Day6
マサミの母親を置き去りにして、メルは憤怒に身を焦がしていた。
許せなかった。あの大人が。
メルは常に様々な驚異に晒されてきた。ストーカー、誘拐犯、ナンパもいたし、気色の悪いものを送りつけてくる者もいた。外に出ることを極力避けているメルの写真を毎日郵便受に入れていく輩もいた。
それらを、メルはなんとも思わない。必ず、母と父が、祖父母が、カケルが、ポケモンたちが守ってくれると信じているから。守ってくれていたから。だから絶対にメルは大丈夫だと安心して過ごすことが出来たし、それらに警戒こそすれ怯えて過ごす必要がなかった。
それが、全部なかったら。
怖くて仕方がなかった。メルは体も弱い、力もない、ストレスや環境の変化にすぐに押しつぶされてしまう、一人で生きていくことなんて何一つできない、恐ろしく弱い生き物であることを自覚していた。守ってくれる人々がメルを見捨てたその時――メルは死ぬのだとわかっていたのだ。
それなのに。あの母親は、マサミを取り巻く状況をなにも知らないのだ。メルでさえおぼろげながらにわかってきているのに。彼に向けられる悍ましい欲望の刃の数々をなにも知らないのだ。それらからなにも、守ってこようなどしてこなかったのだ。
男だからか。大人だからか。関係ないことをメルは知っている。剥き出しの欲望が向けられたとき、本人だけではどうしようもないことをメルはわかっている。
だから許せなかった。マサミがあまりにも不憫でならなかった。
メルに向けられた、マサミを取り巻く一人からの殺意。その恐怖を、マサミは一人で耐えている。女を嫌いと言いながら、女の匂いを付けてくる。方法はわからないが、きっと彼は戦っているのだとメルにはわかった。
たった一人で。メルには信じられない強さだと感心しながら、それでも早く言ってあげなければという使命感が湧いてくる。
彼と同じ自分なら。
自分でも寄り添ってあげられると思ったから。
なんの力のない自分でも、せめてあの母親よりは。
そんな激情のままに、メルはついにマサミの家へと辿り着く。少し早足だっただけで酷く息が切れていた。しかしそんなもの構わず、家の扉を開く。
「ただいま」
「お前、どこに行ってた!」
入ってすぐ、待ち構えていたのか玄関先にマサミは立っていた。その表情は怒りのような、だが心配も入り交じったような、不思議な様子で。
こんなに優しい人なのに。
メルのことを嫌いなはずなのに、それでも強く当たれない、かわいそうな人だった。
「お前の母親と話してきた」
「……はぁ!?」
「あの人はなにも知らなかったよ。だから、なんとなくわかった。お前がどうして、女を嫌っているのか。お前がどうして、そんなに傷ついているのか」
「なに言ってるんやお前、話が見えん。お前がなにを知っているって!?」
訳知り顔で語るメルに、マサミは混乱と怒りを露わにする。それを放って、ブーツを脱いで家へと上がった。
メルはゆっくりとマサミに歩み寄る。
「わかる。だってわたしたちは同じなんだ」
「……!?」
「あらゆる欲望をぶつけられて傷ついてきた、わたしたちは同じなんだ」
メルが知っているのは、極一部。毎回違う女の匂い。その匂いがする日に限って部屋に籠もるマサミの様子。メルを傷付けた手紙。
だがメルが察するには十分すぎる材料だった。
生まれてからずっと、そんなものを向けられ続けてきたメルにとっては十分すぎる材料だった。
「わたし宛に送られた、お前を付け狙う女からの怨嗟の手紙。向けられたカミソリと殺意。あれは、わたしがいつも向けられているものとは違う……けれど同質の、悍ましい、剥き出しの欲望だ」
マサミにも見られてしまった、メルを襲おうとした男の姿と、メルに向けられたマサミを独占しようとする女の怨嗟。それは種類は違うが、どちらも剥き出しの欲望で作られた暴力。
そして、マサミは。
「お前は、ずっと、それに一人で耐えてきたんだろう?」
「なにを……」
「可哀想に、誰もお前を守ってくれなかったんだな」
心を、体を。誰にも守ってもらえなかった彼が情緒不安定になるのも当然のことだ。
想像するだに恐ろしい。あんなものに一人で立ち向かうだなんて。彼のポケモンたちは一匹だってまともに戦えやしない。母親はあのていたらくで、この家だって防犯設備があるだけでなんの支えにもならない。防犯設備は、金庫にだってなりやしない。
