彼女の激情
なにもない田舎町。珍しいものも、楽しいことも、悲しいこともない田舎町、マサラタウン。
そんな町にある他の小さな家々より少しだけ広い家に、フェルメールは住んでいた。
優しくて不器用な父と、朗らかで美人な母と三人で。本当はもう一人、居たはずの弟の居ないその家で。
幼いながらに人々を魅了する魔性の愛らしさを持つ彼女は、一度家から出ればたちまち人に囲まれて、少し面倒なことになるために、普段は一人で家から出ようとは思わなかった。
けれど、その日。
その日だけはなんとなく――家の庭の近くをフラフラと歩いてみた。ちゃんと母の許可を得て、後ろで見守ってもらいながら。
小さな足で歩いても歩いても、あんまり変わらない景色を楽しみながら、人に見つからないように。
ちょっぴり、楽しいと思った。
フェルメール――大抵人はメルと呼ぶ――は、一人で家から出られない。
あまりにかわいらしいものだから、外にいると人が群がってしまう。そんなとき守ってくれる誰かがいなければ、メルはあっと言う間に浚われてしまう。
それが両親にはなによりも恐ろしいらしく、メルはなによりもきつく堅く、一人で出歩かないことを約束されている。
まだ四つの女の子が一人で出歩けないのは当然であるが、それ以上にメルは大切にされているのだった。
聡いメルは、それを理解して、両親が悲しまないようにじっと大人しくいつも家で遊んでいるのだ。
誰もが美貌に惑わされてしまうから、きちんとしたお友達さえ彼女にはいない。
それでも、メルには不満にはならなかった。けれどほんの少し、欲しいものはあった。
自分の、ポケモン。
まだ四つの、それも平均より少し小さなメルは、ポケモンは持たせてもらえない。もっと大きくなったらねと、いつもいつも、言い聞かされている。
それだけは、まだちょっとだけ不満だった。
だからせめて、たまには、一人でふらふらしてみたいと訴えてみた。今日はそれが許された特別な日だった。
「……あれ?」
ふらふら、ふわふわ。
歩いているうちに見えてきた、草むらの陰。
あちこちに元気よく棲んでいるポケモンとは、ほんの少し様子の違うなにかが、そこにいる。
とてちてて、と近寄ってみると紫の体に大きなツノのあるポケモンが、たくさんの血を流して倒れているのが見えた。
小さな手を伸ばしてずるずると草陰から引っ張り出してみると、やっぱり小さなニドラン♂が背中に大きな傷を負っている。
見ても叫ぶでもなく、慌てるでもなく、メルは振り返って母に言う。
「おかあさん、服があかくなっちゃったわ」
+++
母の悲鳴まじりの説教を受けながら、大急ぎでニドラン♂の手当をして着替えさせられて、その後。
膝の上で苦しげに眠るニドラン♂を撫でる。
少し無感動なところのあるメルは、母の説教を全て聞き流して膝の上のニドラン♂を眺めた。
四歳児の膝に乗るにはずいぶんと大きく、前足だけを乗せて眠るニドラン♂。その表情は苦悶に歪んで、まだ体が痛いのだろうと思わせる。
「バトルに負けちゃったのかしらね、このニドラン♂」
「げんきになる?」
「きっと大丈夫よ、メル。ポケモンたちはとっても強いもの」
いたいのいたいのとんでいけーって、してあげようねと言う母と一緒に子供だましの呪文を唱える。
これで痛みが飛んだことは一度もない。ばかみたいな習慣だな、と思うメルと違い、母は本当に無邪気に呪文を唱える。
どうせ効きもしないのに。そう思っているとニドラン♂の表情がとたんに安らかなものになった。
本当は効くのだろうか。もしかしたらポケモン限定なのだろうか。
首をひねるメルを前に母は無邪気に優しく言葉を続ける。
「でもきっと、治るまで少し時間がかかるだろうから。メル、お世話してあげる?」
「わたしがおせわするの?」
「いつかポケモンを持ったときの練習になるでしょう?」
「この子をわたしのポケモンにしたらだめなの?」
きゅるり、大きな瞳で母を見上げると、さきほどまで柔らかだった母の顔が茹だっていく。そしてすぐにそれを振り払うように顔を振るって、母はきっとメルに向き合う。
「だめよ。メルはまだ小さいもの」
頭ごなしに言われる理由に、やはりメルは納得がいかない。
