平成21年10月17日 東洋大学白山校舎6302教室
平成21年10月17日 東洋大学白山校舎6302教室
海保青陵の二心論――前識談の構造から―
坂本 頼之 客員研究員
江戸時代の漢学者 、 海保青陵(1755〜1817) の思想について 、 従来の研究では青陵のいわゆる「経済」思想や合理 主義に焦点があてられたものが多かった。
しかし青陵の著作には 、 己 の心を2つに分けて 、 一方の 心で一方の心を制御するとい う二心論とも言うべき倫理思想も述べられている。その二 心論とは「心」による「気」 の制御 、 つまり「心」を「中」 のままに保ち 、 「気」(感情) を過不及なく発揮するという 実践倫理を含んだものである が 、 従来の研究においては見 過ごされがちであった。
この青陵最晩年の著作とされる『前識談』から 、 青陵の倫理思想の構 造を明らかにするのが本発表の目的である。
『前識談』の構造をみると 、 まず前半部分では『易』や『論語』といっ た様々な資料を用いながら 、 対象から距離を置いた「空位」への自己の確立と 、 そこから対象に囚われることなく使い回す「智」の重要性 が主張される。
そして後半部分では『荘子』「逍遥遊」「斉物論」「養生主」各篇を 用いて 、 「空位」に居り「智」を働かすための過程が説明されている。この過程を二心論を前提として丁寧に検討していくと青 、 陵は『荘子』 各篇の篇名ををそれぞれ「我観我」「我為物」「皆利我」と言い換え、「我 観我」を「心」を「空位」におく自己確立と自己客観視からの自己制御 、 つまり二心論による修身の段階とし、次の「我為物」を「我観我」 の段階を成し遂げたものが、他者の「情」を理解し他者へ政治として 働きかけていく段階とし 、 最後の「皆利我」を 、 修身から他者への働 きかけを一貫して 、 「天理」「中」と自己との合致の問いかけを行う段 階のことと解釈していることがわかる。
この思想構造を図で考えるなら修 、 己たる「我観我」と治人たる「我為物」の両円を 、 「天理」への合致を説く「皆利我」を輌として繋い だ構造となる。それは『大学』の三綱領「明明徳」「親(新)民」「止至善」にも類似した構造であるが、この実践倫理の広がりと結びつき の過程と構造が、『前識談』後半部分に著されている『荘子』三篇の 言い換えの内容となる。
このように二心論を通して『前識談』に著された思想構造を考察す ると 、 そこには自己の立ち上げから他者への働きかけを「天理」への 合致の自覚をもった実践主体に促す、自己から他者へと繋がる「立ち上げ論」が現れてくる。
また青陵は自己制御に目覚める以前の切っ掛けに必要なものとし て 、 「天理」「礼」「法」を「取附きば」とすることをあげている。こ こから青陵の想定する実践倫理の体系とは 、 二心論により先に立ち上 げられた自己が、まだ自党のない他者へ「天理」を基とした「法」と して働きかけ 、 「天理」に合致させるように導き 、 その「法」を切っ 掛けとして 、 自己を立ち上げる自覚をもった者が登場し二心論を実践 するという 、 連関し広がっていく世界だったということが出来るのではないだろうか 。
『六度集経』と『旧雑讐喩経』についての一考察
伊藤 千賀子 客員研究員
