横倉山 幻の天皇陵墓

高知県  畝傍山(うねび)眺望所800m、横倉宮(馬鹿だめし)780m、三角点峰775m 2018年8月19日

花の百名山、四国百名山

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駐車場の奥に大きな鳥居があり、そこをくぐって歩き始める。杉原神社、平家の宮、安徳水などの平氏の遺物の先にあった歌碑は現代の植物学者・牧野富太郎のもの。この山は彼のホームグラウンドだったらしいが、歌を残すとは風流。

そして横倉宮に着く。祭神は安徳天皇、二十三歳で亡くなられたとき、平知盛が横倉山に神殿を立てて祭ったのが最初で、崩御750年祭のときに横倉宮と改められた、とある。異なる歴史を伝え、800年の長きに渡って祀られてきた伝説の証。

「馬鹿だめし」というのは横倉宮の裏の一番高いところで、岩峰の上は灌木がまばらに生える狭いスペースだった。「馬鹿か否かを試す」意味から馬鹿試しと呼ぶようになったとあり、真下は断崖絶壁。

細い遊歩道からだだっ広い石段があり、登ったところに低い石の柵で二重に囲った広い一角。そこが安徳天皇陵墓参考地だった。「県内唯一の宮内庁所管地として陵墓守を配置している」とあるが、安徳天皇がここにいたこと自体が伝説なのに、その墓所が宮内庁所管地になっているとは驚き。宮内庁が伝説を認めている訳ではなかろうが、歴史の狭間の物語。本当に壇ノ浦で死んだのは身代わりだったような気がしてきた。幻の天皇陵墓。

広い石段を下ってコルに戻り、細い遊歩道を登って畝傍山眺望所に着く。黒いシルエットになった横倉宮のピーク。歩いてきた北側は比較的平坦だが、南側は深く切れ落ちていて、その上に険峻な峰が連なる。その名の通り、横嵓(倉)なのだ。

横倉宮に戻り、大きくコルに下り、登り返して三角点峰に着く。三角点のある一角は柵で囲われていたが、そこに祀られていた「二位僧都専親」というのは、壇ノ浦の後、都から阿波の国に流された平氏一門の一人らしい。

第一駐車場のあたりには花がたくさん咲いていた。優雅なササユリ、真っ赤なケイトウ、背の高いピンクの花はクリンソウ?R33に出る直前にも花。そのふっくらしたピンクの花もササユリなのだろうか?

 細い遊歩道からだだっ広い石段があり、登ったところに低い石の柵で二重に囲った広い一角。そこが安徳天皇陵墓参考地だった。「県内唯一の宮内庁所管地として陵墓守を配置している」とあるが、安徳天皇がここにいたこと自体が伝説なのに、その墓所が宮内庁所管地になっているとは驚き。宮内庁が伝説を認めている訳ではなかろうが、歴史の狭間の物語。本当に壇ノ浦で死んだのは身代わりだったような気がしてきた。幻の天皇陵墓。
 横倉宮に着く。異なる歴史を伝え、800年の長きに渡って祀られてきた伝説の証。
 歌碑は現代の植物学者・牧野富太郎のもの。この山は彼のホームグラウンドだったらしいが、歌を残すとは風流。
ホウセンカ
オイランソウ(フロックス)?
 ふっくらしたピンクの花もササユリ?
  5:35 第三駐車場発(標高610m)  6:22 横倉宮  6:26 馬鹿だめし780m  6:38 安徳天皇陵墓参考地  6:49 畝傍山(うねび)眺望所800m  7:03 横倉宮  7:22 横倉山・三角点775m  8:00 第三駐車場・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・周回2時間25分
周回4.9㎞、標高差500m

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夜明け前、R33から横倉山に登る車道入口を通り過ぎてしまい、少し戻って狭い道に入る。それは正しい入口ではなかったようだが、すぐに広い道に合流する。それから延々、曲がりくねった車道を車で登っていく間に夜が明けていく。やがて予定していた登山口付近の駐車場(第一駐車場)に着くが、車道はもっと先まで続いている。そこで車道を進み、最奥の第三駐車場に入る。朝早いためか、広い駐車場に唯一人。案内にはコオロギランの写真が載っていたが、駐車場に咲いていたノリウツギ以外、山の中では花は見なかった。

