。各部、異常なし。安全潜航深度まで潜入し、異常を確認します」
陸はうなづいた。
「よし、50メートルごとに異常を確認しつつ、深さ650まで潜航せよ」
「深さ650まで潜航、了解」
楊は、左舷の操舵席で操作している操舵員に命じた。
「深さ650、ダウン3度」
「長征14」は徐々に深度を下げていった。深度計の目盛りが動いていくのを見つめながら、深さ620まで到達すると、今度は楊が「前後水平」と下令した。
操舵員は姿勢角を戻しつつ、200メートルを超過しないように、少し手前で潜舵を戻した。さらに上げ舵を取って、潜入の勢いを止め、傾斜が水平になった。
「各部、安全確認を行え」
決まりきった手順は、副長が代行する。数分後、「異常なし」との報告だった。
「よし、通常航海当直に戻せ。後はまかせた」
陸は艦長室に入り、改めて命令書を検討した。陸が青島の北海艦隊司令部から個人的に聞き出した話では、この警戒配備の本質は尖閣諸島への侵攻だった。その後に送られてきた警戒配備命令では、「長征14」と2隻のキロ級潜水艦は駆逐艦「広州」と合流し、その指揮下で日本の水上艦船や潜水艦を牽制するとされていた。天下の原潜が、水上艦艇の補助戦力であるかのような扱いには不満だった。
《発令所、ソナー》天井のスピーカーが鳴った。《真正面の海底付近で、一過性の機械音を探知しました》
陸が発令所に戻ると、楊がインターコムで言った。
「距離は?」
《なんとも言えません。信号が弱かったので》
陸がインターコムを受け取り、口を開いた。
「艦長だ。ソナー、推測は立てられるか?」
《遠方かもしれないですし、近いのに接触を捉える角度が好ましくなかったとも考えられます》
「どんな音だ?」
《ゴツンという音です。魚雷を装填中なのかもしれません》
「おそらく、キロ級が不用意に音を立てたんだろう」陸は言った。「改装で近代化したとはいえ、あの級の艦は古いには違いない」
楊はうなづいた。
「彼らはもっと慎重にやるべきですね」
発令所になじみの薄い声が響いた。通信士官が発令所に入ってきて、陸に進言した。
「艦長、そろそろ艦隊司令部から通信が入る時間です」
「通信ブイを海面近くまで浮上させて受信しろ」
しばらくして、通信士官がテレタイプから破りとった紙を手に入ってきた。陸は紙を受け取り、北海艦隊司令部からの指令にざっと眼を通した。
『指令:第2区域―久場島の南へ前進せよ。警告:諜報結果によれば、第2区域で日本の海上自衛隊「おやしお」型、もしくは「そうりゅう」型潜水艦が航行している可能性がきわめて高い。ただちに対潜戦態勢に入れ。繰り返す。ただちに対潜戦態勢に入れ』
陸は紙片を握りつぶしながら、苦笑をもらした。こんな警告が何かの役に立つと本気で信じている人間がいるのだろうか。日本の潜水艦が、自国の領土と主張する尖閣諸島の沖合にいるのは当たり前のことだ。
しかし、白い紙にくっきりと黒字で打たれた警告文は、陸を高揚させたことも事実だった。出港してから、すでに長い時間が経過している。緩みかけた乗組員の士気に活を入れるにも好都合だ。
21
SS-515「ひりゅう」
《発令所、ソナー》西野が報告した。《M17からキャビテーションが断続的に入ります》
沖田は少し首を傾げた。この浅い海域でキャビテーションが出ているようなら、おそらく露頂。水上目標の捜索に集中して、潜水艦には注意していないようだ。
「1番、2番発射管、前扉開け」
目標動作解析が不正確でも、射程内であれば、探知方位に誘導して命中させることは可能。敵は接近中だから、静かに待ち伏せするだけだ。
《発令所、発射管室》柘植が言った。《1番、2番発射管、発射始めよし》
作図指揮官の位置についた本条は、沖田の横顔を見ながら思案していた。
もし魚雷が命中前に探知された場合、敵にデコイを撃たれたり、回避されたりしたらどうするのか。敵も魚雷の到来方向に本艦がいることは察知できる。アクティヴ・ソナーで探知、または魚雷の到来方向に敵が魚雷を発射すれば、自動追尾(ホーミング)で本艦が捕捉される危険性もある。
本条の懸念に気づいたかのように、沖田は口を開いた。
「撃沈はしない」
「どうするんですか?」本条は驚いて言った。
「行動不能にさせるのだ」
沖田はひとしきり説明を始めた。まず、敵艦の前方からアクティヴ設定にした魚雷を近づかせる。敵はその魚雷を回避しようと動き出す。動き出したときのキャビテーションやエンジン音を、2本目のパッシヴ設定した魚雷で敵艦の後方から捉える。そして、その2本目の魚雷で敵のスクリューを破壊して行動不能にさせる。
沖田の説明を半信半疑で聞いていた本条だったが、このころには敵艦の動きはだいぶ把握できた。
《発令所、ソナー。的針140度、的速10ノット。距離は9000》
沖田は魚雷発射を命じた。
「1番発射管、次に撃つ。低速、アクティヴに設定。用意、テーッ」
右舷の発射管から、89式魚雷が電線を引いて走り出した。魚雷の状況は有線誘導により、「ひりゅう」に伝えられる。
《1番魚雷、正常に航走しています。目標までの推定距離約3000》
「アクティヴ探信、始め」沖田は言った。
魚雷がアクティヴ捜索を始めたことを示す信号が返ってきた。すぐに魚雷が敵艦を探知し、自動的に追尾モードに入った。
「1番管、誘導止め」
誘導電線を放棄して、1番発射管の前扉を閉鎖する。1番管の魚雷が探知した敵艦の位置を、指揮装置に入力する。これで、2番管の魚雷は正確に目標の位置に直行させられる。
「2番発射管、次に撃つ。高速、パッシヴに設定。用意、テーッ」
キロ級
中国のキロ級潜水艦は、右前方から魚雷が向かって来るのを探知した。アクティヴ探信しながら、急速に近づいている。魚雷の頭部についている小型のソナーは高周波数の音波を使用するため、容易に魚雷と判別できる。
それが、不意に近距離で聞こえた。近くの海域には、敵の水上艦も哨戒機もいない。敵の潜水艦は本艦の右斜め前方の南東にいるらしい。高速で露頂深度にいたのは失敗だった。この魚雷をなんとしても回避しなければならない。
「デコイ発射用意、前進全速、取舵いっぱい、深さ700」
艦長は魚雷の反対側に逃げ、かつ深度を深くする。敵の魚雷の圧壊深度がいくらかはわからないが、試す価値はある。魚雷がアクティヴで追尾している以上、こっちの雑音は関係ないから、全速にする。
「デコイ発射」
数発を立て続けに発射しつつ、キロ級潜水艦は北へ30ノットで回避した。
「長征14」
《ソナー、感あり!》
「何?」
《方位004に魚雷あり!魚雷は右から左へ進み、距離は大きくなっています!》
「魚雷のタイプは?」陸はすかさず尋ねた。
《アメリカのMk48に近いですが、断定できません》
「ほかに潜水艦のコンタクトは?音響や航跡乱流などはないか?」
《あの一過性の機械音の他には、ありません》
「日本が保有している潜水艦は」楊が言った。「ディーゼル機関とはいえ、非常に静かですし、スクリューは航跡を残さないように設計されてるはずです」
「分かってる。さっきの音は、奴らが魚雷発射管に装填した音に違いない」
