〇ハリコフの解放
1月29日、南西部正面軍の第6軍(ハリトノフ中将)の戦区から支援砲撃が行われ、「ギャロップ」作戦が発動された。翌30日には、第1親衛軍(クズネツォーフ大将)の戦区でも攻勢が開始された。
この時、南西部正面軍司令官ヴァトゥーティン大将は副司令官ポポフ中将に対し、正面軍に所属する4個戦車軍団(第3・第10・第18・第4親衛)を統合して、ポポフ機動集団を編成させた。この現代の戦車軍の先駆ともいえるポポフ機動集団は2月3日にドネツ河を渡り、ドイツ第19装甲師団に襲いかかった。目標はアゾフ海の沿岸都市マウリポリだった。
だが、ポポフ機動集団はヴァトゥーティンが期待したような「電撃戦」を行えないまま、数日の内に停止を強いられることになる。その理由は、打撃力の不足にあった。
第18戦車軍団と第4親衛戦車軍団はいずれも前年冬からの激戦に次ぐ激戦で人員・戦車ともに激しく消耗しており、第3戦車軍団と第10戦車軍団に至っては装備戦車台数が定数を大きく下回っていた。
このような理由により、ポポフ機動集団はそれぞれ50~60両ほどの稼働戦車を旅団として集中運用せざるを得ず、ドン河上流域で見せたような軍規模での鮮やかな突破を展開するには、兵力的に不可能な状況だった。
2月2日、ヴォロネジ正面軍の戦区から「星」作戦が発動された。第3戦車軍、第40軍、第69軍(カザコフ中将)による攻撃の矢面に立たされたランツ支隊のSS装甲擲弾兵師団「帝国」とクラーメル軍団の「大ドイツ」自動車化歩兵師団(ヘールンライン中将)は圧倒的な兵力差になす術がなく、西へ撤退する他なかった。
2月5日、ドネツ河湾曲部に到達したソ連軍部隊に、ようやく前線に配置されたSS装甲擲弾兵師団「LAH」が襲いかかった。SS装甲擲弾兵師団「帝国」と「大ドイツ」自動車化歩兵師団は南翼からの包囲の危険を感じ、西のハリコフへ撤退した。
2月8日、ヴォロネジ正面軍の北翼で第60軍(チェルニャホフスキー少将)がクルスクを解放させると、ドイツ第2軍とドン軍集団の連絡線を切断した。翌9日には、第40軍がビエルゴロドの奪回に成功し、ヴォロネジ正面軍は着実にハリコフに迫っていた。
2月12日、ハリコフを防衛するランツ支隊にB軍集団司令部から、「いかなる情勢となろうとも、最後まで同市を死守せよ」との命令が送電された。しかし、ヴォロネジ正面軍の攻勢は着実にハリコフに近づきつつあり、貴重な装甲兵力であるSS装甲擲弾兵師団「帝国」と「大ドイツ」自動車化歩兵師団が失われることを、SS装甲軍団長ハウサー大将は恐れた。
2月14日、ハウサーは絶望的な状況の中で、ランツ支隊にハリコフの即時放棄の許可を要請した。ヒトラーへの忠誠と部下に対する責任の狭間で板挟みになった支隊司令官のランツだったが、苦慮の末にヒトラーの命令を厳守することを優先させた。午後5時、ハウサーに対して「最後の一兵まで死守せよ」と命じた。
2月15日、ソ連軍の戦車部隊は徐々にハリコフに近づいていた。しびれを切らしたハウサーは「大ドイツ」自動車化歩兵師団の指揮権を持つラウス軍団(旧クラーメル軍団)司令官のラウス中将と協議した上、SS装甲擲弾兵師団「帝国」と「大ドイツ」自動車化歩兵師団を南西方向に脱出させ、午後1時にランツ支隊に打電した。
「部隊を包囲から守り、資材を救うため、13時に市外縁ウドゥイ地区での突破命令を出す。目下同地区で激戦中。市南西部、西部で市街戦」
ハウサーの明らかな命令違反を見て驚いたランツは午後3時30分、ハウサーに前日と同じ死守命令を繰り返したが、SS装甲擲弾兵師団「帝国」と「大ドイツ」自動車化歩兵師団はすでにハリコフ市内から脱出していた。
総統命令を公然と無視してSS装甲軍団がハリコフを放棄した事実を知って激怒したヒトラーであったが、自らに絶対的忠誠を誓う武装SSの指揮官であるハウサーを処罰することはなく、その代わりにランツを更迭した。
2月16日、第40軍の第25親衛狙撃師団と第5親衛戦車軍団がハリコフに突入し、昼ごろまでに市街地のほぼ全域が制圧された。ハリコフは約1年半ぶりにソ連軍の手中に収まった。
