〇高地をめぐる攻防
7月5日、クルスクの南北でドイツ軍の「城塞」作戦が発動された。
早朝、攻撃の先手を打ったのは、ソ連軍の砲兵隊であった。この砲撃は1時間で終わり、ドイツ軍が受けた被害は軽微だったが、中央軍集団司令部は2時間半、南方軍集団は3時間の攻勢の延期を余儀なくされた。
午前7時30分、北部では第9軍による「城塞」作戦が開始された。1時間に渡る支援砲撃に続いて、第41装甲軍団(ハルペ大将)と第47装甲軍団(レメルゼン大将)がソ連第13軍の北翼から、オリホヴァトカに向かって攻勢に出た。
第9軍司令官モーデル上級大将は、敵の陣地が地雷と対戦車砲を主体に構築されていることを受けて、攻勢の初期段階で装甲部隊を投入することは無用な損害を招くと判断していた。そのため、装甲師団の大半を後方で温存する方針を採っていた。
しかし、多くの前線指揮官たちはモーデルのこの方針に疑問を抱いていた。機動力を持たない歩兵部隊だけでは、陣地の迅速な突破と背後への進撃は不十分であると考えられたからである。この指揮官らの懸念はこの日のうちに的中することになる。
地雷地帯は、ドイツ軍戦車がソ連軍の対戦車砲の火力の中を切り抜けなければならないように配置されていた。その結果、機動性を失くしたドイツ軍戦車の多くが対戦車砲の餌食となり、歩兵は敵軍の陣地に深く切り裂くことができなくなってしまった。
この日の攻撃で最も深く進撃できたのは、第47装甲軍団だけだった。第505重戦車大隊(ソーヴァン少佐)と第20装甲師団(ケッセル少将)はソ連第13軍の第29狙撃軍団(スリシュキン少将)の前線を7~8キロ前進したが、他の部隊は攻撃開始点からわずか1~2キロしか進撃できなかった。
午後5時頃、戦況を鑑みたモーデルは当初の方針を撤回し、第47装甲軍団に2個装甲師団(第2・第9)、第41装甲軍団に第18装甲師団を投入する命令を下した。まずは、オリョールとクルスクを結ぶ鉄道の要衝ポヌイリを攻略する目的だった。
一方、中央正面軍司令官ロコソフスキー大将はかねてより立案されていた防衛計画に基づき、第二線に展開する第13軍の2個親衛狙撃軍団(第17・第18)にドイツ軍を押し返すよう命じた。この反撃は、第2戦車軍が支援する手はずになっていた。
ロコソフスキーはスターリンに対して初日の戦況報告を行ったが、スターリンはそれを遮って尋ねた。
「戦場の制空権を握っているのは、我が軍なのか?それとも違うのかね?」
ロコソフスキーは曖昧な返答でかわそうとしたが、スターリンはそれを許さず、同じ質問を繰り返した。ロコソフスキーは緊張しながら答えた。
「明日には、我が軍が制空権を掌握してみせます」
7月6日午前3時50分、ソ連軍の砲兵部隊は70分間の支援砲撃を開始した。この間、第16航空軍の爆撃機と地上攻撃機が上空を旋回し、ドイツ軍の陣地に急降下爆撃を繰り広げた。第16航空軍は2日間で約200機を喪失したが、対するドイツ第6航空艦隊(グライム上級大将)の喪失は15~18機で制空権の奪取には達成できなかった。
砲撃が終わると、第13軍の第17親衛狙撃軍団(ボンダレフ少将)と第2戦車軍の第16戦車軍団(グリゴリエフ少将)が、第47装甲軍団に対する反撃を開始した。
だが、ソ連軍の反撃は前線に新たに配備された第2装甲師団(ルッペ中将)と第9装甲師団(シェラー中将)、第505重戦車大隊によって食い止められてしまう。特に、第505重戦車大隊の「ティーガー」はわずか2日間の戦いで、3両の損失と引換えに、100両近いソ連軍のT34を撃破するという戦果を挙げた。
この日の午後、第41装甲軍団の2個歩兵師団(第86・第292)はポヌイリへ突撃した。第2戦車軍の第3戦車軍団(シネンコ少将)が反撃に出たが、第654重駆逐戦車大隊の「フェルディナント」によって、遠距離から多数のT34を撃破されてしまう。この村では、ソ連第29狙撃軍団の第307狙撃師団(エンシン少将)による激しい抵抗と猛烈な砲撃に遭遇し、ドイツ軍は陣地帯の外縁で進撃を阻止されてしまった。