戸惑うマサミを、メルはじっと見つめる。手を伸ばそうとして、やめた。彼にとっては、メルだって憎むべき敵だ。
だから、メルは心に決めたことを告げる。
「だからわたしが、お前を守ってあげよう」
メルは、力はないかもしれない。だけどそれはポケモンたちが守ってくれる。ではメルにはなにが守れるのか。
心を傷付ける人間から、守れる自信があった。
メルは心を傷付けてくる人間なんて怖くない。マサミがどういう女に絡まれているのか、はっきりわかってはいないが――メルと同性である以上、それらは敵ではなかった。
どうだ、とマサミを見る。彼の腕が、すっと伸びてきて。
「あぁ!? なにを知ったような口を聞いてるんや! お前なんかになにがわかる、そうやって俺を取り込もうって言うんか!?」
「っわたしは、お前のアルバイトだ」
ぐい、と胸ぐらをつかまれ吊り上げられるのに、出てこようとするニドキングを静止させる。
宙に浮いた足をぶらりとさせて、抵抗する意思がないことを示しながらメルは続ける。
「お前が、どんな相手を敵にしているのかは、知らない。だがよく考えてみろ。お前をモノにしようとする女たちは、わたしよりもかわいいのか」
メルはあまり、人間関係に厚くない。だが、それでも十分知っている。男を狙う女にとって、メルという存在自体が恐怖になり得ることを。
仕方ないのだ、何故ならメルは、天使か妖精のように可愛らしいのだから。
「お前が傷付く必要なんてない。わたしを上手く使え、わたしはお前のアルバイト、命じるんだ。一人で立ち向かう必要なんてない、傷付いてやる必要なんてないんだ」
そんなの心がもったいないだろう、と頬を撫でた瞬間、どさりと落とされる。マサミは酷く苦しそうな顔をしていて、問う。
「お前の目的はなんだ。俺を守ったとして、お前になんのメリットがある」
そんなことをする理由がない。
マサミの疑問は最もだ。メルはもう一度立ち上がり、目を合わせて語る。
「お前を狙う相手にわたしの存在が気付かれている。このままわたしまで巻き込まれるのは困るというのが一つ。お前にそうやって不安定でいられると、一緒にわたしまで体調を崩しやすくなるというのが二つ」
それから、と続けて。
一番の理由を語った。
「わたしはこれまで、たくさん守ってもらって生きてきた。そうしないと生きていけないことを知っているんだ。だから、わたしが守ることが出来るなら。わたしはお前が生きやすいように、守ってあげたい」
メルにできることは、ほとんどない。生きることが精一杯のメルはいつだって守られ続けてきた。自分が生きることで、喜んでくれる母や父のために。
だから、自分が力になれるなら、そうしたいと思えたなら、できるだけ力を貸したいとも思うのだ。
メルを嫌い、それでも酷くはできない、優しい彼のために。
そっと彼の手を握る。震えている大きな手を安心させるように、ぎゅっと力を込めると、マサミは少しだけ、泣きそうな顔をした。
+++
「ただいま、お母さん」
「はいおかえり」
いつも通りの帰宅時間。洗濯物を畳んでいた母の前に立ち、メルは話を切り込んだ。
「お母さん、お願いがあるの」
「ん? どうしたの?」
「わたしを世界で一番かわいくしてほしいの」
「え!?」
驚く母を無視して、日程を告げる。
かわいい服は嫌いだし、かわいくなるのも本意じゃない。だが、マサミが次に女と会いに行く時に着いていくためには、どうしても戦闘服が必要だった。
絶対に誰にも負けないように、美貌の一切を惜しまずに使うために。本意ではない。だが、メルは目的を達成するためならなんだってできた。
普段メルにかわいい服を着せようとしては逃げられている母は、酷く狼狽してからどうしたの急に、と聞く。
それにメルはためらいなく応えた。
「戦争に行くの」
それからね、ともう一つのお願いを告げる。
好きな人でもできたの、なんていう質問にはなにも答えなかった。
+++
「お前、なにその格好」
「お母さんに頼んだんだぞ。かわいいだろう」
マサミの手を握ってから、一週間後。元々呼び出されていたという女に会いに着いてきていた。
場所はハナダのデートスポット、噴水前。クリスマスだからと装飾に装飾を重ねた場所は、昼の今は美しさのかけらもなく、いっそ邪魔なほどのイルミネーションが巻き付けられている。