〇脅威
「星」作戦が順調に目標を着々と完了させていた一方、「ギャロップ」作戦は2月2日以降、大した戦果を上げられずにいた。なぜなら、第1装甲軍(マッケンゼン大将)が予想以上の頑強な抵抗を行い、主戦場のスラヴィヤンスク周辺は渓谷や荒地の多い地形で防御するにはとても有利であったからであった。
2月10日、モスクワの「最高司令部」は南西部正面軍に対し、「退却する敵軍が、ドニエプル河の重要な渡河点であるドニエプロペトロフスクおよびサポロジェへ到達する前に両地点を奪取し、ドネツ地方のドイツ軍部隊を主戦線から分断せよ」と命じた。
この命令を受けて、ヴァトゥーティンは各軍の作戦目標を大幅に変更した。ポポフ機動集団にはスラヴィヤンスク周辺を西翼から迂回攻撃させるとともに、第6軍をクラスノグラード、第1親衛軍をサポロジェに突進させるようにした。
ドイツ軍が主力部隊をハリコフとスラヴィヤンスク周辺に集中していることもあり、攻撃軸を西へシフトさせた第6軍と第1親衛軍はランツ支隊と第1装甲軍の間隙を突いて、再び勢いを取り戻した。
2月17日、第1親衛軍の第4親衛狙撃軍団がパブログラードの奪回に成功した。第1親衛軍の目標であるサポロジェはロストフに通じる幹線道路と鉄道の要衝であり、ドイツ南方軍集団(2月11日、ドン軍集団から改称)司令部や第四航空艦隊司令部のほかに多くの上級司令部が置かれていた。
時を同じくして、ヒトラーはサポロジェの南方軍集団司令部を訪れていた。SS装甲軍団長ハウサー大将がハリコフから脱出した件について、南方軍集団司令官マンシュタイン元帥を譴責するつもりだった。ハウサーはB軍集団に所属しており、マンシュタインの指揮とは無関係だったが、ヒトラーはハリコフを即座に奪回するよう、マンシュタインに詰め寄った。
これに対し、マンシュタインはハリコフでの即時反撃ではなく、第1装甲軍とランツ支隊の間隙部に突出している敵兵力の排除を最優先とする持論を展開した。
「この3か月間における敵の作戦を見れば、彼らの意図は明白です。我が軍集団の退路を遮断して、パウルスの後を追わせるつもりなのです。実際、ドネツ河からドニエプル河へと向かいつつある敵の進撃は、我が軍全体にとって重大な脅威です。よって、我が軍が採るべき道は、まずSS装甲軍団をハリコフ方面の前線から離脱させ、第1装甲軍とランツ軍支隊の間で突出している敵の北翼を、クラスノグラード周辺から攻撃させることです。それと同時に、同じ敵の南翼を第4装甲軍の第48装甲軍団に攻撃させ、両翼からの挟撃で敵兵力を完全に殲滅します。
この第1段階の成功によって、我が南方軍集団の背後に対する脅威は完全に取り除かれます。その上で、先に述べた2個装甲軍団と第1装甲軍の第40装甲軍団を投入すれば、ハリコフの奪回は比較的容易に行えるはずです」
ヒトラーはそれではハリコフの奪回が後回しになると反論して、マンシュタインの反撃案を承認しようとしなかった。しかし、南西部正面軍の方針転換によって西へシフトされた第6軍と第1親衛軍がランツ支隊と第1装甲軍の間隙部に姿を現し、マンシュタインが示した「我が軍全体にとって重大な脅威」が戦況図の上にはっきりと描かれたのである。
2月19日、第6軍の先鋒をゆく第25戦車軍団(パブロフ少将)の第111戦車旅団がドイツ第15歩兵師団を撃退して、シネルニコヴォに到達する。会議が行われているサポロジェから60キロの地点である。
もはやヒトラーには持論を貫き通す時間的余裕がなくなり、慌しく参謀たちとともに航空機で南方軍集団司令部から脱出した。同じ頃、ソ連軍の戦車部隊が20キロの地点にまで迫っていた。ヴァトゥーティンの作戦変更に助けられる形で、マンシュタインの計画に承認が与えられた。
さらにこの時、B軍集団の廃止が決定され、SS装甲軍団とランツ支隊、「大ドイツ」自動車化歩兵師団はすべて南方軍集団の指揮下に置かれた。マンシュタインの頭脳には、ソ連軍に対する反攻作戦がはっきりと描かれていた。
