平成20年10月11日 東洋大学甫水会館401室
平成20年10月11日 東洋大学甫水会館401室
ヒンドゥー建築論書にみる数理美の考察
出野 尚紀 奨励研究員
インド古典建築論書に記されるヴァーストゥ・プルシャ・マンダラについて、ヒンドゥー教の建築論書『マヤマタ』の例を引いて説明し 、 そこで見られる数的な「美」について読み取れることを話した 。
ヴァーストゥ・プルシャ・マンダラは、1マスのサカラから縦横32マスずつの1024マスのインドラカーンタまで32種類があ り 、 64マスのマンドゥーカが最も重要なものとされる。玉座から都市の計画にまで用いられ、 縄張り設計図としてのはたらきと 、 その場に神々をおろし 、 地の浄化するというはたらきがあり、そのため建築前儀礼においての場として設定され る 。 『マヤマタ』では、マンドゥーカと81マスのパラマシャーインが重要なものとして、作例が記述されている。
マンドゥーカは、縦横8マスずつの64マスからなり、 中央のブラフマーの部分に4マスをとり 、 4 、 12 、 20 、 28のマスからなる四重の構造が見 て取れる 。 全体に四十五柱のヴァーストゥ・デープァターが配される が 、 外側の二重の境目がデーヴァターが配される部分の境と重ならず、 また 、 ここまでは四つ角に対角線が引かれ、半マスずつのデーヴァター 八柱が配される 。
パラマシャーインは、縦横9マスずつの82マスからなり、中央 のブラフマーの部分に9マスをとり、9、16、24、32のマスからなる四重の構造となる 。 マンドゥーカ同様に四十五柱のヴァース ト ゥ・ デーヴァターが、同様の順序で配される。一重目はそれぞれのマスにデーヴァターが配され、額縁のようになっている。二重日と二重目に中央部四柱、角部八柱の十二柱のデーヴァターが配される。
最も重要なブラフマーの部分を、マンドゥーカは、周囲に比べて大きく見せることで、パラマシャーインは、周囲を額縁のようにし、更に一点透視図法で遠くにあるものにすることで、それぞれ強調し、聖性を高める効果を生み出している。
不二一元論学派の他学派批判
佐竹 正行 客員研究員
インドの哲学学派では、昔から、自学派の正統性を強調し、説明するために、他学派に対する論難、論争が盛んであった。このことは、インド哲学学派の中で、最も正統派であるとされる不二一元論学派においても同様であった。
今回の発表では、この不二一元論学派の他学派との論争、論難の中で、初期の不二一元論学派の重要人物であるサルヴァジュニャートマンの他学派に対する論難について触れていく。
まず始めに、世界創造説についてである。インドの哲学学派では、一般的に二種類の世界創造説が説かれている。1つ目は、ヴァイシェーシカ学派などの主張する積集説である。2つ目はサーンキヤ学派などの 主張する開展説である。3つ目が、不二一元論学派が主張する仮現説である。
これに対し、サルヴァジュニャートマンは、仏教徒の主張する集合説にも言及し、4種類の世界創造説について論及している。その中で、不二一元論学派の中で、サルヴァジュニャートマンが初めてはっきりと主張している仮現説を正統説とし、他の世界創造論に対し、論難を行っている。集合説、積集説については、それぞれが、自派の主張している見解と矛盾することになるために、成立し得ないという形で否定している。それに対して、開展説については、仮現説と並び、より下の最初の理解のための段階として、認められている。
次に、仏教説に対するサルヴァジュニャートマンの批判を取り上げる。不二一元論学帥派の教説と仏教教説との関係は深く、他学派が、不二一元論学派を「仮面の仏教徒」と批判したことにも現れている。そのため、不二一元論学派では 、 開祖とされるシャンカラ以降、多くの不二一元論学者達が、仏教 説批判を繰り広げてきた。その中でのサルヴァジュニャートマンは、 次のような仏教説批判を行っている。
サルヴァジュニャートマンの仏教批判は、覚醒状態と無明状態の違 いを論ずる形で行われている 。 そこで 、 サルヴァジュニャートマンは、 普遍のアートマンを認めること 、ヴェーダの知識によってのみ、それ が獲得できることなどについて論じ、仏教徒の論ずる刹那滅などとの違いを主張する 。 そのことによって、仏教徒を批判し、仏教徒との違いを論ずることは 、 シャンカラ以降、サルヴァジュニャートマンを含めた不二一元論者達の仏教説批判の根拠となっている。
このように 、 サルヴァジュニャートマンは自己の教説の正統性の確立のために 、 他学派批判を行っている。シャンカラや、他学派自体の見解などとの比較を今回とれなかったものの、覚醒状態のような日常的段階と夢眠状態との区別 、 開展説と仮現説との段階的な違いなどにより 、 サルヴァジュニャートマンが、最高の真理の段階と日常的な段階との段階の違いをはっきり導入していることは確かめられた。
記憶と認識論 ―古代インド哲学と現代哲学の時間論の対話―
三浦 宏文 客員研究員
記憶という問題は、時間という大テーマに関わる重要な問題として 、 哲学 、 宗教 、 文学の場で 、 様々な形で語られてきた。 最近では、特に戦「争の記憶、民族の記憶をどう語るか」といった問 題系で語られることが多くなっている。
この問題系での記憶論は 、 確かに様々な重要な論点を含むであろう。 しかし 、記憶の最も基本的な性格は 、過去についての知識であるという点である 。 したがって、記憶という問題そのものに考察を加える際には 、そのような問題系に行く前に 、 必然的に過去という時間様相の問題と 、 それをどう知るかという認識論の問題と関わって来ざるを得ない。