悲しげに目を伏せてみせると、今度こそ堪えたのか、母は苦し紛れにご機嫌をとってくる。
「でも、メルがちゃんとお世話できたら、おうちで一緒にいてもいいよ」
捕まえることは、できない。メル個人のポケモンにすることはまだできない。まだ一人で外に出すわけにはいかない。
だが、家族として一緒に暮らすことは構わない。母の妥協点だった。
メルは、少し考えて、それでいいかと納得する。
「ありがとう、おかあさん」
ふっと微笑むと、母はついに瓦解してデレデレと頬を緩ませる。
かわいくてしかたないと頭を撫で回し、気が済むまでメルの小さな体を抱きしめてから、お菓子を食べようかと冷蔵庫に走っていく。
その後ろ姿からすぐに目を離して、メルは膝で眠るニドラン♂を撫でる。
「はやくよくなるんだぞ」
かわいらしい容姿にそぐわない、堅い口調で励ました。
+++
ニドラン♂の世話をメルはかいがいしくした。
食事を手ずから与え、食べ終わるまで見届けその食器を洗ったり。傷の消毒と包帯の交換を進んで行ったり。一緒にお風呂に入ったり、共に寝たり。
そんなメルの様子を両親は微笑ましげに見つめていた。
メルは、元々情動の薄い子供だった。自分で興味を持つ前に、すべてが周囲によって与えられてしまうその魔性の愛らしさのせいか、こんな年で既に世界から興味を失せてしまっているようだったのだ。
だからこそ、自分から興味を持ってくれたことが両親にはうれしかった。
思えば、今はいない弟の世話も一生懸命やっていた子だった。メルは、誰かを慈しむことが好きな子なのかもしれない。
「いっぱいたべて、はやくげんきになってね。つよくつよくなってね」
いつも呪文のように、メルはニドラン♂に語りかける。ニドラン♂はそれに一瞥もくれず、ただ無言で食事を済ませるばかり。
ニドラン♂は警戒心が強いのか、こんなメルのかいがいしさやかわいらしさには一切の反応を見せない、珍しい個体だった。
メルの魔性は、人だけではなくポケモンでさえも狂わせる。その中でこんな風に自分の回復だけを待てるニドラン♂は、メルと組ませるにはちょうどいいポケモンかもしれないと、母ブルーは思いはじめていた。
「メルも、ずっとポケモン欲しいって言ってたし……次の誕生日くらいにボールをあげてもいいかもしれないわね」
「そう……だね。そろそろ、自分の身の守り方も教え始めたいところだし」
父シルバーも同意する。
メルは狙われやすい。だから今はほとんど家から出さずに育てているがいつまでもそうとは行かない。
メルが自分の意志を強く持ち始めたら、ポケモンバトルでの身の守り方を教えようと、そういう決まりにしていたのだ。自分から一緒にいたいと願ったニドラン♂なら、ちょうどいいことだろう。
「おまえはよくかむな。わたしの手はそんなにおいしいのか?」
「こら! 手を引っ込めなさい! その言葉使いもやめなさい!」
「ほら、おまえのせいでおこられちゃったぞ」
「メル!」
母の悲鳴も意に介さないで、メルは小さな手でニドラン♂を撫でる。
その表情には、普段あまり見れない微笑みが浮かんでいた。
+++
「ねえ、ニドラン♂。おねがいがあるんだ」
ひっそりと、部屋で二人。
小さな体には大きすぎるベッドの中で、メルはニドラン♂に語りかける。
「わたしといっしょにいてほしいんだ」
ニドラン♂は反応しない。
「おまえがいたら、きっとどこまでも行ける。おまえがいてくれたら、きっとわたしつよくなれる」
夢うつつの中、メルは今に消えそうな声で語りかける。
その表情はまるで恋をしているかのようにとろけている。
「そうしたら、おとうさんもおかあさんも、しんぱいするひつようがなくなるだろう。だから、わたしをまもってほしいんだ」
すうっと、メルの瞳が閉ざされていく。
「おねがい、ニドラン――――」
小さく寝息を立てるメルを見るように、ニドラン♂は体を起こした。
+++
あつい。
起きて、メルは思う。
からだがやける。
起きあがる気力もないまま、目だけ開けてメルは横たわっていた。その隣にはニドラン♂が興味なさそうに眠っている。
とうとう、ねつでも出したのか?
