36番道路 Side.B

「おいトーリ! アニー様がいなくなったってどういうことや!?」

「俺だってわかんねぇよ! 昨日の夕食にはもうどこを探しても見つからなかったんだ!!」

「アニー様の足でそんなに遠くに行けると思えんがなぁ……」

トーリがアニーの失踪に気付いて、翌日。

休み開けのタツオミはそのたれ目を釣り上げ、仕事帰りのギンジロウはのんきに腕を組んで話を聞いている。アニーの教育係の中で、最も年少で小柄なトーリは二人にこうして囲まれると圧迫感でなおさらいたたまれなくなる。

昨日、夕食の準備が終わってアニーを呼びに行ったらどこにもいなかったのだ。かくれんぼでも始めたのかと、初めのうちはのんきに探していたが、どこを探してもあの子どもの姿がない。おかしいと思ってマンションを飛び出し、体力の限り走り回ったが、あの小さな足でそう遠くに行けるはずもないのに何故かあのつややかな臙脂色の髪の天使は見つからない。夜も更けて困り果て、ついに二人へヘルプを飛ばしたのが日付も変わった頃の話だった。

アニーは、ロケット団のボス・サカキの秘蔵の孫息子だ。少女と見紛う可愛らしい美貌を持ち、この世の罪悪全てから切り離されて育った箱入りの天使。その存在はサカキと教育係を任されたトーリ、タツオミ、ギンジロウの三人しか知らない。

――このままでは、サカキ様になんと申し上げたらいいのか……!

「エンジュシティはくまなく探したはずだ……マニューラにも、赤毛の子供を探して欲しいとメッセージを送ってもらっている。だけど少なくとも、エンジュシティのニューラたちはこれに反応しなかった」

マニューラは樹木にツメでサインを描き、情報を伝達することができる。トーリのマニューラにも、同じように頼んだが成果はなかった。エンジュシティにはいない、ただそれだけが明確な事実としてわかっただけで。

「だが、アニー様がどこに行かれたかもわかんねぇんじゃ、探しようがないぞ」

「……いや、一つだけ心当たりがある」

タツオミが少し考えたかと思うと、おもむろにサカキの書斎へと入っていく。その後に続いていくと、彼は机を開いて、ないと呟いた。

覗けば、確かに机に入っていたはずの受信機が存在しない。

アニーの姉――もう一人のサカキの孫娘、メルの居場所を示していたものが。

「そんな……アニー様はあれを知っていたのか!?」

「ないんだから、そうやろうな。お姉様を探しに行かれたんだろう、お嬢様は今ジョウト地方にいらっしゃるからな」

「それは俺も確認した。だがお嬢様は今エンジュのポケモンセンターで寝込んでいらっしゃる、アニー様がエンジュにいないのはおかしいぞ」

アニーがプリンを家族の元へ送って欲しいと言い出したとき、サカキの命でプリンには発信器が埋め込まれた。それを辿って、三人は交代でメルのことも定期的に監視していたのだ。昨日の担当はギンジロウだった。

それがない。それを見てアニーは家出したはずなのに、姉の元にアニーはいない。

「なにが起きているんだ……?」

三人は不測の事態に混乱する。

これはどうやってサカキに報告をすればいいのだろう。厳罰は免れないとしても、アニーを探す手立てが三人の元にない。

血の気が下がっていくトーリの背中を、ギンジロウが大きな手で叩く。痛いという悲鳴に笑って、それから彼はタツオミを見た。

タツオミは指示する。

「とにかく、アニー様を見つけねばならん。ギン、お前は引き続きお嬢様をお守りしろ」

「おう。連絡は取れるようにしておこう。お嬢様とは変わらず接触したらいけねぇんだな?」

「ああ。お嬢様にロケット団と関わりを持たせないというのはサカキ様からの厳命や、絶対に守れ」

「俺はどうしたらいい、タツオミ」

「トーリは南へ下れ、俺はサカキ様へ連絡がつき次第、タンバの方へ向かってみる」

「了解」

こういう時、頭の回るタツオミの存在は酷く安心できた。頭の悪いトーリもギンジロウも、普段は性格の悪い彼に振り回されてばかりでいけ好かない存在だが、彼の指示がなければ二人はまともに考えることもできなかった。