駐車場の奥に大きな鳥居があり、そこをくぐって歩き始める。最初に現れたのは案内によると杉原神社。大きな古い建物が巨木の中に立っている。その脇にある平家の宮というのは、散らばっていた平氏の墓を一つの宮に招霊して祀っているとのこと。その次の安徳水というのは、屋島の合戦で敗れた平家が安徳帝を擁してこの地に落ちのび、平知盛ほか八十余名がここに住を構え、都としたおりにこの泉を供御水とした、とある。だが、今では飲用は禁止になっていた。その先にあった歌碑は土佐の植物学者・牧野富太郎のもの。この山は彼のホームグラウンドだったらしいが、歌を残すとは風流。順路から右手に50メートルくらい登ったところにある平安社は安徳天皇の従臣、門脇平中納言教盛を祀るとある。平教盛(のりもり)は清盛の異母弟で、壇ノ浦の戦いで受水した(wikipedia)とある。安徳帝行在所跡というのは谷底の平らなところで、今では草地になっている。つはものどもが夢のあと。次の小さな社は田口社というらしい。詳細不明。

そして横倉宮に着く。前後二つに分かれた建物。祭神は安徳天皇、二十三歳で亡くなられたとき、平知盛が横倉山に神殿を立てて祭ったのが最初で、崩御750年祭のときに横倉宮と改められた、とある。お参りしてから裏に回る。「馬鹿だめし」というのは横倉宮の裏の一番高いところで、道はついてないがヨコグラノキという大きな木のあたりから木の枝を掴んで岩峰の上に登ってみると、岩峰の上は灌木がまばらに生える狭いスペースだった。馬鹿だめしの標識と説明プレートがある。「石灰岩からなる80メートルの断崖。古くは玉室の嶽(たき)。普通人では容易に近づけず、敢えて危険を冒して足を運ぶものは「馬鹿者」の類とされ、「馬鹿か否かを試す」意味から馬鹿試しと呼ぶようになった。ヨコグラノキ、イワシデ、ヒナシャジンなどは牧野富太郎博士の発見」。確かに真下は断崖絶壁。緑の谷のすぐ下に石灰岩の岩峰がいくつか見えている。谷底に霞んで見えていたのは桐見ダム。遠景は霞んでいるが、谷向こうの畝傍山眺望所の緑のピークが見えていた

いったん下り、コルから安徳天皇陵墓参考地に向かう。細い遊歩道からだだっ広い石段があり、登ったところに低い石の柵で二重に囲った広い一角。そこが安徳天皇陵墓参考地だった。「天皇の身代わりを立てた本隊を壇ノ浦に向かわせ、安徳天皇を擁した平氏一門はひそかに四国に上陸した。横倉山を終焉の地としたが、天皇は二十三歳で崩御し、この地に埋葬される。天皇が従臣らと蹴鞠をされたところと伝えられ、鞠ヶ奈呂陵墓参考地ともいう。ここ西端は天皇が乗馬の練習をされた御馬場跡と言われている。明治十六年、御陵伝説地に、昭和元年「陵墓参考地」に指定。正式には「越知陵墓参考地」。県内唯一の宮内庁所管地として陵墓守を配置している」とある。安徳天皇がここにいたこと自体が伝説なのに、その墓所が宮内庁所管地になっているとは驚き。宮内庁が伝説を認めている訳ではなかろうが、歴史の狭間の物語。本当に壇ノ浦で死んだのは身代わりだったような気がしてきた。幻の天皇陵墓。英訳のAntoku Imperial Quasi Mausoleum とは、準霊廟という意だろうか。大きな木の幹にホオノキとあったが、四国で見たのはここでだけだと思う。