《魚雷の方位と雷速から推測しますと、発射位置は今の我々から6500の距離です》
「敵がその位置にいるとしよう。副長、目標動静解析開始。おそらく哨戒任務にやってきた日本の潜水艦に違いない」
《魚雷が針路を変えました》ソナーが報告する。《現在の方位は一定、信号の強度は強まってます》
22
「長征14」
「ここらで、一歩横にステップを踏むぞ」陸は言った。「操舵、取舵30度、方位090」
「方位090、了解」操舵員が答える。
「我々は奴らがそこにいることを知っているが」陸はニヤりとした。「奴らは我々がここにいることを知らない」
「少なくとも、今のところは」楊が言った。「音響上はこちらの方が一枚上ですね」
「そうだ。こちらは広い視野が開けているのに対し、奴らのすぐ眼の前は大陸棚の傾斜地だ。ソナーの状況はあまり良くないはずだ」
「彼らはキロ級を撃沈するつもりでしょう」
「我々はそれを見物しよう」陸は言った。
突如、天井のスピーカーからソナーの報告が入った。
《水中に2発目の魚雷あり!》
「くそ」陸が漏らした。「面舵30度、方位300」
《今度は、左から右へ動いています》
「ほう、それなら問題ないな」陸は言った。「前の針路に戻れ。取舵30度、方位205」
「取舵30度、方位205」操舵員が答える。
SS-515「ひりゅう」
敵のキロ級潜水艦が必死に回避する様子は、「ひりゅう」に探知されていた。1番発射管から撃ちだした魚雷がアクティヴ探信しながら、前方から接近する。その魚雷を回避しようと、急な増速を行うことによって、キャビテーションが発生する。
静粛な潜水艦に対してパッシヴ・モードは普通使わないが、回避運動で発生した大きなキャビテーションは、後から撃った魚雷がパッシヴ・モードで探知できる。
ただちに2番発射管の魚雷も探知信号を送ってきて、自動追尾を始めた。
キロ級
キロ級潜水艦は高速で走っているため、自艦の雑音と振動のせいで、ソナーがほとんど使用できない状態にあった。
前方から近づく高周波の魚雷の探信音は直接、艦内でも聞こえる。最終追尾段階に入ったらしく、音の間隔が短い。一旦はデコイに引っ張られたはずだが、徐々に近づいて来ている。すると、前方の探信音が消えた。魚雷を高速に使ったからだろう。
艦長は速力を落とすよう命じた。途端に艦首ソナーから、今度は後方から魚雷らしいスクリュー音を探知したという報告が入った。後方の魚雷はパッシヴ・モードで静かに近づいていたようで、すでに至近距離だ。
「取舵いっぱい、前進全速」
次の瞬間、後方の魚雷が爆発した。
「長征14」
鋭い爆発音が遠くに響いた。続いて、鋼鉄の外殻を通してドスンドスンと大きな音が「長征14」の発令所にも聞こえてくる。
「ソナー」陸は言った。「キロ級の隔壁破壊や内破音は聞こえるか?」
《いいえ。キロ級はスクリューを破壊されたみたいです。シャフトがぐらついて大きな音を立てています》
「行動不能にしたのか、奴は。憎らしい」陸は命じた。「3番と6番発射管に魚雷装填」
「は?」楊が驚いて問い返した。
「耳掃除をしていないのか?魚雷装填と言ったのだ。最初はYu-6魚雷だ。こいつは低速で発射する。いまより正確な的速、的針を把握できしだい、敵の航跡およびフローノイズに向かって進むよう設定すること」
「低速、ですか?」
陸は残虐な笑みを浮かべた。
「1発目は完全な奇襲にしたい。それで大きく損傷させ、もっと大きな弾頭でトドメを刺す。奴らが浸水して海底に沈もうと、機動性を失おうと、そんなことは構わん」
「承知しました、艦長」
「1発目の魚雷は、奴らの船体下で爆発するようプログラムしろ」陸が命じた。「1番と2番の発射管にはデコイを装填」
《発令所、ソナー》ソナーが報告した。《また一過性の機械音を捉えました。方位090。ドップラーレーダーによると、遠ざかっています》
「操舵」陸が言った。「面舵30度、方位265」
「面舵30度、方位265」操舵員が復唱する。
「副長、曳航アレイを使用する。曳航アレイが敵を確認したら、すぐに魚雷を発射する」
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SS-515「ひりゅう」
《発令所、ソナー》相原が報告した。《2本目の魚雷がM17に命中しました》
沖田は外殻を通して敵艦の動きを捉えようとするかのように、天井をじっと見上げていた。指を1本、鋼鉄製のフレームに押し当てて振動を計った。いつもと違う振動が伝わってくるのを感じると、沖田は小さくうなずいた。
「ソナー、M17の様子はどうだ?」山中が言った。
《タンクをブローする音が聞こえます。浮上するみたいです》
「やりましたね」山中が言った。
しかし、問題はこれからだ。行動不能に陥ったキロ級は間もなく、味方へ救難要請を送るだろう。自国の潜水艦を行動不能にされて大人しくしているはずはなく、敵の水上部隊は少なくとも2~3日は捜索が続ける。
「大陸棚の上に出る」沖田は言った。「大陸棚に沈座して、敵を待ち伏せしよう」
尖閣沖の海底地形は、大陸側は台地状だが、太平洋は沖縄トラフにより急に深くなっている。北西に数千メートルも進めば、大陸棚の浅くて広い海底が広がっている。海底に沈座すれば、エネルギーと乗組員の疲労が軽減される。また、水中に漂っているより海底にいた方が探知される危険も少なく、海流に流されることもない。
「機関室」沖田が言った。「ディーゼル機関運転やめ、AIP運転開始」
《発令所、機関室。AIP運転開始、了解》
「操舵、測深儀の表示を見ながら大陸棚の傾斜に注意して航行せよ」
測深儀は高周波の音波を出して、その反響から水深を測る装置であり、「ひりゅう」に搭載された最新式のタイプは一定の面積を立体的に精確に把握し、カラー3Dで海底地形を表示できるようになっている。
沖田が操艦を山中に任せて、艦長室に引き上げようとした時だった。
「左舷のハイドロフォン・アレイが反応しています」電測員が大声で言った。「本艦の周辺からです!」
「距離と種類は?」
山中が尋ねた瞬間、天井のスピーカーからソナーが叫んだ。
《発令所、ソナー!水中に魚雷あり!すぐそばです!》
「各部、衝撃に備えろ!爆雷衝撃準備!」沖田が叫んだ。
発令所内にけたたましい警報音が鳴り響き、黄色い回転灯が回りだした。
周囲の海がごうっと唸って、「ひりゅう」は勢いよく上に持ち上げられた。身体が宙に舞うような感覚に陥り、爆発の衝撃で本条の視界がぼやけ、とっさに海図台に掴まった。轟音が響いて、艦体は左に、続いて右に傾いた。加速度計が「ひりゅう」の艦体全体が上下にしなっていることを示していた。
「機関室」沖田が大声で言った。「AIP運転やめ、ディーゼル機関、全速前進!」
《発令所、機関室。ディーゼル機関、全速前進、了解》
「発射管室、一番発射管にデコイを装填。発射準備を進めてくれ」
沖田が対抗手段の準備に続いて、操舵員に命じた。
「面舵いっぱい。全速、針路105に取れ」
「面舵いっぱい」志満が答える。「針路105」
「ソナー」沖田が呼んだ。「いま私たちを攻撃した艦をM18と指定する。M18の方位を教えてくれ」