〇中央部での進撃
南部での成功に続いて、スターリンはドイツ中央軍集団の戦区でも戦果を広げようと考えていた。2月2日、スターリングラードの解放が完了すると同時に、「最高司令部」に対して、スターリンはドン正面軍を解体して、はるか北方に新たな正面軍を設置するよう命令を下した。
ドン正面軍司令官ロコソフスキー大将は第21軍・第65軍と、新編成の第2戦車軍をヴォロネジおよびリブニ地区に集結させて、中央正面軍を設置するよう命令された。これ以外のドン正面軍に所属していた3個軍(第24軍・第64軍・第66軍)はスターリングラードに置かれ、中央正面軍もしくは南西部正面軍のいずかに編入されるまで待機するよう命じられた。
モスクワの「最高司令部」と赤軍参謀本部は、ドイツ中央軍集団に対する攻勢計画を三段階にして構成していた。
第1段階は2月12日に始まり、西部正面軍(コーネフ大将)・ブリャンスク正面軍(レイテル中将)によってオリョール突出部を壊滅する。第2段階は2月17日から25日にかけて、この2個正面軍と中央正面軍が協同してブリャンスクを奪回し、デスナ河の橋頭堡を確保する。第3段階は2月25日から3月下旬にかけて、カリーニン正面軍(プルカーエフ中将)・西部正面軍をスモレンスクで合流させて、南方の各正面軍と協同してルジェフ・ヴィヤジマ突出部の中央軍集団を壊滅する。この攻勢全体は南部での予想される成功と合わせて開始されるので、3月中旬までにはドニエプル河に達することになっていた。
しかし、中央正面軍に与えられた時間は5日間しかなく、攻撃開始点に配置されていたのは第2戦車軍と第2親衛騎兵軍団だけだった。第21軍・第65軍はスターリングラードから貧弱な道路と鉄道で移動中であった。ロコソフスキーは「最高司令部」が提示した日程に反対したが、それでも出来うる限りの努力は尽くさねばならなかった。結局、中央正面軍は2月25日まで攻勢に出ることが出来なかった。
2月22日、ブリャンスク正面軍の第13軍・第48軍がドイツ第2装甲軍(シュミット上級大将)の南翼に対して、攻勢に出た。続いて西部正面軍の第16軍(バグラミヤン中将)が、ドイツ軍の北翼をジドージラから攻撃した。しかし、雨とドイツ軍の防御戦術によって第16軍の進撃は阻止され、結局、わずかしか進撃することが出来なかった。
2月25日、中央正面軍は攻勢を開始した。第13軍に北翼を援護された第65軍はドイツ軍の抵抗を排して背後を深く進撃した。第2戦車軍とクリュウコフ機動集団(第2親衛騎兵集団と狙撃兵、スキー部隊)は、セブスクからノヴゴロド・セヴェルスキーに向けて急転回した。
3月1日、中央正面軍の攻勢はある程度の成功を収め、第2装甲軍と第2軍の前線を突破した。この時までにブリャンスク正面軍の第70軍(タラソフ中将)は前線の突破を果たし、ドイツ軍がオリョールとブリャンスクに撤退するのを阻止するため、第65軍(バトフ中将)の北翼で攻勢に加わった。
しかし、ドイツ軍の抵抗は部隊を巧妙に撤退させていく内に頑強なものになり、さらにルジェフ突出部から撤退してきた第9軍(モーデル上級大将)が突破を果たしたソ連軍に襲いかかった。この危機に対し、ロコソフスキーは3個軍(第21軍・第62軍・第64軍)の増援を要請したが、3個軍とも未だ行軍中で意味をなさなかった。
3月7日、クリュウコフ機動集団はノヴゴロド・セヴェルスキーの郊外に到達し、冬季戦の中で最大の前進となった。だが、情勢はドイツ軍の有利になりつつあった。オリョールに迫った部隊はますます増大するドイツ軍の抵抗に直面して停止を余儀なくされた。ロコソフスキーは第2戦車軍をオリョールに送って勢いを取り戻そうとしたが、今度は中央と南翼が弱くなり、そこからドイツ第2軍がかき集めた混成部隊を駆使して反撃に出た。
そして、南方で起こった崩壊が中央正面軍の進撃を完全に停止させた。
〇後手からの一撃
