22
ギーッと音を立てて、祭壇の上部が口を開けた。蓋を横にずらし、暗がりにカンテラを照らしてみる。石段が地下へ続いていた。
ジョージは祭壇をまたぎ、石段を下り始めた。石は古く、荒く削り出されている。下りきったところは、洞窟だった。壁は乾燥している。向かいには大きな丸い岩があり、大きな盆を立てかけたように行く手を塞いでいた。岩の外周には、文字が刻まれている。
カンテラをかざし、岩の縁に彫られた文字の解読を試みる。エラス語のように見える。エラス語はニカイア帝国の公用語だった。暗がりの中、かろうじて皇帝ゲオルギウスと皇后ゾフィの名前が読み取れた。
「聖ゾフィ・・・姉さんが尊敬する人だね」
不気味に静まりかえった空間に自分の声が響くと、心なしか孤独が薄れるような感じがして、ジョージはそのまま喋り続けることにした。
「シンボリズムとしてはごく標準的なものだよ、姉さん。階段の下の入口は丸く、その上の祭壇は四角い。丸と四角の組み合わせは民を保護するシンボルだよ」
ジョージは丸い岩の床をカンテラで照らしてみた。溝が掘られている。この岩戸は、脇へ転がす仕組みになっているようだ。
「皇帝ゲオルギウス閣下、どうぞお許しを」
ジョージはカンテラを置き、岩戸に両手をかけ、押した。最初はやや抵抗があったが、やがて岩は滑らかに転がって脇に退き、その先にさらに洞穴が続いていた。激しい胸の鼓動を抑えつつ、ジョージはカンテラを取り上げ、歩を進めた。
広い空間が眼の前に口を開けている。周囲をカンテラで照らすと、ジョージの顔は青ざめた。そこは天然の洞穴をさらに掘り広げた洞窟で、壁一面に彫刻が施されている。教会のモザイクよりも原始的で、背筋がぞっとするデザインだ。
悪魔があらゆる角度から自分を睨んでいる。残虐きわまる一連の地獄図が、びっしりと壁を埋め尽くしていた。老若男女を問わず、あらゆる人間が悪魔にいたぶられている。人間の肉欲を描いた彫刻もあり、情欲の入り混じった苦痛と恐怖の世界が広がっていた。脳裏にクーベリックのデッサンが浮かび、ジョージは胃がむかむかしてくるのを感じた。
岩壁からは鎖や手枷、足枷のような拘束具がぶら下がり、その下には岩を四角く削り出したテーブルが並んでいた。カンテラをかざすと、金具がきらりと光った。大きな五寸釘、ペンチ、火箸、ノコギリなどの道具だ。乾燥した空気のためかほとんど錆はなく、どれも黒い染みがこびりついていた。
「一体ここで何があったんだろうね、姉さん」
カンテラで、さらに洞窟の中を照らしてみる。祭壇のような石のブロックが見えた。近づいていくと、視界の隅で、何かがちらりと動いた。ハッとして振り向いてカンテラを突き出したが、ジュッという音がして、火が消えてしまった。深い闇が視界を閉ざす。
「クソッ!」
何かがさっと通り過ぎ、ジョージの足首を軽く触れた。唇を噛み、叫びを押し殺す。カンテラを振ってみる。オイルが空になったようだ。オイルを足し、再び明かりが灯ると、あやうくカンテラを落としそうになった。
眼の前に怪物が立っている。両手を伸ばし、鋭い爪でジョージに襲い掛かろうとしている。一瞬の後、それが石像であることが分かった。思わず笑おうとしたが、出てきたのは甲高いしわがれ声だった。
「なかなか見事な石像だね、姉さん」
牙を剥きだした肉食獣の頭を持った男の裸像だった。鷲の脚、背中に四枚の翼とサソリの尾、股間は蛇の男根。全長は3メートルぐらいで、腹のあたりにくぼみが彫られている。ジョージはくぼみに手を入れた。その奥に、別の像が彫られていたようだ。形はまさしく、ピジクスが持っていた拓本の偶像そのものだった。
「偶像はどこへ行ったんだろうね、姉さん?」
ジョージは石像から数歩はなれてみた。床には円を描くように文字が刻まれ、左回りに内側へ向かっている。その円の中心に、祭壇と思しき石のブロックがあった。ジョージの方向感覚が正しければ、それはちょうど上の教会にある四体の天使像の真下に位置しているようだ。祭壇には鎖や足枷、腐った革製の手錠などの拘束具が巻きつけられていた。下方には穴が開き、石の表面には深い溝が刻まれている。