《できません!》相原が言った。《いまの魚雷は低速で航行していたらしく、進入針路のデータは取れませんでした!》
「各部、こちら発令所」沖田は言った。「被害対策報告を送ってくれ」
《発令所、発射管室》柘植が報告した。《渡辺三曹が脚を折りました》
「衛生士官」沖田が命じた。「発射管室へ行ってくれ。急患だ」
本条は天井にある戦術支援用モニタの画面をじりじりしながら見つめた。「ひりゅう」の速度は増しており、これまでのところ深度とトリムは保っている。数か所が漏水したが、すでに応急処置され、区画を隔離した。
「残りの発射管に魚雷装填。作業速度を上げるために、無音は無視してよい」
《発射管室、了解しました》柘植が答えた。
「船務長、曳航アレイを100メートルで展張する。探知範囲を広げる」
「100メートル、了解」森島が答える。「曳航アレイ、展開します」
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「長征14」
「目標のそばで爆発がありました」楊が報告した。「命中です、艦長」
「いや」陸が答えた。「隔壁破壊や内破音が聞こえない限り、奴は生きているだろう」
《発令所、ソナー》艦首ソナーから報告があった。《敵は全速力で走っています。方位001に針路を変えました!》
「ソナー、バラストに空気を入れる音はあったか?」
《いえ、探知されていません》
「艦長」楊が声をかけた。「爆発音が続いたせいで、エマージェンシー・ブロー音を聞き逃したかもしれません。動力源とは別に、緊急の動力システムがあるかもしれません」
「目標の深度は?」
「海底近くです」
「ブローしても効き目がないのか・・・撃ち返してきたか?」
「いいえ、艦長」
「敵はこの艦体の気泡音や残響のエコーを捕捉するかもしれません。あるいは、急旋回して速射する可能性があります」
「その通りだ」陸は言った。「では、気泡の奥に隠れるとしよう。操舵、面舵30度、そのあと取舵30度、そしてようそろ」
操舵員が命令を復唱する。艦体が右に、そのあと左に大きく傾いてから水平に戻った。
「針路は205です」
「敵が方向転換したのと同じ場所で、われわれも右へ曲がるぞ。そして、敵の背後からついて行く。その位置なら速射は受けない。目標の速度は?」
「敵艦の速度は20ノットに達しています」
「それがいつまで続くか見物だな。副長、曳航アレイを回収」
「曳航アレイを回収、了解」
「機関室、全速前進。キャビテーションを抑えろ」
《機関室、全速前進》天井のスピーカーが報告した。
「敵に引き離されてはならない。距離を開けられたら、魚雷を撃ってくるだろう」
「敵はどのみちそうするしかないのでは?」
「1番と2番、4番と5番発射管を準備。今度は、ロシアのタイプ65魚雷をお見舞いしてやる。目標に接近したら、雷速を50ノットになるよう設定しておけ」
商型原潜はロシアの原潜「ヴィクター」級の技術を取り入れているが、「長征14」はタイプ65魚雷に対応した650ミリ発射管を4門搭載し、攻撃力を増大させた艦だった。
「1番と2番、4番と5番発射管を準備。雷速50ノットに設定」楊が復唱する。
陸はうすら笑いを浮かべた。
「900キロの爆薬が奴の息の根を止める。破壊力はちゃちな魚雷の3倍だ」
「発射管室は準備完了との報告です」楊は言った。
「目標までの距離が3000になったら、アクティヴ捜索を開始するようにセットしろ」陸は言った。「発射」
SS-515「ひりゅう」
《発令所、ソナー!水中に魚雷あり!》ソナーが怒鳴った。《方位は・・・220!》
ほんの一瞬だけ、沖田がためらったように見えた。
「針路と速力を維持!ノイズメーカーを本艦の針路へ速射!」
「艦長、このままM18を相手にしないでいると・・・」山中が進言した。
「相手になりたいのはわかっている」沖田は言った。「しかし、いま方向転換すれば、敵に土手っ腹を見せることになる」
《発令所、ソナー。敵の魚雷がアクティヴ探信になりました。探信音が聞こえます》
「距離と射程率は?」
《距離は1100で近づいています》
「種類は?」
《ロシアのタイプ65に近いです》
ソナーの報告を日誌に認めながら、本条は必死に考えを巡らせていた。
タイプ65魚雷はMk48をはじめとする通常の魚雷に比べて直径が大きく、搭載できる潜水艦は限られてくる。開発国のロシアではNATOコードネーム「ヴィクター」と呼ばれる攻撃型原潜が有名だが、中国では「ヴィクター」級の技術を取り入れた「商型」原潜だろうか。
《発射管室、発令所。1番発射管、ノイズメーカー発射しました》
「発射管室」沖田が呼んだ。「魚雷装填の準備を急いでほしい」
《発令所、ソナー。敵の魚雷がコースを変えました。1番から発射されたノイズメーカーを追跡しています》
「長征14」
《発令所、ソナー。敵が何かを発射しました》
「おそらくデコイでしょう」
ソナー画面と、魚雷の有線から届く生のデータを見ながら楊が言った。
爆発による衝撃波が突如、「長征14」に襲いかかった。艦内のスピーカーが途絶え、全く聞こえなくなった。「長征14」は針路上で、千鳥足を踏んだような状態になった。
《発令所、ソナー。2番発射管の魚雷が爆発しました》
「よし、4番発射管、魚雷発射」陸が言った。「今度は、雷速を最高にしろ」
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SS-515「ひりゅう」
《水中に2本目の魚雷あり!》西野が言った。《後方から、別の65です。方位は265》
「発射管室」沖田が言った。「デコイを準備」
《1本目の魚雷は破壊しました》相原が報告した。
山中が兵装表示モニタにさっと眼を通し、口を開いた。
「発射管室、魚雷装填にどのくらい時間がかかる?」
柘植はちょっと考えて言った。
《30秒です》
「副長」沖田が命じる。「デコイをトラフの底に向けて発射する。この艦のエンジン音を出すよう設定」
「デコイにエンジン音を入力」山中が戦術支援用モニタを見ながら言った。「発射管室からデコイの準備完了とのことです」
「操舵」沖田が言った。「取舵いっぱい、針路090」
「取舵いっぱい、針路090」志満が答える。
沖田は機械制御盤についている菅澤に言った。
「機関室、デコイを発射後、エンジンを停止。惰性で大陸棚の崖に艦体を下ろすんだ」
「長征14」
「4番から発射された魚雷は、目標をパッシヴ・ロックしています」楊が言った。
《深度600、相手が面舵に転舵してます》
「ついに戦う気になったか?」陸は言った。「副長、発射管の状況は?」
「5番には、タイプ65が装填済みです」
「5番発射管、奴を目標に設定しろ。雷速を最高にして発射」
「魚雷発射、準備よし」
「発射」陸は言った。
《発令所、ソナー。目標が今度は取舵に旋回してます!》
「ふん、逃げても無駄だ。向こうの艦長は気が狂ったようだな、もう終わったも同然だ」
SS-515「ひりゅう」