それじゃあ、と動こうとするとタツオミからストップがかかる。

「そのままの格好で行くつもりなん? 目立つやろ」

「そうは言っても……仕事だろ?」

「アニー様がロケット団と関わりがあるように世間様に思わせるのは、サカキ様やご両親の意思に反するわ。私服に着替えた方がええやろ」

「うーん、それもそうだがなぁ。アニー様は俺らが私服でもわかってくれるだろうか」

「……」

最もらしい理由をつけて、タツオミから着替えるように指示される。しかし三人の自宅はこのマンション内に用意されているとはいえ、そんな手間をかけている場合だろうか。

トーリは呆れる。

「それお前が団服着たくないだけだろうが!」

「そんな、団服はおしゃれすぎて身につけてるのが恐れ多いだけやわ」

「うっそつけ! ことあるごとに脱ぎたがりやがって!」

「お前、いつかサカキ様に怒られるぞ」

こういうところがどうしてもこの男を尊敬したくない理由だった。

+++

Side.B

ボールの検品を済ませ、交わした契約書の内容を確認する。それらが終わってから、ようやくベリルは荷物をまとめた。

早朝五時。旅立ちに向いた美しい朝焼けの中、再びベリルは家を出る。次に帰るのは何ヶ月後になるだろう。結局、母とは今回も顔を会わせることがなかった。

「ベリル、もう行っちゃうぴょん?」

「うん。せっかくポケモン協会からの仕事だもの、時間はかけないに越したことはないわ……これの間、他の地方の仕事受けられないし」

「せっかく地元の仕事なんだから、もう少しゆっくりしてもいいのに……どう巡る予定なの?」

「そうね……とりあえず、エンジュかヒワダの方へ行くわ。全種類一匹ずつってことだから、ヨシノの方に無理に行かなくていいでしょ」

依頼されたのは、ジョウト地方に生息するポケモン全種類。伝説のポケモンと、色違いは除いて。そうなれば、生息するポケモンが被っているヨシノシティやワカバタウンには無理に行かなくていい。この大仕事、効率的にやるには少し難しいがやりがいはあった。

靴を履き終わり、立ち上がる。また少し靴がきつくなったかもしれない。今の脱げにくい靴は気に入っているのに。

「じゃ、行ってくるわ。お母さんにもよろしくね、ばぁば」

「は~い。びしっと仕事してくるんだよ!」

祖母に見送られて、ベリルは再び家を出る。

早朝の人気のないキキョウシティを見渡しながら、風向きを確かめる。強くはないが、西へ吹く風は朝の散歩にはちょうどよさそうだった。

――たまにはいいでしょ。

腰から一つ、緑のボールを取り出す。優しいライムグリーンに赤の斑点が五つついた、市販のものにはない柄。捕まえたポケモンがなつきやすくなるという、特殊な効果のあるボールだった。ベリルにとって、大切なボールの一つ。

カチリと開閉ボタンを押すと、中からふわふわと綿毛が溢れる。散らばった綿毛が晴れた中には、大きな綿毛を三つ持つポケモンが浮いていた。

「おはよう、ワタッコ。少し散歩しましょ」

わたくさポケモン、ワタッコ。ベリルが初めて捕まえたポケモンだった。

その丸い目をにっこりと笑わせた彼は、ふわりと風に乗ってベリルの頭の高さまで上がる。ベリルが足を掴むと、そこからさらに大きく風に浮かび上がっていく。スピードはけして早くなく、歩いた方が早いとさえ思えたが、こうして風の弱い日に空の散歩を楽しむのはベリルとワタッコの数少ない息抜きだった。