結局、ドイツ第9軍は攻撃2日目にして敵前線の大規模な突破を達成することが出来ず、前進した距離は最大でも12キロほどに過ぎなかった。
〇鋼鉄の楔
中央軍集団がクルスク突出部の北翼で激闘を繰り広げていた頃、そこから170キロ離れた突出部の南翼でも、南方軍集団による「城塞」作戦が開始されていた。
7月5日午前3時30分、第4装甲軍の第48装甲軍団(クノーベルスドルフ大将)と第2SS装甲軍団(ハウサー大将)は約700両の戦車をもって、第6親衛軍の陣地に向かって突進した。第4装甲軍の東翼の防御を担当する「ケンプ軍支隊」は、第3装甲軍団(ブライト大将)とラウス集団(ラウス大将)が第7親衛軍の陣地を突破した。
当初の計画では、第4装甲軍は迅速にソ連軍の陣地帯を突破し、翌6日夜までに北のオボヤン周辺でプショール河を渡河するはずだった。第48装甲軍団で約50キロ、第2SS装甲軍団で約35キロの進撃が命じられていた。
第48装甲軍団は「パンター」を配備された「大ドイツ」装甲擲弾兵師団(ヘールンライン中将)の攻撃が失敗に終わり5~10キロの進撃にとどまったが、第2SS装甲軍団は地雷原の中を20キロも前進していた。第6親衛軍は第22親衛狙撃軍団(イビャンスキー少将)の各部隊は撤退し、ドイツ軍の先鋒は第二防衛線へと到達していた。
7月6日、第2SS装甲軍団は第1SS装甲師団「LAH」(ヴィッシ少将)を最先鋒に、オボヤン街道の中間地点であるヤコヴレヴォの手前まで迫っていた。
第2SS装甲軍団の迅速な突破作戦に対し、ヴォロネジ正面軍司令官ヴァトゥーティン大将は戦略予備の第2親衛戦車軍団(ブルデイヌイ少将)と第5親衛戦車軍団(クラブチェンコ少将)を第1戦車軍に編入させ、ドイツ軍の東から反撃を開始するよう命じた。
最初の戦車戦がヤコヴレヴォ付近で起こった。第5親衛戦車軍団は第1SS装甲師団「LAH」の東翼を守る第2SS装甲師団「帝国」(プリース少将)に対して反撃したが、ドイツ軍の装甲部隊は反撃を跳ね返し、午前11時までに第一防衛線を突破した。第6親衛軍の第二防衛線は中央部で大きく引き裂かれ、第一防衛線から生き残った部隊は北東に撤退せざるを得なくなった。
ビエルゴロドの北では、第3SS装甲師団「髑髏」(クリューガー中将)が第2親衛戦車軍団の反撃を受けていた。ソ連軍の反撃はドイツ空軍の急降下爆撃機と地上攻撃機によって、多数の戦車を撃破されて失敗に終わってしまった。第3SS装甲師団「髑髏」は「ケンプ軍支隊」との連絡を確保するため東南へ攻撃を続けたが、第96戦車旅団(レベデフ少将)の増援を受けた第375狙撃師団(ゴヴォルネンコ大佐)による粘り強い抵抗に遭い、戦況は一進一退の様相を呈していた。
この日の夕方になって、第4装甲軍がオボヤンに向けて直進するという当初の計画に綻びが出始めていた。「ケンプ軍支隊」が第25親衛狙撃軍団(サフューリン少将)の頑強な抵抗に遭って、その進撃に遅れが生じてきていたのである。
第3装甲軍団の3個装甲師団(第6・第7・第19)は北ドネツ河を渡り進路を北へ転じようとしたが、ビエルゴロド北方のスタルィ・ゴロドに立てこもった第81親衛狙撃師団(モロゾフ大佐)はドイツ軍の攻撃を撃退し続けていた。
しかし、戦況の実情はソ連軍にとっても厳しい状態にあった。スターリンはこの日の深夜に、ヴァトゥーティンに自ら電話をかけ、このように伝えた。
「貴官の任務は、我が軍が西部・ブリャンスク、他の正面軍が反攻作戦を開始するまでの間、敵の攻撃を防衛拠点で食い止めて、奥地への浸透を阻止することにある」
ヴァトゥーティンに出来るのは、前線の崩壊した戦区に予備兵力を継ぎ当てるように配分することだけで、長期的な作戦として反撃を行うには充分な兵力も物資もヴォロネジ正面軍には残されていなかった。
○膠着する戦場