エンジンを切った「ひりゅう」は緩やかに沈降していた。沖田は音響測深儀のモニタを見た。水深730メートル前後のところに、縦横数百メートルほどのほぼ円形の平地が表示されている。
「副長、ここの海底の状態は?」
海底の地形把握は本来、航海長の仕事だが、潜水艦では副長が航海長を兼任する。電子海図を確認した山中が「硬い砂です」と答える。
「分かった」沖田はうなづいた。「操舵、海底に着地する」
「艦を海底に着地させます」
本条はほとんど何も感じなかった。わずかに3度の前傾姿勢を取り、「ひりゅう」はゆっくりと海底に向かって降下し始めた。刹那、ズズンと艦底を突き上げるような振動があり、海底に着地した。
「少なくとも、これで海底に叩きつけられることは無い。砂地が衝撃を吸収してくれる」
沖田が森島の方を向いた。
「船務長。これまでの状況から、M18を推測できるか?」
「口径の大きなタイプ65を使える艦は限られてきます。ロシアの『ヴィクター級』をベースにした商型原潜かと」
森島の意見に、本条もうなづく。
《魚雷、感あり!》ソナーが言った。《別の65がこちらへ向かってきます!》
「ソナー、接近する魚雷の状況は?」沖田が言った。
《1本目はデコイを追跡しています。パッシヴ・ロックしています。2本目はパッシヴ・サーチをしながら、我々の方へ向かってきます》
《いま、1本目の魚雷が本艦の左舷を通過します》相原が言った。《雷速は50ノット》
発令所に甲高いすさまじい音が轟き、やがて消えた。ガス・タービンと二重反転プロペラの悲鳴だ。
「発射管室」沖田が言った。「デコイを準備。2本目の魚雷を目標に設定」
《発令所、発射管室。2本目の魚雷を目標に設定、了解》
「相手が魚雷を発射するペースを考えますと」山中が言った。「商型にしては、早すぎるように思えます」
「商型でも、独自に改良を加えた艦かもしれない」
沖田が言った瞬間、遠くに爆発が響き、かすかな衝撃波が艦体を震わせた。
《発令所、ソナー。1本目の魚雷が爆発しました》
「機関室、ただちに全速前進」沖田は言った。「キャビテーションを出さないように。もっと深くまで潜る」
26
「長征14」
《1番から発射した魚雷が、目標上で爆発しました》ソナーが報告した。《深度730、『おやしお』に激突》
雷鳴のような音がして、艦体にあたる振動がずっと続いた。
「やっとだな」陸は言った。「誰も、あれで生きて切り抜けられまい」
「そうですね」
楊が答えたとき、海面で反射した衝撃が戻ってきて、「長征14」を揺らした。陸は戦術表示モニタをちらりと観た。楊が進言する。
「艦長、キロ級や付近の水上艦艇に危険が及ぶ恐れがあるので、2番から発射した魚雷を爆破したほうがよろしいかと」
「認める。2番の魚雷を自爆させろ」
楊は発射管室に、陸の命令を伝えた。しばらくして、有線で送られる指令が「爆破」と表示され、その他のデータが停止した。さまざまな音と衝撃が艦体を打ち、その後、バッフルズによる雑音や海面で反射したエコーがさらに届いた。
SS-515「ひりゅう」
《発令所、ソナー》相原が言った。《こちらに向かっていた2本目の魚雷は早期に爆発しました》
「海中が荒れてるので、有線が切れる前に自爆させたんでしょう」
山中の言葉に、沖田はうなづいた。
「本艦の艦首ソナーの調子はどうだ?」
《使い物になりません。航走による雑音が入ってきています》
「操舵、前進3分の2、15ノットに減速」
「前進3分の2、速力15ノット」志満が答える。
《発令所、ソナー。本艦の深度が、まもなく1000を超えます》
今度は西野が報告する。本条は耳を澄ませ、天井を見る。ゴム製の吸音タイルに覆われた「ひりゅう」の艦体はかすかな軋みも上げていない。
「攪拌された海域から少し方位を変えて間隔をあける」沖田は言った。「M18をまいて、浸水して沈没するかのように思わせたい」
山中がうなづいた。
「では、さらに深部へ向かい、タイプ65の稼働範囲から離れることですね」
「長征14」
《発令所、ソナー。一過性の機械音を捉えました。これまでの目標と同一です!》
楊が「そんな!」と驚きの声を上げる。
《ソナーのアルゴリズムは、目標が破壊されていないことを裏付けています!断続的に艦体のコンタクトあり!》
陸はインターコムを取った。
「目標の深度は?」
《現在、1000を超えてます。パッシヴ・ソナーのコンタクトは消えました。針路は不明。隔壁破壊や内破音はありません》
「たしかか?」
《間違いありません》
「『そうりゅう』だ。間違いない」陸は息を呑んだ。「1番と2番に、タイプ65を装填。いつでも撃てるようにしておけ」
SS-515「ひりゅう」
「ソナー、現在の深度は?」沖田が言った。
《現在、深さ1150・・・あっ、待ってください》
発令所に、さっと緊張が走る。
《方位284で、M18からパッシヴ・ソナーのコンタクトが断続してあります。最後の魚雷が爆発して、そのエコーが敵艦のセールと艦首の丸みに反射してきました》
「距離は?」
《はるか後方にいるらしく、海面の反響が届く距離でもありません。ソナーの信号強度によると、M18の距離はざっと4500です》
「M18の型式を判別できるか?」
《周辺特性だけでは、判別できません》
「わかった。引き続きM18の動きに注意してくれ」
「一度、右舷に旋回して」山中が言った。「曳航アレイの捜索範囲をもっと広げてはどうでしょう?距離の推定がもっと正確になり、音調を捕捉できるかもしれません」
「ダメだ」沖田は言った。「そんなことをすれば、航走雑音が右舷で大きくなって、それを捉えられる」
沖田は戦術支援用モニタを観た。最新の基準点によると、M18の針路は変化しておらず、相変わらず方位090のままだった。
「敵は私たちを追って方向転換していない。見失ってるんだろう」
「そのようですね」森島が言った。「ドップラーレーダーによると、距離は開いています。M18の方位で、魚雷が発射されたり、装填された音の形跡はありません」
沖田は今度、兵装状況モニタを見やった。1番と3番に、魚雷装填済み。本条は沖田の一手を考える。ここで回頭してもっと浅い深度に上がり、M18に向けて発射するか。
「ソナー、M18の深度は分かるか?」
《エコーが消えたので、パッシヴ・ソナーのコンタクトは無くなりました。ドップラーによると、移動しているものの、速度は本艦より速いです。最後に分かっている深度は、900です》
「船体のきしむ音は?」山中が聞いた。
《ありません。潜航のフローノイズや、外殻がきしむ音も聞こえません》
沖田は狭い発令所を眺め渡した。
「敵は本艦と同性能、もしくはそれ以上と考えてもいいだろう。私たちを追っている。戦いは始まったばかりだ」
27
「長征14」
「副長」陸が呼んだ。「通信ブイを浮上させる。メッセージを言うぞ。日本の『そうりゅう』型潜水艦と遭遇した。本艦が追跡に最適な艦艇であるから、全部隊は本艦の追撃海域から離れろ。『長征14』艦長、陸陽明上校。これに我々の位置、深度、針路、速力を追加し、ただちに送れ」
「了解しました」楊は答えた。
「4番発射管に、タイプ65を装填。3連発で発射する準備を整えておけ」