「ここは第2の寺院なんだ・・・」
なんとか気を紛らわそうとして、ジョージは言った。
「上の教会よりも古い。皇帝閣下、あなたの民がここを見つけた。ここを改修して、ずっと後になってから、その上に新たな教会を建てた」
ジョージはしゃがみ込み、床の文字を照らし出した。
「これはニカイアの魔術だ。呪文を唱えながら、内側に向かって円を描くように歩いていき、中心にたどり着いたところで魔法がかかる・・・」
もう一度、祭壇を照らしてみる。
「これは血の染みのようだ・・・皇帝閣下、あなたの臣民がここで犠牲になった。生贄にされたんです」
ジョージは表面に刻まれた溝を入念に調べた。
「これも魔術だ。注がれた血が溝を伝わって流れ、あの穴に入る。悪魔か神か、なんであれ、その中にいる何かを養うために。まるで、宗教裁判のようだ。もちろん、閣下はご存じなかったんでしょう。あなたなら、こんな蛮行をお許しにはならない」
手の甲がムズムズしたので、ジョージは視線を落とした。1匹の蠅が指の上を這っている。返してみると、今度は3匹いた。シューッという奇怪な音がして、何かが足元をかすめた。カンテラで床を照らしてみる。
床が蠅に覆われていた。何億という数の蠅がうごめき、まるで海のようだ。すでに足首がつかるほどに深い。ジョージがハッと息を飲んだ瞬間、周囲の蠅が一斉に、爆音のような唸りを上げて飛び立った。
ロキリアは苦痛に満ちた悲鳴を上げた。そばにはティティがしゃがみこみ、両手を差し出して赤ん坊を待ち受けている。フェラシャデーはもう一人の助手と、ロキリアの体を支え続けた。ロキリアは疲れている。体重が次第にフェラシャデーの腕や肩に、ずしりとのしかかってきた。
「いきんで」
ティティが励ました。
「もっと強く!」
ロキリアは歯を食いしばり、懸命にいきむ。
「ほら、見えた」
ティティが安堵の声を上げた。
「頭が見えたよ。もうお母さんだ。もう少し・・・ほら、頑張って!来た!」
赤ん坊がするりと生まれ落ちた。ティティがギャッと叫び、赤ん坊を取り落とした。赤ん坊がロキリアの脚の間に転がる。後産が生温かい塊となって排出され、ロキリアはすすり泣く。ティティはさらに悲鳴を上げた。フェラシャデーはロキリアが横になるのを手伝った。
「赤ちゃんは?私の赤ちゃん・・・」
ティティは小屋の隅まで後ずさりしていた。眼を見開き、激しくあえいでいる。フェラシャデーは足元に眼をやり、次の瞬間、両手を口に当て、叫びだしそうになるのを必死にこらえた。赤ん坊は明らかに死んでおり、その小さな体にはびっしりと白い蛆虫で覆われていた。ロキリアの股間から、大量の蛆虫が吐き出される。後産が蛆虫と一緒にのたくっている。腐った肉の甘く強烈な臭いが小屋を満たした。ロキリアは身を起こし、赤ん坊を見た。そして、絶叫した。
入口のシュロの葉を押し退け、セビトゥアナがずかずかと入ってきた。その眼はすぐに生まれたばかりの息子の腐乱死体をとらえた。セビトゥアナの顔はみるみる青ざめ、怒りのあまり岩のように硬直した。
「白人の侵略者どもめ!奴らの仕業だ!」
23
ヘレーネはジョセフのベッドからあまり離れないよう気をつけながら、病室で雑用をこなしていた。外では、モーガンが窓からじっとその様子をうかがっている。夜闇がモーガンの姿を隠してくれる。モーガンの眼は執拗にヘレーネの体をねめ回していた。身体の曲線、丸い尻、豊かな胸。そのうち身を屈めたり、服を持ち上げて、下着の中を掻いたりすることもあるだろう。
1匹の蠅が顔にとまり、腫れ物の間をぬって這い回り始めたが、モーガンはまるで気にとめなかった。呼吸が荒くなり、鼻息で窓ガラスが曇りそうだ。股間はすでに熱を持ち、経験上、いま手を触れれば暴発してしまうことは分かっていた。これまで何度、ヘレーネの窓辺の下に白い水たまりを作ってきたことか。もう数えきれない。あの女は気づいたことさえないんだろう。口を開けば俺に嫌味を言い、いつも邪険に扱いやがって。役立たずだと見下しているつもりだろうが、どっこい、俺は男なんだよ、お嬢ちゃん。気が向けば1日に3回はマスがかけるし、女相手なら一晩中突っ立ててやるって。