広い石段を下ってコルに戻り、細い遊歩道を登って畝傍山眺望所に着く。黒いシルエットになった横倉宮のピーク。歩いてきた北側は比較的平坦だが、南側は深く切れ落ちていて、その上に険峻な峰が連なる。その名の通り、横嵓(倉)なのだ。その谷向こうの横倉宮に戻り、尾根伝いに三角点を目指す。最初はすぐ隣のP3・780m。そこから大きくコルに下り、登り返して三角点峰に着く。三角点のある一角は柵で囲われていたが、そこに祀られていた「二位僧都専親」というのは、壇ノ浦の後、都から阿波の国に流された平氏一門の一人らしい。三角点峰から東に下るが、それだとかえって大回りになるかもしれないと思い、引返し、P3と三角点峰とのコルにあった分岐から北に下る。第三駐車場に戻るが誰も来ていない。まだ朝早いからだろうか、それともお盆だから?

第一駐車場のあたりには花がたくさん咲いていて、駐車して写す。織田公園のプレート。花の百名山なのに、山では花はほとんど見なかったが、中腹のこのあたりにはたくさん咲いているようだ。優雅なササユリ、白やピンクのオドリコソウのような花はホウセンカらしい。真っ赤なケイトウ、背の高いピンクの花はオイランソウ? R33に出る直前にも花を見て、道端に停車して花を写す。そのふっくらしたピンクの花もササユリなのだろうか?

第三駐車場(下山時の映像)

夜明け前、R33から横倉山に登る車道入口を通り過ぎてしまい、少し戻って狭い道に入る。それは正しい入口ではなかったようだが、すぐに広い道に合流する。それから延々、曲がりくねった車道を車で登っていく間に夜が明けていく。やがて予定していた登山口付近の駐車場(第一駐車場)に着くが、車道はもっと先まで続いている。そこで車道を進み、最奥の第三駐車場に入る。朝早いためか、広い駐車場に唯一人。案内にはコオロギランの写真が載っていたが、駐車場に咲いていたノリウツギ以外、山の中では花は見なかった。

横倉トレッキング・マップ

コオロギランの説明

横倉山は「植物の宝庫」として知られ、高知県内で確認されている植物の三分の一強の1300種の植物がみられる。また、推定樹齢数百年のアカガシの古木・巨木から成る、二本唯一ともいわれる「アカガシの原生林」が残っている。一方、横倉山は高知県が生んだ世界的な植物学者・牧野富太郎の若いころの研究のフィールドとしても知られ、ヨコグラノキ、トサジョウロウホトトギス、コオロギランなどの博士ゆかりの希少植物も見ることができ、人々の目を楽しませてくれる。特に、コオロギラン(ラン科)に関して言えば、日本ではここ横倉山と九州のごく一部、地球上でもあとインドにしかないという超一級の希少植物である。

ノリウツギ

第三駐車場からの入口にある鳥居

駐車場の奥に大きな鳥居があり、そこをくぐって歩き始める。

杉原神社

最初に現れたのは案内によると杉原神社。大きな古い建物が巨木の中に立っている。


杉原神社の説明

平家の守護神、熊野権現その他を祀り、杉の巨木の多いところから社名となった。 社殿はしばしば改築され、現在のものは明治三十年ごろの改築で、本殿周囲のえと(干支)並びに脇障子の彫刻は、明治年間に全国的著名な長州の巨匠門井宗吉の作といわれ極めて精巧である。

「おのすからたりにし杉も 神さびて いく世へめらん横倉の宮」 (稲毛 実

平家の宮の説明

平家の宮

その脇にある平家の宮というのは、散らばっていた平氏の墓を一つの宮に招霊して祀っているとのこと。

横倉山内案内図

大嶮 馬鹿試し 横倉山頂上の中嶽にあり安徳天皇を祀る横倉宮が鎮座するその背後の石灰岩は千仭の断崖絶壁をなし、戦標目もくらむ天嶮所である。普通人では容易にその突端には近づけない。敢えて危険を冒して先端に足を運ぶ者は馬鹿者とされ馬鹿か否かを試す意味から馬鹿試しと呼ぶようになった。山男たちのロッククライミング練習場として二百余米の断崖

安徳水の説明

その次の安徳水というのは、屋島の合戦で敗れた平家が安徳帝を擁してこの地に落ちのび、平知盛ほか八十余名がここに住を構え、都としたおりにこの泉を供御水とした、とある。だが、今では飲用は禁止になっていた。