キキョウの町並みを空から見下ろすのは心地いい。けして小さな町ではないので、中心街から郊外までの移ろいを見るのにはもってこいだった。ベリルの住んでいるマンションが遠くなり、瓦屋根の家が増えていく。町のシンボルであるマダツボミの塔はどんなに遠くなってもその存在感を薄れさせないで、この町の美しさを保っていた。

幼いうちからあちこちに飛び回り、キキョウシティに住んでいた頃の記憶の方が薄くても、この光景を見る度にここが故郷なのだとベリルは思う。母も、祖母も、曾祖母もこの地を根城にしたのはきっとみんなそんな気持ちがあったのだろう。

「ワタッコ、そろそろ町の出口だから、降りるわよ」

風に乗っているうちに、陽は上りきり町の出口が見えてくる。二股に分かれた道は、それぞれコガネやエンジュ、あるいはヒワダへ向かう道路だ。どちらへ行くかは風に任せるとしても、高度はそろそろ落としたい。

ワタッコが綿毛に溜める空気を絞っていくと、ゆっくりと降りていく。たとえ墜落しても無事なくらいまで降ろしたところで、ぐわりと横風に煽られた。

「きゃあっ!?」

ワタッコの軽い体が大きく横に逸れていく。高度を落としたとはいえまだ木の高さはある。しまった、と思うのも間に合わず、ベリルの体は強く森へと叩き込まれ、その勢いで手がワタッコの足から離れてしまった。

「――――っ、わたほうし!!」

枝に体をぶつけながらも叫ぶ。枝葉の隙間を器用に避けるワタッコはその大きな綿毛の手を前へと突き出して、ぶわっと大量のわたほうしを飛ばす。ベリルよりも向こう、地面に向かって放たれたわたほうしはみるみるうちに雪のごとく積もり、受け止めるためのベッドを作る。

ぼすん、と綿毛のベッドに突っ込んで、ベリルの体が地に落ちる。綿毛のおかげで直接地面に体をぶつけることはなんとか回避できた。

「ありがとうワタッコ……酷い目にあった、幸先が悪いわね……」

ベリルが体を起こすのと同時に、ワタッコが地面へと降りる。むぅむぅと心配そうに寄るのに頭を撫でて、いつものことでしょと宥めた。ワタッコは風に乗って移動する種族だ。自分で含む空気を調節してある程度はコントロールできても、突風には敵わない。それを責めても仕方がないのは、彼と会ったばかりの頃よく言って聞かされた。

地図を取り出して調べてみると、そこまで道は逸れていない。キキョウの出口からさほど遠くなく、本当に横殴りの風に遭ってしまったことがわかる。歩いて修正できるくらいなら困ることはないだろう。

「ま、ちょうど森なんだし見かけたポケモンを捕まえながら通りへ戻りましょう。補助は頼んだわよ、ワタッコ」

立ち上がって辺りを見渡せば、遠巻きにベリルを見守るポケモンの影が見える。見たところ、コラッタ、マダツボミ、ハネッコ等々……ざっと十匹程度か。景気づけにはちょうどいい数だ。

ワタッコが大きく綿毛を膨らませる。空気を含めば含むほど、ワタッコのわたは広く濃く飛んだ。

「――――捕獲します」

+++

捕まえたポケモンたちをリストアップしていく。もらったポケモン図鑑のおかげでなにを協会用に捕まえたのかを把握しやすいのは便利な限りだ。

ワタッコのしびれごなで森の一体を覆い、手当たり次第に捕まえた数はおよそ三十匹。協会に引き渡すものもあれば、別に頼まれていたポケモンも混ざっている。今回は色違いはいなかったものの、悪い稼ぎではない。初動としては重畳だろう。

――契約書のサインはまだ来てないから、送れないわね。さっさと欲しいところだわ。

捕まえたポケモンを自分の預かりボックスに移して、メールを確認する。ポケモンたちを預かりボックスに閉じ込めておくのはあまり好きではなかった。

「おつかれ、ワタッコ。そろそろ森も出ましょう――――……なに?」

整理を済ませてワタッコに声をかけると、ワタッコが少し離れたところでなにかを覗き込んでいる。人だろうか、小さな足がワタッコの影から見えた。

――――行き倒れ? こんなところで?