楊は戦術表示モニタを見た。
「艦長が爆発を予定している海域に、味方の水上部隊がいます」
「いまここで爆発させるつもりはない。敵の位置をまだつかめていないから、ここから2000メートルほど走らせて、十分な距離を取る」
「艦長、お言葉ですが、通信文を各部隊に中継するには時間がかかります。艦艇が海域から離れるにも、時間がかかります」
「副長、目標動静解析が概念上のものであることは、貴官も知っているはずだ。この画面はこの海域にいるのはたぶん彼らだろうという予想を表示しているに過ぎない。推定値と予測を基に下した判断と、センサのエラーに左右される。この艦艇はどこか他の海域にいるのかもしれないし、あるいは存在しないかもしれない」
「艦長・・・」
「とにかく、まだ探知していないだけで『そうりゅう』を支援する敵艦が他にいて、我々はそれらを排除することになるかもしれん」
「分かりました」楊は兵装状況のモニタ画面を呼び出した。「1番、2番、4番、魚雷装填完了です」
「魚雷全3発を直線航走にセット」陸は言った。「撃ち出す角度は右30度、ゼロ、左30度に設定。爆発深度は1000」
「直線航走、3発を30度間隔で展開、爆発深度1000」楊は言った。
《発射管室、魚雷角度の設定、爆発深度1000、了解》
「本艦の位置を知られないために、最初の4キロは3発の魚雷が互いに衝突しないよう、ジグザグに静かに航走させ、そのあと雷速を最大にするよう設定」
「ジグザグを20ノットで4000」楊が答える。「それ以降は75ノット」
「65のどれか1発が向かってくる音を聞いたら、奴は慌てふためくだろうな。奴が基準点を明かすようなことをやれば、有線誘導で魚雷を操作して、3発すべてを奴の腹わたに食らわせてやる」
「しかしそれなら、魚雷を1発ずつ発射してはどうですか?」楊が進言する。「1発目の爆音を聞き、その後も彼らが生きていなら、2発目、3発目がやってくる音を聴くのは拷問に近いでしょうから」
「その考えは気に入ったぞ、副長。しかし、奴を突然、動揺させたほうがいいだろう。最初の爆発によって、しばらくの間、この海域ではソナーが使えなくなる。それに、魚雷発射から爆発までの距離を奴に推測させることになる。だから、一気に混乱させる方が最善だろう」
「分かりました」楊は言った。「発射管室は準備よし」
「1番、発射」
「1番、発射しました」
「2番、発射」
「2番、発射しました」
「4番、発射」
「4番、発射しました」
《全魚雷は正常に航走しています》ソナーが報告した。
「副長、爆発までの時間は?」陸は尋ねた。
「9分です」
28
SS-515「ひりゅう」
《水中に魚雷あり!》ソナーが報告する。《また65です。方位345、距離3600》
「魚雷の針路は?」沖田は言った。
《060です》
「見当違いの方向ですね」山中が言った。
《水中に2発目の魚雷あり!これもタイプ65です・・・針路は090》
「展開したんでしょうか?通常弾頭を使って、パッシヴ・ソナーでサーチしながら散開させるつもりでしょう」
「そのうち分かる」沖田は言った。「私なら、3000でアクティヴにする」
《水中に3発目の魚雷あり!針路は120》
「電話連絡員」沖田は命じた。「全乗組員に告げろ。繰り返して言うんだ。魚雷がこっちに向かっている。超無音準備、爆雷衝撃準備!」
「長征14」
「爆発までの時間は?」陸が尋ねた。
「1分です」楊は答えた。
「敵艦の気配はあったか?」
「ありません」
楊は戦術状況モニタをもう一度、見つめた。水上部隊はひとつ残らず、これまで爆発があった海域から避難している。陸艦長の通信が、厳密に言葉通りの意味で使われることを知っている人間が上級司令部にいるのだろう。
「ソナーが使えなくなる前に、敵のコンタクトを注意して探すように」
「了解しました、艦長」楊は答え、ソナーにそれを伝えた。
「待っている間に、1番から3番発射管に魚雷装填。発射準備を整えよ」
SS-515「ひりゅう」
《3本目の魚雷が接近しています》ソナーが報告する。《左舷そばを通過します》
「魚雷の状態は?」沖田が聞いた。
《パッシヴ・ソナーでサーチしています。直線航走です》
「アクティヴになるのは、この艦を通り過ぎた後かもしれません」山中が言った。
《いま、魚雷は最接近点を通過》ソナーが知らせた。《距離820》
恐ろしい衝撃が「ひりゅう」を襲った。腹に響くような低音がごうと鳴った。
さっきよりもっと近くで、2度目の爆音が響いた。本条は顎をガタガタと鳴らし、口の中で銅の味を感じた。かぶせものをしてある歯のそばで、歯茎を食い破ったのだ。何度か船体に衝撃が加わり、「ひりゅう」は右に10度傾いている。
《1本目と2本目の魚雷が爆発しました!》
ソナーがそう叫んだ時、再び爆発が襲った。「ひりゅう」は横殴りされ、砂地の上をずるずると引きずられた。エコーが容赦なく何度も激しくぶつかり、船体はさらに傾いた。
《3本目の魚雷が爆発!本艦からの距離は6400》
本条は頭をふって、思考をはっきりさせようとした。沖田艦長や発令所にいる他のメンバーも同じことをした。まだ生きていることに驚いて、大きく眼を見開いて互いを見つめている。
全艦で損害報告を行った。艦体側面に装備されているハイドロフォン・アレイに異常が見られただけだった。轟音が小さくなり、振動が収まってくると、沖田は言った。
「操舵」沖田が言った。「針路100、前進3分の2、速力12ノット」
「針路100、前進3分の2、速力12ノット」志満が答える。
《機関室、発令所。前進3分の2、速力12ノット、了解》
「姿を消そう」沖田は言った。「水蒸気や気泡の中に身を隠して、爆発があった海域を突っ切る。トリムに注意」
「長征14」
「全ての魚雷が爆発しました」楊が報告した。わざわざ声に出して言う必要は無かったかもしれない。耳の痛みはまだ治らない。
「ソナー、『そうりゅう』の形跡はあったか?」陸が尋ねた。
《ありません。今は雑音が晴れるまで、ソナーが使用不能です》
「分かった。操舵、方位120。深1200に下げ、海底に沿って行く」
「方位120」操舵員が答える。「深さ1200に下げ、海底に沿って行きます」
「ここから南へ移動し、『そうりゅう』の捜索を行う」陸が命じた。「最後の魚雷が爆発した地点に達したら、艦首の高周波ソナーをアクティヴにする」
「海底は砂地か、泥地です」楊が言った。
「音響環境は悪くても、奴の残骸はすぐに見つかるはずだ」
29
SS-515「ひりゅう」
「船務長、操艦を頼む」沖田は言った。
「了解しました」森島が言った。「操艦、もらいます」
「副長、船務士、海図台に来てくれ」
沖田がスイッチを押すと、海図台のディスプレイに現場の航海用海図が表示された。沖田は台に両手をつき、「本条、まずはさっきの魚雷が爆発した場所を示してくれ」と言った。本条は戦闘日誌を開き、ディスプレイにタッチペンで3つ、赤い線で×印を書いた。
「次は、魚雷の航跡を書いてくれ」
本条は×印から3本の赤い線を陸地に近い方に向かって記した。
