オートバイ発展の歴史

2015年1月からスタートしました。

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知っていても役には立たない、バイクに興味のない女性に一生懸命話しても「ふ~ん」とバカにされて終わる話だと思います。

今や世界で2億台以上が普及していると言われるバイク。

知っているだけでバイクライフが豊かになる(かもしれない)、そうしたバイクの歴史をまとめてみました。

【このページの目次】

世界のオートバイの歴史

日本のオートバイの歴史

ホンダのオートバイの歴史

【世界のオートバイの歴史】

1868年、今から148年前にフランスで造られた世界最初のバイク

原動機は産業革命の源になった蒸気機関でした。

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19世紀後半にはヨーロッパとアメリカで蒸気エンジンの開発競争が行われていました。

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1894年にドイツで初めてガソリンエンジンを積んだバイクが発売されました。

最高時速は45km/Hr,「足で漕が無くてもよい自転車」のキャッチフレーズで売られたそうです。

1923年(93年前)のドイツ製BMWオールドバイク

現役で走る丈夫なバイクがドイツの特徴です。

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スピードへの挑戦

現時点での最速バイクは2003年に登場した、ダッジトマホーク

その最高速度はなんと676km/hです。

排気量8.3リッターV10エンジンが発揮する最高馬力は500馬力のハイパワー。

価格は限定10台以下の販売で、気になるお値段は2014年12月現在のレートで約6500万円(55万ドル)だそうです。

日本製の最速バイクはスズキ 隼 Hayabusa!

世界ランクは第3位です。

300km/h以上の速度で飛行するハヤブサにちなんで名前が付けられ、その名の通り最高速度は2代目隼が333.95km/hを発揮!

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世界最高峰のレース、モトGPでは最高速度330km以上での戦いです。

オートバイの聖地

アメリカ合衆国のサウスダコタ州、大統領の顔で有名なマウントラシュモアで知られる小さな町スタージス

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人口僅か7000人の小さな町スタージスに毎年8月に50万人のライダーが集まります。

2週間にわたり行われるスタージスモーターサイクルラリーです。

ありとあらゆるタイプのバイクが全米から集まります。

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ここが聖地になったキッカケは1938年に始まったダートレースだと言われています。

ボードレースの時代

20世紀の初頭にアメリカで木の板を貼った楕円形のコースでレースが始まりました。

アスファルトがまだなかった時代です。

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またこのころはイギリスのマン島で行われたレースがありイギリス製のトライアンフなどのバイクが強い中、アメリカのボードレースで鍛えたバイクが参入しました。

1901年に自転車屋が作っインディアン号です。

1911年のレースに参戦し上位を独占しました。

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このあとしばらくはアメリカがオートバイをリードしました。

オハイオ州、コロンバスのオートバイの殿堂には当時優勝したバイクが飾られています。

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【日本のオートバイの歴史】

国産オートバイの躍進の原点は1955年から5年間、浅間山の麓で行われた浅間高原レースだと言われています。

出場できるのは純国産車のみ、7周のコース約140kmの耐久ロードレースです。

欧米にまだまだ劣る技術の時代に世界のレースに勝つためにバイクを改良するのが目的です

浅間記念館は当時を記念して造られたところで現在も運営されています。

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日本のオフロード車が飛躍したのはアメリカのカリフォルニア州アナハイムで行われるスーパークロス選手権と言われています。

室内スタジアムに作られた人工的な悪路を走るレースです。

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ここで思い通りに操れるハイパワーなエンジンとサスペンションを日本の4つのバイクメーカーが競い合いました。

1970年代のことです。

そして4大メーカーがオフロードレースを独占しました。

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日本が強くなったのはライダーの意見をしっかりと聞いて、悪い所を次々に改良していったからだと言われています。

このときに後輪の1本サスペンションが日本人により生み出されました。

またスーパークロスが発展してフリースタイルモトクロスがあります。

空中での技を競う競技です。

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【ホンダのオートバイの歴史】

松下幸之助と本田宗一郎は戦後の立役者として有名ですが、簡単に紹介します。

浜松の農村で生まれた本田宗一郎は、高等小学校を卒業後すぐに上京して東京の本郷湯島にあった自動車修理工場アート商会ででっち奉公を始めました。

雑誌で募集広告を見て自ら手紙を送ったとのこと。

最初は子守ばかりさせられていたが、修理をまかされるようになると上達は早かった。

21歳の若さでのれん分けを受ける。宗一郎は故郷に帰り、アート商会浜松支店を開業した。近くには自動車修理工場がまだ少ない時代である。

25歳の時には50人もの従業員を抱える大工場に発展していた。

修理をしていることに満足できなくなってしまった宗一郎は、別会社の東海精機重工業を設立しピストンリングの製造に乗り出す。

ピストンリングに苦労した後、再起してバタバタを作る。

原資の45万円で本田技術研究所を設立し、バラックの工場に工作機械を入れた。

陸軍が残したエンジンを買い集め、客の持ってきた自転車に取り付けた。

これがバタバタである。

1946年、浜松の街をけたたましい音を立てて自転車が走った。

乗っているのはモンペ姿のさち夫人で、後部には湯たんぽが取り付けられている。

中には代用ガソリンの松根油が入っていて、陸軍の無線機発電用のエンジンを動かしていた。

1947 / ホンダ A型

初めてホンダの名で製品化した自転車用補助エンジン

市販の自転車に簡単に取り付けられ、1951年まで継続生産されたロングセラー。

ホンダ・ドリームD型(1949年)

1957 / ホンダ ドリーム C70

ホンダ初の2気筒エンジンを搭載したモデル。

角張った形で統一されたユニークなデザインが特徴で、「神社仏閣スタイル」と呼ばれていた。

当時の子供達を熱狂させた正義の味方「月光仮面」が乗っていたバイクであったことでも有名です。

スーパーカブ

元々「カブ」は1952年(昭和27年)から1958年(昭和33年)まで生産された自転車補助エンジンキットに採用された商標である。

英語で熊など猛獣の子供を意味する「cub」に由来し、小排気量ながらパワフルなことをアピールした。

ボーイスカウトのビーバー隊に次ぐ幼少者の名前のカブ隊も同じ由来である。

WIKIより

現在「カブ」の呼称は、1958年(昭和33年)から生産開始されたセミスクータ型のモペッドであるC100型以降のシリーズ名「スーパーカブ」を略した通称として定着している。

ホンダによると本シリーズの累計生産台数は2014年(平成26年)3月時点で8,700万台以上[1]に達し、輸送用機器の1シリーズとしては世界最多量産・販売台数を記録する。

スーパーカブ出現後の1960年代以降、類似形態のセミスクータ型モペッドとして、ライバルメーカーのヤマハがメイトを、スズキがバーディーを製造販売するようになり、結果として小型実用オートバイの市場にひとつのカテゴリを確立させたことから、類似車もまとめたカテゴリ名としても使われるようになった。

またホンダは1959年にマン島TTレースに初出場。谷口尚己選手が「RC142」を駆って6位入賞を果たした。