平成三十年十月六日 東洋大学白山キャンパス 五一〇四教室

 王陽明の聖人論 ―朱子の聖人論と比較して―

志村 敦弘 院生研究員

 〔発表要旨〕中国をはじめとする東アジア近世儒教においては、道徳的・能力的に完成された人間である「聖人」になることがその学問上の最終目標であった。そして、聖人とは何か、聖人になるにはどのようにすればよいか、ということも盛んに議論された。明代中葉に活躍した王陽明(一四七二~一五二九)もその中の一人である。本発表では、その陽明がそれを批判して思想形成を行ったところの、南宋・朱子(一一三〇~一二〇〇)の聖人論との比較を交えて、その聖人論を検討した。

 まず、朱子の聖人論の特色として、聖人は「道」の体得者であるとしたことが指摘できる。では、その「道」とは何か。朱子によれば、それは心を含め、日常生活の挙措動作、人間関係等に全てに存する行動倫理のことであり、天地古今にわたる時間的・空間的普遍性をも有するものである。かくて、聖人の言行や事業、教訓は万世万人に対し、遵守し崇敬すべき規範として、きわめて強力な拘束力を持つことになる。

 これに対して、王陽明の聖人像はきわめて単純なものであった。それは、朱子において聖人の条件であった、経書を刪述したり、礼楽刑政などを制定したりする規範者としての姿を大胆にも否定し、心(良知)の働きの完全さという、ただ一つのことを聖人の条件として認めたものであった。彼はそれを、「聖人は一個の良知に他ならない」と表現した。

 この聖人論の要点は、心の働きの結果「何を」作り出したか、「何に」取り組んだか、ではなく、心が「どのように」働いたか、を問うという発想である。心の完全な働きの前には、礼楽の制定や、聖典たる経書の刪述といった大事業さえも重要なことではない。心が滞りな

く働き、外界の様々な出来事に自在かつ最適な対応ができること、これこそが聖人の条件なのである。

 かくして、陽明描くところの聖人は、万世万人の規範者ではないことが理解されるであろう。例えば、堯、舜、文王といった聖人は、善や「道」の体現者として完成された存在ではなく、むしろ、極め尽くしえない善を究め続けている、いわば過程的存在に過ぎないとされているのである。また聖人も常人同様、誤りを犯す存在であるという。

 ここには聖人と常人との関係の相対化がみられる。陽明にとって聖人は常人と懸絶した別次元の存在としてあるのではなく、むしろその延長線上にある存在である。

 一方、朱子は聖人と常人の間に乗り越え難い懸絶を認める。それは聖人は常人の規範である以上、常人と同列に論じられないからであろう。 王陽明の聖人論の意義は、朱子によって示された規範としての聖人を否定し、聖人と常人との関係を相対化したという点にあると考えられる。


平成三十年十月六日 東洋大学白山キャンパス 五一〇四教室

 今日の台湾における地蔵信仰の一側面

  ―『占察善悪業報経』を中心に―

伊藤 真 客員研究員

 〔発表要旨〕今回は、平成三十年二月に行った現地調査「今日の台湾における中国撰述地蔵経典の信仰と儀礼の現状」(井上円了記念研究助成による本研究所共同研究プロジェクトの一環)の結果を報告した。台湾では、地蔵菩薩は先祖供養と親孝行を説く菩薩として幅広く信仰されており、所依の経典は一般的に『地蔵菩薩本願経』だが、『占察善悪業報経』による行法・占いも一部で実践されている。「木輪」という小道具をサイコロのように投げて過去世以来の業報を占う特異な経典で、日本では学術研究を除けば馴染みが薄い。『占察経』は何のためにどのように使われているのか、占いの動画も紹介しながら報告した。

 台湾における『占察経』の信仰は、教理的・行儀的な面では本経の注釈書や儀軌を記した明代の藕益大師智旭を淵源とし、二十世紀初頭に木輪の占いを再評価した弘一法師の影響もあるが、中国の五台山真容寺の夢参長老が二〇〇九年に訪台して大勢の一般仏教徒に『占察経』の連続法話を行ったのを機に、いわば流行のような形で注目されるようになったという。

 調査では、台中の易学仏堂、南投縣の慈光山地蔵院、正覚精舎、高雄の円照寺、大華厳寺台北別院、および学術関係者に現地視察・聞き取り調査を受け入れていただいたが、その結果、『占察経』の占いに対する二様のアプローチが見られた。一つは仏道の障害となる日常の不安を取り除くことを目的とした在家信者向けの占い。もう一方は、心の清浄(持戒)や行境の進展などを知るために出家者自身が自分のために行う占察である。この占察はまた、同経が説く一行三昧を得るための懺法と観法実践の前提だが、厳密な持戒と観法は在家者には極めて困難で、この点からも在家者は世俗的に実践可能な孝道などを説く『地蔵菩薩本願経』に依拠すべきだと複数の法師が指摘した。しかし在家者向け、出家者用のいずれの場合も、木輪の占いに限れば、その目的は善悪の業に起因する心の状態を明らかにし、それらと向き合い、法界に透徹する因果の理を深く了解することだという。この点、そうした「理」を「事」として現し出すことができれば、必ずしも占いではなく別の行法でもよいとの見解もあった。

 今日の台湾で『占察経』がさまざまな形で活用されていることは驚きだったが、その実践は自らの心をしっかりと見つめるという、仏道修行上の要諦に深く関わるものととらえられている。今回の調査では、同経が説く「如幻如化、如水中月、如鏡中像」でありながら一切が真実であるという万法の「真実の義」の体解へ向けて、地蔵菩薩の加護への深い信奉を胸に歩む台湾の在家・出家の仏教者の姿に、清新なものを感じた。