「ふうむ」沖田は言った。「私が敵の艦長なら、3つの×を結んだ線沿いに捜索する。高周波ソナーを使って、『ひりゅう』の破片を探そうとする」
「わかります」山中は言った。
「北か南か、どちらの端から始めるにしても、ゆっくりと移動しなければならないだろう。まだソナーが使える状態じゃないからな。バッフルズや撹拌された海流のせいで、音は大きく減衰するはずだ。そうだな、本条?」
本条は緊張しつつうなづいた。
「それに、高周波の音波は減退しやすく、遠くへは伝わらない。敵の捜索範囲は狭い」
「どうやら・・・」山中は小声で言った。「同じことを考えているようですね、艦長?」
「敵を攻撃する」
沖田艦長の言葉に、本条は息を呑んだ。
「私の計画はこうだ。1発目をいま私たちがいる南端の近くから発射させて、全ての×を結ぶ曲線を走るようにプログラムする。敵艦を捕捉するまで、20ノットの低速で海底を這うように航走させる」
山中がうなづいた。
「必要ならもう一度反転して、また試すことができますね」
「魚雷には、来襲に気づかないほどの低出力でアクティヴの探信音(ピン)を出す」
「敵には、そのピンが自艦の側面ソナーのエコーか」山中が答える。「もしくは、味方部隊のはぐれ信号と解釈するかもしれません。外のドップラーはまだ混乱してるはずです」
「なおよい」
沖田はインターコムを取った。
「発射管室、1番発射管に注水・・・船務士、記録してくれ」
《発令所、発射管室》柘植が答える。《1番発射管に注水、了解しました》
数秒後、発射管に注水完了の報告が入った。
「外部扉開け。1番、低出力のアクティヴに設定。方位に合わせ用意、テーッ」
強力な水圧が89式魚雷を発射管から打ち出した。かすかに射出音の振動を感じる。
《発令所、ソナー》相原が言った。《魚雷、発射されました。正常に航走しています》
「長征14」
「何の形跡も見つかりません」楊は言った。
「捜索はまだこれからだ」
「艦長、ずっと考えていたんですが・・・」
「何だ?」
「『そうりゅう』がどれほどの損害を被ったかは分かりません。しかし、魚雷の爆圧から避ける範囲にいたのかもしれません」
「命中しなかったと考えているのか?」
《発令所、ソナー!》水測長が大きな声で言った。《右舷に魚雷!本艦と同じ深度、方位100!距離3000、雷速20ノット!》
「くそっ!」陸は怒鳴った。「操舵、両舷全速前進!」
「両舷全速前進!」操舵員が復唱する。
《いまアクティヴになりました!》水測長が知らせた。《探信音が聞こえてきます!距離が近すぎて、計算できません。魚雷は終端誘導速度に到達しました!》
「副長、種類は何だ?」
「日本の89式魚雷です」
《魚雷が迫ってきます!》水測長が叫んだ。
「ノイズメーカーの準備を」楊が命じた。
「そんな暇はない」陸は言った。「1番発射管、魚雷発射準備。魚雷を針路100、本艦の深度で速射しろ。扉を開けて、発射!」
《発射管室。1番管、発射しました!》天井のスピーカーが報告した。
「操舵」陸は命じた。「ただちに取舵30度、全速」
「ただちに取舵30度、針路の特定なし」操舵員が言った。
「向かってくる魚雷をやっつけろ」陸はギリギリと歯噛みしながら言った。「迎撃して叩きつぶせ!」
30
SS-515「ひりゅう」
不意に、遠くの方でごうっと音がした。その音がだんだん大きくなって、耳をつんざく音になり、海面と海底からの反響が互いに当たって、やがて消えていった。
「ソナー、今の音は?」山中が聞いた。
《1番から発射された魚雷が爆発しました》
「兵器の効果は?」
《確認できません》
「機関室からです。現在の速力ですと、電池の残量があと3時間とのことです」
機械制御盤につく菅澤が沖田に報告する。
「ディーゼル・エンジンを停止。ここからはAIPで航行する」
沖田の命令は電話員によって機関室に伝えられた。
「長征14」
誘導用の電線から信号が返ってきて半秒後、轟音とすさまじい衝撃が艦首を襲った。艦体は左へ傾いた。周りの音を耳で聞くというより、身体で感じると表現した方が適切だった。敵の魚雷は迎撃に発射した魚雷が爆発する一瞬前に爆発したに違いない。そして、「長征14」は2発の魚雷から同時に衝撃を受けた。
「くそったれめ」陸が言った。その悪態も、楊に自分が生きていることを実感させた。「まさか我々に攻撃をしかけてくるとは!」
被害対策パネルには、黄色や赤色のランプがいくつか点灯していた。艦の航行や戦闘能力を損ねるような被害はなかった。
陸は海図台を取りついた。「長征14」の眼前には、死火山が南北に2つ、門柱のように海底にそびえている。どちらも海底から1200~1500メートルの高さだ。
「副長、君が『そうりゅう』の艦長なら、どうする?」
「この海域から針路を北に取って、大陸棚に上がって換気をします。これまで私たちの魚雷に追い立てられて、蓄電池は干上がっていることが考えられます」
陸はうなづいた。
「そうだ、奴らの動力は我々と違って、無限ではない。我々は北側の山に待ち伏せて『そうりゅう』の後方を回り、奴の退路を断つ。山の間を進むぞ。操舵、方位165。深さ1200につけ」
「方位165、深さ1200、了解」操舵員が答えた。
「副長、これで最後だ」陸は笑った。「パッシヴで探知したら、奴のどてっ腹にすぐにタイプ65を撃てるように発射管を準備しておけ」
SS-515「ひりゅう」
《いま何か音を捉えました!エンジン音のようです。このコンタクトをS24とします。距離は4500。方位は165です》
沖田は海図を綿密に読んだ。海底に死火山が2つそびえている。どちらも海底から1200~1500メートルの高さだ。
「この山の反対側だな。魚雷の最大射程をはるかに超える」
沖田は南側の山を指した。
「そうですね」山中が答える。「2つの山の内側から跳ね返ってきた音を捉えたんでしょう」
《発令所、ソナー》相原が報告した。《S24のパッシヴ・ソナーのコンタクトが断続してあります。コンタクトのパターンはM18と同一か、それに近いです》
沖田はうなづいた。
「M18が私たちを待ち構えている。そう考えていいだろう。北側の山を越えれば、その上はもう大陸棚だ。この山を通過すれば、敵はこの山で待ち伏せて後ろをとるだろうから、私たちは終わりだ」
「では、南側の山の裏に隠れたほうがいいとお考えですか?」
沖田は音響測深儀のモニタ画面を見つめた。南側の死火山はすぐそこだ。海底を這うように進む「ひりゅう」の上、大きな山がそびえている。
発令所には、心配と不安がまじりあった雰囲気がただよっていた。
「停止か針路を変えるかです」山中が進言する。
山の向こう側を透かして見えればいいのにと、本条は思った。確実な証拠は無いし、間違っているかもしれないが、敵は死火山の反対側のどこかで自分たちが来るのを待っていると、沖田は確信しているらしかった。
「ゲームのルールを変える必要がある」沖田は言った。「何らかの方法で」
「デコイを使うとかでしょうか?」本条は思わず口を開いた。
沖田は首を横に振った。
「デコイは想定しているだろう」
―では、どうやって?