康僧会の翻訳した経典として 、 『六度集経』は『出三蔵 記集』(515年)以来 、 すべての経録に載る。しかし、『旧雑讐喩経』 の登場は 、 79年後の法経録(594年)であり 、 康僧会訳とされる のは仁寿録(602年)からである。管見の限りでは、研究のなかで、 『旧雑讐喩経』を康僧会訳としているものは見当たらない。本稿では「四 姓」という単語を手がかりとして 、 その分布と意味から 、 両経を康僧 会の手になる経典であることを明らかにしたい。 辞書によれば、四姓とは、ブラーフマナ・クシャトリヤ・ヴァイシャ・ シュードラという古代インドにおけるカーストと呼ばれる4つの社会 階級全体を指す。また、仏教の出家者は、自分たち以外の人間を四姓 と呼んだという。 『大正蔵』の本縁部における四姓は 、 全部で46ヶ所ある。『方広大荘厳経』『中本起経』『興起行経』 に各1 、 『大荘厳論経』に2、 『出曜経』に4 、 『六度集経』 に20 、 『旧雑警喩経』に17である 。 『六度集経』と『 旧雑讐喩経』の二経で 、 全体の 人割を超える 。 用例をみると 、 『方広大荘厳経』『中本起経』『興起行紅』『大荘厳経論』はカーストあるい は普通の人。『出曜経』『旧雑讐喩経』『六度集経』は 、 裕福 で立派な家柄とまとめられる。 『出三蔵記集』によれば、康僧会は生年は不明。10代で両親を亡 くして出家 。 247年 、 呉の首都建業へやって来て、布教に励み、呉 が減亡した年の280年に亡くなる。
この時代 、 呉郡の呉県には 、 四姓と呼ばれる強大な勢力を有する四 豪族がいた。呉の四姓らは、官吏の出身である。官吏には儒家的性格 が求められた。すなわち、彼らは学問と教養の蓄積にはげみ、名声と 権勢を求めず 、 倹約を旨とし 、 貯蓄は 、 災害や凶作で人々が困窮した 時 、 人々を救うためにつかった。人望と名声を集めていたことは容易 に察せられる。さらに、このような生活を送りながら、一方で、三国時代は戦国時代でもあったため、武将としても活躍した。
したがって、康僧会の居住していた建業は呉県の中心であるため、 名望家を「四姓」と呼んでいたと 、 十分推定できるのである。 以上 、 四姓という単語の分布の片寄りと使い方から 、 『旧雑讐喩経』『 六度集経』は 、 同一人物の手になるものと推定できる 。
なお 、 四世紀の東晋時代に訳された『出曜経』の四姓も同様の意味 であるのは 、 東晋の首都は呉とおなじ建業であったことを思えば、納得ができるのではないか。
チベットの地位をめぐる三つの言説の実態と形式
―清末民初期の蔵中英関係を中心に―
田崎 國彦 客員研究員
清末民初期におけるチベットの地位をめぐる蔵中英の三主張(三言説)――英中の主張は各チベット政策の礎である―は、端的にはチベットの政教両権を握るダライラマの地位とチューユンに対する理解の違い、つまりは「蔵中英は伝統的な蔵中関係(チベット問題の歴史的背景)をどう理解したか」の違いによる。英国はチューユンを考慮せずに中国の宗主権を認め、中国はチューユンを曲解してチベットヘの主権を主張し、チベットは蔵中関係をチューユンとし、両権を握るダライラマを元首とする自由な国であると自己認識していた。英中が以後、自説を変えることはなかった。ここにチベットの悲劇の淵源がある。現代でも中国は、ラサ条約と英露協商を英国の分裂活動とし、「その 1907 年の協商〕の中で〔、英国は〕チベツトに対する中国の主権を宗『主権』と改めた。これはチベット地方に対する中国の主権を宗『主権』と歪曲した初めての国際文書となった」と、自説を主張し続ける〔『人民網日本語版』 2009 年 3月 11日、http:/japanese.china.org.cn/life/txt/2009-03/11/content-17424123.htm〕。しかし、英国は中国の主権を認めなかった。「近代の主権は決して宗主権ではない」(オッペンハイム)のである。こうした対立する蔵中英の主張、下段落のチューユン理解、及び清末民初期におけるチベットの独立への歩みを交錯させる時、英中の主張が実ク態を伴わざる虚構の形式″に過ぎないことが明かとなる。