北部戦域では、ドイツ第九軍の後方部隊が予期せぬ混乱に直面していた。
モーデルの決断により、戦略予備の装甲部隊が狭い攻撃正面に投入されたことで、各師団の後方で輸送車両が入り乱れていた。7日の夜が明けると同時に、第41装甲軍団はポヌイリ周辺へ、第47装甲軍団はオリホヴァトカの高地帯へ攻撃を開始した。
7月7日、第41装甲軍団の第18装甲師団(シュリーベン少将)が、ポヌイリとその付近の高地を占領しようと努力を続け、ついに街の北西部で陣地帯への突入に成功した。ソ連第13軍は第129戦車旅団(ペトルーシン大佐)とSU152重自走砲を配備された第1442重自走砲連隊がポヌイリの防衛に乗り出し、ポヌイリを巡る戦いはどちらも決定的な戦果を挙げることが出来なかった。
7月8日、モーデルは戦略予備から第4装甲師団(ザウケン中将)を第47装甲軍団に投入し、第47装甲軍団の東翼でサモドゥロフカへの攻撃を開始した。サモドゥロフカはオリホヴァトカ北方に位置しており、クルスクの方角がよく見渡せるオリホヴァトカの高地帯を占領する上で重要な要所だった。
第4装甲師団は第13軍と第70軍の境界を突破し、サモドゥロフカを短時間で攻略した後、南方のテプロエに迫った。この戦況に対し、ロコソフスキーは第140狙撃師団(キセリョフ少将)と第11親衛戦車旅団(ブブノフ大佐)を投入してこの間隙を塞ぎ、それ以上の前進を許さなかった。
7月9日、ドイツ空軍の爆撃機約100機が、オリホヴァトカ周辺のソ連軍陣地に猛烈な空襲を行った。陣地の周辺に展開していた第2戦車軍の第19戦車軍団(ヴァシリーエフ少将)は大きな損害を被ったが、防御陣地には決定的な打撃を与えることが出来なかった。
7月10日、モーデルは戦略予備から第10装甲擲弾兵師団(シュミット中将)を、ポヌイリの市街戦に投入したが、中央正面軍は第3戦車軍団に砲兵部隊を寄せ集め、その背後に2個親衛空挺師団(第3・第4)を送り込んだ。ポヌイリの攻防戦は完全に膠着し、市街地の占領は絶望的な状態に陥った。
第47装甲軍団は3個装甲師団(第2・第4・第20)に所属する約300両の戦車がオリホヴァトカに向かったが、北部戦域のソ連軍陣地は南部よりも縦深の密度が高く、高地帯の突破を目指すドイツ軍にとって厄介な障害となった。ドイツ軍のある将校は、次のように書き記している。
「ソ連軍の戦車は、指揮統制と戦術上の双方で有利な地形を占めており、車体の前方と側面を地面に埋めたT34は巧みに偽装されていて、発見するのは容易ではなかった。横隊を形成するように広く展開していたため、包囲するのも難しかった。これらの半地下戦車を撃破するには、後方に回り込むか、重砲やシュトゥーカの支援を受けるしかなかった」
第47装甲軍団は大きな損害を被りながら、ようやくオリホヴァトカの北で主陣地帯と第二防衛線を突破した。しかし、第9軍はこの6日間で攻撃開始点からわずかに15キロ前進しただけに留まった。
中央軍集団司令官クルーゲ元帥はこの日、モーデルから前線の情勢について報告を受けた後、作戦方針の修正を決断した。ヒトラーに対し、次のような内容の報告を提出した。
「敵の執拗な抵抗に遭遇したことにより、攻勢部隊が前進できるのは、1日でわずか2~3キロになっています。迅速な成果を挙げることに失敗したため、今や最小限の損害で敵に最大限の損害を与えることを優先せねばならなくなりました」
これは、クルスク突出部の北部戦域における攻勢を中止すべきという、クルーゲの「警告」に他ならなかった。
○転換
クルスク突出部の南部戦域では、モスクワの「最高司令部」がヴォロネジ正面軍を強化するために、ステップ軍管区から戦略予備を投入し始めた。第5親衛戦車軍(ロトミストロフ中将)はステップ軍管区司令官コーネフ大将から、スタールィ・オスコルへ前進するよう命令を受け取った。