問題は、この辺りにろくに女がいないってことだ。現地の女は勘定に入らない。黒いのとヤるなんて、考えただけで虫酸が走る。だが、ヘレーネは違う。そう、あれこそ女だ。
しかも、調教済みときてる。腕の入れ墨がいい証拠だ。アメンドラの連中が収容所で女どもに何をしたかは、聞いたことがある。簡単なことだ。あっと言う間にハメて、ガンガン突いてやるんだ。ヘレーネは慣れっ子なんだから。こたえられねぇ。
モーガンは股間を外壁に押し付け、思わず唸り声を押し殺した。玄関のドアが開き、エメクウィがそっと病院に入ってきた。入口に背を向けているヘレーネは、気が付かないようだ。モーガンはハァハァと息を切らし、声を上げないようにするのに必死だった。
カマラの奴、ヘレーネに何をするつもりだ?後ろから、ヤッちまおうってのか?そりゃあ、すげぇ見物だぜ。
蠅は相変わらず顔を這い回っている。くすぐったくなり、手を振って追い払った。蠅はぶんぶんと飛び回り、また顔にたかった。それを無視して、モーガンはズボンのベルトを外しにかかる。
モーガンの期待を裏切り、カマラはジョセフのベッドのそばで立ち止まった。ようやく物音に気づいたらしく、ヘレーネが驚いた様子で振り返る。相手がカマラだと分かるとすぐに落ち着きを取り戻し、何やら話しかけた。モーガンは聞き耳を立てたが、窓のわずかな隙間からはほとんど何も聞こえてこなかった。
「カマラ、できるだけの手は尽くしてるわ」
カマラは答えず、無言のまま立ち去った。
モーガンはこっそりと建物の角へ回り、表をうかがった。ちょうどカマラが病院から出てきたところだ。やつれ切っている。モーガンには、訳が分からなかった。ここの女ときたら、雑種の犬もかなわないほど、ボロボロと子どもを産むじゃないか。ひとり亡くしたくらいで、なんであんなに落ち込むんだ。
突然、顔にかゆみが走る。掻いてみたが、治まらない。かゆみは次第にひどくなり、爪の下で腫れ物がはじけ、生温かい汁がとろとろと頬を伝う。すると、今度は燃えるような痛みが襲ってきた。ズボンで手を拭う。あの女め、俺を治療するどころか、ろくに診察しようとしない。しかも、酒も無いときてる。クソッ、酒が欲しい。酒と女だ。あの女に、しゃぶらせたい。
「雌ブタめ」
モーガンは吐き捨て、カマラの後をよろよろとホテルに向かって歩いていった。カマラはホテルを通り過ぎ、どこかへ行ってしまった。モーガンは相手の足音が聞こえなくなるまで待ち、バールのドアに手をかけた。どうせ鍵がかかっているだろうと思っていたが、ドアはするりと開いた。
バールの中は暗く、当然のごとくガランとしていた。明かりをつけようかと思ったが、止めておいた。部屋の奥のカウンターへ向かう。蠅が顔の周りを飛び回っている。手を振って追い払った。
眼の前に、影が立ちはだかった。ハッと飛びのくと、それはカウンターの奥の鏡にぼんやりと映った自分の姿だった。モーガンはカウンターの後ろに回り、棚を見回した。酒瓶はみんな空だ。カウンターの下の棚も探ってみるが、そこも空っぽだった。道理で、カマラが鍵をかけずにおくわけだ。
カリカリと何か引っ掻くような音がした。モーガンはハッと身を起こし、再び鏡の中の自分と向き合った。小さな爪が硬い表面を叩くような音が、次第に大きくなる。室内は薄暗く、開いたドアとシャッターの隙間から月明かりがわずかに洩れているだけだ。モーガンは顔の腫れ物のひとつが膨れ上がり、動いているのを見た。頬の皮膚と肉の間で、何かがムズムズとうごめいている。
泡立つような吐き気で胃が痙攣した。手を顔に持ち上げ、爪で腫れ物の薄皮を突いてみた。腫れ物が破れ、膿や滲出液が飛び散った。途端に、破れたところから皮膚がモゾモゾとうごめき、大きな黒い蠅がぞろりと這い出したのだ。