ダライラマは、清朝皇帝に対してはチューユンの応供処(宗教の師でもある)であると同時に、チベットでは政治的支配者である。ダライラマの教権宗(教的権威)は全チベットをこえてチベット仏教文化圏(内陸アジアに広がる国際文化圏)に受容されて多様なチューユン関係(清朝皇帝との関係を含む)を形成する。かかる強大な教権のもとで、チベットの政権を掌握して両権を一身に不可分に担うのが、ダライラマなのである。このダライラマから、清朝は、清末新政期における2年余りの軍事的支配の中でも、更には現代においても、教権を土台とする政権を奪えなかったのである。この点からも、チベットは中国の一部ではないと言える。
蔵中は、伝統的・歴史的には「対人コミュニケーション(国際コミュニケーションの面ももつ)」として理解し得る、チューュンの関係にあった。チューュンとは、チベット仏教文化圏という文化的状況のもとで、応供処(ダライラマやパンチェンラマなど)と施主(皇帝やハンや王公など)という対他関係にある両項が、普遍的理念(興教安民)や王権像仏(教政治を行う菩薩王)やチベット仏教といったコード(意味づけと価値づけの体系で両項の行動を規制)を共有して、例えば僧侶は説法や教誠を授け、国家の安寧や皇帝・ハンの長寿などに関する仏教儀礼(法施)を行い、在俗の施主は仏教保護の軍事的支援を含む布施や寄進などの経済的援助(財施)といった「メッセージのやり取り」を行う相互交渉の関係であり、ダライラマを起点にしても多くの関係の束を成す。前近代の中央アジア世界の明文化されない国際法(国際関係システムク)でもあった。清朝期の最大の応供処と施主がダライラマ(観音の化身)と清朝皇帝共文殊の化身である転輪聖王)である。このチューユンの政治面(駐蔵大臣派遣・各種の欽定蔵内善後章程・金瓶禦簑法といった清朝のチベット政務への干渉・監督というメッセージ)は、蔵中の国家関係という点からは配酷をきたす可能性を手み清、朝にとっては、言わば悩みの種でもあった。チベットにとっては仏教保護の一環(一種の財施)であるが、清朝にとっては、チベット政権への監督や統制を過度に強化。強行すれば、それは、引いてはチベットの宗教と政治の両権を握るダライラマの宗教的尊厳性を冒すか、モンゴル人(チベット仏教信仰者)にそう解されて彼らの信頼を損なう危険性もあった。このために清朝は、チベットヘの影響力が最高潮に達した段階(第一次グルカ戦争に清朝が派兵した1792年頃)でも、チベットの要職任用や外交処理については、「実質上はその処理の権限を駐蔵大臣の手に収めながら、形式上はチベット側と駐蔵大臣の合議制或は共同処理に委ねるという体裁」を結論としていた〔鈴木中正『チベットをめぐる中印関係史』一橋書房、1962年、52頁〕。清朝は、チベット人、更にはモンゴル人などのチベット仏教信奉者から財施と承認される範囲を越えず、これによって清朝皇帝は、仏教を興隆させる至高の権力として、正当性・正統性を獲得していたのである。ここには、両者間の循環する双務的・互酬的。相互補完的な役割関係があり、両者は、緩クやかな共同性の関係(チベット仏教文化圏という楕円の二つの中心″)を維持しつつ、チベットからは自由であるとも、清朝からはチベットを統治下に置くとも言える「両義的(ambiguous)な関係」――独立や分離の語が必要でない関係――にあった。こうしてダライラマの政権は維持され、清末新政以前まで相互尊重の上に伝統的な共存共栄の関係が築かれていくのである。この関係を、近現代の国民国家体制によってとらえ直すことはできない。
しかし、清末新政期の清国(清国を継承した民国を含む)は、列強による爪分の危機感やチベット仏教軽視やダライラマヘの不敬やバンチェンラマの擁立といった自らの変質一(清朝による従来のコンテキストの、国民国家体制への一方的な変更)の中で、チューユン関係を一方的に破壊し、主権論に基づく主権の行使クとして直接支配(内地化…グライラマからの政権の奪取)を目指した。こうして、チベットは、清朝の国家的暴力によって、否応なく近代的独立国の樹立へと押し出されるのである。