7月7日、第48装甲軍団の第11装甲師団(ミックル少将)と「大ドイツ」装甲擲弾兵師団はペナ河沿いのスルツェヴォ付近で、ソ連第1戦車軍の第3機械化軍団(クリヴォシェイン少将)との激しい戦闘に巻き込まれた。
ヴァトゥーティンが弱体化した第3機械化軍団を強化するため戦略予備を投入しようとしたが、第3機械化軍団は大きな損害を被り、ペナ河から撤退を始めた。「大ドイツ」装甲擲弾兵師団はスルツェヴォ東方の高地に迫ったが、高地の陣地帯に敷設された第6戦車軍団(ゲットマン少将)のT34によって前進を止められてしまう。
7月8日、第2SS装甲軍団の戦区では、ソ連軍の戦車部隊による限定的な反撃が実施されていた。この反撃には第5親衛軍の第10戦車軍団(ブルコフ少将)、南西部正面軍の第2戦車軍団(ポポフ少将)が投入されたが、部隊間の協同が取れぬまま反撃を実施し、ドイツ軍の装甲部隊によって各個撃破されてしまった。
第2SS装甲軍団の先鋒を担う第1SS装甲師団「LAH」は、テテレヴィノ周辺から北へ進出し、プショール河から南に4キロほどの地点にあるグレズノエに到達した。当初の予定から2日遅れて、ようやくプショール河を渡河する目処が立つ位置に前進したのである。
7月9日、第4装甲軍司令官ホト上級大将は頑強なソ連軍の抵抗を鑑み、オボヤンを経由してクルスクに至るという当初の方針を変更し、プロホロフカからクルスクに向かう攻勢案に修正した。そのため第2SS装甲軍団が西方から、「ケンプ軍支隊」が南方からプロホロフカを圧迫する旨の命令が下された。
同刻、第5親衛戦車軍司令官ロトミストロフ中将は同日中にスタールィ・オスコルからプロホロフカ北方まで進み、戦闘態勢を整えるよう命じられた。このとき、第5親衛戦車軍はヴォロネジ正面軍の指揮下に移された。
ヴァトゥーティンはロトミストロフに対し、ドイツ軍の状況について説明した。第48装甲軍団はオボヤンまであと20キロに迫っていたが、大損害を受けて前進は止まった。どうやらドイツ軍は攻撃の主軸を第2SS装甲軍団に移したらしい。彼らはプロホロフカに向かっている。
「同志ロトミストロフ、君の任務はSSの戦車部隊を粉砕することだ」
問題となるのは、ドイツ軍に装備されている強力な新兵器である。
「これにどう対処するつもりか?」
「T34の機動力を活かして、接近戦に持ち込みます。敵の側面に回り込んで、討ちとるのです」
7月10日、「ケンプ軍支隊」は第3装甲軍団の第19装甲師団(シュミット中将)がビエルゴロド正面の第168歩兵師団(シャール=ド=ボーリュー少将)と連携して、ソ連第81親衛狙撃師団へ総攻撃をしかけた。この総攻撃に対し、ソ連軍は第96戦車旅団を投入して抵抗を続けたが、ついに拠点であるスタルィ・ゴロドを放棄して北東へ撤退した。
7月11日、第3装甲軍団長ブライト大将はプロホロフカで第2SS装甲軍団と合流するため、第6装甲師団(ヒューナースドルフ中将)に対してルジャヴェツで北ドネツ河を渡るよう命じた。第6装甲師団は翌朝を待たずに夜襲を実施し、今まで遅れを一挙に取り戻すようにルジャヴェツの占領に成功した。
第2SS装甲軍団は先鋒に配置替えされた第3SS装甲師団「髑髏」が、プショール河に橋頭堡を確保に成功していた。この時点で、第2SS装甲軍団の稼働戦車台数は作戦開始当初の451両から、121両にまで減少していた。稼働戦車台数は3分の2まで低下したものの、損失の多くは一時的な故障による脱落であり、全損車両はわずかしかなかった。
ドイツ軍の装甲部隊がプロホロフカに迫る中、その北方に第5親衛戦車軍が集結しつつあった。プショール河沿いの第三防衛線を突破されると、あとは防御設備が劣悪な陣地しか残されていなかった。第三防衛線の突破を防ぐため、第5親衛戦車軍の総戦車台数はこのとき、約800両に達していた。
〇プロホロフカ攻防戦
7月12日午前4時、第5親衛戦車軍司令部はヴォロネジ正面軍司令部から、ただちに麾下の戦車部隊を用いた反撃作戦を開始せよという命令を受け取った。この計画は、第18戦車軍団(バハロフ少将)と第29戦車軍団(キリチェンコ少将)がプロホロフカを南北から挟撃するという内容だった。