ショックに凍りついたまま、モーガンは鏡を見つめた。蠅の羽根は湿っている。蠅は濡れた羽根を震わせ、さらに液体をまき散らし、軽やかに飛び立った。
突然、さらに顔中がむずむずと動くのを感じた。顔にできたすべての腫れ物の中に、小さな虫がうごめいている。
ドアがバタンと閉まり、モーガンはついに悲鳴を上げた。
24
ヘレーネはなま温かいシャワーを浴び終えた。湯は屋根に取り付けられた金属製のタンクから供給される。タンクはできるだけ熱を吸収するよう黒く塗られていて、日中は温度が上がり過ぎるほどだ。しかし、深夜になればかなり温くなってしまう。それでも、シャワーを浴びればリラックスできるし、多少なりとも寝つきも良くなるだろう。
ヘレーネはタオルを手に取り、まず髪を拭き、それから身体を拭き始めた。途端に、電気が消えた。あっと叫び、舌打ちしたい思いでスイッチを何度か押したが、照明は付かない。仕方なく戸棚から、非常時用のロウソクを取り出し、マッチで火をつけた。
浴室の外で、何かを引っ掻く音がした。ヘレーネは手をとめた。
カリカリ。バタン。
思わず身を硬くする。ジョセフだろうか。いや、そうとは思えない。
カリカリ。バタン、バタン。
タオルを体に巻きつけ、浴室のドアを開ける。暗い廊下に人の気配はない。
「誰、誰なの?ジョージ?」
バタン。
激しい鼓動を抑えつつ、ヘレーネは廊下に踏み出した。診察室の前で立ち止まり、中をのぞく。誰もいない。さらに先へ進む。キッチンも寝室も空っぽだ。
バタン。カリカリ。バタン。
寝室の窓が何かで光り、通り過ぎた。思わずキャッと叫んで飛びのいたが、光はすぐに消え去った。
タオルをさらにきつく胸に巻きつけ、病室の入口へと進み、そっと中をうかがった。天井のランプはまだ燃えている。ジョセフはベッドで寝ていた。突然、部屋の電灯がつき、そばのテーブルの上でラジオが大音量で鳴り出した。悲鳴を上げて振り向くと、足元がぬるりと滑り、あやうく転びそうになった。かろうじてバランスを取り戻し、ラジオのダイヤルを回してスイッチを切る。
なんで、ラジオがついたのかしら?
ふと床を見ると、血が眼に入った。深紅の道筋が廊下をたどり、自分の足元まで続いている。ヘレーネは血だまりの中に立っていて、タオルの端まで真っ赤に染まっていた。声にならない叫びが、喉に詰まる。震える手を太腿の内側に滑らせてみる。指に血がべっとりと絡んだ。ヘレーネは叫んだ。声の限りに。
気がつくと、ヘレーネは病室のベッドに寝ていた。眼の前にジョージがいた。喉がひどく痛い。枕元にジョージが深刻な顔つきで坐っていた。
「気分はどうですか?」
「私・・・分からないわ。何があったの?」
ヘレーネの声はかすれている。
「入って来たら、あなたがその・・・血を流して倒れてた。それで、体を洗ってからベッドに寝かせ、床にモップをかけた」
「ありえないわ・・・」
「きっとストレスのせいで・・・」
「そうじゃないの・・・」
ヘレーネの声は囁き声になった。辛い記憶が心によみがえってくる。
「私には、もう・・・流す血なんか残ってないの。ベルゲンよ」
「何?」
ジョージは瞬きをした。
「強制収容所」
ヘレーネはランプの灯の下に腕の入れ墨を差し出した。B19862という数字が読める。
「私はベルゲンに送られた。もともとはお城だったところを、アメンドラが強制収容所にしたの。私は没収品を処理する仕事に回された」
「没収品?」
「収容所に連れて行かれると、まずある部屋で所持品をすべて没収されるの。名前もね。その後、番号と薄い灰色の囚人服を渡される。囚人がそこから出ると、私たちが中に入るの。没収品を分類するわけ。スーツケース、洋服、メガネ、宝石、靴・・・床に歯が転がっていたのを見つけたときは、ショックだったわ。アメンドラは歯に被せてあった金が欲しくて、守衛に命じてペンチで抜かせたのよ。もちろん、没収品の仕分けばかりしてたわけじゃない。妹が強姦されるのもこの眼で見たし、従兄弟たちが処刑されるのも見た。両親が毒ガス室へ連行されるのも。それでも私は生き延びて・・・」