本条は喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。副長の山中さえも今は重圧を感じているようだった。沖田は海図をじっくりと検討した。左へ、それとも右へ行くか。時計回りに、それとも反時計回りで山腹を回るか。過酷な現実を忘れて、野球かサッカーの試合として考えているような風情だった。
ここからここで何が起こるのか、本条は固唾を呑んで立ち尽くしていた。
31
SS-515「ひりゅう」
沖田が口を開いた。
「どちらの方向にも行かない」
「敵の方から来させるのですか?」山中が聞いた。
「こういうことだ。魚雷を先に発射させておいて、前方に配置する。現在の位置から発射するから、敵には分からない。山腹を這うように進み、私たちから十分な距離を取ったところで自動追尾(ホーミング)を開始させるようプログラムする」
「了解しました。ですが、それで勝算があるんですか?」
「今に分かる」
沖田はインターコムを取った。
「発射管室、1番、3番、5番発射管の魚雷発射準備」
《発令所、発射管室》柘植が答える。《1番、3番、5番発射管に魚雷発射準備、了解》
数秒後、魚雷装填完了の報告が入った。
「外部扉開け。1番、3番、5番、方位に合わせ用意、テーッ」
強力な水圧が、魚雷を左舷の発射管から打ち出した。
「発射管室、今度は右舷だ。1番、3番、5番発射管に魚雷装填。2番、4番、6番発射管に魚雷発射準備」
数秒後、魚雷準備が整うと、右舷の発射管から魚雷を打ち出した。その後、沖田は再び左舷から魚雷を撃ち出した。
《発令所、ソナー》相原が言った。《魚雷、発射されました。全て正常に航走しています》
これで「ひりゅう」は9発の魚雷を水中に放ち、雷速70ノットで突撃した。
「操舵、面舵10度」
志満が復唱すると、「ひりゅう」の向きが変わった。
この攻撃で、ほとんどの魚雷を後戻りできない状態に追い込んでしまった。沖田は次の一斉射撃にそなえて残り少ない魚雷の装填を命じた。発射管に注水して水圧を均等にし、外部扉を開けるよう指示した。
「長征14」
《発令所、ソナー。音響反応あり》ソナーの声が飛んだ。《近距離です!水中に3発の魚雷あり!平均方位は270!》
左舷から時計回りで、山腹を回って来る。
「応射しろ、副長。その3発を破壊し、同じ方位にさらに3発発射する」
楊はすばやく指令を発した。発射管から魚雷が打ち出された。
《水中に別の3発の魚雷あり!方位060からやって来ます!》
今度は右舷から魚雷が回ってくる。多数の魚雷からいたるところで探信音が発せられる。
「操舵」陸は言った。「取舵いっぱい、全速前進」
《方位060の魚雷が迫っています!》
「ノイズメーカーを発射しろ!」
「長征14」が最初に発射した有線誘導魚雷が、左舷から来襲した魚雷と衝突した。爆発の影響で、「長征14」は揺さぶられた。死火山で跳ねかえされた衝撃が艦尾に荒々しく襲いかかった。左へ押しやられ、山にまっしぐらに向かった。
「面舵いっぱい!」陸は叫んだ。
「長征14」の艦尾後方で、「ひりゅう」が発射した第二波の魚雷がノイズメーカーと爆発した。直前の急旋回に加えて、右舷から新たな衝撃波にみまわれた。制御不能となって海底へ落ちていく。操舵員が衝突を避けようと、必死に舵を切り続けた。
《水中に3発の魚雷あり!》ソナーが叫んだ。《左舷から、また別の3発が接近してきます》
「1番から4番発射管、速射せよ!」陸の命令が飛んだ。
「近すぎます!」楊は大声で言った。
「やれ!」
発射管から魚雷が飛び出た。
「ひりゅう」が放った魚雷は逆巻く気泡にもまれながらも、その奥に見え隠れする「長征14」そのものを目標に定めようとした。度重なる爆圧は海を涌きたたせ、「長征14」を粉砕しようとした。死火山の山腹に亀裂が入り、大規模な土石流が起きようとしていた。落石が艦体に当たった。
「ここから逃げましょう!」轟音に負けじと、楊は声を張り上げた。「崩れてきた斜面で生き埋めにされます!」
「操舵、針路120!」陸は命じた。「両舷全速!」
警報音が突然、原子炉区画と発令所に響いた。
「何が起こった?」陸は言った。
「原子炉で異常です!」楊が叫んだ。
「原子炉制御室、いったい何が起こった?」
陸はインターコムを取ると、詰問するような口調で言った。
《二次冷却水の温度が急上昇しています。原因は不明ですが、二次冷却水の循環に障害が発生しています》
「原子炉制御室、回復はできるか?」
《わかりません。これ以上、二次冷却水の上昇が続くと、蒸気圧が限界を超えて、二次冷却系全体の破損につながります。原子炉停止の許可を求めます》
二次冷却系がダウンすれば、一次冷却系を冷やすことが出来なくなる。高温となった一次冷却水は高圧の蒸気となり、いずれは原子炉本体を破損させるだろう。冷却が出来なくなれば、原子炉の発生する熱に炉自体が耐えられなくなり、炉心融解を起こす。
楊が原子炉担当士官に代わって進言した。
「艦長、原子炉の停止を・・・」
陸は冷静さを取り戻そうと必死になった。
《一次冷却水の温度も上昇し始めました。そう長い時間は保ちません!》
原子炉担当士官のひきつった声がスピーカーに響いた。
「どのくらい時間が残されてる?」
《原子炉が限度以上に加熱してからでは、ECCS(緊急炉心冷却装置)でも間に合いません。出来るだけ早く原子炉を停止させることを進言します》
―なんということだ。
《発令所、原子炉制御室。炉心温度が上昇し始めました》
陸は憎しみとともに虚空を見つめた。
32
《発令所、ソナー。M18を探知しました。速力6ノット、方位150、距離1000》
相原が素早く報告した。
《あっ、待ってください。推進器音が消えました。M18、停止しました!》
発令所の張りつめていた空気が、さっと弛緩するのを感じ、本条は沖田の顔を見た。艦長はほっと胸を下ろしたように見えた。
新たに低い地鳴りのような音が聞こえてきた。
《発令所、ソナー。M18はタンクをブローしたようです。この音ですと、空気を全部使い切っているようです》
一瞬、沖田は敵が艦を失う辛さを思った。原潜は原子炉の冷却水を必要とする。冷却水となる海水の吸入口は、艦底に作られるのが相場だ。「ひりゅう」の魚雷によって巻き上げられた海底の砂や泥が、艦底にある吸入口から吸い込まれ、原子炉の冷却系に致命傷を与える可能性に賭けたのだった。冷却系に支障が出れば、敵に残された道は原子炉を停止させ、行動不能となって緊急浮上するしかないだろう。
沖田はインターコムを取った。
「魚雷戦、用具納め。深さ300、前進原速、針路220」
数週間後―。