キキョウシティはここからそう離れていない。それなのにこんな森で倒れているだなんて、なにがあったのか。見つけてしまっては放っておくのも居心地が悪い。さっさと容態を確認して警察に連絡してやろう。

そんな他人事のような気分で、ベリルはその小さな影に近付く。

「――――っ」

瞬間、息を飲んだ。

ワタッコの飛ばしたわたほうしと、森の花々の中倒れていたその子どもの姿はまるで童話の中のお姫様のようだった。磁器のようにつややかな肌は、生きているのかと疑いたくなるほど白く作り物めいていて、臙脂色の髪が真っ白な肌とわたほうしの中で輝いている。精巧に作られた人形のような美しさの中で、唯一赤く染まった頬がそれは生きているのだと知らせた。

背格好から見るに、ベリルと同い年くらいだろうか。長身のベリルからすると二回りも小さく華奢で、幼げな顔立ちは少年なのか少女なのかわからない。ただ、その閉じられた瞳が開かれようとも、世界中のかわいいを詰め込んだような精巧な作りは崩れることはないだろうと断言ができた。それは、人間ではなく天使か妖精のようにしか見えなかった。

行き倒れにしては、あまりにも、できすぎなほど美しい光景にベリルは身動きが取れなくなる。取り出していたポケギアを落としていることにも気付かずに、呆然とその天使を見下ろす。

触れていいのか、これに。

むぅむぅとベリルを叩くワタッコに返事もできないまま、ベリルは立ち尽くす。行き倒れならば早く手当てをしてやらねばらないのに、触れることは酷く犯罪的に思えた。この天使に触れること、そのものが罪に思えた。

そうしていること、どのくらいが経っただろう。ポッポたちの飛び立つ音でようやくベリルは体を動かし、天使の側に跪く。近くで見れば見るほど美しい、性別不明のその天使を起こすべく、おそるおそる肩に触れた。

「――――あっつ……!!」

肩を揺するその前に、あまりの体温に高さに手を引いた。服の上からでもわかる熱さに、今度は迷わず額に手を当てる。

――――熱がある。

子どもの体温であることを前提にしても、明らかな高熱。肌はじっとりと汗ばんでいるのがすぐにわかった。頬の赤みは、肌が薄いのではなく発熱しているからだったのだ。顔色が悪いのも作りものだからではなく、本当に体調が悪いのだ。

慌ててワタッコをボールに戻し、今度はギャロップを場に出す。それから、天使の背と足に腕を通して抱き上げる。あまりの軽さに中身が入っていないのではないかと心配になった。

「ギャロップ、急いでキキョウに戻って! 病院へ走るわよ!!」

+++

病院の一室で、ベリルは椅子に座ってイライラと足を揺する。

ベッドの天使はまだ眠っている。腕には点滴がつけられているが、病院に来てから一時間未だに身じろぎもしなかった。

医師の診断では、過労だという。点滴が終わったら帰ってもいい、と言われたがそれまでベリルは一緒にいなければならないのだろうか。仕事に取りかかりたいというのに、思わぬ足止めを食らってしまった。大体、帰るにしたって起きてくれなければまた抱き上げて行く必要があるのでは。

思わず病院に連れてきてしまったのが運の尽きとばかりに足止めを食らっている。このままでは仕事が進まない。

「はぁ……」

「……ん……」

「!」

身じろぎもしなかった天使のまぶたが揺れる。ふっくらとした柔らかな唇が薄く開かれ、空気を吐き出す。ごろりと初めて寝返りを打つと、やがてその目が開かれた。

水色がかった銀の目。宝石のようなそれがゆっくりと開いていくと、丸々とした大きな目が周囲を見渡す。少し寝ぼけた瞳孔が少しずつ光に慣れていって、小さくびょういん、と呟くと最後にベリルの方を向いた。

