Day2

月曜日。約束の午後にマサミの家に向かうとすぐに彼は出迎えてくれる。先週会ったときと同じような敵意を持って迎えてくれるのに、メルは満足した様子で家へと上がった。

家政婦として働く一日目。普段は滅多に着せてもらえないズボンが穿けて機嫌がよかったメルは、渡されたモップを受け取る。掃除のやり方も覚えてきた。多分大丈夫だ。

「掃除機はうるさいから使うな。掃除道具は全部ここにあるけど、高いところは無理してやらんでもええぞ」

「基本は床掃除だけでいいのね?」

「せやな、他は机拭くくらいでいい。終わったら食器洗って、洗濯物でも干しといてくれ」

頼まれることはどれも簡単なものだ。ただ、よほどやる時間がないらしく積み上がったものを片付けるには何日もかかるだろうなと想像するのは容易い。メルの虚弱体質では行き届かないものも多いだろうが、それでも初めてすることに好奇心は踊る。

一通りの説明が終わった最後に、マサミは注意点を述べる。

「最後に、この三つの部屋には立ち入るなよ。ポケモンの世話は俺も立ち会うから全部終わったら報告しろ。なにか質問は」

「この家、あなたしかいないの?」

「そうや。わかったら仕事しな」

わからないことがあれば必ず聞くように、と言い含めて彼は仕事部屋へと入っていく。

メルの家よりも大きなこの家に、マサミ一人。どういう状態なのか理解が追いつかなかったが、だからこんなにも気配がないのかと思う。知らない人間とかち合う不安がないのはいいが、不思議な男だという感想は抱いた。

――ま、関係のないことだな。

マサミがどんな境遇だろうが、弟捜しの依頼を進行さえしてくれればどうでもいいことだ。メルはマスクをした後モップの先端にシートを取り付けて、さぁやるぞと意気込んだ。

+++

マサミは部屋に戻ると、大量のモニターが取り付けられた画面を睨み付けて座る。メインモニターには進行中のプログラムの仕事。サブモニターの内三つは現在の株価の推移。残りには家の中に取り付けた監視カメラからの映像がそれぞれ映し出されている。その中には当然、先日雇ったメルの姿があった。

フェルメール。妖精かなにかとでも錯覚するほどの美貌の少女。母親に似て聡く、聞いていたよりは従順な彼女は指示した通りに掃除をしている。

本当は、彼女を家に入れるつもりさえなかった。ああいう、顔がよくて賢い女は裏で何を考えているのかわからない。オーカに取り入ってマサミに接触し、金か、情報か、大切なポケモンたちか、あるいはその他のなにかを狙ってきたのではないかと強く警戒していた。だからオーカの居ない席を設けて、大人げなく威圧的に対応をしたのだ。

結果、以前会ったことさえ覚えていない様子の彼女に少しばかり警戒を解いて、こうして雇うことになっている。オーカの紹介である彼女を無下にするとオーカが悲しんでしまう。それを避けて、かつ自身の利を得るにはこうするしかなかった。別に金が欲しかったわけではないが、ただで利用されてやるわけにもいかない。こちらも仕事があるのだ。だから、雇う形に落ち着いた。ちょうど家事まで手が回らなくて困っていたところだった。

とはいえ、あの女を信用しているわけではない。むしろ隠してあるだろう尻尾を暴いてやろうという気概があった。そのために今日迎えるまでの時間に家中にわざわざ監視網を作ったりなどしているのだ。

――ブルーさんには悪いが、あの軽薄な人の娘だ。信用なんかできるか。

叔父に依頼された仕事で知り合った、ブルーという女性。軽薄で、やかましくて、お節介なあの女性は苦手だった。話しかけられるたびにキリキリと胃が痛んだのを覚えている。よく叔父はあんな人を招き入れたものだと感心したほどだ。

だから。マサミはたくさんの理由を述べて、メルを信用できないことを強調する。

「どうせ、お前も」

低く、マサミは呟く。唸るような声で、苦々しい記憶に苛まれながら。

オーカから話を聞いていた、どう見ても純朴そうな子供のサツキとは訳が違う。絶対に裏がある。どうせ、きっと。そうあることを願っている。

女は、嫌いだ。

+++

掃除されていない家の廊下は、モップをひとたび通すとおもしろいくらいに埃が取れる。マスクをして髪をまとめ、頭巾までしたメルの格好は体調を崩さないために万全にしてあったがここまで警戒しなくてもよかったかもしれない、と少し調子に乗る。モップのおかげであまり埃が舞い上がらないのだ。