「本条二尉、森島船務長より、自分は艦橋に上がる必要があるので、代わりに上甲板の指揮を執るようにとの伝言を託されました。艦は当分、現場海域に留まるとのことですので、私が発令所の当直をやります」
「艦長は?」
「電信室で直接、関係各部と連絡を取っておられます」
「では、後を頼む」
本条は発令所から上甲板に上がった。海上は少し波があった。護衛艦「ちよだ」と合流した太平洋のこの辺りは、外航航路もなく漁船も少ない。哨戒直として、本条が潜望鏡を確認したところでは、日本の沿岸を航海する商船が遠くにちらほらと見えただけだった。
「ちよだ」は若干、揺れていた。「ひりゅう」の上甲板と「ちよだ」の間にロープと板が渡され、「ひりゅう」の負傷者の移送が行われた。
太平洋の海面は波濤がたち、北風が切りつけるように冷たかった。艦橋を仰ぐと、山中副長が立っており、森島船務長たちがいた。
左右の潜舵の上や、幅2メートルにも満たない狭い甲板には、乗組員たちが多数出て海面に視線をこらしていた。
午後6時を過ぎると、周囲は次第に灰色の空と海の境界が定かでなくなり、もはや何も見えなくなった。本条は上甲板の解散を命じた。
乗組員たちは1人去り、2人去って、幹部は本条だけになった。
「とても夏の海とは思えない寒さです。よろしければ、これを羽織っていて下さい。私も下に戻りますので」
機械室のベテラン海曹が自分の着ていたジャンパーを脱いで、手渡してくれた。本条は礼を言い、白い半袖の制服の上に重ねた。かなり寒さがしのげた。
本条は胸中で、不思議な気分を味わっていた。この戦闘を通じて、自分は何かが変わったのだろうか。自衛官として、いつかは経験するであろう瞬間に立ち会っていたのは間違いなかった。しかし、それが周囲より幾分、速かったか遅かったかの違いでしかない。
やがて想いはある女性に移った。あなたと話がしたい。その時、自分はあなたにどんな顔を向けられるだろうか。無性にそんなことを考え、相反するような想いにどぎまぎし、本条は自分の中の新しい感覚に頭がくらくらした。
その時、1機の報道用ヘリが低空で舞い降りてきた。窓から乗り出したカメラマンが執拗にシャッターを切り続けた。
花菱葵は開演前の楽屋で、緊張した状態でテレビを見つめていた。数週間前に、尖閣諸島の沖合で発覚した中国艦船の領海侵犯。事態に対応すべく、海上自衛隊の防衛出動が決定。ある自衛官の聡明な顔が自然と脳裏をよぎった。
開演のベルが鳴った。ソファから腰を上げかけた時、テレビの画面に鯨のような黒い艦影が映った。潜水艦のようだった。太平洋上からの中継映像だという。艦体の甲板上に、白い制服やグレーの作業服を着た乗組員たちが並んでいる。皆、暗い海を眺めている。
次の瞬間、白い制服の上にジャンパーを重ねた若い隊員の姿が1人だけクローズアップされた。葵はハッとした。帽子を目深に被っている。顔立ちはハッキリしなかった。
「本条さん・・・」という言葉が自然と自身の胸に響いた。
33
東京文化会館のロビーを、本条は足早に横切り、ホール横の分厚い扉をそっと押した。午後1時半の開演には、わずかに間に合わなかった。
照明を落としたホールの中では、ヴァイオリンの静かなざわめきに続いて、チェロが奏でる朗々とした旋律が流れていた。バッハの「管弦楽組曲第3番」だった。
本条は腰を屈め、息を止めるようにして着席している人々の前を通り、自分の席に着いた。急いで駆けつけたため、胸の動悸がなかなか収まらず、暫し下を向いていた。
尖閣諸島沖での阻止哨戒任務からすでに、1週間が経っていた。横須賀に帰投した「ひりゅう」は第5バースに係留されたままだった。マスコミからの取材を抑えるため、「ひりゅう」は沖田艦長以下、乗組員は謹慎処分。乗組員たちは複雑な思いを抱いた。
謹慎中の悶々とした勤務の中、本条は情報保全隊の伊東と会った。自ら横須賀に来た伊東が切り出したのは、行方不明になった伍代に関することだった。
「米軍基地の情報班から、情報提供があった。中国大使館の電話記録だ。伍代が成田から出発する当日、大使館に神保町の東栄貿易公司・・・これは国家安全部の息がかかった企業なんだが、ここから電話が入ってる。メッセージは『《ハイネ》が発送された』という内容だった」
「《ハイネ》、ですか?」
「日本で活動していると思われる、スリーパーのコードネームだ。最初に、我々の前に出現したのは8年前のことだ」
「あなた方は、真田をモグラだと疑ったんですね」
伊東は力なくうなづいた。
「真田が退学してからも、機密の漏洩は続いていた。本当のスパイは伍代だった」
スパイとなった理由など、本人に聞かなければ一生分からないことだろう。何よりも異様だと思ったのは、自衛官になる際は何重にも思想背景を調査され、なおかつ機密の漏洩が続いていながら結局はスパイを特定できなかった事実のほうだった。
胸に空虚な想いが広がっていた。あなたに会いたい。本条はコンサートに足を運んだ。
ようやく息も整い、本条は舞台をまっすぐ見つめた。絃楽器の中、指揮者のタクトに合わせて、左右に体を揺らしながら奏でている花菱葵の姿に吸い寄せられた。
最後の曲が終わると、ホールを埋め尽くした聴衆から、万雷の拍手が沸き起こった。本条は立ち去りがたい思いのまま、熱気に包まれた聴衆の中に身を置いていた。
腰を上げて、ロビーに出た。
「失礼ですが、1階席で遅れて来た方ですか?」
胸に係員のリボンを付けた若い男が、本条の濃紺のジャケットを見確かめるように声をかけてきた。
「そうですが・・・」
「チェリストの花菱から、メッセージを言付かっています」
男はロゴ入りのメモ用紙を手渡すなり、慌ただしく取って返した。葵には何も連絡していないのにと、不審な思いで二つ折りの用紙を開いた。
『ようこそ、楽屋においで下さいませんか』
走り書きだが、きれいな文字だった。
気持ちの整理がつかないまま、混んだ通路を人とぶつかりながら、楽屋まで歩いた。入口で来意を告げると、黒いブラウスにロングスカート姿の葵が、すぐに姿を現した。
「聴きに来て下さって、有難うございます。この後、お時間はあります?」
演奏後の高揚した表情だった。
「でも、どうしてぼくが来ていることを・・・」
「遅れて入って来られたでしょう?舞台からだと、よく見えるんです」葵が微笑む。「せっかく来て下さったんですから、少しお話したいです」
本条はきっぱり言った。
「胸のうちを全部、話せたら、少しは楽になるかも知れませんが、今はできません」
葵のほっそりとした手が伸び、本条の手に重なった。
「私は本条さんが答えを出すのを、待っています」
思いがけない言葉に、堪えていたもので眼頭がぐっと熱くなった。冷たい葵の指先を思わず両手に包み込んだ。