ヘレーネは言葉を切った。ジョージはじっとヘレーネの顔を見ている。やがて、ヘレーネはふたたび口を開いた。
「この地はね、ジョージ・・・トゥルカナの人たちの言う通り、呪われてるわ」
「・・・」
「だって、恐ろしいことばかり起こるんだもの。悪魔の仕業としか思えない」
「ヘレーネ、悪がどこかに存在してると考えるのはたやすい。でも、それは違う。悪は人間が生まれながらにして持ってるものだ。ぼくたちみんなのなかにあるんだ」
「じゃあ、あなたのなかには、どんな悪があるの?」
「何だって?」
ヘレーネはベッドから手を伸ばし、ジョージの手に触れた。
「私は死んでいく人たちの衣服と過去を仕分けしたわ。あなたには、何があったの?」
ジョージはぐっと口元をつぐみ、しばし沈黙が流れた。さらに問いただすべきか、ヘレーネが迷っていると、ジョージが重い口を開いた。
「あれは・・・戦争が終わる直前で、神父の数も不足してました」
ジョージはヘレーネの手を握った。
「そこで、ぼくも考古学の現場から呼び戻され、ディレンブルグ王国のヘルンデールという村に司祭として派遣されたのです」
「ディレンブルグはアメンドラの占領下にあったわね」
ヘレーネが静かに言い、ジョージはうなづいた。
「前任の神父は・・・失踪してしまって、ぼくがその代役になったのです。ある日、アメンドラの兵士がやって来て・・・」
その時、ジョージはおもむろに虚空へ眼をやった。何か恐ろしいものを見たような険しい顔つきになっている。ヘレーネが問いかけようとすると、ジョージは言葉を遮った。
「クーベリックは教会の下で何を見つけたか、あなたに話したんですか?」
ヘレーネは瞬きした。
「教会の下?いいえ。何があるの?」
「太古の寺院だ」
ジョージはかいつまんでこれまでの経緯を説明した。ただし、行方不明になっている偶像と蠅の大群に襲われたことを言わなかった。
「いいえ、そんな話は聞いたことないわ。なんて、恐ろしいの・・・」
ジョージは大きな欠伸をした。眼に涙が浮かぶ。
「失礼、ちょっと・・・」
「寝た方がいいわ。私なら、もう大丈夫。あなたこそ、休んで」
ジョージは疲れ切っていた。もはや、ヘレーネの身に起こった不可解な事件やその他のもろもろについて議論する気も、考える気力も残っていなかった。立ち上がると、ヘレーネの額におずおずと口づけしてから、部屋を出た。ホテルに着くと、裏の階段を使って部屋に戻った。シャワーを浴びて寝間着に身を包み、ベッドに倒れ込んだ。
《あなたの中には、どんな悪があるの?》
今夜こそ悪夢を見ず、心地よく眠れるはずだと思っていた。だが、ジョージは薄く硬いベッドの上で、何度も寝返りを打った。
25
広場の石畳の上に、死んだ兵士が横たわっている。黒い制服の背中が肩甲骨の間で深々と裂け、濡れた血で光っている。ヘルンデールの村人たちは家々の壁を背にして身を寄せ合い、怯えた様子で死体を見ている。噴水の近くに、いかめしい顔つきをした兵士たちがサブマシンガンを手に警備に立っている。
灰色の空から小雨が降り、広場にいる全員がぐっしょりと濡れそぼっていた。遠方の戦場から、煙が低い雲に向かって立ち上っている。ジョージは村民のそばに立っていた。黒い聖職服の中で、関節が痛くなるほど拳を握りしめていた。
ロルフ・ヘンケ特尉が兵士たちの前に進み出て、その場を行ったり来たりした。やつれた顔には、年齢にふさわしくない皺が刻まれている。親衛隊の記章が襟に輝いている。出し抜けに死体を指差し、ヘンケは口を開いた。
「あれは私の部下だ。排水溝の中で死んでいた。背中にはナイフが刺さっていた。殺されたのだ、お前らの誰かにな」
両手を後ろに組んで歩きながら、ヘンケは曇天を見上げた。