モスクワの「最高司令部」が中央部での攻勢計画を立案している間、南西部正面軍に所属する各部隊の補給はいよいよ絶望的な局面に達しようとしていた。いずれの部隊も1942年の冬季戦から休む間もなく戦闘に駆り出され、人員・装備ともに激しく消耗していた。さらに、正面軍の兵站能力が攻撃方針の変更によって前線部隊に追随できておらず、弾薬や燃料が底を尽きはじめていた。
マンシュタインによる「後手からの一撃(バックハンドブロー)」はこの時、始められたのである。反攻の第1段階は、第1装甲軍とランツ支隊の間で突出しているソ連軍の両翼を挟撃によって完全に殲滅することであった。
2月20日、SS装甲軍団がクラスノグラード北方から、第4装甲軍の第48装甲軍団がパブログラード南方で総攻撃を開始し、第1親衛軍と第6軍に襲いかかった。同じころ、第4装甲軍の第40装甲軍団(ヘンリーチ中将)はクラスノアルメイスコエ周辺で弱体化していたポポフ機動集団を攻撃した。
ポポフ機動集団はこの時すでに、どの部隊も深刻な損害を被っていた。燃料の枯渇で動けなくなった第4親衛戦車軍団は2月18日以降、第7装甲師団と第333歩兵師団、SS装甲擲弾兵師団「ヴィーキング」による包囲攻撃を受けて壊滅的な打撃を受けていた。第10戦車軍団に代わって救援に向かった第18戦車軍団も敵の反撃に晒されて部隊規模をすり減らしていた。
危険を感じたポポフは20日の夜、ヴァトゥーティンに全面的な撤退の許可を求めた。だが、ポポフの耳に届いたのは、激昂したヴァトゥーティンの怒号が響いた。
「貴様、首を賭ける覚悟はできているんだろうな!」
ヴァトゥーティンはこの段階に至ってもなお、「ドイツ軍のドニエプロペトロフスクおよびサポロジェへの退却を阻止せよ」とする2月10日付けの「最高司令部」の命令が実行可能であると頑なに信じていた。
また、当時ヴォロネジ正面軍司令部を視察中だった参謀総長ヴァシレフスキー元帥をはじめとする赤軍参謀本部の将校たちも、当初の計画と合致する形でドニエプル河方面に向かう攻勢の進捗状況に満足し、何ら疑いを差し挟もうとはしなかった。
2月21日、「最高司令部」は南西部正面軍の第6軍に対し、「翌朝までにドニエプル河東岸に橋頭保を確保せよ」との新たな命令を下した。その際、赤軍参謀本部作戦部長第一代理ボゴリューボフ中将が「敵がドンバスからの撤退を実施している」との見解を示すと、これに南西部正面軍参謀長イワノフ中将が同調する姿勢を見せたことで、ヴァトゥーティンは第6軍にドニエプル河の渡河を目指す進撃に継続命令を下した。
2月22日、SS装甲軍団はサポロジェに迫っていた第25戦車軍団の後方連絡線を切断し、全部隊を包囲した。包囲されたソ連兵たちは戦車を放棄し、北方へと脱出を試みている友軍と合流することに成功した。ドイツ軍の兵力は包囲網を閉じるには弱すぎて、9000人の捕虜を得たに過ぎなかった。
2月23日、第1装甲軍が北東に向かって進撃を開始し、第40装甲軍団との合流を果たした。ロゾワヤの西方では、補給不足で身動きが取れなくなっていた第6軍の第1親衛戦車軍団がSS装甲軍団と第48装甲軍団に包囲され、第6軍の主力部隊は司令部との後方連絡線を切断されてしまった。
この事実を知ったヴァトゥーティンはようやく事態の深刻さを知り、「最高司令部」に第6軍の包囲を伝えるとともに、第6軍を救出する手立てを取ろうとしたが、もはや手持ちの兵力は1個もなかった。
2月24日、クラスノグラードからアルテモフスクにかけて、第1装甲軍、第4装甲軍、ランツ支隊による戦線がひとつにつながった。第40装甲軍団はポポフ機動集団を全滅させ、バルヴェンコヴォ付近にまで到達した。ヴァトゥーティンは第6軍とポポフ機動集団が全滅した旨の報告を受けた後、「最高司令部」に打電した。
「南西部正面軍戦区における攻勢の続行は不可能」
2月25日、ヴァトゥーティンは南西部正面軍の全部隊に攻勢の中止とドネツ河への撤退を命令したが、もはや手遅れだった。スラヴィヤンスク周辺にまだ第1親衛軍の残存部隊が展開していたが、正面軍には十分な防衛線を形成する兵力は残されていなかった。そのため、「最高司令部」はヴォロネジ正面軍の第3戦車軍を南西部正面軍に移して、第6軍の消滅によって失われた戦線を埋めようとした。