あの後も、マサミはメルに詳しいことを話すことはしなかった。ただ、女避けになるかというテストをするからとこの日を指定したのだった。
「……お前、自分のことかわいいと思ってんのか」
「色々あれば嫌でも自覚する。こんな服本当は嫌いなんだぞ」
「じゃあなんだってそんな格好」
「戦闘服だ。今日のわたしはボディガードだからな、使えるものは使うさ」
ふふん、と胸を張る。
身を包むクラシカルロリータが、上品な甘さでメルのかわいらしさを引き立てる。ハーフアップにした髪にはリボンが揺れて、化粧っ気のない顔には軽いリップだけが乗せられている。足にはとびきり高いヒールを履いて、いつもより目線が高い。
かわいくて、子供っぽくならないように、年上の女性に真っ向から戦って勝てるように、そう選んで貰った服はまさしく戦闘服。マサミを守れるようにと着た服だ。
普段であれば絶対に着ないが、今日は別。欲を出す気さえ失せるようなかわいさをぶつけてやらなければならなかった。
「お前がなにを思ってあんなこと言い出したのか知らんが、俺はなんもしないからな」
「安心しろ、わたしを横に置いておくだけで良い。……そろそろ時間か」
噴水近くの時計を確認して、そっとマサミの背後に隠れる。ヒールを履いてもまだすっぽりと隠れられる高さなことに感心しながら、待ち合わせの相手を待つ。
そうすること数分。やがて、一人の足音が近付いてきた。
「あ、マサミさん! ごめんなさい、待たせちゃって」
染めたロングヘアーを流した女性。フェミニンな服に身を包み、自分の武器をよく理解したコーディネートをしている美人だった。
その彼女を見るマサミの目は、酷く軽蔑したような不機嫌さだ。気付いているのか無視しているのか、女性は構わず一方的に話し続けたあと、行こうと無遠慮に手を繋ごうとした。
「ふむ、マサミも大変だな」
「えっ、何!?」
女性の手がマサミに触れる前に、ひょっこりと顔を出す。
口説いてくる相手というのはどうしてこうも一方的なのだろうか、と性別の違いのない話しぶりにいっそ感心をしながら、メルはマサミの前に立つ。今日のメルはボディガード、マサミのことを守るのだ。
そっと手を引き離して、メルはにっこりと微笑む。
「お、お嬢ちゃん、どうしたの?」
「初めまして。マサミが会う人って誰なのか気になって着いてきちゃった」
「……」
「い、妹さん?」
「違うわ」
戸惑う女性を前に、にっこりと微笑む。
マサミはなにも言わないまま、腕を組んでこちらを見ていた。お手並み拝見、という態度だろうか。さきほどの様子を見る限り、女性に対して毛ほどの興味もなさそうだったのでこちらも好きにやらせてもらうことにする。
「マサミの家で、いつも家事をしているの。掃除したり、洗濯物干したり、代わりにポケモンたちのお世話したり……今日は、ご飯を作る約束をしていたのよ」
「……は?」
「それなのに出かけるっていうから、着いてきちゃった。ごめんなさい」
一瞬入ったマサミの突っ込みを遮って、メルは女性に謝罪する。女性は困惑した様子でメルとマサミを交互に見つめて、じり、と一歩後ろに下がった。
「ま、マサミさんの彼女……?」
「いや」
「そういう名詞はどうでもいいわ」
否定するマサミと、質問に答えないメル。さらにじり、と女性はさらに後ずさる。
それに一歩メルは詰めて、女性を見上げた。甘く微笑んで、問う。
「それで、あなたは誰?」
「――――!!」
マサミに付け入る隙などない。そう主張するように甘い声で聞いた瞬間、ぶわりと赤く染まった女性が、怒濤の勢いで距離を取って、叫ぶ。
「わ、私用事を思い出したので失礼します!」
マサミの返事を待たずに、わっと走り去っていく姿は愉快なほどだった。
かねてから鬱陶しかった容姿だが、ここまで上手く利用ができたのは初めてだと、メルは不思議な満足感に浸る。
「……なんや?」
「耐えられなくなったんだろう、わたしに。まぁ、よくあることだ」
「お前魔女みたいやな」
「わたしは妖精らしいからな」
メルを見た、かつてのカケルの彼女たちの反応がこの二通りだった。勝手に敗北してカケルから離れていくか、あるいはメルの方に夢中になってカケルを投げ出してしまうか。
メルの魔性に耐えられた人間は今のところおらず、ましてや今回は自分から魔性を利用して行ったのだから耐えられるわけもない。