午前6時、今にも雨が降りそうな曇り空の下、ドイツ空軍のBf109戦闘機が戦場に飛来した。戦闘機のパイロットは「十月」国営農場や二五二・二高地の東方に、大規模なソ連軍の戦車部隊が集結しているのを発見し、第2SS装甲軍団司令部に通報した。
午前6時30分、第18戦車軍団は先陣を切って、「十月」国営農場に布陣する第1SS装甲師団「LAH」に対する反撃に乗り出した。しかし、2時間に渡る攻防の末、第18戦車軍団は大きな損害を被って、北東へ退却を余儀なくされた。
午前8時30分、第2戦車軍団(ポポフ少将)が第2SS装甲師団「帝国」の側面に攻撃をしかけた。第18戦車軍団も午前9時に協同して2回目の反撃に乗り出したが、第1SS装甲師団「LAH」はソ連軍の波状攻勢を粉砕することに成功した。
第2SS装甲軍団はこの日、最北部に位置する第3SS装甲師団「髑髏」に重点を置き、その進擊状況を見極めた上で、残る2個師団(「LAH」と「帝国」)に命令を下す計画を立てていた。
第3SS装甲師団「髑髏」はプショール河を渡り、その北東約5キロの位置を走るカルタシェフカとプロホロフカを結ぶ道路を占領しようとしていた。カルタシェフカへの占領が成功したら、後方から第1SS装甲師団「LAH」が続く予定だったが、ソ連軍の反撃により北方への進撃が不可能な状態になった。
午前9時30分、第1SS装甲師団「LAH」は突撃砲を投入して、それから2時間ほどの間に、約70両近いT34とT70を撃破した。それでも、第5親衛戦車軍は新手の戦車を投入することを止めなかった。
午後1時、第29戦車軍団が第1SS装甲師団「LAH」と第2SS装甲師団「帝国」の境界線に襲いかかった。第2親衛戦車軍団も東翼から攻撃に加わり、ドイツ軍の装甲部隊は退却を余儀なくされ、数両のT34は第1SS装甲師団「LAH」の後方にあるコムソモーレッツ集団農場にまで進出した。
態勢を立て直した第1SS装甲師団「LAH」と第2SS装甲師団「帝国」は再び西翼から攻勢に転じ、日没までに250両近い敵戦車を撃破してプショール河東岸の陣地を保持し続けた。プショール河の北に進出した第3SS装甲師団「髑髏」も、カルタシェフカとプロホロフカを結ぶ道路を遮断することに成功する。
戦史上、最大の戦車戦であったプロホロフカ攻防戦は日没までに、独ソ軍双方は自らが勝者であると判定できなかった。しかし、ドイツ軍は機械的な消耗などで稼働戦車を磨り減らしてしまっていたが、ソ連軍にはまだ多くの戦車部隊が後方に配置していた。
プロホロフカで第2SS装甲軍団が死闘を繰り広げていた頃、その東西翼で第48装甲軍団と第3装甲軍団はそれぞれ攻勢限界点へと到達しつつあった。
プショール河の西翼でオボヤンを目指す第48装甲軍団は第1戦車軍に対する攻勢を続けていたが、7月12日に第10戦車軍団と第5親衛戦車軍団の残存部隊が反撃を開始すると、第48装甲軍団は防御へと転じざるを得なくなった。
第3装甲軍団の戦区では、2個装甲師団(第6・第19)が北ドネツ河沿いに進んでいたが、7月12日にルジャヴェツで北ドネツ河に橋頭堡を確保していた。この橋頭堡からプロホロフカまでは、直線距離で約15キロまでしかなく、マンシュタインは第3装甲軍団の先鋒がさらに突進してプロホロフカで第2SS装甲軍団と合流してくれることに期待していた。
ところが、ヒトラーはマンシュタインに対して「中央軍集団司令官クルーゲ元帥と共に、翌7月13日の正午から総統大本営で開かれる作戦会議に出席せよ」と命じた。
攻勢が決定的な時期にさしかかっている時に指揮官を戦場から引き離すような命令にマンシュタインは激昂したが、ヒトラーの関心は勝利の見込みが薄れたクルスク突出部ではなく、連合軍のシチリア侵攻に対する防御戦へと向けられていたのである。