しかし、何度も何度もシートを交換しなければならないせいで掃除は遅々として進まない。廊下を一つ掃除し終えたところで、メルは力尽きて座り込んでしまう。普段、運動はおろか外にもろくに出ない生活をしているせいで、虚弱さも相まって体力がなかった。

――旅の間はポケモンたちに乗ってることも多かったしな。

一息尽きながら、旅で多少は体力がついたのではないかと期待していたのが無駄だったことを思い知る。廊下一つ掃除するのでこんなに疲れるのだ、これを毎日やっている母はなんとも偉大なものだった。虚弱体質のメルのため、母は狂的なほど掃除を丁寧にしている。つくづく、迷惑をかけながら生きているのだと自覚する。

「……よし、やるか」

休憩を終えて、気を新たに立ち上がる。体力が続かなくてもやり遂げることはできるはずだ。何度熱で倒れても旅をやりきることができたのだから。

そうして背後の扉を開ける。書庫らしいそこは、本がやたらと詰められた本棚がいくつも並べられていた。本には埃が積もっているものも多く、やらなくていいと言われたがはたきを取ってくる。

「パソコンの本ばっかりだな……」

脚立に登って本に積もった埃を落としていると、タイトルがどれも似ているものばかりなことに気付く。情報に長けた人物だと聞いていたが、こういうことか。

メルにはよく理解できないタイトルばかりだが、かろうじてパソコンの話なことだけはわかる。そのくたびれ具合は様々だ。新品同然のものもあれば、古いものなのか色褪せたものまである。読み過ぎてボロボロになったのか、買い直してあるものもある。

特に多かったのは、ソネザキ・マサキという人物の本だった。どの本も三冊以上置いてある。そしてそのどれもが擦り切れるほどに読み込まれた痕があった。

ソネザキ・マサキの名前はメルも知っている。ポケモン預かりシステムを作った功労者。彼の作ったシステムはIT技術の躍進に寄与したという。暇を持て余して読んでいた歴史の教科書に載っていた。

尊敬しているのか、と思ったところで家の表札がソネザキだったことを思い出す。そういえば、マサミもポケモン預かりシステムの管理を担当しているとオーカが言っていた。親族だろうか。著者近影の色あせた写真はあまりマサミに似ていなかった。

どちらにせよ、こんなに冊数を揃えるほど好きらしい。この本だけがまったく埃を被っていなかった。

「……何が書いてあるのかさっぱりわからん」

そんなに好きな本にはなにが書いてあるのかと気になって、開いた後にすぐ閉じた。機械類は好きだが、プログラミングはまた別のようだ。機械弄りが趣味の母には教えてもらえなかったから、いい本があれば読んでみたかったが。ざっと探してもメルの趣味の本はなさそうだった。

残念に思いながら掃除を続けていると、部屋の外から名前を呼ばれた気がして顔を出す。なに、と返事をすれば何故かコートを着込んだマサミが不機嫌そうに振り返った。

「お前、何時間掃除してんねん。もう三時やぞ」

「がんばったのよ。廊下が綺麗になったわ。あと本棚のはたきがやっと終わったの」

「おっそ!」

「すごく疲れたわ」

そもそもこんなに掃除してないのが悪い、と傲慢に言ってみせるとマサミは苦虫を噛み殺したような顔になる。体力のない、子供の労働力なんてこんなものなのだからあまり期待しないでほしい。

マサミは大きくため息をついて、掃除はもういいと言う。

「あと一時間でポケモンの世話をしてもらう。来い」

リビングに置いていたコートを押しつけられて言われるままに着いていくと、入るなと言われた部屋へと案内される。中にはいくつものモンスターボールが丁寧に並べられていて、オーキド研究所を連想させた。

仕事は、彼らの毛繕いやシャンプー、あるいは適度に運動をさせることだと言う。部屋から続く裏口を出ると、家に隠れて見えなかった広い裏庭が現れる。ここでしろと言うことか。

「研究所で大人しくポケモンと遊んでたから、一応、適度には、お前を信頼してやる」

「うん」

「ただし、ポケモンたちにおかしなことを一回でもしたら、お前はクビや。よく覚えておけ」

ボールを入れたかごを小脇に抱えて、マサミはそう何重にも釘を刺す。よほど大切なのだな、と聞き流しているとマサミはボールを一つ放る。

中から現れたのは、美しい銀の毛並みのキュウコン。シルクのようになめらかに輝く毛並み、宝石のように赤く光る瞳。そこに佇むだけでまるで絵画を見ているような存在感を放っていた。