安徳水

牧野富太郎歌碑

森々と杉の木立の限りなく 神代ながらの横倉の山

その先にあった歌碑は土佐の植物学者・牧野富太郎のもの。この山は彼のホームグラウンドだったらしいが、歌を残すとは風流。

平安社

順路から右手に50メートルくらい登ったところにある平安社は安徳天皇の従臣、門脇平中納言教盛を祀るとある。平教盛(のりもり)は清盛の異母弟で、壇ノ浦の戦いで受水した(wikipedia)とある。


安徳帝行在所跡

安徳帝行在所跡というのは谷底の平らなところで、今では草地になっている。つはものどもが夢のあと。

田口社

次の小さな社は田口社というらしい。詳細不明。

横倉宮

そして横倉宮に着く。前後二つに分かれた建物。祭神は安徳天皇、二十三歳で亡くなられたとき、平知盛が横倉山に神殿を立てて祭ったのが最初で、崩御750年祭のときに横倉宮と改められた、とある。お参りしてから裏に回る。

横倉宮の説明

ヨコグラノキ

ヨコグラノキの説明

1884(明治17)年、土佐が生んだ世界的な植物学者・牧野富太郎が発見し、この木(横倉宮右隣)をもとに1898(明治31)年に新種「ヨコグラノキ」と命名し、学会に発表した基準標本の貴重な木である。樹齢は160年ほど(2009年現在)と思われる。 クロウメモドキ科の落葉高木。花は黄色で7月に咲き、8月に暗赤色の実が熟す。葉が片側に2枚ずつ並んで付き、樹皮の網目状の模様が特徴。

馬鹿だめし

「馬鹿だめし」というのは横倉宮の裏の一番高いところで、道はついてないがヨコグラノキという大きな木のあたりから木の枝を掴んで岩峰の上に登ってみると、岩峰の上は灌木がまばらに生える狭いスペースだった。馬鹿だめしの標識と説明プレートがある。「石灰岩からなる80メートルの断崖。古くは玉室の嶽(たき)。普通人では容易に近づけず、敢えて危険を冒して足を運ぶものは「馬鹿者」の類とされ、「馬鹿か否かを試す」意味から馬鹿試しと呼ぶようになった。ヨコグラノキ、イワシデ、ヒナシャジンなどは牧野富太郎博士の発見」。

「馬鹿だめし」標識

馬鹿試しの説明

約4億年前の日本最古の石灰岩から成る高さ約80メートルの断崖をさし、古くは「玉室の嶽(たまむろのたき)」と称した。普通人では容易にその突端には近づけず、敢えて危険を冒して先端に足を運ぶ者は「馬鹿者」の類とされ、「馬鹿か否かを試す」意味から「馬鹿試し」と呼ぶようになった。 ここの石灰岩の岩上には、植物学者・牧野富太郎博士の発見、命名による「横倉山タイプの植物」の「ヨコグラニキ」や「イワシデ」・「ヒナシャジン」などが自生している。

 馬鹿だめしからの景観: 横倉山・三角点峰、畝傍山

馬鹿だめしの下の岩峰

確かに真下は断崖絶壁。緑の谷のすぐ下に石灰岩の岩峰がいくつか見えている。谷底に霞んで見えていたのは桐見ダム。遠景は霞んでいるが、谷向こうの畝傍山眺望所の緑のピークが見えていた

桐見ダム

虚空蔵山?

蟠蛇森(ばんだかもり)

畝傍山(うねびやま)

     


アカガシ


安徳天皇陵墓参考地

いったん下り、コルから安徳天皇陵墓参考地に向かう。細い遊歩道からだだっ広い石段があり、登ったところに低い石の柵で二重に囲った広い一角。そこが安徳天皇陵墓参考地だった。「天皇の身代わりを立てた本隊を壇ノ浦に向かわせ、安徳天皇を擁した平氏一門はひそかに四国に上陸した。横倉山を終焉の地としたが、天皇は二十三歳で崩御し、この地に埋葬される。天皇が従臣らと蹴鞠をされたところと伝えられ、鞠ヶ奈呂陵墓参考地ともいう。ここ西端は天皇が乗馬の練習をされた御馬場跡と言われている。明治十六年、御陵伝説地に、昭和元年『陵墓参考地』に指定。正式には『越知陵墓参考地』。県内唯一の宮内庁所管地として陵墓守を配置している」とある。