「知っての通り、我が軍は後退している。それで、お前らは希望を持っている。だが、そうはいかない。この事件が解決するまで、我々はここを動かない」
村民たちは押し黙っている。
「さて、誰がやった?」
答えはない。村民たちはヘンケや兵士たちに眼を合わせぬよう、周囲をキョロキョロと見回した。ヘンケはジョージを見た。
「おい、神父。名は何という?」
「ロトフェルス神父です」
声が震えた。
「こいつらは・・・貴様の信徒だな?それなら、告白を聞いたはずだ。さぁ、犯人の名を言え」
ジョージはさらに拳を固く握りしめた。誰が兵士を殺したのか、ジョージは知らない。ただ、自分がこの村に派遣されている間に、殺された兵士が少なくとも四人の娘を強姦したことは知っていた。兵士の死を知ったとき、ジョージは憐れみを全く抱かなかった。一応形ばかりの祈りは唱えたが、その後には感謝の祈りを付け足したほどだ。だが、今は祈りを捧げたことを後悔し始めていた。
「犯人はこの中にはいません、特尉」
自分の確信が相手に伝わることを祈りながら、ジョージはきっぱりと言った。
「そんなことを出来る人間は、ここには・・・」
「いたんだよ、神父。1人な」
ヘンケがジョージの言葉を遮った。女が1人、泣き始めた。周りの連中がなんとか黙らせようとしている。
「怖がらなくていい。大丈夫、心配するな」ジョージは言った。
ヘンケがジョージの眼の前に立った。ジョージは勇気をふるい、相手と対峙した。ヘンケの体からは奇妙な熱が放出され、吐く息が白く立ちのぼった。
「事件の解決には、あんたの協力が必要だ」
ヘンケが静かに言った。
「どういう意味です?」
「犯人が要る。分かるな?こいつらの中には当然、妻や子ども、家族の誰かを殴っている奴がいるだろう。あるいは盗人とか、乞食でもいい。1人や2人は厄介者がいるものだ。こんなちっぽけな村でもな。そいつを指差せ。それで一件落着だ」
刹那、ジョージは本当にそうしようかと考えた。たしかにヘルンデールにも、ろくでなしはいる。1人や2人、誰が気にするものか。内なる声が囁いた。だが、ジョージは頭を振った。この中に、死ぬべき人間などいない。それを決めるのは神の仕事だ。
「この中に、人殺しなどいない。ぼくが保証する」
ヘンケはジョージの顔を眺め回した。ジョージもひるまず見返す。背筋が冷たくなるような瞬間が過ぎ、やがてヘンケは何か思いついたようだ。
「好きにしろ」
ヘンケは口元に笑みをたたえ、村民たちを振り返った。
「いい知らせだぞ!お前らは全員、無罪だ!神父が保証してくれた」
村民たちは不安そうに顔を見合わせた。ジョージは息を吸い込んだ。
「どうやら犯人は今頃、どこかの田舎をほっつき歩いているらしい。その内、また1人、我が軍の兵士が殺されるかもしれない」
ヘンケは言葉を切り、村民とジョージの顔を見回した。
「お前らの中の10人を銃殺刑に処する。犯人におかした罪の重さを思い知らせるためだ」
ジョージが悲鳴を上げ、サブマシンガンが一斉に火を噴いた。
ジョージはハッと眼を覚ました。太陽はすでに地平高く昇り、誰かがドアを激しくノックしている。ジョージはベッドから転がり出ると、汗まみれの寝間着が体に貼りつくのもかまわず、慌ててドアを開いた。
ドアの向こうには、きちんと身支度を整えたシスター・アンが立っていた。
「事件よ」
ジョージは急いで服を身につけ、眠気でぼやけた眼をこすりながら、アンの後をついて階段を降りていった。
「今朝、現場にモーガンの姿が見えなかったの。エメクウィに見てもらったんだけど、部屋にもいなくて。それで、バールに行ってみると・・・」
2人はメインロビーからバールの入口へ進み、アンがドアを開けた。
「この有様だったわ・・・」
バールは荒らされていた。床には壊れたテーブルや椅子の破片が転がり、棚の酒瓶はすべて叩き落とされている。まるで、この部屋だけ嵐に遭ったようだ。カマラとムティカが暗い顔でドアのそばに立っている。