ここ最近、あまり体調がよくなかったのをメルは自覚していた。
ニドラン♂が来てからだっただろうか。だんだん、起きるたびに体が重くなるのを感じていた。
メルは体がそこまで強くない。
環境の変化やストレスで、あっという間に体を壊す。すぐに眠れなくなって、母を困らせることも多い。
ニドラン♂が来たことが、そんなにメルには苦しかったのだろうか。きっとそうなのだろう。メルはなんとなく、そんな予想を立てる。
「メルー、もう起きる時間よー。……メル?」
がちゃり、部屋の扉が無遠慮に開くと同時に母が顔を出す。
「メル? ……顔真っ赤よ、もしかして熱があるの?」
ベッドの上でぐったりと返事もしないメル。それを見て母の顔が少し曇る。
メルは体が強くない。だから熱を出すこともそんなに少なくない。だが様子がおかしい。
これほど酷い熱を出すことは今までなかったのに。
ただぼんやりと薄く目を開けるばかりで、メルは口も動かさない。パジャマは汗で濡れていないところはないような状態だった。体の筋肉が抜け落ちたように、幼い体はふにゃふにゃと垂れ下がっている。
元々血色のよい肌は、熟れすぎてつぶれそうなりんごのようだ。
ぞっと背筋を嫌なものが走る。
小さな体を抱き上げて、まだ下にいる父に叫ぶ。
「シルバー! 車出して! メルが……メルが死んじゃう!!」
部屋には、なにも気にしていないニドラン♂だけが残される。
+++
体を起こされて、口に無理矢理なにかにが甘い液体を含ませられる。吐き出す体力もなく、のどを滑り落ちていくのを受け入れる。
後味が悪い。だが顔をしかめる気力もない。
「薬が効いてくれば、二、三時間で症状は治まってくるでしょう。もう大丈夫ですよ」
「よかった……」
医者らしき男と母が会話しているのが聞こえる。
「一体、なにが原因で……」
「おそらく毒タイプのポケモンでしょう。それも技じゃなくて、体から分泌される類の。大人はそういったもので発熱はしませんが、まだ小さいお子さんだと免疫力が弱くて毒に負けてしまうことも少なくありませんから」
ニドラン♂だ。
そうか、だからわたしはさいきん、ぐあいがよくなかったのか。
メルは目を開けないまま、大人たちの会話に耳をそばだてる。
医者と母がこそこそと話しているのを聞きながら、メルは最悪の事態を想像した。ニドラン♂は間違いなく、メルの側から離されるだろう。
――メルはまだ小さいから、毒タイプのポケモンといっしょにいるのは難しいの。だから、大きくなったらちゃんと会わせてあげるから、今はお母さんにニドラン♂を預けてね。
そう言う母の姿が目に浮かぶようだ。
父も母も、メルが体調を崩すことを極端に恐怖する。弟が生まれつき重い病気だったから、その反動なのだ。メルも弟ほどではないが、小さな病気はしていない時がないほど多い。
メルが家から出してもらえないのは、その魔性の容姿だけではない。外の病原菌から守るためなのだ。
メルはよくわかっている。両親が自分を大事にしてくれていることなど。
――だからこそ。
ニドラン♂と、ひきはなされるわけにはいかない。
+++
「メル、あのね」
ニドラン♂を抱えるメルに、母は優しく諭す。
「ニドラン♂をお母さんに預けてほしいの」
予想通りの言葉を、母は言いながらメルの目を見る。
その後ろには父が門のように立ってメルを見下ろしている。有無は言わせない、そこに拒否権はないと言うように。
メルはニドラン♂を抱く力を込める。
ニドラン♂は嫌そうにもがいた。
「メルはまだ小さいから、毒タイプのポケモンといるのは危ないの。この前もお熱出したでしょう? だから、もう少し大きくなるまで、お母さんがお世話するから」
「やだ」
「嫌じゃないのよ」
「やだ」
珍しく拒否をするメルに両親は困惑する。
それでもやんわりとニドラン♂を奪おうとする両手から体を引いて叫んだ。
「くるな! 来たら、ニドランのハリで手をさすぞ!」
「メル、やめなさい!」
「くるなぁ!」
甲高い声で叫んで、ニドラン♂の針をつかむ。
人質は自分の体。最も濃い毒を分泌する針は、刺してない段階でもじくじくと手を焼いている。