したがって、本発表では、この記憶という問題に関して、筆者の専門とするインドの哲学者の議論を出発点として、時間論的・認識論的なアプローチを試みた。より具体的には、6世紀のインド実在論学派の哲学者プラシャスタパーダの認識論、およびそれに酷似する現代日本の独創的哲学者大森荘蔵の分析哲学的な時間論、そしてアリストテ レスとカントを軸にした植村恒一郎の時間論を順に検討した上で、筆者の考察を論じた。
まず 、プラシャスタパーダや大森は「想起が現在経験である」と主張する。 すなわち 、 過去を知ることは 、想起という現在経験によってのみ可能になるのであり、ここから記憶や想起の多くの問題が出て来る 。 この点に関して 、 大森は過去の特徴として命題性・言語性をあげる 。 すなわち 、 想起によって知られた過去は、「語られる」ことによってのみ、検討可能になるのである。そして、その「語られた」過去の知識は、過去の真理基準によって検討され妥当性を得ていく。これは、火事を見たやじ馬の喧々章々の目撃談から裁判や歴史論争の高度な議論まで、過去に関する議論一般に共通するプロセスである。
一方、植村は、個人の体験の流れすなわち「主観的な時間の流れ」だけでなく、大地の同時性に根差す客「観的な時間」という2つの契機から時間を考える。そして、植村は、歴史とは基本的には「死者」の声であり、生者の語る歴史には比喩的な意味しか認めない。
しかし、生者の語る歴史は、出自は当人の体験の流れすなわち「主観的な時間の流れ」であるとしても、語られた時点で既に命題性を持つ。であるならば、その命題性をもつ「生者によって語られた歴史」が、大森のあげる真理基準を満たす場合は、それは少なくとも歴史になり得る「過去の知識」として成立するはずである。そして、この歴史になり得る過去の知識としての真理基準の考察は、古代インドの哲学者たちの「正しい知識の根拠(プラマーナ)」の議論と通じるものなのである。
ムンゲール調査報告
岩井 昌悟 研究員
東洋学研究所・研究所プロジェクト「東洋における聖地信仰の研究¨ヒンドゥー教と仏教における聖地巡礼成立の要件」の研究の一環として、平成20年8月23日から30日まで(31日朝に帰国)、インド仏跡調査に赴き、ムンゲール県、ブッダガヤー、サールナートを調査した。なお今回の調査にはブッダガヤー出身のムケーシュ・クマール氏(25歳)が、デリーからガイドとして同行してくれた。26日から28日まで滞在したブッダガヤーでは、前正覚山、スジャーター村、モチャリン村のムチャリンダ湖、マハーボーディ(大菩提)寺を、28日にはサールナートの考古博物館、ダルマラージカ塔跡やダメーク塔などがある鹿野園の遺構群、野生司香雪の描いた仏伝図の壁画で有名ムーラガンダクティー寺を見学・調査することができた。また29日の早朝にはハリシュチャンドラガートからダシャーシュワメード・ガートまでをボート上から眺め、その他ヴィシュヴァナート寺院、バーラタマーター寺院などを見聞し、30日には空港に向かうまでの間デリー市内を視察したが、今回の調査報告では24日から26日 に滞在したムンゲール県のみに焦点をあてた。
ムンゲール県はパトナからガンガーにそっておよそ200m 東に走行したところに位置している(直線では140km)。玄奘が『大唐西域記』において「伊爛撃鉢伐多國」と呼ぶ地 である 。 「マハーバーラタ」 に言及される「モーダーギリ」 とも同一視され 、 また「ムドガラギリ」という古名を有するともされており 、 一ピール・パハール」と呼ばれる丘(玄美のいう 「伊爛撃山」か?)や、「シーター・クンド」と呼ばれる『ラーマーヤ ナ』と関連付けられる温泉があるなど、多くの名跡を有する。
現在は仏跡としてはほとんど知られておらず、巡礼者もいないが、 筆者はこの地に、釈尊の成道後第六年の雨安居地とされる「マンクラ (摩拘羅)山」との関連を想定している。玄奘は「伊爛筆鉢伐多國」 の西境のガンガー河の南にある「小孤山」について報告しており、釈 尊がここで三ヶ月の間雨安居を過ごし、「バクラ夜叉」を降伏したと伝えるとともに 、 仏坐跡や 、 薬叉の脚跡 、 仏坐像 、 経行処 、 仏足跡 、 ストゥーパの所在を示す。筆者にはこの報告が、『雑阿含経』、『別訳 雑阿含経』などにある、当時マガダ国において泣き止まない子供を 「バクラ鬼が来るぞ」といって脅かして泣き止ませていたことから、 その時摩鳩羅山にあった釈尊に侍者として付き従っていた「ナーガパーラ」という仏弟子が、これを利用して釈尊を脅かそうと試み、叱責されるという記事と無関係であるようには思われない。
玄奘のいう「小孤山」は、現在のムンゲール県とラキーサラーイ県との境 、 ムンゲールの西南35』ほどに位置するウレン村に否定されている 。 この村は「ウレン山」とも呼ばれ、岩山に寄り添って家々が立ち並んでいる 。 現地の人はそこがブッダゆかりの地であると自覚しており 、 岩山の処々に 、 彼らが仏足跡と見なして線香を供える窪みや、 明らかに人工的に刻まれた四角を描く線、塔や仏画の線描、碑文のよ うな文字の並びが実際に見られた。位置関係を含め、玄奘の報告との一致はほとんど確認できず、再考の余地を残すとはいえ、ムンゲール= マンクラ山の推定を補強する調査になったと考える。