初期大乗仏教の成立と展開
─テクスト・ことば・思想─
初期大乗仏教の成立と展開
─テクスト・ことば・思想─
紀元前後頃に成立し次第に増広・編集された初期大乗仏教の経典群は『般若経』(正式名は般若波羅蜜(多)経)と称されるが、これは「知の完成」「再校の悟りの知」を説くものであり、初めて大乗の語を使用した大乗仏教の先駆的経典である。最大のものは玄奘訳『大般若波羅蜜多経』六百巻にまとめられ、逆に短縮された経典には日本人には馴染み深い『般若心経』などがある。更に、空性を示す「ア」一字に凝縮した『一字般若』(チベット語訳のみ現存)のような密教経典さえ生まれている。代表的な注釈書には、インド・チベットでは弥勒の作とされる『現観荘厳経論』、中国・日本では龍樹に帰せられた『大智度論』があり、それぞれの国における仏教流布の基盤となる論書・思想として重視された。
本研究で中心的に扱う『八千頌般若』はこれら般若経典群の中でも最古とされ、原型となるものは紀元前百年から後百年の間に成立していたとみられ、後漢の支婁迦讖により二世紀に『道行般若経』として漢訳された。チベットでも仏教流伝の前伝期に既に翻訳されており、最古(九世紀)の仏教目録とされる『デンカルマ』『パンタンマ』にその名が見られ、ツァムダク寺などブータンの古刹にもチベット訳写本が収蔵されるなど、翻訳文献も広く流布している。
『八千頌般若』は、梵文写本も多く現存し(河口慧海将来本、高楠順次郎(一八六六─一九四五)将来本の他、ネパール系の梵文写本がシャタピタカ・シリーズより刊行)。校訂テクストもこれまでに Mitra本(1888)、Wogihara本(1932-35)、 Vaidya本(1960)が出版されている。梵本からの全訳として、エドワード・コンゼ博士による英訳(Conze 1958)、梶山・丹治両博士による和訳(梶山&丹治1974, 1975)がある。本経に比定される漢訳は紀元後二世紀から十世紀にいたるまでの計七本が現存している。
上述の梵文のネパール写本は十一〜十二世紀のものとされるが、近年、クシャーナ時代と推定される写本がバーミヤン渓谷北部の洞窟中で発見された。蒐集家M・スコイエン氏所蔵のこの『八千頌般若』は、二世紀から三世紀頃にクシャーン文字で書写されたもので、書写年代から言って、仏教の成立から僅か二百年ほど経過したばかりのものであり、前述した支婁迦讖の翻訳時期とほぼ重なる。L・ザンダー博士によって校訂が出版されているが、本写本にはMahāvastuに見られるような語形も散見され、散文大乗仏典がサンスクリット化されてゆく過程を直接反映する資料が現れたと言える。
本プロジェクトでは、このスコイエン・コレクションの『八千頌般若』に関して、梵蔵漢現代語および英訳等と比較し翻訳・研究を進める。二〇一五年〜二〇一七年度に井上円了記念助成を受けた研究所プロジェクト「般若経の教理・儀礼・実践の総合的研究」により、ブータン三写本に関しても校合と語彙収集を行っているため、これら術語を採取し多言語対照の語彙を蒐集したデータベース構築の充実を企図している。
また、般若経は初期大乗の最初期の経典であり、その研究には初期仏教の智慧についての理解が必要である。その智慧は悟りに至る実践や儀礼と密接に関わるものであるため、両者の実践や儀礼についての比較研究は、般若経研究には必須の研究となる。一方、般若経はチベットや中国において註釈を伴った教理研究として発展した。チベットではその註釈は『現観荘厳論』であり、中国では『大智度論』の研究として展開した。特に、インド・チベットでは『現観荘厳論』の研究は、僧院で学ぶべき基本的な文献として現在まで継承されている。この般若経の前提となる研究と発展した形態の両者を、補いながら「初期大乗仏教の成立と展開」という視点で分析しようというものである。