カウンターの上には蠅が群れて飛び、ジョージは思わず後ずさりした。アンもそこには近づきたくないらしい。昨夜、地下の寺院で蠅の大群に襲われたことが脳裏によぎった。そのイメージを振り払い、ジョージは勇気をふるってカウンターに歩み寄った。
蠅が顔や腕にたかっては、飛び去っていく。カウンターの表面には、何本もの深い溝が彫られていた。数えてみると、八本ある。それぞれに、割れた爪が刺さっていた。背中に冷たいものが流れていく。
「夕べ生まれた族長の子どもは、死産だったそうよ。族長はあたしたちのせいだと言ってるわ」アンが言った。
ジョージはアンを見た。
「トゥルカナの連中が、復讐のためにモーガンをさらったとでも?」
「この村はもう、暴動が起こる寸前まで来てるのよ。あたしはグレインジャー少佐を呼びました。午後には分遣隊が到着するはずです。エヴァソから飛行機で」
アンのひどく重そうなスーツケースを思い出し、ジョージはあきれて首を振った。あの中には、どうやら無線機が入っていたようだ。教皇府から支給されたものに違いない。
「反対ですか?」
アンはジョージの顔色を見て言った。
「経験から言って、問題のあるところに軍隊を送るのは、決して賢明なやり方とは言えないな」
ジョージが立ち去ろうとすると、何かが視界の隅でキラリと光った。屈んで拾い上げると、それはモーガンがヘレーネに渡した聖ヨセフのメダルだった。幼い主が、30年後の運命も知らず、無邪気に養父を見上げている。十字架は、もともと恐ろしい拷問用の道具だった。最近、ジョージは十字架を見ても心が休まらなくなっている。特に、墓に立っている十字架を見ると、かえって不安になった。メダルをポケットに押し込み、ジョージはバールから明るい日が射す外へ出た。
26
この日の夕方、湖水が蒸発し、塩が沈殿してできたルドルフ湖周辺の白い平地に、軍用機が着陸し始めた。1時間後、2台のトラックがデラチの村へと入ってきた。町の広場で雑貨を並べていた女たちはそそくさと品物をまとめ、恐怖と不信をあらわに立ち去っていく。子どもたちはトラックに駆け寄ろうとして、親たちに止められている。その様子を、ジョージはホテルの玄関から見ていた。
金髪をクルーカットにした曹長が一台目のトラックから飛び降り、荷台にかけられたカンバスをほどき始める。眉をひそめ、ジョージはトラックに近づいていった。エメクウィも後からついてくる。広場の隅には、腰に赤い布を巻きつけた男たちが集まり始めた。
「よし、集合!」
曹長が命令した。
「さぁ、さっさとしろ!このウスノロども!第1小隊は左、第2小隊は右だ!」
ライフル銃を手に、ヘルメットを被った兵士たちがトラックから降りてくる。ちょうどそのとき、アンがホテルから出てきた。2台目のトラックからはグレインジャー少佐が出てきた。長旅の疲れからか、ややぼんやりした様子だ。サングラスをかけたまま、トゥルカナの男たちに向かってにっこりと笑う。男たちは無表情で見返してくる。
「どこに行っても大歓迎だな」
グレインジャーが皮肉まじりに呟くと、アンが小走りに歩み寄った。後ろからジョージもやってくるが、こちらは急いでいる様子はない。
「シスター・アン!モーガンの件は、何か分かりましたか?」
グレインジャーはアンの手を握りながら尋ねた。
「いいえ、残念ながら」
「我々をお呼びいただいたのは、いい判断でした。以前にも経験がありますが、こういう状況下では・・・」
グレインジャーは急に言葉を切り、何かに耳をすますように頭を傾げた。
「・・・住民をきちんと抑えることが肝心だ。トラブルが起きるのは・・・」
「ここで起きていることは地元民のせいだとは思えません、少佐」
ジョージが言ったが、グレインジャーは答えず、何かをじっと見ている。ジョージがその視線をたどると、ホテルの玄関があった。ドアが黒い口のように開いている。
「グレインジャー少佐?」
アンの声にグレインジャーは我に返ったが、先ほどまでの愛想のよさはどこかに消えていた。
「ああ、そうだな」