「どうだ、虫除けにはちょうどいいだろう」
「ちょうどよかったが、ご飯ってなんのことや」
「約束はしてないが嘘は言ってないぞ。お母さんに教えてもらったんだ」
くるりと方向を変えて、二人はハナダの岬への道を歩き出す。
マサミの家で働き始めて一ヶ月。もうすぐ年を跨ごうとしている。そんな中で、自分のやれることを増やしたいと感じて習ったものだった。一週間では、形にするのもやっとであったが。
メルを役立ててくれる人のために、がんばれるのは久しぶりだった。
「今日はわたしがご飯を作ってあげるんだぞ」
「ええ、不安やわ……」
苦い顔をするマサミの表情に、先ほど見たような殺意はもうない。殺意も憎悪も、抱えるのは疲れるものだ。
彼がそうしなくていいように、守れるならば。メルはがんばってあげたかった。
+++
たどたどしく台所で調理するメルを見ながら、マサミは今日のことを振り返る。
メルが突然、なにを悟ったのかマサミを守ると言い出したときはなにかと思ったが。しかし、なにも問わないで、ただマサミに傷付かなくていいと言ってくれたのには心が揺れた。
世間は、男のマサミを守ってはくれない。両親には言えないし、他人に言ってもマサミに被害があるとは取り扱ってもらえなかった。だから自分で戦って、憎悪のままに傷付けて、傷付いてきて。
そんな経緯を何一つ聞かないまま、メルに届いたというたった一通の手紙で彼女はマサミが自分と同じだと感じたらしい。
日常的に、異性同性問わずストーカーや誘拐、暴漢の危機にさらされているらしい、彼女と。
メルの考えていることはよくわからない。ただ、彼女にとっても異性というのは深刻な敵であるらしいというのだけはわかる。だから、マサミに対して同情を寄せてきたと言うことも。
なにを知った風にと思わないこともない。ただ、嫌いだと語る服を着てまで、女を追い払ったその行動に、マサミを守るという言葉が嘘ではないのだとは信じた。マサミよりも人の目を集める美貌を上手く使って、絶対的な強さをもって女を追い返したのを見たのは少しだけ胸も梳いた。
だから。もう少しだけ、メルのことを信用しようという気分になっていた。
「できた!」
「大丈夫か、ちゃんと火通っとるんやろな」
「時間測ったから大丈夫だぞ。お昼にしよう」
もたもたと作っていた料理がようやくできたと、メルが少し興奮気味にマサミに知らせる。滅多に使わない鍋の中には、とろりとしたシチューがいっぱいに入っていた。
「……あ」
「っぶな、気をつけろ! 俺がやるから向こう行っとけ!」
シチューを器に注いだ瞬間、落としそうになるのを見ていられなくてひったくる。鍋をかき回すのもやっとなら、器も片手で持てない非力さでよく料理なんてやろうと思ったな、とつくづく呆れてしまう。
そんな非力で虚弱な彼女に家事をやらせているのは自分なわけだが、それは棚に上げて。
「ありがとう」
「向こうでパン焼いとけ」
「はーい」
ぱたぱたと走って行く彼女を見送りながら、シチューを注いでいく。
思えば、こうやって誰かと家で食事をするのは夏以来か。それもオーカではない、全くの他人の作った料理を食べようとしている。
普段なら、何が入っているかわからないものなんて口にもしないのに。それだけ彼女に信頼を寄せているらしいことに、少しだけ自嘲する。トラウマを持ちながら、どうしても人を信用しやすい性格は直らないらしかった。
「ほらよ」
「ありがとう。あとはパンが焼けたら終わりだな」
「ん」
二つのシチュー、二つの皿、二つのスプーン、それから中央に置かれたまだ焼かれていないパンと、それぞれのコップ。
それらが揃って座ったところで、トースターがチンと鳴る。焼けて少しだけ固くなったロールパンを皿に乗せて、二人で手を合わせて食べ始める。
「……どうだ」
「……食べ物やな」
「なんだそれは」
「食べ物や」
マサミが口に入れるのを待って、メルが少し緊張した風に聞いてくる。
ただ食べ物と返すと期待が外れたように食べ始めるのに、感情が見えにくいだけで普通の子供らしい面もあるのだと感心した。
メルが初めて作ったシチューは、レトルトの味がする。おいしさが均一にされた、なんてことない味。ただ、久々に食べたまともな食事には悪くないものだった。