夏に踏み出した一歩

「水城はさ」

「沙月でいいよ」

えっ、と声が出た。

なんでもないことのように名前を告げる水城沙月は、動揺する俺、東堂彰太に気付いていないかのようにペットボトルを煽る。のどが動いてカルピスが落ちていくのに見惚れながら、彼女が言った言葉を考えた。

異性を名前で呼ぶというのは、特別なことだ。

これまでも女友達は存在した。だけど誰も名前で呼んだことなんてないし、名前で呼ぶように言われたこともない。相手も同じだ。どんなに仲がよくても同性より特別にはならない。呼び方っていうのは、その線引きとして重要なものだった。

それを、水城はなんてことないかのように乗り越えてきた。

夏休み、不思議な縁で遊ぶようになった他クラスの女の子。いつも水着を着ている、ちょっと変わった、魅力のある、女の子。

同じ学校なのに関わったことのなかった彼女と、こうして会話するだけでも特別な気持ちがあるのに。彼女は無邪気にさらなる特別を要求するのか。

のどが乾いてごくりとつばを飲んだ。

名前を呼ぶのに躊躇した。

だって、水城がその特別さに無頓着ならば呼んではいけない気がしたからだ。それは俺じゃなくて、もっと特別な別の男子に許さないとだめだ。人好きのする性格をした彼女が、俺以外の男友達がいないとは思えない。

黙る俺に、水城はペットボトルのキャップを締めてから顔を上げた。恥じらいもなく目を見てくるのに、逸らしたくても逸らせないでいた。

彼女の唇が動く。

「彰太」

甘美な痺れが体に走る。

「彰太」

彼女の目は、その意味をよく理解していた。だから繰り返し、俺の名前を呼んだ。

あまりにも自分が呆気なく、彼女に落ちていくのがわかる。蜘蛛の巣にからめとられたみたいに、きっと、初めて出会ったときから逃げられる瞬間なんてなくて。

「沙月」

「うん」

観念するように名前を呼んだ。

嬉しそうに沙月が少し目を細める。それは女の子の顔じゃなくて、少女の顔だった。沙月はときどきそんな顔をして、俺を動けなくする。クラスメイトの女子の誰よりも蠱惑的に笑ってみせて、一歩ずつ俺を違うステージへと引き上げる。

それが意図的なのか天然なのかは知らないし、重要なことじゃなかった。

ただ、もう俺は後戻りできないことだけがわかっていた。

「沙月は、中学は私立に行くんだろ」

「うん」

小学六年生の夏休み。最後の夏に彼女に出会ったのは、きっと偶然なんかじゃない。

「だから、今日名前で呼んでくれてよかった。彰太」

これよりも出会いが早くても遅くても、俺は彼女を見つけられなかった。彼女にからめとられることなんてなかった。

大人になりたくないと叫ぶ心が、沙月のせいで黙ることなんてなかったんだ。

「沙月でいいよ」

そうあたし水城沙月が言った瞬間の、彼の顔が忘れられない。あまりに呆けていたから、思わず笑いそうになって誤魔化すようにカルピスを飲んだ。甘くてさっぱりしていて、それからちょっとだけすっぱい味は、こういう時の味だ。

彼――東堂彰太と出会ったのはつい最近。小学六年生の夏休みに入ってから。どうやって知り合ったのかは忘れてしまった。それくらい、あたしは彼とずっと一緒にいる。この夏、いや、これまでこんなに一緒に誰かといた夏は初めてだった。あまりにもたくさんのことがありすぎて忘れてしまった。出会いなんてくだらないものに興味はなかった。

東堂くんのことは前から知っている。小さな学校だから、六年もいると誰がなんて名前で、どこに住んでいて、なにが好きで、どんな子かなんて知り合いじゃなくてもわかってしまう。だけどこれまでは友達じゃなかった。六年生の夏休みになるまで、あたしは彼と同じクラスになることがなかったから。

彼はあたしの許可に悩むあまり、とても複雑そうな顔であたしを見ていた。友達の誰からもそんな目で見られたことなんてない。真剣すぎる男の子の目。ドキドキしてしまう、なんだか友達じゃないみたいで。

だからあたしは先手を打った。

「彰太」

友達という関係を壊してしまうような響きだった。

「彰太」

それでも構わなかった。彼と友達でいられる夏はきっと、今年が最初で最後。

名前を呼ばれた瞬間、彰太が真っ赤に染まっていく。それから観念したように、溢してしまったみたいに小さな声で言った。

「沙月」

「うん」

そのようすがあんまりかわいくて嬉しかったから、今度は誤魔化さないで笑った。

かわいい、彰太。

あたしのことを友達なんて思っていないみたいで。

「沙月は、中学は私立に行くんだろ」

「うん」

彰太の問いかけに嘘をつかずに頷いた。

中学からは私立に行く。それはあたしが小学校に入ったときから決まっていたこと。

あたしには不釣り合いなくらいには大きな家のために、あたしはお嬢様としてやっていかないといけない。

見栄のためだ。だけどそんな大人の都合に振り回されることを、あたしは嫌だと思っていなかった。だって私立には百合香がいる。六年間離ればなれにされていた親友がいるんだ、あたしに不満なんてなかった。

小学校で出来た友達と別れることを悲しいとも思っていなかった。それくらい百合香の存在はあたしには大きい。

あたしは酷い人間だとつくづく思う。

そんな風に考えているのに、彰太にこんな疵をつけてる。

「だから、今日名前で呼んでくれてよかった。彰太」

ずるいだなんて、わかっている。それでも忘れないでいてほしかった。あたしのことを。名前で呼んだこの夏のことを。

どうして彰太だったのだろう? それはきっと、彼とだけはもう一度巡り会える気がしたから。

この夏にしか会えなかった彼との今が、こんなに簡単に終わるだなんて思えなかった。