なついているポケモンならば主人には無毒になるが、ニドラン♂はなついていない野生だ。だから本当に、今度は起きあがれない程度では済まないかもしれない。
だが、メルはそんなことを気にしない。
「こいつとはなれるくらいなら、しんでやる!」
四つの少女には過激すぎる言葉を吐いて、父の股ぐらを潜って家を飛び出した。
重いニドラン♂を抱えて、平均より小さなメルが走るのは大人の徒歩よりも遅かったが、それでも両親を引きはがすのには十分な不意打ちだった。
少ない体力と筋力を振り絞って、西の森が見えてきたところでメルはとうとうニドラン♂ごとこけてしまう。
投げ出されたニドラン♂は、逃げなかった。だがメルの心配もしなかった。鋭い目で息を乱すメルをただ見つめるばかりだった。
ニドラン♂は、メルになつくことはなかった。
ただ、怪我が治るまでのことと割り切ったように、メルのされるがままにされていた。そこに感謝も、友情も、まったくここまで生まれてこなかったらしい。
だがメルはそれでよかったのだ。
だから、ニドラン♂が欲しかった。
重くなってきた体を、メルは起こす。先ほど毒針に触れた手から毒が染みてきているようで、握っていた左手は痺れてうまく動かない。
「ニドラン……」
熱っぽい顔で、メルをただ見つめるニドラン♂に語りかける。
「ニドラン♂、わたしといっしょにいてほしい」
告白するように。
「わたしのちからになってほしい。おとうさんとおかあさんにしんぱいばかりかけるのは、もういやなんだ。だけど、そのためにはちからがいるんだ。わたしはじぶんのことをまもれるようにならなくちゃいけない。そのためにおまえがほしい」
ニドラン♂は黙って聞いていた。
メルの告白は静かに熱気を帯びていく。顔は変わらず、臙脂色の髪よりも鮮やかな赤色をしていたが、冷静な無表情だと言うのに。
彼女の中を激情が巡っていく。
欲のないメルが、唯一持っていた野望だった。ニドラン♂はそのための鍵なのだ。
手放すわけにはいかない。お母さんに奪われるわけにはいかない! そう強い激情が彼女をかき立てていた。
「おまえのどくは、わたしにはきついかもしれない。だけどそれはなれるものだって、本でよんだことがある。おまえのどくになれることでわたしはつよくなれる。なつかなくてかまわない、おまえのどくだってわたしはちからにしてみせる」
痺れて動かないはずの左手を、無理矢理前に突き出して、拳を握る。
毒は制することができる。毒に負けない体を作れたら、メルは熱を出して母に心配をかけることも少なくなる、そう確信していた。
なつかないのは、好都合なのだ。
制してやる。わたしは、いくらでも。毒なんていくらでも、自分の力に変えてみせる。
自信があった。だから叫ぶ。
「それでもおまえを手にいれられないなら、わたしはしんだってかまわない!」
ニドラン♂が、動く。
そっとメルの前に出て、視線を合わせる。綺麗な、赤い瞳。
ゆっくりとその頭を垂れてく。まるで土下座のような体勢だった。だがこれは違う。
騎士が主に捧げるそれだった。
「メル!」
「ニドラン♂。おまえは今日から、わたしのだ」
追いついてきた両親に見せつけるように、メルはニドラン♂を寵愛した。
+++
ふらふら、ふわふわ。
メルは家の外を歩く。人気のない場所をできるだけ選んでいるが、周囲の視線がどこか痛い。
手の中にはいつの間にか、同じくらいの年の子供にもらった花が溢れ始めていた。
こうやって一人で歩くのは初めてだったが、なるほど、これは家族でいるときよりずっと面倒が多かった。
メルは今日、わがままを言って一人で散歩をしていた。
別に家の外に興味があったわけではない。ただちょっとだけ一人になってみたかった、それだけなのだ。
せっかく手に入った自分のポケモンを見せびらかしたかった、ただそれだけだった。
「ニドラン♂、ありがとう」
傍らに従者のように歩くニドラン♂に礼を言う。
メルが微笑みかけても表情を変えないニドラン♂は、醒めた目で一度だけメルを見て、すぐに周囲の警戒へと戻ってしまう。
「わたしはとってもしあわせだ」
誰に言うでもなく、メルは呟いた。