安徳天皇陵墓参考地

安徳天皇がここにいたこと自体が伝説なのに、その墓所が宮内庁所管地になっているとは驚き。宮内庁が伝説を認めている訳ではなかろうが、歴史の狭間の物語。本当に壇ノ浦で死んだのは身代わりだったような気がしてきた。幻の天皇陵墓。英訳のAntoku Imperial Quasi Mausoleum とは、準霊廟という意だろうか。大きな木の幹にホオノキとあったが、四国で見たのはここでだけだと思う。

安徳天皇陵墓参考地の説明

文治元年(1185)の屋島壇ノ浦の戦いで天皇の身代わりを立てた本隊を下関壇ノ浦に向かわせ、幼帝安徳天皇を擁した平家一門はひそかに四国に上陸した。1年数ヶ月の潜幸の後ここ横倉山にたどり着き終焉の地としたが、正治二年(1200)に御歳二十三歳で崩御しこの地に奉葬される。天皇が従臣らと蹴鞠をされた所と伝えられ、地元では「鞠ヶ奈呂陵墓参考地」ともいう。ここ西隣は、天皇が乗馬の練習をされた「御馬場跡」と言われている。 明治十六年「御陵伝説地」に、昭和元年「陵墓参考地」に指定。正式には「越知陵墓参考地」。 県内では唯一の宮内庁所管地として陵墓守を配置している。

ホオノキのプレート

畝傍山眺望所のプレート

広い石段を下ってコルに戻り、細い遊歩道を登って畝傍山眺望所に着く。黒いシルエットになった横倉宮のピーク。歩いてきた北側は比較的平坦だが、南側は深く切れ落ちていて、その上に険峻な峰が連なる。その名の通り、横嵓(倉)なのだ。

横倉宮峰(馬鹿だめし)780mとP3・780m

横倉山・三角点のプレート

横倉山・三角点と頂上標識

その(畝傍山眺望所の)谷向こうの横倉宮に戻り、尾根伝いに三角点を目指す。最初はすぐ隣のP3・780m。そこから大きくコルに下り、登り返して三角点峰に着く。三角点のある一角は柵で囲われていたが、そこに祀られていた「二位僧都専親」というのは、壇ノ浦の後、都から阿波の国に流された平氏一門の一人らしい。三角点峰から東に下るが、それだとかえって大回りになるかもしれないと思い、引返し、P3と三角点峰とのコルにあった分岐から北に下る。第三駐車場に戻るが誰も来ていない。まだ朝早いからだろうか、それともお盆だから?

三角点峰の「二位僧都専親祀る」の表示

元暦二年(1185)九月二十二日、壇ノ浦の戦いの後、京にいる平家の残党を国々へ流すよう源頼朝が公家に指示し、二位僧都・専親は阿波国に送られたという。(koten.net/heike)。阿波の国からなぜ横倉山に祀られることになったのか等、詳細不明。

ササユリ

第一駐車場のあたりには花がたくさん咲いていて、駐車して写す。織田公園のプレート。花の百名山なのに、山では花はほとんど見なかったが、中腹のこのあたりにはたくさん咲いているようだ。優雅なササユリ、白やピンクのオドリコソウのような花はホウセンカらしい。真っ赤なケイトウ、背の高いピンクの花はオイランソウ? R33に出る直前にも花を見て、道端に停車して花を写す。そのふっくらしたピンクの花もササユリなのだろうか?

ホウセンカ

ホウセンカ

ハナウリクサ

赤いケイトウ

ササユリ

織田公演のプレート

オイランソウ(フロックス)?

表参道

麓付近の登山口

R33からの入口の鳥居

横倉山自然公園の道標

ピンクのササユリ?

横倉修験のみちの案内

四国のみちの説明