スコイエン・コレクションの『八千頌般若』に関しては、未だ網羅的な研究はなされておらず、本プロジェクトはその先駆と言える。多くの漢訳仏典がサンスクリット語からの翻訳ではなく、ガンダーラ語からの翻訳であることを考えるとき、この地域から新たに発見された資料がもたらすであろう影響は甚だ大きい。故に本研究の成果は大乗仏教の基礎的研究として新たな地平を切り開くものである。
渡辺章悟研究員とP. Harrison(スタンフォード大学教授)による金剛般若経ガンダーラ写本の校訂出版(スコイエン・コレクション)、故辛島静志(創価大学国際仏教学高等研究所教授)による『道行般若経校注』、故Stefano Zaccheti(オックスフォード大学教授)の『光讃般若経』英訳(同上)、田中公明((公財)中村元東方研究所研究員)のチベットの『般若学入門』(大法輪閣)出版など、近年多くの未知の資料がもたらされたこともあり、この分野の研究は飛躍的な発展を遂げている。また、これらの研究成果をもとに、Ch. Muller教授(武蔵野大学教授)の英文辞書に見られる仏教英語辞書にみるデータベースの構築が為されつつあるが、梵・蔵・漢の正確な解読に基づいた般若経の文献学的研究は未だ端緒についたばかりである。一昨年、上述の研究所プロジェクト「般若経の教理・儀礼・実践の総合的研究」によって、ブータンのツァムダク寺、タダク寺、ネープク寺所蔵の三写本について第一章の校合を終え、現行大蔵経より古形のチベット訳語を収集しているため、これらの成果を継続・発展させ、データベースを作成しながら着実な文献学的な分析を行い、将来の更なる展開に繋げてゆくものである。
近年は、本プロジェクト研究代表者である渡辺研究員の諸論文のほか、研究協力者である庄司史生氏による『八千頌般若』の発生と系統に関する研究があるが、写本の系統分析に関しても、本プロジェクトで行う語彙収集は、写本ごとの異同を精査するために多大な貢献が期待出来る。殊に梵蔵の対照語彙を拾うことで、翻訳語の相違から章によって成立時期や、『般若経』としてまとめられていく過程も推測できる可能性が出てきたことは、『般若経』成立史、延いては大乗仏教の成立にとっても貴重な史料を提供できると考える。
研究組織
研究代表者 役割分担
渡辺 章悟 研究員 研究総括、『八千頌般若』梵文テキストのネパール系写本と梵文スコイエン・コレクションとの比較研究
研究分担者 役割分担
山口しのぶ 研究員 般若波羅蜜菩薩とその儀礼研究
岩井 昌悟 研究員 初期仏教と般若経における実践の比較研究
現銀谷史明 客員研究員 『八千頌般若』サンスクリット校訂テキストとチベット訳の対応分析
石川 美恵 客員研究員 『八千頌般若』チベット語訳の分析と入力および現観荘厳論の対応分析
本年度も昨年度に続き、上述の研究所プロジェクト「般若経の教理・儀礼・実践の総合的研究」から継続して、『八千頌般若』の梵蔵対照語彙の蒐集を行った。この作業は、『八千頌般若』梵蔵対照語彙データベースの構築を視野に入れた『八千頌般若』対照テキストの作成を目指したものである。このデータベースはExcelで作成し、多言語にも対応できる仕様となっている。今後の研究の基礎として不可欠な位置を占める。今年度はこの作業を六名の研究協力者によって行った。庄司史生(立正大学専任講師)、宮崎展昌(鶴見大学仏教文化研究所・専任研究員〈准教授〉)、鈴木健太(北海道武蔵女子短期大学・准教授)、佐藤直実(宗教情報センター・研究員)、平林二郎(大正大学綜合佛教研究所・研究員)、及び伊久間洋光(大正大学綜合佛教研究所・研究員)である。二〇一九年度の作業では三、四四〇語ほどExcelシートへの入力を既に完了しており、二〇二〇年度の作業ではさらに五、九六三語を追加し、計九、四〇三語が蓄積されている。