「これは……」

「色違い。聞いたことは」

「ある、けれど……」

「俺の手持ちは全て色違いや」

そういうポケモンのコレクターらしい。ボールの中には、黄金のディグダやピジョット、桃色のミニリュウ等、錚々たる面々が揃っている。だが、その中でもやはりキュウコンが一番美しかった。

通りで、マサミがしつこく脅してくるわけだと納得する。簡単に悪意に晒されそうなポケモンたちだった。まるでメルのように。

だからか。全くバトルをしたことがなさそうな体つきをしているのは。

「こいつらの毛繕いをしてほしい。水タイプなら水浴びもや」

「……それをわたしにやらせてくれるのね」

「信用したわけじゃない」

敵意のわりにこんな大事なものを初日で見せてくれるのかと意外に思うと、マサミはきっと目を釣り上げる。

「猫の手も借りたいだけや。それに、俺はトレーナーじゃないからな」

「わたしもよ」

「お前のポケモンは強いやろ」

ポケモンリーグ四位、メルの功績ではなくポケモンたちの功績だ。それをマサミは正しく認識して言う。

「中には俺の言うことを聞かないやつもいる。だがお前や、お前のポケモンの言うことなら聞くはずや。だから」

「そう、わたしは牧羊犬になればいいのね」

マサミの意図した働きを理解して、メルは頷く。

言うことの聞かないポケモンの統率。あるいは、色違いポケモンを見て襲撃してくる者からのボディガード。それならば、メルのポケモンたちは適任だろう。

マサミは鼻を鳴らして肯定すると、次々にボールからポケモンを出してくる。そのどれもがやはり色違いであり、ポケモン図鑑と照らし合わせてはほう、とため息をついた。

それに合わせてニドキングやサイドンも場に出す。この二体は特にポケモンたちをまとめるのが上手いが、念のためを持って上空を制御できるジバコイルも用意しておく。

その中で、マサミが一番の問題児と呼んだ一体を最後に出す。

「わぁ……!」

思わず、メルでさえ感嘆の声を上げた。

色違いポケモンの中で、最も巨大なそのポケモン。真っ赤なうろこを輝かせてそびえ立つ姿は仁王像のような雄々しさで、かっこいい、と呟いてしまうほどだ。

赤いギャラドスを見るのは初めてではない、父も赤いギャラドスを持っている。しかし、まさか、父以外にも持っている人がいるとは。

そう感動をしていると、不意にギャラドスがギロリとメルたちを視認する。

「伏せろ!」

「!」

瞬間、ぐっと地面に押し込まれる。それと同時にぶわりとギャラドスの尻尾が鞭打たれ――止まる。

瞬きをした頃には、傍らに立っていたニドキングがその尾を掴んで、子供でもあやすように地面に叩きつけていた。

叩きつけられてもなおギャラドスは暴れ続ける。しかしニドキングとサイドンに手も足も出ないままやり返されていると、次第に大人しくなっていった。

それを受けてゆっくりとマサミがメルの上から退いていく。少し驚いた様子の彼に、メルはなんてことないように言った。

「大丈夫よ、心配しなくて。ニドキングたちは、わたしに怪我を一つもさせないから」

「……そのよう、やな」

「でもありがとう、庇ってくれて」

ギャラドスが暴れてすぐ、サイドンよりもニドキングよりも早く、メルの安全を守ろうとしてくれたことに礼を言う。あんなにも敵意を向けていたのに、それでもメルを守ろうとしてくれるのはそれだけ誠実な男なのだろう。

言われたマサミは、一瞬苦々しげな顔をしてから、雇用者だから、と言い訳をした。

「お前のポケモンが優秀でも、俺にはお前を守る義務がある」

「そうなの?」

「怪我でもさせたらお前の母親に殺される」

「それはそうね」

様々な要因も相まって過保護な母だ、下手なことをすればマサミなど一捻りで潰されてしまうだろう。軽々と同意するメルに改めてマサミは恨めしげな顔をした。

「あのギャラドスは一番手がつけられないやつだが……心配はなさそうやな。俺はブラシかけて回るからギャラドス洗ってやってくれ」

「わかったわ」

指示の通り、ニドキングたちに睨まれて動きが取れなくなっているギャラドスの元に行く。すっかりふてくされたギャラドスはメルを見ても唸りすらしない。しっかり教育をされたようだ。