グレインジャーは広場に集まっている村民たちを横目に、声を張り上げた。
「貴重な遺跡を危険にさらすわけにはいかない。発掘作業の安全が確保できるまで、現場はエメリア陸軍の管理下に置く」
ジョージは胃が収縮するのを覚えた。
「少佐、武力を誇示することはかえって、住民の反発を・・・」
「住民がどう感じようと、私の知ったことではない。連中がこれ以上問題を起こすようなら、エメリア女王陛下の軍隊が相手になる」
グレインジャーの部隊は発掘現場にトラックを停め、兵士たちがすでにキャンプを設営し始めている。飛び交う号令と、金具を打つハンマーの音が辺りに響き、やや離れた丘の上から大勢のトゥルカナの村民がその様子を見つめていた。
ふとジョージが顔を上げると、遠方で一筋の煙が空に立ちのぼっている。丘の上にいた村民がいつの間にかいなくなっている。ジョージはグレインジャーに断ってその場を辞し、急いで煙の方へ向かった。
ちょうど村と発掘現場の中間にあたる、岩の多い丘のふもとに村民が集まっていた。全員が色鮮やかな晴れ着に身を包んでいる。まるで岩の上で虹が砕けたようだ。群衆の真ん中には薪が高々と積み上げられ、今しも火が点じられたところだった。ロキリアは小さな白い包みを腕に抱いていた。隣には、セビトゥアナが無表情で立っている。
ジョージが近づいていくと、3人の村民がドラムを叩き、2人が木製の笛でもの悲しい旋律を吹き始めた。端に立っていたムティカがジョージに気づき、慌てて駆け寄った。
「ここに来てはいけない」
ジョージは歩みを緩めようとしなかった。ジョージの存在に気づいた村民の間に、怒りが波のように伝わっていく。数人の戦士がジョージの前に立ちはだかった。全員が手に槍を持っている。戦士たちの厳しい眼差しに対して、ジョージは会釈をした。ドラムの音がはたと止んだ。
「セビトゥアナに伝えて下さい。お悔み申し上げると」
「さっさと出ていけ」
戦士の1人が答える。
「お前らはおれたちの大地を汚した。50年前と一緒だ」
「50年前?村を破滅させた疫病のことですか?」
「あれは、疫病なんかじゃない」
その言葉にジョージはいささかたじろいだ。
「では、何だったんです?」
「お前たちの教会の中に潜む悪魔だ」
その口調には、お前ほどのバカはいないというような侮蔑がこめられていた。
「そいつがエメクウィの長男を奪った。そいつは族長の子も奪った。どんどん強くなっている。発掘はいい加減やめろ。いやなら、おれたちがやめさせる」
群衆がざわめいた。全ての視線がジョージに注がれ、ジョージは突然、自分が無防備で孤独であることを感じた。これほどの怒りと憎悪を自分に向けられた記憶は、かつてない。戦士たちは、今にも飛びかかろうと身構えている。ムティカがジョージのシャツの袖を引き、立ち去るよう促している。
ジョージは後に引かなかった。
「では、50年前に何があったのか、誰も教えてくれないのか?」
戦士がトゥルカナ語で何か答え、ムティカの顔が真っ青になった。戦士たちは背を向け、ふたたび火の回りに集まった。ドラムが鳴り始めたが、周囲にはりつめた緊張は消えない。
「何て言ったんだ?」
ジョージは尋ねた。ムティカはためらっている。その体を揺さぶって、答えを聞き出したい衝動にかられる。しばらくして、ムティカが重い口を開いた。
「教える必要はないと。今ここで、ふたたび同じことが起こっているのだから」
セビトゥアナが火の前に進み出ると、妻の手から包みを受け取り、丁寧に火の中に横たえた。包みに火が移り、遺体が焼けはじめる。ロキリアが慟哭をあげた。ジョージは喉が詰まった。あまりにも悲しく、痛ましい光景だった。親が自らの手で、火の中に我が子を投じたのだ。
ジョージはハッとして、ムティカを振り返った。
「デラチでは、死者は埋葬しない。火葬にするんだな」
「そうです」
ジョージが何を言いたいのか分からぬまま、ムティカは答えた。
「だとしたら、あの墓地にはいったい誰が埋められてるんだ?」