「……起きたの」

ベリルは思いのほか冷静に、天使に声をかける。貧乏ゆすりをやめて、椅子をベッドの近くへと寄せた。

天使はしんどそうに体を起こすと、再びベリルを見据えて、それからにっこりと笑う。

花が咲いたのかと錯覚した。

「きみが助けてくれたの?」

鈴を転がしたような甘くかわいらしい声。やはり少女か少年かわからず、ただこの存在は“かわいい”のだと思い知らされるばかり。目の前で声を発してもなお、存在していることが信じられないような天使だった。

「……そうよ。森に倒れていたの」

「そうだったんだ、ありがとう。途中、ポケモンに追われちゃって……疲れちゃったんだね、きっと」

「それで、あんた名前は。親はどこにいるの」

ベリルはつっけんどんに問う。

少しでも気を緩めると、天使の“かわいさ”に当てられて、自分が壊されてしまうような気がした。

そんなベリルのことを気にもせず、天使はにこやかに答える。

「ぼくの名前はアントワープ。アニーって呼んでね。きみは?」

「……捕獲屋のベリル」

「ほかく?」

「わたしのことはいいわ。それで、親は」

「いないよ、離れて暮らしてるんだ。ぼくはおじいちゃんと一緒に住んでるの。でも家出してきちゃった」

天使に似合わぬ言葉に引っかかる。親と離れて暮らしていることも、祖父と暮らしていることも、そして家出してきたという物騒な単語も。

なににも穢れないアニーという名前の天使。それなのに、そんなに人間染みたことを言うなんて。

――親が、いない。

少しだけ、自分と重ねてしまう自分がいた。

「じゃあ、あんたこの後どうするの」

「んっとね、キキョウシティに行くの。おねえちゃんがそこにいるはずなんだ!」

「お姉ちゃん」

「そう! ぼく、おねえちゃんに会いに来たの! あのねあのね……あれ?」

興奮気味に話し始めようとしたところで、アニーがなにかを探し始める。ポケットや、アニーの身につけていたポシェットを漁って、だんだんと顔色が蒼白になっていく。

震えた声でベリルに問う。

「ベリルちゃん、あのね、丸い機械を見なかった?」

「……いいえ。その鞄しか、なかったわ」

「そんな……あれがなきゃおねえちゃんの居場所がわからない……!」

倒れたときにポケモンにでも持って行かれてしまったのだろう、機械がないことにアニーは泣きそうになる。家出をしてでも会いに行こうとしていたのに、あてがなくなってしまったらしい。

ぽろぽろと涙を溢し始めるのにベリルは目を逸らした。

「なら、さっさと帰ることね。そのお爺ちゃんとやらに病院代請求してやるわ」

「や、やだっ!! やっとおねえちゃんに会えるのにっ!!」

物心もつかないない頃に祖父に預けられて、家族のことをアニーは知らないのだと涙ながらに語る。一目でいいから会えるかもしれないこの機会を逃したくないのだと、嗚咽を漏らすその姿さえ美しかった。

それに心を動かされるのが嫌で、ベリルはじっと目を瞑った。行き倒れてもなお、姉を求める様子が痛ましかったから。

――もしも、お父さんの手がかりが見つかったら、同じことをするかしら。

そう考えてしまう自分が嫌だったから。

「そう。とにかく、意識が戻ったなら後は好きにするといいわ」

「どこに行くの……?」

「仕事よ。あんたのせいで、ジョウトを巡らないと行けないのに時間を無駄にしたわ」

「ジョウトを巡るの……っ?」

一刻も早くこの天使から離れなければ。

自分が揺らいでしまう前に。立ち上がったベリルの手をアニーが掴む。熱が引いてきたとはいえまだ高い体温が、じくじくとベリルを焼いた。熱が浸食して、ベリルを絡め取り、逃がさないようにする。アニーの涙に濡れた目が、しっかりとベリルのことを認める。

「おねがい、ぼくのことも連れていって!!」

「――――っ!!」

予想ができたその言葉に、硬直する。

アニーの表情は必死という他ない。誰が天使にこんな表情をさせているのだろう、なんて罪深いやつだ。それが自分であるという自覚に、早くここから逃げたくなる。

――連れていけですって!?