くすくすと笑ってメルはギャラドスの体を撫でる。

「暴れるのは飽きた? おいで、手当をしたら、体を洗ってあげるわ」

+++

一通りポケモンたちの世話を終わらせて、片付ける頃には予定を大きく過ぎて五時になっていた。暗くなった空を見て、マサミは見誤ったな、と呟く。

「次から五時まででもいいか」

「構わないわ。できなくもなさそうだから」

アルバイト初日。掃除は体力が持たずにすぐに休んだりしていたが、ポケモンの世話は好きだからか苦もなくすることができた。マサミと一緒で二時間かかったから、一人でやるようになったらもっと時間がかかってしまいそうだが。

「ねぇ、わたしはちゃんと出来ていた? ずっと見ていたんでしょう?」

「……なんで」

「わかるわ、だって、カメラがあるでしょう」

家に入ったときから気になっていた、見張られているという直感。ストーカーに慣れてしまっているからかすぐにカメラの存在に気付いていた。目的はメルのストーキングではなく監視だろうと察していたが、それでも気分はよくなく釘を刺すつもりで言及した。

マサミは言葉を返さず、押し黙る。特に文句がないのなら、メルは別にそれでも構わなかった。

「それじゃあ、また明後日」

鞄を持って、玄関をくぐる。すっかり暗くなった空に向けてボールを放れば、夜など気にしない明るさでリザードンが現れた。

飛び乗ろうとしたところで、おい、と声をかけられる。

「とりあえず今日は及第点だ。それから、近いうちに戸籍取ってこい」

「戸籍?」

「弟の居場所探るならそれが一番手っ取り早い」

マサミはそう言った後、ただしそれでわかるとは思わないが、と付け加える。アニーの住民票が居住区に移されていたり、あるいは祖父の戸籍に移籍していれば辿る道もある。しかし両親も知らないという居場所が、そんな簡単な方法でわかるとは限らない。

両親さえ居場所を知らないというだけの理由がそこにはあるはずだと。

「正攻法で一旦当たってみる。戸籍はお前じゃないと取れんから、取り方は親かネットで調べろ」

「わかった。……ポケモン預かりボックスの管理してるっていうから、そっちで簡単にわかるのかと思ってたわ」

「あほか! そんなことしたら俺が捕まるわ!」

個人情報やぞ、と憤るマサミにきょとんとしてしまう。情報に詳しいからといって、魔法のように居場所が割り出せるわけではないらしい。

ふぅん、とメルは曖昧に頷いて、リザードンの背に飛び乗る。帰りが遅くなることはマサミが先ほど連絡してくれたが、だからといってのんびりしていると母の雷が落ちかねない。

「じゃあ、その戸籍っていうのを明日にでも取りに行くわ。また明後日」

「ああ。……気をつけて帰れよ」

ぶっきらぼうに、それでも返事をしてくれる。これからもちゃんと続けられそうだと、その返事で確信した。

+++

メルを雇い入れてから、二回目のアルバイトの日となった。

体力がないせいで仕事は遅いが、妙なことはしないのは優良。だが巧妙に隠したはずの監視カメラを見破ってくる、恐ろしい娘。絶対になにか裏があると食ってかかったわりには、淡泊で情動の薄い彼女は本当になにもなさそうで少し拍子抜け気味だった。そんな、二回目の日の朝だった。

朝食を流し込んでいるところで、マサミのポケギアが鳴る。図鑑作成のために連絡先を交換したメルの母、ブルーからだった。

「……もしもし、マサミです」

『あ、マサミくん? おはよう、メルの母です。今日って確かアルバイトの日だったわよね?』

馴れ馴れしい様子の女性の声が耳を劈く。朝から聞くにはしんどいと思いながら、まだ眠い頭で生返事を繰り返す。

『ごめんなさい、メルの熱が昨日から下がらなくて』

「……はぁ。……あぁ?」

『多分埃に負けたんだと思うの。熱が下がったらまた連絡するわ、ごめんなさい、だから今日は行かせられないの』

そういえば、ブルーは娘が虚弱体質である苦労を散々言っていたような気がする。図鑑作成の時は散々話を聞き流していたから、記憶はおぼろげだが。

――一日で体壊すって、あいつ返済できるんか?

少し、不安になりながら電話を切る。

別に金が欲しいわけじゃない。家政婦は欲しいが。

あの娘は依然として気に食わない。他の女とは一線を画した独特の雰囲気をしているが、裏で考えていることがわからないのが気味が悪いとさえ思っている。

とはいえ。雇用主として満足に働いてもらえないのは非常に困る。

「…………はぁ」

そのまま電話を切ったポケギアを操作して、ひとまず空気清浄機を部屋の数だけ購入した。