〇再奪回
第1段階の成功を見届けたマンシュタインは、3月7日に反攻作戦を第2段階―ハリコフ奪回に進めることを決定した。SS装甲軍団と第48装甲軍団に対し、北への総攻撃を開始するよう命令が下された。
3月7日、SS装甲軍団の攻撃が開始されると、ハリコフからアハツィルカに至るヴォロネジ正面軍の戦線を瞬く間に切断した。10日には、ハリコフ西方に幅30キロの突破口を抉じ開けて、ハリコフ郊外に北と西から到達した。
3月11日、第2軍の第52軍団はソ連第40軍の北翼に対する攻撃を開始した。南西部正面軍での撤退に続いてヴォロネジ正面軍の戦区でも、ソ連軍は攻勢の継続から全面的な撤退に転じた。
3月12日、SS装甲軍団と第3戦車軍の間でハリコフを巡って争奪戦が展開された。SS装甲軍団長ハウサー大将は第4装甲軍司令官ホト上級大将の命令に従い、消耗が多くなる市街戦を避けて市全体を包囲して締め上げる作戦を始めた。第3戦車軍は外部との連絡が断たれ、絶望的な抵抗を3日間に渡って繰り広げた。ヴォロネジ正面軍にはもはやハリコフ守備隊を救出できる兵力は残されていなかった。
3月15日、ハリコフは再びドイツ軍の手に落ちた。この深刻な事態に、スターリンは北西部正面軍の作戦指導をしていた最高司令官代理ジューコフ元帥を呼び戻して、至急ハリコフでの防衛線の再構築を命じた。
3月16日、ジューコフはヴォロネジ正面軍と南西部正面軍の残存兵力を査定した後、スターリンに「大規模な兵力が必要」との意見を述べた。スターリンはヴァシレフスキー参謀総長に、戦略予備の状況を調べさせた。その結果、第21軍と第64軍をビエルゴロドへ転進させ、第1戦車軍を予備として派遣することを決定した。
一方、マンシュタインはハリコフの奪回だけでは満足せず、クルスクの突出部を叩き潰そうと考えていた。
3月13日、SS装甲軍団の北翼から「大ドイツ」自動車化歩兵師団は第40軍と第69軍の間隙部に対して攻撃を開始し、2日後にはビエルゴロドから約60キロのグライヴォロンを占領した。
3月17日、中央正面軍の戦区でもドイツ軍の反撃が実行された。ドイツ第2軍は第4装甲師団とハンガリー軍の残存部隊を集中させて、中央正面軍の両翼に対して攻撃をしかけた。先鋒の第2親衛騎兵集団の側面は薄く伸びきっており、中央正面軍司令官ロコソフスキー大将は攻撃の中止を命じて、守勢に転じるしかなかった。
3月18日、ハリコフから北上したSS装甲擲弾兵師団「帝国」はビエルゴロドを占領した。ソ連第40軍は膨らんでいた戦線を幅40キロほどに縮小し、北東へ撤退を続けた。第69軍はグライヴォロンとビエルゴロドの間で包囲されて壊滅した。
しかし、夕刻になってソ連第21軍がビエルゴロド北方に布陣し、SS装甲軍団の進撃は食い止められた。ソ連軍の増援部隊は次々と到着し、南東には第64軍が防衛線を形成し、オボヤンには第1戦車軍の布陣が完了した。
3月中旬になると、再び雪解けによる「泥濘期」が訪れ、ソ連軍のスターリングラードから続いた冬季戦は自動的に停止となり、マンシュタインが反攻作戦の第3段階として想定していたクルスクの奪回も立ち消えとなった。
1942年2月から3月にかけて、ドネツ河流域の東部と南部で繰り広げられた独ソ両軍の機動戦は、最終的にソ連軍の敗北で幕を閉じた。ソ連軍は総兵力として約85万人を投入し、そのうち約10万人を戦死・行方不明者として失った。一転して守勢に回ったドイツ軍も、各部隊の兵員・装備の量を危機的な状況までに低下させてしまった。
ドイツ軍が「青」作戦で占領したドネツ河東部の一帯はこの一連の戦いによって全て奪回されたが、ソ連軍がクルスク周辺の防衛に成功したことで、地図上に1943年度の夏季戦の焦点となる目標がくっきりと表れた。
それはオリョールとハリコフを基点として幅250キロ、奥行き160キロにも及ぶ巨大な突出部であった。