――こんな荷物を連れて旅なんてできるわけないじゃない!

理性の部分が反目する。頭ではわかっている。無理だ、そんな余裕はない。だが天使に既に当てられているベリルは、振り払えないまま立ち尽くした。

「ジョウトを巡るなら、いつかおねえちゃんにも会えるかもしれない。おねえちゃんね、有名人なの。来てるなら絶対、どこかで話が聞けるはずなの! 機械がなくても見つけられるって思うの! ぼく、ぼくは、体も弱くて、ポケモンもいないから、本当はおうちから出ちゃいけないんだけど、どうしても行きたいの! おねがい、ベリルちゃん!!」

おねがい、と天使が口にするのはあまりにも甘美に聞こえる。

まるで毒のように体を支配して、動けなくする魔法の呪文。

行き倒れるような小さな子どもを放置するのはベリルだって本意じゃない。だが、それでも。理性をかき集めて怒鳴る。

「うるさいわよ! 離して、わたしは暇じゃないわ! そんなに言うなら金を払いなさい!」

見るからに無一文の子どもに、そんなことを言うのは無茶ぶりだとわかっている。しかしこうでもしなければ離してもらえないだろうと考えていた。

ベリルに振り払うのは無理だ。だから、どうにかして諦めてもらうしかなかった。

アニーは怒鳴り声にびくりと震えると、ベリルの両手を離す。うつむき、返事をしないのを見て諦めてくれたか、とゆっくり距離を取った。鞄を担ぎ直して、刺激しないように病室を出ようとする。この際治療費を払ったって構うものか。

扉に手をかける。あと少しで逃げられる。あの正体不明の天使から、自身の理性を守り切ることが出来る。

「あ、あの、お金は持ってないんだけど」

扉が開こうとした瞬間、背後から声がかかる。

逃げればよかった。なにがなんでも。振り返らずに、一心不乱に。

それができなかったのは、全部天使の魔力のせいだ。振り返った先で、天使は黒いカードを握っていた。

「これで払ったり、できないかな……?」

そのカードが、いわゆるブラックカードと呼ばれる最上級のクレジットカードであることは、近くで見なくてもよくわかった。

+++

「いい、金をもらったからには依頼は受けてやるけど、わたしは運び屋でも護衛でもなく捕獲屋よ! サービスはしないわ、身の回りのことは自分でするのよ!」

「ありがとう、ベリルちゃん!」

結局。

ブラックカードが使えてしまったばっかりに、ベリルはアニーにかかった費用と心ばかりの手数料で天使を同行させるのに了解をしてしまった。サービスはしない、世話もしない、姉を探すのに多少の協力はしてやるが、そのためにベリルの仕事を遅延はさせない。そういう約束で。

点滴が終わり随分体調が落ち着いたらしいアニーは少しふらつきながらも嬉しそうにベリルの後を着いてくる。まるで生まれたばかりの雛のようだった。こういうのは、苦手だ。

――これで面倒なことになったら倍は請求してやるわ……絶対ろくな家じゃないでしょこいつ。

ポケモンも持ってない、着の身着のままでブラックカードだけ持ってくるような子どもがまともな家の出自なわけがない。とんだ荷物を抱えてしまった、相手が天使だったばっかりに。魔力に勝てなかった己の理性を恨むばかり。

そんなベリルの後悔など察することもせず、アニーはうーんと少し悩んでいるようだった。

「でもどうしよう? いつも全部やってもらってたから、ぼくなにすればいいのかわかんない……」

「着替えとかくらいできるでしょ」

「おふろ一人で入ったことないし……」

「はぁ? ……一回教えるくらいはしてやるわ、別料金で」

「それはだめじゃないかなぁ。だってぼく、男の子だもん」

「――――はぁっ!?」

アニーはその少女か少年かわからない、ただひたすらに“かわいい”顔で当然に自身の性別を暴露する。

ベリルの大型仕事は、ただではけして終わってくれそうになかった。